78.追放呪文(無題) 5
78. Cast Out 5
上唇を捲り上げ、鼻先に深く、深く皺を寄せて、刻み込む。
その表情を解く術を、我は忘れたように思った。
もう、引き下がれぬ。
我にはどうすることも、ままならぬ。
軽々しく殺すなどと口走った我の思慮浅さ、主は失望するが良い。
しかし主は、…神だ。
遂に本性を現しよった我を見放って、どうとでもしてやれるだろう。
「ああ…!!面白い!…面白いぞ!!Dirusよ!!」
その不恰好な剣は何だ?
刀身に刻まれた、読めぬ文字の羅列には、意味が込められておると?
つまり、それを使えば、我を殺すことが叶うのだな?
幾ら素早く立ち回ったとて、きっとそれは避けようがない。
そいつを一振りしてやるだけで、我の四肢はもがれ、痛みにのた打ち回るのだ。
喉元には忽ち血が溢れ、息を継ぐことすら出来ぬまま、絶命する。
想像しただけで、卑屈な我が心は踊った。
それは良い、なんと夢のある狼殺しの大剣であることか。
「良いぞっ…そいつで、そいつで我を殺してみよっ!!!!」
主もまた、本性を現した。
殺してやる、などと楯突いた狼は、躊躇なく粛清してやろう。
そんな人間どもの腹の内が、曝け出されたのだ。
これで、互いに、醜い怪物だ。
「さあっ!!Dirus!!やって見ろ!!」
大きな口をがばっと開き、彼の前にぐいと突き出すと、これ見よがしに舌をちらつかせて誘う。
「我の口を閉ざせないならっ、主は今此処で喰われて終わりだ!!」
「ああ…これかい?」
主は、この期に及んで頭が鈍いようだ。
泣き腫らした瞳で我のことを呆然と見上げると、ようやく手にしていた剣で、口に突っ支い棒をしてみろと言っているのだと悟ったようだ。
そうだ。良く、怪物退治にそうやって、喰われないようにするではないか。
我は、それをされてみたいぞ。
「…そんなに欲しいんなら、上げるよ。これ。」
主は、笑った。
しかし、その言葉はとても、これでも喰らえと続きそうな勢いを伴ってはいなかったのだ。
「…ほら。」
…全く、面白くない。
Dirusは、片手で柄を、もう一方の手で刀身を支えると、それを恭しく我の前に差し出した。
それから、柄を持っていた手を、右手の方へ滑らせたのだ。
…受け取れ、と?
主であっても、我の理解に及ばぬことを、するのだな。
どのような意図があってのことか、冷静さを欠いた獣にはおおよそ読み取れぬ。
それとも、主もまた、何も見えてはおらぬか。
主を吊るした背後の群衆も、どよめいておるぞ。
「…我は、それを握る手を持ち合わせておらぬ。」
逡巡の後、我はそれを罠であると決めつけた。
少なくとも、主なりの突飛な布石であると訝しむだけの理性は残されていた。
「しかし、構わぬ。我にはこうして、主を喰いちぎるのに十分な牙があるからな。」
「…うん、そうだね。その通りだ。」
「でも、きっと何かの役に立つかも。…だから、此処へ置いて行くことにするよ。
お土産…というか、贈り物かな。―には、色々お世話になったし、友人として、せめてもの…。」
重たそうに支えていた両手を離すと、Dirusはそれを地面に鈍い音を立てて落とした。
置いて行く、か。
つまりは、覚悟が出来たという訳だな。
「―。」
主は、我の名を改まってそう呼ぶ。
「…俺は、君に殺されて良いだけのことをした。」
そうだな。
我を、此処まで来させてしまった。
それは、主が一線を越えたからにほかならぬ。
しかし、それは我も同じことだ。
「Dirus…。」
「我は、今から主に、殺されて良いだけのことをするつもりだ。」
それで、良しとしようではないか。
やはり、主とは気が合うのだ。
互いに死にたがっておる。
そのくせ、そうするだけの気概も、意気地も持ち合わせてはおらぬ。
誰かが己を、殺めてくれようぞと、都合の良い悲劇を期待しておるのだ。
「…それは違う。」
…何?
「君に、そんなことは絶対にさせない。」
我はちらとだけ、その言葉に決意が伴ったのを嗅ぎ取った。
それがまずいことであることは、言うまでもるまい。
「…君には、あんまり人間側の話をしてこなかったけれど。俺は俺で、…ヴァン神族、俺の群れを守らなくちゃいけない立場にあるんだ。」
それは百も承知であった。
だからこそ、今此処で、主を殺してやる価値がある。
「でも、正直に言って、そんなことどうでも良いとも思ってる。
神族の運命なんて、糞くらえだ。筋書どおりだなんて、何も面白くない。
俺は、狼たちに囲まれた日々のほうがずっと幸せだったし…此処に居場所がなくなったとしても、全然構わないぐらいには、本気で共生の術を考えて、向き合ってきたんだ。」
「…でも、その結果が、これだ。俺が考えた理想の筋書きって言うのも、此処で終わり。
下手くそだったかなあ。もっと、上手くやれたのかなあ…もっと君たちと、仲良く暮らせる方法が…。」
「ああ、―は、何も悪くない。君が今からしようとしていることを、俺には止める権利が無い。俺に課されている責務もまた、殆ど果たそうとする気力も無いんだ。」
「ただ…せめて―が、何の罪も犯さぬままに生き永らえてくれるのであれば、そうしたい。」
「―、今まで、本当にごめんね。」
「俺は、今から―を、遠い所へ連れて行く。」
……?
「この街の、皆が立ってる、そのぎりぎりの淵が境界線だ。
きっと―が今から、眼にもとまらぬ速さで襲い掛かっても…その牙は届かない。
その先にいる群れ仲間たちも、渡してやることは出来ないんだ。
―、本当にごめん。せめて返してやれたら。
君の家族を、傍らに戻してやれたら…。
でも、それは出来ない。
俺はね、弟ほど優秀な神様じゃあないんだ。
―を安全に送り届けるだけで、精一杯だと思う。
―は、人間なんてきっと一人もいないような土地で、暮らすんだ。
大丈夫、優しくて、強くて立派な―なら、きっとすぐに仲間の狼が見つかるよ。
そこで、元気に暮らして、また家族を作って…
人間のことなんか…俺のことなんか、忘れてしまうぐらいに、幸せに生きて欲しい。
これで、お別れだ。」
「ああ…どうしてこんな事しか、出来ないんだろう、俺。」
「さようなら。」
今まで、ありがとう。
その言葉が耳へ微かに届いた刹那。
僅かに歪んだ景色だけを残して、
世界は、目の前から、消えた。




