80. 立たされた岐路
今日はニホンオオカミが絶滅した日です。
山の神とその化身に、少しでも思いを馳せてくださいませ。
80. Fork in the Road
二つの土地は、あたかも初めからそうして繋がっていたかのように黙している。
歪な接合の跡が、ありありと示されているにも拘らず、だ。
境界の隙間は雪で綺麗に埋められても、二度と侵させまいと築かれた城門と、二度と立ち入るまいと捨て置かれた廃墟は、余りにも対照的だ。
「帰って…きた…?」
世界を変える何かが、自分の手によって起きた。
そのような実感がない俺は、只々、その奇跡に翻弄されている。
状況を飲み込めずにその場に佇んでいると、俺は傍らで主人を見上げて尾を揺らすSkaと目が合った。
“……?”
はやく、行きましょう?
控えめにではあるが、そう言っているように見えた。
彼は、自分の次なる一歩を待っていたのだ。
Skaは俺の少し前に立って、自分の用心棒を立派に勤めることもあれば、こうして主人が何かに戸惑い躊躇っていることを少しでも察したならば、横に並んで一緒に待ってくれるような、そんな気心の知れた親友のような機微を見せることがある。
本心に忠実な彼の尻尾は、一刻も早くこの屋敷を後にし、主人と共に元居た場所へと戻ることを望んでいた。
当然のことだろう。どれだけこの時を、自分に寄り添いながら待ち続けていたことか。
きっと片時も、家族の匂いを、声を、毛皮の模様を、忘れなかっただろう。
一匹であると知りながらも、群れ仲間の誰かが返してくれることを信じて、遠吠えをしたい衝動を、Skaはずっと抑えつけていたんだ。
皆に、逢いたい。
皆のもとへ帰って、喜び合いたい。
最早、彼のそんな悲痛な願いを邪魔する者はいなかった。
行かせてやらなきゃ。
俺が、こんなにも純真で勇敢な彼を縛り付ける鎖であってはならない。
すぐに、返してやろう。
「……うん、そうだね。…帰ろう、Ska。」
俺は傍らに置いたランタンを拾い上げると、にっこりとSkaに微笑みかけ、先に出てくれと促した。
“ウッフ…!ウッフ…!”
彼は嬉しそうに両足を踏み鳴らして弧を描いた。
早くしてくださいと尾を揺らして急かしたかと思えば、次の瞬間にはヴァナヘイムの人だかりをじっと見つめ、ぴたりと動きを止める。
もう彼には、あの群衆の中に紛れた仲間の番狼が見えているのだろうか。
或いは、口々に叫ばれる動揺の会話に、耳を傾けているのかも。
俺はもう一度だけ、今や何の息遣いも聞こえてはこない屋敷の暗闇に目を凝らした。
少しの間だけど、俺とSkaをかくまってくれたのだ。心の中で、礼の一つくらい呟いておきたい。
Vesuvaでは、勝手に部屋を踏み抜いたりして、本当に申し訳なかった。
今は…もう、ヴァナヘイムの離れ、と言うことになるのかな。
俺は、本当は君に住まうべき領主じゃない。
きっと他の相応しい誰かが、舞い戻って来るだろう。
「……。」
どうしてこんなに、名残惜しそうな文句を並べ立てたのか、自分でも分からなかった。
今生の別れと言う訳でもあるまいし、というかびっくりするほど近場になってしまった。
それに、そんなに良い思い出は無いと、自分でさっき愚痴をこぼしたばかりではないか。
それなのに、何かが引っかかる。
一応は玄関先の階段を降り、深い雪の中に足を取られながら、Skaのご機嫌な尻尾を追いかける。
だが、耳元で吹雪が妙に囁いて離れない。
これで良い…のか?
俺はSkaと共に、ヴァン神族に迎えられて終わるだろう。
彼らと共に、目の前で起きた奇跡について議論を交わし、恐らくは俺に知らされていなかった忌まわしき過去について聞かされることになる。
俺は、何者かの後継者として、いよいよ彼らに受け入れられることとなるのだ。
しかし、本当にそうだろうか?
何かを…見落としている気がするのだ。
遠くで幻霊のように列をなしているヴァナヘイムの住民たちは、一部始終を見届けただろうか。
俺がSkaと微睡んだ、そのわずかな時間の間に、それは起こった。
きっとこの狼には、Vesuvaが雪原を走る背中に乗っている感覚があったに違いない。
俺には、神には知覚し得なかった大きなうねりに、恐らく彼は気が付いていた。
そうだとすると、彼らの目の前に再び姿を現した嘗ての領地は、幻のように浮かび上がって見えたとしても不思議ではない。
突如として勢いを増したかに思われた吹雪が晴れると、そこには目を疑うような奇跡が繰り返されていた。
そのように映っているのではないか。
…そう、彼らには、自分と同じく、この奇跡が予知されてはいなかったはずなのだ。
共に生きることを選んだ狼の群れは、きっとけたたましく吠えたことだろう。
Skaと同じように、巨大な獣の足音を聞き逃さなかったはずだ。
だが、それだけで、領地の外の様子を大挙して見に行くようなことをするだろうか?
番狼たちの警笛を仮に聞き逃さなかったとしても、どうしてそれがヴァン川方面に起きた異変を示すと結びつく?
俺が与り知らぬ、狼たちとの決め事でもあると言うのか?
いいや、それは違う。
彼らは俺がSkaに諭された様にして、Vesuvaと対峙させられたのではない。
騒ぎ立てる勘が正しければ、彼らは、初めからそこにいた。
言い換えれば、偶然にも、この奇跡に居合わせた。
俺がこうして扉を開く、その数刻前に、彼らはもっと別の何かに対峙させられていた。
明らかに、彼らが立ち向かわなければならない何かが、目の前に姿を現していたのだ。
「何が、起きていたんだ…?」
その、続きではないだろうか。
「Fenrir……。」
間違いない。
あの大狼が、此処にいた。
彼らの目の前に、その姿を晒したのだ。
気が付けば、俺は吹雪の中に佇み、Skaとの距離を大きく空けていた。
彼ははじめ、胴をこちらへ向けずにこちらを見つめていたが、
それでも動こうとしないのを見ると、その場で振り返って俺の意図を読み取りかねていると示す。
「……Ska。」
おいで、とは言える筈も無かった。
もう彼に、自分と行動を共にさせることは出来ない。
どれだけ、大切な家族との邂逅を阻もうと言うのだ。
これ以上、Skaに少しだって、辛い思いをさせたくはない。
「…ごめんっ…!」
俺が進むべきと決めたのは、Skaとは真逆の方角だった。
ヴァン川へと、向かわなくてはならない。
きっと、あいつはまだ近くにいる。
「Skaっ…Skaは、先に帰っていてくれ。」
「これは、俺一人で…何とかする。」
彼は、俺について来てはならない。
もう、俺に仕える責務なんて良いんだ。
優先すべき家族が、君にはいるだろう?
Freyaは…Freyaはきっと、大丈夫だから。
恐ろしい命運を直視するのは、俺一人で十分だ。
責任は、全て俺にあるのだから。
今すぐに、彼の名を目の前で呼んでやれるのは、自分しかいない。
…でも、自分一人が彼の元に掛けつけて、どうにかなるだろうか。
Fenrirは、俺のことを、そうと分かってくれるだろうか。
それすらも、もう自信がない。
俺の推測が正しければ、Fenrirは…
Fenrirは、もう……。
Siriusは、もう……。
「…ついてきちゃ駄目だっ!!」
のた打ち回るようにして、重たく纏わりついた雪を掻く。
何度も躓きながら、後方で狼狽えているであろう彼に向かって叫んだ。
せめて、変わり果てた彼の姿を見せたくはない。
Skaに、Siriusの姿を見せたら…
本当にもう、終わりだ。
ここで、袂を分かつべきだ。
「お願いだぁっ…スカぁっ…」
「あっちへ…行ってくれ…。」
突き放すような言葉を吐いてでも、君は来てはならない。
Ska、聞こえてないのか?
…こんな最低なご主人様から離れられる、またとない命令なんだぞ?
それなのに、彼には逡巡すらも無かった。
“……。”
Ska、
本当にごめん。
眼の縁に凍り付いた涙を何度も払い、吹雪に何もかもを奪われながら、
俺は傍らで歩調を合わせて歩く狼の姿を見失わぬよう、
消えかけの足跡を追いかけ続けたのだった。