81. 雪上の血痕 3
81. Blood on the Snow 3
Teusは自分が身に纏っていたマントの留め具を外すと、狂ったように息子の頬を舐め続けるSkaの傍らに跪いた。
“グゥゥゥウッ……!!”
横たわる我が仔に近づこうとする者は、誰であっても許さない。途端に彼は激しい唸り声を上げ、温厚な鼻面に醜く深い皺を刻む。
Skaは父親であるが故に、既に冷静さを欠いていた。
普段なら、絶対にありえない反応であった。
あろうことか、いつも自分を誰よりも撫でてくれる主人に向かって。そんなこと、戯れであってもするはずがない。
“ヴゥゥゥ……”
出産を終えたばかりの妻よりも遥かに狼狽え、そして神経を尖らせていたのだ。
今にも噛みつきそうな表情を引き攣らせ、恐れに耳を伏せている。
「落ち着いて、Ska……。何もしないから…」
変貌した態度に酷く驚いただろうが、しかしTeusは毅然とした態度でそれを退けた。
重たく垂れ下がったマントを脱ぎ捨て雪面に広げると、恐るおそるSiriusの身体を両手で抱き上げ、その上に乗せてやる。
「少しでも、温めてやらないと…」
優しく毛皮の雪を払い、裏地を胴にそっと被せると、Skaが好きなようにできるよう、自分は一歩退いた。
“シリウスっ…パパも、温めてあげるからっ…全然、さむくっ、なんか、無いから…な…?”
自分の身体がSiriusの顔を囲むように弧を描いて座り込むと、彼の表情がいつでも見えるよう首元に顎を合わせ、僅かな温もりを必死に保とうとする。
“ほらね、大丈夫だっ…大丈夫。寒くなんて……ない、から…”
Teusはその姿をじっと見つめ、ぎゅっと右の拳を握りしめる。
「……。」
彼は、いつものように一言も’寒い’と、零すことをしなかったのだ。
Teusが狼の親子にしてやった行動というのは、本当に適切で、それでいて一切の躊躇いが無かった。
急場において、彼はいつも褒め称えられるべきだった。
俺が一命を取り留めたのは、紛れもなくこいつのお陰だという想いを強くする。
Fenrirが必死に生きようとしたから、助けられたんだとお前は言う。
だが、言うまでもないことだ。
Teusがいなければ、この物語は始まってすらいない。
お前は、そういう奴だ。
散々に跳ね除けた首筋の傷跡への治療を根気よく続けてくれ、食べきれぬと言っても聞かないほどの動物たちを与え、峠を迎えた自分の容態を案じては、嵐の真夜中に駆け付けて来るような、お人好しだ。
苦しいと呻く怪物を前にしても、全く動じない。
横たわるだけの者にとって、それほど有難いことはなかった。
彼に、身を委ねて良いのだと、思えるからだ。
生きることだけに、苦しいと咽び泣くことだけに力を注いでいて良いとは、幸せであるのだ。
それに比べて、俺はどうだろうか。
俺は眠りこけた若い狼と、それを抱いて咽び泣く父親のことを、ただ突っ立って呆然と眺めていた。
手助けは出来ないかと、窺うことぐらいはできたはずなのに。
「Fenrir…。」
暗がりに力尽きた、お前の姿が重なって。
何も、してやろうと動き出せなかったのだ。
「Fenrirっ!!」
「っ…? あ、ああ……」
俺は、Teusの力強い呼びかけで、ようやく我に返った。
何があったか、事情を説明してくれと訴えられていることは容易に理解できる。
「ヴァン川の畔で、こやつが傷ついて倒れているのを見つけたのだ…」
Siriusが助けを求める声が、僅かに聞こえた気がした。
歩けないほどの重傷を右脚に負ってから、どれだけ時間が経過したかは分からない。
止血は、出来る範囲でさせて貰った。
だが、俺が発見してから既に2時間が経過していて、明らかに衰弱している。
ああ、俺には、これ以上何かが出来る見込みは無かった。
それで治療法を有しているであろう、人間たちのもとへこいつを送り届けたかったのだが、その…
「わかった、大体の話は…。ありがとう。」
「……。」
Teusが、そこから先の話を制したことを有難く思った。
思い返す余裕が今は無いだけで、俺は明らかに取り返しのつかない過ちを犯したことを、彼に泣いて詫びなくてはならないのだから。
怒りに身を任せて、俺は絶対に越えてはならない一線を跨いだのだ。
そのことは、きっと彼のヴァナヘイムにおける立場を危うくするだろう。
吹雪に姿を溶かしこんだ怪物への追っ手の足音が、一切聞こえてこないことを考えると、ひょっとするとヴァナヘイムでは、元凶であろうTeusを捜し出す方面に力を裂いているのではと案ぜられて不安だ。
最も、Teusがそこにはいないらしいことを、俺は聴取済みではある。Freyaもまた、別の窮地に陥っているであろうことも、今だけは皮肉にも幸いした。
だが帰還すれば、大狼が彼らの前に姿を現したことを、きっと審問に掛けられるだろう。
俺は、いよいよどうすれば良いのか分からない。
彼との関りを、真の意味で断つことも、考えなくてはならないのだ。
…あの大狼と、同じように。
視界を失うほどに深く落ち込んでいると、俺はまたもTeusの声かけに反応が遅れた。
「Fenrir。Siriusを見つけた時の状況とか、教えてくれると嬉しいんだけど。」
「そ、それは…?」
「何か、変わったこととかは無かった? Siriusがどうして怪我をしたのか、理由が分かると助かるんだ。」
「あ、ああ……そうだ、な…。」
最もなことだった。
勿論、自分もその一部始終を見届けた訳では無いのだが、それでも雪の中に埋まりかけていたSiriusを見つけ出した時に気が付いたことは、きっと彼にとって有益となるだろう。
こいつは、そう…無情な罠に嵌められ、動けなくなっていたのだ。
俺でも外すのに力がいるやつだ。大きなトラばさみに膝の上を貫かれていて…とても自力では動けそうにないような状態だった。
あれは、誰を捉えるためのものだ?よもや、狼ではあるまいな?
お前達の中に、嘗てはそのようなことをする輩がいたということかも分からぬ。だが、こいつはそれに巻き込まれたのだ。
それで、その罠には、読み覚えのある文字が刻まれていて…
慌てているのが、自分でも良く分かる。
記憶の整理がまるで出来ず、めちゃくちゃに言葉を繋いでいた俺は、そこで一度口を噤んだ。
「そ、そうだ…」
悲しみに目の前を塗りつぶされ、危うく忘れる所だった。
憎むべき相手が、誰であったかを。
「あいつだ…」
巧妙な2手によって、俺達をいとも容易く引き裂いた。
「…Lokiだっ!!」
黒幕が誰であったかを。
「な、何だって…?」
「あいつがSiriusの脚を奪った!!」
「……。」
「そうすれば…俺が挑発に乗ると知っていた!!」
「俺が関わってしまったばっかりに、利用させられたんだっ!!俺のせいで…俺は…俺はこいつをっ…Siriusをっ…!!!!」
無能を演じたくて考えることを放棄していた頭は、あっという間に血が上った。
眼が充血して、刳り貫きたい衝動に駆られるほど、痒い。
そうだ。
俺は、あいつの名を、覚えていなくてはならない。
「ロォォキィィィィィィィィイッッッ……!!!」
あらん限りの力を喉に込め、俺はその偽りの神の名を、白い夜空に向けて叫ぶ。
…お前は、俺達のことが見通せているか?
俺達がこうして、苦しんでいるのが、感じられているのだな?
ならば、見よ。
お前と同じ父親は、こんなにも息子を思って、苦しんでいるのだぞ?
もう、どうしようもない。
そうだと分かっていても、何かしてやれないか。
彼の為に、一歩でも動き出せないのか。
涙が枯れるまで、
彼の温もりが、感じられなくなるまで、
彼は身を離さないつもりだ。
お前に、分かるか?
Skaの気持ちが。
そのまま、一緒に眠る夢に浸る父親の気持ちが。
「殺してやるっ…!!…姿を現せっ!!そこで見ているんだろっ!?あ゛あ゛っ!?」
「Fe、Fenrir…」
「絶対に許さんっ!!…よくも、よくもSiriusをっ…!!俺の家族をっ!!狼をっっ!!」
「も、もう良いから…」
「俺は本気だ……お、お前の脚も…喰いちぎってやるぞっ…!!!」
「……。」
ああ。分かる筈が、無いよな。
お前が産んだのは、他の誰でもない、
“グゥゥゥゥゥゥゥウッッッ!!……グルルルルゥゥゥゥァアアアッ!!!!!”
「……。」
“……ァゥゥウウオオオオオオオーーーーー!!!!!!!!!”
この’怪物’なのだから。