82. 霜噛み 2
82. Frostbite 2
偉大な父の愛情によって意識を取り戻した息子を前にして、俺とTeusは出産に立ち会ったかのような歓声を漏らした。
実際に奇跡が産み落とされる場を、俺は目にしたことはないが、きっとこのようだろうと思えたのだ。
何故ならば、その命の鼓動を一番内側に感じることが出来るのは、周りで気にかけている俺達では無く、彼を孕んだ母であるからだ。
Skaは、身体をぴたりとくっつけることによって、自らの体温と、臭いと、それから愛情を送り込んでやることで、彼が再び目を醒ますと確信していた。
きっと、その予兆を、最も近くで感じていたのだろう。
Siriusの瞳に、僅かな安堵が宿ったことで、取り巻いた空気は一変した。
「…まだ、間に合う…!!」
Teusはこうしてはいられないと立ち上がり、俺に上気し表情を見せて訴えかける。
「Fenrir…!!」
「ああ……。」
俺もまた、今置かれた状況と見通せない盤面を睨み、必死で頭を回転させる。
Teusが俺に頼み込もうとしていることは、明らかだ。
ヴァナヘイムまで、俺達を送り届けてくれ。
数時間も遡れば、お安い御用だと請け負ったことだろう。
俺のような役立たずが一番輝ける瞬間とは、こういった場面でしかない。
彼らを器用に背中に乗せると、少しも揺らすことなく、瞬時にあの城門まで到達することが叶った筈だ。
この吹雪の最中であっても尚、だ。
しかし、俺は当然の如く逡巡を表情の端に滲ませ、彼を戸惑わせてしまった。
「……どうしたんだ?」
「……。」
本当に、それで良いのか?
こいつは、俺が既にヴァン川の大狼として追われる身となったことを、知らないのだぞ?
人だかりこそ減ってはいるだろうが、到底ほとぼりが冷め、入り口の警備が薄まっているとは思えない。
そんな所に、Teusを送り込むことが出来るだろうか。
仮に無事、ヴァナヘイムへの帰還を果たせてやったとして、俺にはとてもTeusが今まで通りの住人として立ち入ることを許されるとは思えない。
その場で縛り上げられなければ、良い方だろう。
しかし、怯え切ったヴァン神族がどんな行動に出るかも分からない。
少なくとも、お前は身柄を確保される。
あの大狼を唆した首謀者として審問に掛けられ、俺は最悪の筋書きとして、お前との再会を果たさなくてはならないのだ。
そのことを彼が承知さえしてくれるのであれば、俺は危険を顧みずに、もう一度何食わぬ顔で姿を晒すことも厭わないべきだ。
Siriusの療治を優先させて貰えるのならば、それに越したことは無い。
きっと、そうしてくれるだろう。
Teusから常々話を聞いているように、長老という男の庇護のもと、狼たちはヴァナヘイムの辺境で、静かに幸せに暮らしているそうだ。
…良いものだな。
俺も、そこで生まれたなら、違っただろうか。
しかし、今となって介入の一切は許されない。
もう既に、狼の群れでさえも、その身の安全を保障されかねているのだ。
衝動に駆られるが儘に、もしも領地に生息している狼たちを、片っ端から殺すようなことになったら。
二度と立ち入ることが許されないこの俺は、どうすれば良い?
Teusと遠くの群れ仲間たちのために、
今度こそ、怒りに我を失えば良いと言うのか?
Teus。
もう一つ、俺は、気にかけてしまうことがあるのだ。
お前の当ては、分かっている。
きっとお前は…彼女に逢いたいのだな?
彼女であれば、息を吹き返したこの狼を、どうすれば良いか知っている。
あの女神様であれば、救う為のあらゆる術を、Siriusのために施してくれるに違いないからだ。
ああ、Teus。
お前は、Freyaに逢いたいのだろう。
きっとSkaが、Siriusとの邂逅を果たしたことで、
お前の中にも、今まで抑えつけていたであろう想いが漏れ出した。
しかし、Teus。
お前は、知っておかなければならないことがある。
…。
そ知らぬふりをしても、良いだろうか。
俺が、お前に伝える必要は、無いのではないか。
嘘を吐くよりは、気が楽だ。
そうだ。言わないことは、嘘にはならない。
何も、口にしてはいないのだから。
「Fen…rir?」
「……。」
俺は、押し黙った。
ああ、良かろう。
お前と、この親子を、連れて行こうでは無いか。
しかし、それから俺は、きっと待ち惚けを喰らうのだ。
どれくらい、その苦しい期待を孕んで、のた打ち回れば良い?
お前達の身を案じては、一睡だって儘ならない。
だが、俺は何も知らない素振りをしていなければ、ならないのだ。
そうでなければ、俺は迷わず、お前達の元へ、脚を運ぶ。
あの大狼のように、最後の一線を越えて、
本当の友達に、逢いに行く。
Teus。
どうか、察するな。
それでいて、分かってくれ。
知らなかったのだ。Teusよ。
俺は、何も知らぬ。
それ故俺は、大事な人や、狼を失ってきたのだ。
「……そ、んな…。」
俺は、先までの希望に満ちた表情が、空気が、途端に冷めて行くのを感じた。
そして、視界の端に、凍り付いた傷跡を見出してしまったのだ。
「Siriusっ…!?」
俺の乾いた叫び声に、Teusも驚いて振り返る。
「……?」
“だいじょうぶ…。Siriusっ…、大丈夫だから……っ!!”
“う゛…う゛ぅ…。”
穏やかな表情を覗かせていた仔狼の様子が、おかしい。
顔の周りに身を寄せる父親の毛皮の中で、苦しそうにきつく目を瞑っている。
“う゛っ…うぶっ…”
“あ、ああっ…あぁ……”
そして、その直後、白濁した黄褐色の吐瀉物を口の端から漏らしたのだ。
自分の毛皮が汚れることも構わず、Skaはただ狼狽えてなお、息子のことを離さない。
「まずいっ…!!」
Teusはそう叫んで、様子を良く見ようと大慌てで二匹の前に跪いた。
容態は一変し、急激に悪化したのだ。
…彼は今、峠を迎えようとしている。
「そ、そんなっ…やっと、目を醒ましくれたと思ったのに…!」
「おい……Sirius……Siriusっ…!!」
そんな呼びかけが、苦衷の耳に届くはずもない。
包み込んだ外套の中でも分かるほどに、苦痛に身を捩って、戦っている。
“う、うぅ…い、痛…い、い、たいよぉ…”
“ああ……あっ…あ゛ぁ……”
……?
“あ、…あ、しがぁ……”
「……な、何っ?」
“あ、脚……が…い、たいぃ…”
「Fenrir、Siriusは何て…!?」
「あ、脚、だと…?」
俺は狼の言葉がTeusにも分かるよう、聞こえた通りにSiriusの言ったことを伝えた。
「なんだって…!?」
彼は、罠によって貫かれた右後ろ脚に激痛が走っていると訴えているのだ。
悲鳴を上げて当然であって、寧ろ今まで、痛みに呻かなかったのが不思議なぐらいだ。
あんなに出血を伴って、よく此処まで持ち堪えられたと思う。彼は本当に強い狼だ。
きっと寒さで痛覚が麻痺していたのだろうが、温められたことで、今になってその傷跡が疼いてしまったということだろうか。
Teusは、しまったという表情をして、恐るおそる、マントの中に隠れた右脚の様子を窺う。
「こ、これは……。」
「……。」
口元を右手で押さえ、そっと右脚を俺に見せぬよう外套の中に隠す。
「な、なんだ…Teus。」
「そんなに、傷の様子は…酷い、のか?」
どうして、そんな打ちひしがれた顔をする。
千切れてしまった訳では、無いだろうが。
俺が最後に見た時は、ちゃんとくっついていたぞ。
それならば、狼にとっては十全であるのだ。
その深い傷跡のせいで、Siriusがこんなにも藻掻き苦しむことになっているのだとしても。
彼は、Freyaの手によってまた、走り出せるのだろう?
Teus。おい、Teuよ。
どうして、黙るのだ。
「……。」
「…Teus?」
「……Fenrir、よく聞いて。」
「Siriusは…凍傷を負っているんだ。」
……?
「この脚は……もう、だめだ。」
「この脚は……」
「この脚は、切断しなきゃならない。」