79. 反復呪文 3
79. Flash Back 3
俺とSkaを攫ったその屋敷は、奇跡が起きた後も、特段力強い動きを見せることは無かった。
夜明け前の外は目を瞑るよりも暗く、ただ轟々とのた打ち回る吹雪の音だけが止まない。
変わったことと言えば、そう、目の前で鼻を舐めている彼の様子が落ち着かないことぐらいだろうか。
いや、この狼が物語に重要な意味を為すのでなければ、本当に何も起こりはしなかっただろう。
だが、Skaのお陰で、世界は変わった。
そう彼が、教えてくれている。
「Ska…君には、何が聞こえているんだ…?」
尻尾を強気に掲げ、自分の前を堂々と歩く姿は、つい先ほどまで見えない’何か’に怯えていた、可哀想な一匹狼だとは到底思えない。
犬や狼は、何処か霊的なものを知覚する能力に長けている節があるといつも思う。
Skaはきっと、恐ろしいその怪物を主人に寄せ付けまいと、必死に立ち向かってくれたのだろう。
「ありがとう、守ってくれて。」
“フシュッ……。”
そして今や、その霊的な’何か’は去った。
その結果として、物語の成り行きがどう変わったのかを、俺達は目撃しようとしているんだ。
俺が最後にSkaを送り届けるためにと床に張り巡らせた力は、敢え無く失敗に終わったことを、術者である自分が確信している人も拘らず、だ。
でも、Skaの様子が示すことが正しいならば…
ギイィィーー…
冷え切った肺と、凍えた四肢をなんとか動かし廊下を抜けると、俺は期待を込めて広間へ続く廊下の扉を押し開けた。
Skaは我先にと隙間に身体を潜り込ませ、中へと入り込んで行く。
「あ…尻尾気を付けて…」
彼は本当に器用に部屋を出入りするけれども、自分の尻尾を閉じる扉に挟まれてしまうことは無いのだろうか。場違いな疑問が浮かんで、そんなことを口走る。
自分なんか、よくこの長ったらしいマントを、寒いからと勢いよく閉めた玄関の扉に挟めてしまうことが多いのだ。尻尾は狼の身体の一部だから違うかも知れないけれど、もしかしたらぐいと掴まれて後ろに引っ張られる感覚を味わったことはあるのかもしれないと思った。
この狼は、暗がりに眼が慣れるのが早い。
すたすたと中央へ向かう彼の姿をランタンで照らし、躊躇いつつもその光景に目をやる。
「これは……。」
予知と言うか、予感のようなものはあった。
一瞬だが、真っ二つに折れた長机と、崩れた床の残骸は、そこに無かったように見えたのだ。
はやる気持ちを抑えて彼のことを追いかけ、もっと良く見ようと床に目を凝らす。
ある期待に、心臓が強く鳴る。
もしかすると此処は、俺とSkaが本来落ちるべき筈だった穴の先なのでは無いか、と。
何の実感も無かったが、俺はどうやらSkaの転送に成功したらしい。
床の模様は、狙った効力を発揮しているように見えなかったが、俺がやろうと意図していたことは、機会さえ逃さなければ、成し得ていたようなことだ。
これ自体は、そんなに驚くようなことではない。
単に運が良かっただけのことだ。いつものように。
だが、奇跡は俺に、その上のことをさせたようなのだ。
俺が此処にいることは…あり得ないことだ。
彼を無事に送り届けることができたばかりか、
俺は自分自身をも、Vesuvaから脱出させていたのだ。
その奇跡が自分の手によって起こせなくなって久しい。
俺は最愛の彼女を代償に、ミッドガルドからの帰還を果たし、そして世界を渡り歩く力を完全に失った。
それが同じ次元の間であったとしても、俺は自分自身を世界から移すことが、もう出来ない。
多分二度と、克服できないだろう。俺が泳げるようになるのと同じぐらい、無理な話だ。
その筈だったのだ。
それがSkaによって、俺にもたらされた奇跡。
「帰って…来た……?」
帰還は遂に、果たされたと言うのだろうか。
此処は、俺がFreyaと共に暮らす筈だった、あのヴァナヘイムの屋敷なのか…?
「……。」
…いや、違う。
俺はSkaが歩いた先を照らして、がっくりと肩を落とした。
そこには、俺が目を逸らし続けていた残骸が、変わらず横たわっていた。
思い違いだったようだ、まだ住み慣れていないせいか、この屋敷は自分の想像よりも広い。
広間に放っておいたそれは、まるで死体か何かのように近寄りがたく、反射的に口元を右手で覆う。
期待を持たされていただけに、先まで高鳴っていた動機は胸に痛く響いた。
やはり、暗くては人間の眼なんてものは何の役にも立たないな。
まあ、鴉の現し身なんかよりは、全然ましなのだけれど。
先導を買って出た彼を、もっと注視すべきだった。
Skaには、この光景が当然見えていたはずだ。
そうでなければ、脇目も降らずに振り返り、俺にそのことを知らせようと利口に吠えてくれていたはずだ。
これは、Skaが期待した、或いは感じ取った異変ではなかった、と言うことになる。
「Ska……?」
じゃあ、彼は何に気が付いたと言うのだろう。
俺は、狼の足跡を追い続けた。
まるでそれが、自分の希った探求であるかのように、床に大きくつけられた規則正しい模様を丹念に辿り、前を見なかった。
“ウッフ……”
彼はやがて歩みを止めると、俺にあることを願い出るために、礼儀正しく吠えた。
……?
「外に、出たいの?」
止めた方が良いよ。まだ結構吹雪いているみたいだし。
Skaは良いかも知れないけれど、俺は付いて行くのも一苦労なんだ。
こんな夜中に出歩いたら、寒がりな俺は凍えちゃうよ。
何かを聞きつけたから、確かめたい気持ちはわかるんだけど、それを探すのは明日にしよう?
Skaは、気の進まない俺の妄言にじっと耳を傾けていたが、やがて自分から礼儀正しく目を逸らした。
利口そうに尻を床につけて座ると、前脚を交互に踏み、控えめに自分に何かを訴え続けている。
何だ……?
外に、何がある?
「……わかった。」
俺は、彼の為に重い扉に手を掛け、強く吹き付ける風に抗って力を込めた。
彼はそれを察して立ち上がると、鼻先を自分に向けて伸ばし身体を震わせた。
うん…ちょっと待っててね。
これ、片手では無理だな。
ランタンを靴棚に置き、今度は両手で開けようと試みる。
ギ、ギィィィ……
随分厳重に閉じられていたようだが、やがて扉は耳障りな悲鳴を上げて動き出した。
隙間からは忽ち冷気が漏れ出し、床に白い筋を描く。
更に開くと、外套は風を孕んで揺らめいた。
視線を下に落とすと、Skaは嬉し気に尾を揺らして、その隙間が十分に広がるのを待っていた。
その様子を見るだけで、なんだかもう元気づけられてしまう。
「待って、もう少しだから…」
そんなに急かさないで。
ヴァナヘイムに戻ったら、狼が自由に出入りできる勝手口をつくろう。
彼が、自分やFreyaに逢いに来てくれるように。
そうしたら、楽しいんじゃないかな。
…まあ、正直あの屋敷にもう住みたくないんだけれど。
長老様に折角譲っていただいた豪邸だから、こんなことを言うのは罰当たりか。
でも良い思い出が無いどころか、こんな酷い目に遭っているんだもんなあ。
俺は、僅かに微笑み、そして次の瞬間に、凍り付いた。
「……。」
「なんだよ…これ…?」
扉を開いた先には、もし日が出ていて、そして景色が晴れていたのであれば、ヴァナヘイムに酷似した街並みが広がっている筈だった。
いや、吹雪の奥に、微かに映っている。
確かにそれは、Vesuvaに住む者が中心地へと繰り出す時、当たり前のように目にした光景のはずだ。
だが、その先をSkaは見つめていた。
きっと鮮明だ。彼には、吹雪の先さえ見通す力があるのだろう。
俺には、眼を疑うだけで精いっぱいだ。
朧気ながらに聳え立つのは、外敵から領地の誇りを守るための砦だった。
掲げられた松明の列が示すのは、夜襲に駆け付けた人だかりだろう。
「何が…あった?」
これは、奇跡ではない。
俺は、自身を動かすどころか、Skaの転送を行うことすら出来なかった。
だがこれは、奇跡だ。
此処は、Vesuvaの淵であり、ヴァナヘイムの淵だ。
そして彼らは、嘗ての中心であった。
「戻って…きた…」
これは、俺の起こした奇跡であり、狼が起こした奇跡だ。
…世界は、再び繋がり出す。
Vesuvaが、帰還を果たした。
引き裂かれたヴァナヘイムは、失った片割れを再び取り戻したのだ。