82. 霜噛み 3
82. Frostbite 3
絶句する猶予など、哀れなこの狼には微塵も残されていないと言うのに。
俺は一瞬、Teusが告げたことの無情さが理解できずに凍り付いた。
狼が凍傷とは…どういうことだ?
「Fenrirは、こんな吹雪の中でもへっちゃらかも知れない。Siriusだって、丸くなって鼻先を尻尾で隠してしまえば、寒さを感じないのだろうけど…」
「けれど、この噛み傷は……」
「……。」
質の悪い冗談にしか思えなかった。
傷口は、そんなになってしまうまで、冬の冷気に晒されていたと言うのか?
口元に咥え上げられたSiriusは、赤子が母親にそうされるように、ずっと良い仔にして運ばれていたものだと思っていた。彼の四肢が不自然にぶら下がっていたのは、きっと地面を失って戸惑っているだけに違いない。そう言い聞かせていた。
「症状が進むと、感覚が痺れて、無くなって来るんだ…」
本来は脚の付け根なんて、血が良く通っている部位だから、いくら気温が低くたって普通はこうはならない。
それだったら、肉球のほうが先にやられてしまうだろう。
だけどこれは、あまりにも…傷跡が深すぎる。
末端へ向かう血流がこうも冷たくては、脚一本をヴァン川に浸けておくようなものだ。
Fenrirが見つけ出した頃には、Siriusはもう、動けなくなってしまっていたんじゃないかな。
藻掻かずに助けをじっと待っていたのは、本当に偉いと思うよ。出血を最小限に抑えられたから、彼は今、こうして何とか体温を保っていられているんだから。
でも…でも、Fenrir。
多分、Siriusは二度と歩けるようにはならない。
凍傷とは関係がなく、この傷を負ったら…。
「繋がっていると、言って良いのかも怪しい……」
「やっ…やめろっ…やめてくれぇ…」
耳が塞げない俺たちは、容赦なく罰として注がれる言葉を浴びるのだ。
想像なんて、したくもない。
それなのに、彼が笑顔で、運命を受け入れているのが目に浮かぶ。
俺には、視界を潰すことさえも、許されないのか?
そんなにも、悪いことをした大狼であったか?
「嘘だぁ…嘘に…決まっている…!」
Siriusは、こうして悶え苦しんでいるでは無いか。
それは、こいつの脚が、まだ痛みを感じているということだ。
そうだろう?まだ、こいつの脚は主人と共に走りたがっているのだ。
それを示すために、俺は覆い被さった外套を鼻先で捲りあげ、彼の全身を露わにしようとする。
「み、見ちゃ駄目だっ…!!」
「うるさいっ…!!」
俺は信じようとしなかったのだ。
きっとSiriusの右後脚は、今も痛みに、びくびくと震えて、戦っている。
殆ど切り離されているなどと、とても言える筈がないのだ。
そう、彼は、強い狼なのだから。
……。
「そ…んな…」
「……。」
恐怖で思わず仰け反り、その隙にSkaが見ないようにと慌ててTeusがマントで包む。
俺は見た。
彼の腿下がどす黒く染まり、不気味なまでに膨れ上がって、異形の腫瘍へと変わり果てているのを。
鼻先を掠めた腐臭に、吐き気が込み上げる。
「う……あ……あぁ……。」
凍傷は、這い寄るようにして、最後まで進んでいたのだ。
壊死、している。
Siriusの泣き叫ぶ声が、脳内で残響して、手の付けられないほどに増えて行く。
俺は、この数時間における彼が為のあらゆる判断を誤って来たのだと、気付かされた。
どうして、誰よりも近くに感じたがった狼の遠吠えに駆け付けるのが遅れた?
あの憧れの格好良い狼に成りきれたと自惚れ、身に纏った毛皮の美しさに陶酔しきっていたからだ。
なぜ、Siriusを囮にしてまで、人間を生け捕りにして内勢を聞きたがった?
彼を傷つけた人間どもが許せないと叫びながら、怒りに身を任せ尋問の真似事をやりたかったからだ。
そして俺は、Siriusを連れ帰ってはならなかったのだ。
手遅れとなる前に、ヴァン神族を信じるべきであったのだ。
俺には刃を向けようとも、彼には優しくあるはずだと、託せば良かった。
自分ならば、この狼を救い出せるなどと、とんだ驕りが、最悪の帰結を齎した。
「お、俺の…せいで…」
目の前で悪い夢に魘されるSiriusを穴が開くほど見つめる。
それが、最大の過ちだ。
俺が、この狼から、全てを奪ってしまったのだ。
「Sirius……が…シリウスっ…の…あし、がぁ…」
死んでしまったのだ。
彼は、もう、走れない。
仲間の狼たちと、走れないのだ。
「……。」
「Fenrir。Fenrirは悪くない…それだけは分かって欲しい。」
人間の言葉を完全に失ってしまった俺を直視しようとせず、Teusは促されるようにそう言った。
君がいなかったら、間違いなくSiriusはもう息絶えてる。
Skaは、最悪の形で息子との再会を果たすことになるところだった。
Fenrir、本当にありがとう。
俺のせいなんだ…。俺の迂闊で身勝手な行動のせいで、Skaとその家族を引き裂いてしまったんだ。
Siriusから脚を奪ってしまったのも、俺が悪い。
「俺が…俺が何もかも、奪ってしまったんだ…!!」
「Teus…」
「そして俺は…君自身からも、此処にはいないSiriusを奪ってしまった……!!」
彼は、遂に本性の牙を剥いた。
俺の怒号にも劣らないほどの声を張り上げ、夜空に向けて言い放ったのだ。
「そうなんだろ…?Fenrir。」
「君は、Fenrir…なんだね?」
「……。」
俺は、自分がようやく、Teusのことを一つも理解していなかったのだと思い知らされた。
こいつは、奪ったとばかり、思っているのだな。
俺が、待ちに待った、その瞬間を。
その種を、引き金を。
俺は…Fenrir、か?
そうか。
Siriusとなり得る、最初で最後の機会を失った今。
俺は、そう呼ばれる大狼でしか、ないのだ。
ありがとう、とは言うまい。
ああ。決して、言うまいさ。
それだけ、俺は…。
俺は、Siriusのことが大好きだった。
心の底からこの狼を、愛していたのだ。
「Sirius…シリウスぅぅっ…」
「シリウスぅぅっっーーーー…!!!」
“Siriusーーーー……!!!!“
“……。”
俺は誰に向かって、その名を叫んでいるのだろう。
ずっと一緒にいてくれると思っていた、あの大狼は、再び青の世界へと姿を消した。
これからを喜び合う筈だった若い狼は、涙でぼやけ、目の前で今にも潰えようとしている。
……俺は、どちらの狼も、この世界から失うしかないのか?
「ティウぅ…お願いだぁっ……」
嫌だ。
そんな、俺のせいで…俺の友達が…狼たちが。
「シリウスっ…おぉ…たす、けて…」
「助けてぇっ…くれぇ…」
「死んじゃっ…嫌だぁっ……いやだぁぁ……。」
「てぃうぅぅ……。」
俺は、その場に崩れ落ちると、彼の前に身を伏せ、泣きじゃくっていた。
ただ神に向かって、懇願していたのだ。
奇跡を起こしてくれと。
彼から奪われたものを、取り返してくれと。
そうすることしか、出来なかった。
俺には、Siriusを、狼を、救えない。
「……。」
「当たり前だ…。」
「出来るだけのことは、全力でする。」
「でも……。」
何だ…?
どうして、そんなに歯切れが悪い。
俺を救うと言い切ったように、どうして俺のことを安心させてくれない?
「……でも、この脚は…今此処で…」
「な、に……?」
「手遅れになる前にっ……!!」
「……Teusっ!?」
彼が懐から取り出したのは、
Vesuvaから持ち帰った、装飾の刻まれた小刀だった。
「これ以上、壊死が進んでしまう前に…!!」
決意が、彼の言葉の端に宿る瞬間を、俺は何度も見てきた。
そしてそれは、いつも止めさせなくてはならなかったのだ。
“……っ!?”
Skaが異変に気付き、主人の方を見上げる。
だが、間に合わないだろう。
「うあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っーーーーー!!!」
彼が再び外套を取り払い、携えた刃物を高々と掲げる瞬間。
今度は、俺がお前からその役を奪わなくてなならなかった。
「やめろぉおおおっっ!!!!」
ズッ……
反射的に飛び出した俺は、気が付けば、切っ先とSirius間に立ち塞がって割っていた。
「う……うぅ……あぁ……。」
「…ふぇん…り…る……」
柔らかな感触に、Teusは青褪めた。
そうか。お前も涙で、前が見えてはいなかったのだな。
持ち手を握る右手の震えが、俺の肉に伝わって来る。
そんなのでは、とても狙いなど澄ませたものではないだろう。
下手くそにも、ほどがある。
お前、戦の神様では無かったか?
Siriusを過って傷つけようものなら、俺にどう言い分けるつもりであったのだ。
「ご、ごめ……」
「構わぬ。何も言うな。」
Teusの刃は、俺の鼻に深々と突き刺さることで受け止められたのだ。
痛くも無かった。傷つくのは、俺一匹で十分だ。
だいぶ前とはなるが、お前に爪先を当ててしまったあの時と、お相子にしようではないか。
横目にTeusを睨みつけると、彼は俺が激昂していると勘違いしたらしい。
慌てて刃を抜き取ったがために溢れた血に狼狽え、俺の鼻面に抱き着いて受け止めようなどとする。
「うわぁっ……ああぁっ…あ、ああぁ……」
……そうだ。
お前は、そうやって、優しい神様でおれば良い。
「……俺がやる。」
この仕事は、俺が引き受ける。
それが、せめてもの償いだ。
足りぬと言うのならば。
罪として、未来永劫引きずらせてくれ。
どうか泣かないでくれ、Teus。
俺を、今だけは冷徹でいさせてくれ。
時間が、もう無いのだろう?
お前は、きっとこれから、大変な思いをしなくてはならないはずだ。
涙を拭いて、次に為すべきことを、見据えてくれ。
お願いだ。
Siriusを、助けてくれ。
Teus。
お前にしか出来ない。
「Skaを……抑えていろ。」
俺は、哀れな親子を無表情に見降ろすと、短く息を吸い込んだ。
“…Fenrir…さん?”
異変を感じ取った父親は、不安そうに俺のことを見上げて、尾を隠そうとする。
Skaには、今度こそ二度と逢うまい。
お前には、本当に世話になった。
こんなに楽しいひと時を狼と過ごせていながら、どうして俺は飽き足らずSiriusを求め続けたのだろうな。
ありがとう。Skyline。
最後に見た大狼が、この世で一番恐ろしい怪物だと、群れ仲間たちに語り継ぐが良い。
願わくば、俺を今度こそ殺しに来る者が現れることを、願っているぞ。
まるで子供の命だけは助けてくれと懇願し、抱きしめ合う悲劇の親子よ。
その中を非情にも引き裂いてやるのは、
ああ、このFenrirだ。
“グルルルルゥゥゥゥ……!!”
“キャウゥゥッ!?”
容易くSkaの首根っこを掴むと、俺は容赦なくその巨体を雪原に向かって放り投げた。
成す術なく地面へと叩きつけられ、自分が何をされたのかも分からず呆然とする。
が、やがてSiriusが無防備になったのだと悟ると、すぐさま立ち上がって、果敢にも俺に向かって牙を剥いた。
“僕の息子に、何をする気だっ…!?”
“……”
“Fenrirさんっ!!!!”
そうだ、お前はこんなにも無力だ。
そうやって、耳を後ろに強く引き、尾が情けない程に股へと隠れるような、
そんな姿勢で、鼻に皺を寄せることしかできない。
俺は、薄っすらと目を開いて、父親のことを探そうとするSiriusをもう一度見降ろす。
彼には、俺のことがもう、見えていないのだ。
その方が良い。
一瞬で終わる。
“Sirius……”
変わりゆく温度に、
消えて行く君の意志に、凍り付いた心に、
こうするしか、無かったのか。
“グルルルルゥゥゥゥ……”
ゆっくりと彼の後ろ脚に口元を近づけ、牙が触れたところで、目を閉じた。
こうすれば、俺は獲物を喰い漁るように、躊躇いが無い。
Teusが、必死にSkaの鼻面を抑え込み、近づけさせまいと格闘するのが聞こえる。
“やめろぉおおおっ!!Siriusに何をする気だぁぁっ!!”
「Ska……お願いだぁっ…じっとして…うわぁっ!?」
“放せぇっ!!僕の息子を返せぇっ!!”
“……返してくれぇええええ!!!!!!”
……。
ああ、二人がこんな気分で、いてくれたらなあ。
“……わぅ?”
父親の叫びが、届いたのだろうか。
最後の瞬間、Siriusは正明な意識を取り戻して目を見開いた。
右脚を這う怪物の口に、気が付いてしまったのだ。
そうか。
ごめんなさい。
俺は…また、貴方を。
これで、終わりです。
“きゃうぅ…!?”
「見ちゃだめだぁぁぁっ!!!」
“嫌だあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっっっ!!!!!!”
いつまでも続く皆の叫び声を、俺は死んでも忘れないだろう。
「うあ゛あ゛あ゛あ゛っっ…う゛うぁっ…あ゛あぁっ…!!うあ゛あ゛あ゛あ゛――っ!!!」
“ヴゥゥゥゥッ…!!…アゥゥォオオオオオオオオオオオオオォォーーーーー……!!!!”