79.反復呪文 2
79. Flash Back 2
床に押し当てられた耳に伝わった地響きは、僕がこの土地で聞き続けてきた今までの予兆とは明らかに一線を画していた。
“……?”
Teus様の温もりに心地よく微睡んでいた僕は、慌てて浅い眠りから飛び起きた。
愛しい彼の腕輪から抜け出し、じっと暗がりに目を凝らす。
…この音は、何だ?
初めて肉球をくすぐるような鼓動を感じたのは、Teus様がこの床に同じような模様を刻んでいるときだった。恐怖を覚えるほどの異変は起こらなかったけれど、部屋に置いてある棚や灯りは小刻みに揺れていて、外の雪の模様は、風よりも早い足で滑っていたのを覚えている。
僕は、それが最初はTeus様の仕業なのだと思っていました。
Teus様の意図していることが、残念ながら僕には理解できなかったけれど、この窮地から脱するために、隠れて一生懸命準備を進めているに違いない、と。
僕には想像もつかないような、もの凄い力をTeus様が備えていることは、Fenrirさんからも聞かされていたし、自分自身もその一端を何度も目にしてきました。
だから、僕はTeus様のことを信じて、この人が僕と一緒にみんなのお家へ帰れる日を、じっと待っていたんです。
ただ、この変な匂いのする床が眩しく光ってから、僕の予測は外れていることが分かったんです。
Teus様は、そんなはずはないと漏らした。
動いているのか、と。
この異変は、この方が意図したことではなかったと、その時ようやく気が付いた。
Teus様自身は、この揺れる世界を感じられていなかったのだ。
…でも、それって少し変だな、と僕は思った。
確かにその揺れは小さくて、ぐっすりと眠っていたなら見過ごしてしまいそうな異変だ。
実際、眠っていた僕が目を醒ましてしまうのは不思議だなと思えるほど、それは微かだったから。
ただ、明らかに揺れているんです。
…Teus様。気付いていませんか?
初めてTeus様がこの床の丸い模様を光らせた時のことを、僕は鮮明に覚えている。
Ska、ちょっと暖炉に薪を入れて来るね。
そう言ってTeus様は僕の頭を優しく撫でると、膝元から前脚をそっと降ろして立ち上がった。
多分あれは、さっき僕にしようとしていたことを、黙って実行に移そうとしていたんだと思います。そうですよね?
そして、残念ながらそれは、失敗に終わってしまった。
それすらも僕には理解できていなかったのだけれど、あの時はそれどころでは無かったのだ。
僕は、それとはまったく別の異変に気を取られていたんだ。
僕と同じように、Teus様は酷く狼狽えた表情で、光の消えた部屋を呆然と眺めていました。
ただ、どうも僕と警戒の姿勢が違ったんです。
怯えているものが、どうやら違った。
思わず背の毛皮が逆立った。
このお方には、吊られた灯りが回っているのも、脚の長さが揃っていない椅子が絶えず傾いているのも、
暖炉の煙が炉から部屋へと染み出しているのも、
見えていないんだ。
Teus様には、動いていることが、分かっているんだと思います。
でも、Teus様は、動いていることを、感じられていない。
僕には、動いている、という言葉の意味が分かりませんでした。
ただ、僕は、その動きを感じ取ることが出来ている。
…そして、今までとはまるで比にならないような、この脈動。
この揺れの正体が何であれ、Teus様は少しだって気が付いていない。
“Teus様っ…!!Teus様、眼を醒まして下さい!!”
これは、早く知らせないと大変だ。
僕は温もりを失ってからも微動だにしなかったTeus様を起こしにかかった。
耳元で控えめに吠え、床に開いた穴から助け出した貴方にそうしたよう、優しく頬を舌で舐める。
ええい、耳も舐めちゃえ!
“Teus様っ、早く起きて!!”
「う…ん?…Ska?どうした…?」
やった、起きてくれたみたいだぞ。
「ああ…ごめん、寝ちゃって、た…」
そんなこと言ってる場合じゃないんです。僕も、もっとTeus様と眠っていたかったですけれど。
“Teus様…!大変なんです、この家が…変なんです!凄い勢いで、揺れているんですよ!?”
「どうしたんだ?そんなに慌てて…何かあったのか…?」
ああ、駄目だ。やっぱり気づいていないんだ。もう、どんどん大きくなってきてるのに。
あのね、Teus様。今すぐに外に出ないと、まずいような気がするんです。
このお家、あんまり丈夫そうじゃないですし、もしかしたら崩れちゃうかもしれない。
僕が前を歩きますから、Teus様は…
「Ska…。」
「そうか…」
“……。”
そのとき、僕はTeus様が完全に眼を醒ましたことを悟った。
僕らが諦めて眠りについたとき、その前のことを、思い出した眼をしていたから。
そしてそれは、Teus様にとってこの世界が、やはり完全に静止していることを意味していた。
“……。”
僕とこのお方の間に、世界は共有されていないんだ。
……どうすれば良い?
僕は…どうしたらこの世界のことをTeus様に知って貰える?
この世界の危機を、Teus様に。
お互いが感じているものが食い違うことに、僕は途方もない恐怖を覚えた。
それは、このお家が危険な状態にあることよりも遥かに怖いことのように思えたんです。
本能の赴くままに、足が竦んだ。
大狼よりも、もっと大きな何かに睨みつけられている。
そんな感覚が全身を撫でて、僕に怯えろと急き立てた。
“は、早く……。”
に、逃げないと…。
Teus様、このままじゃ…僕……。
“助けて…ください…。”
うご、け、ない…。
“Teus…様…。”
「……。」
「うん、大丈夫だよ…Ska。」
「ちゃんと此処にいるよ…怖くない。」
“……。”
“クゥゥ……。”
その世界に射竦められ、その世界の中に閉じ込められそうになっていた僕は、
Teus様の伸ばした手に、左の額を押し付け、彼に撫でられることを選んだ。
いつもそうして貰えていたように、眼を瞑って、この方の温もりをこすりつけて行く。
たった今、僕は引き込まれたんだ。
“……。”
床が崩れ落ちてもてもおかしくないほどの揺れは、次の瞬間にはぴたりと収まっていた。
先まで僕がいた世界は、まるでTeus様と幸せな夢を見続けているかのように、消えていたのだ。
いいや、僕だけが、夢を見ていたのかも知れない。
恐い、夢でした。
僕は昔から、一匹で眠るのが苦手なんです。
“…Teus様ぁぁ…。”
「ああ…そうだね。怖かったね。」
でも、もう大丈夫。
Teus様は、そうとだけ呟いて、最後に僕のことを匂いが移るぐらいに強く抱きしめてくれた。
よく頑張ったね、君は本当に立派な狼だ。
「…Skaにはもう、聞こえてるのかな?」
はい、Teus様。
…ありがとうございます。
ちゃんと、聞こえていますよ。
僕の耳には、もう届いています。
外の様子が、変わりました。
なんだか、凄く騒がしいんです。
きっと、見に行った方が良いと思います。
「分かった…Ska。」
「まだ、君の力が必要みたいだ…。」
“ウッフ…!”
僕はTeus様の手に口元を近づけて感謝の意を示すと、
毛皮をぶるぶるっと震わせ、堂々と尾を掲げてその気概を示した。
当然です、任せておいてください。
僕は何のために貴方のもとへ、駆け付けたと思っているんですか?
「うん、ありがとう。Ska。」
「ありがとう……一緒に帰ろう。」