78.追放呪文(無題) 4
78. Cast Out 4
「ダイ…ラ…ス…。」
思えば我は、主の前で涙したことが無かったように思う。
それは今になって、とても素晴らしいことであると感じた。
それは、主が一度も我のことを悲しませなかったことの証左であるからだ。
いつも笑っておったなあ、主は。
どれだけ人間どもの行いに対する怒りを我がぶつけようと、主は必ず変えてみせると笑いおった。
板挟みとなってはいまいかと案ずると、主はどちらの時間も大切にしたいのだと、やはり笑う。
きっとそうして、人間の群れの中でも、笑っておったのだな。
どれだけの群衆が、そなたに勇気づけられるのだろう。
主は、この土地が狼に侵される心配は無いと言い切ったに違いない。
その公言を破らせてしまったのなら、我はとんだ厄介者と言えよう。
まったく、双方に良い顔をしおって。
そうだ、そうであったな。
我は、人間のように涙は拭えないが、
主に倣って、笑おうでは無いか。
「我を、…その先へ行かせてくれ。」
さあ、Dirus。脇に退いてくれ。
そして、道を開けるのだ。人間の衆よ。
我から、大事な家族をこれ以上隠さないでくれ。
「ダイラス…。」
何故だ?
どうして、主が笑わぬ。
「……。」
いつも笑顔を絶やすことの無かった主が、
どうして今になって、そんな顔をするのだ。
どうして、主が涙を流す。
「―。よく聞いて。」
主は、きっと自身でも、これはらしくない思っておったのだろう。
慌てて溢れた雫を拭うと、不恰好に突っ立って笑った。
ああ、主の言葉は、良く我の耳に届いておるぞ。
「俺は…。俺は―に謝らなくちゃならないことがある。」
……今更、何を。
「俺さあ、―に名前を、付けたよね?」
それは、我が名のことか?
「そう、これでも一生懸命考えて、つけたんだ…。
君を始めて森の中で目にしたとき、人間の言葉を操る狼に出逢ったあの日から、ずっと考えていた。
どんな名前が相応しいかなって。一晩中、文字を紙に綴り続けても決まらなくってね。自分の娘の名前は、あっという間に決まったのにね。狼の名前になった途端、ああでもない、こうでもないって…。」
「だから、―って名前が浮かんだ時は、本当に嬉しかった。これしかあり得ないと思えた、たった一つの答えに辿り着いた気がして。狼たちは、互いのことを名前で呼んだりはしないだろうけれど、これは―が、人間と過ごした証として、忘れないで欲しいなって思う。」
……ああ、分かった。
大切にするとも。
「それで…それでね、俺、―の群れの皆に名前をつけようとしてたの、覚えている?」
……?
そう言えば、そんなことをしておった。
見分けがつかぬから、などと言っては、大層面白そうに言葉を紡いでいたのを覚えておる。
「俺は、―の家族にも、名前をつけた。」
「だから、その名前を…父親である―に、覚えておいて欲しくって。」
…主が、名付け親である、と?
「そう、一回しか言わないから、よく聞いてね?」
そう言うとDirusは、さも嬉しそうに、その名前とやらを並べ立てた。
どれも、吹き込まれた命が躍りそうな名であった。
「……それから、俺におしっこ引っ掛けたあいつがBuster。それで、次女の名前がNymeriaだよ。大丈夫?伝わってる?」
ふん、侮るでない。
主が言い及ぶ特徴など、我には手に取るようにわかる。
何を隠そう、可愛い我が仔のことであるからな。
喩えこの場に居なくとも、眼を瞑れば鮮明に浮かんで来よる。
しかし、どうだ。Dirusよ。
そんなに嬉しそうに話すのなら、どうして我に、その仔らを見せてくれぬのだ?
「それで、それでね……。」
もう良かろう。Dirus。
もう、これで終いにしても。
「―。俺は、君の大事なお嫁さんにも、名前を付けた。」
「Yonahって、言うんだ。」
……。
それが、我が最愛の狼である、と。
「……。」
Yonah、か。
良い名であるな。我のそれよりも、ずっと良い。
呼ばせてくれ、彼女の目の前で。
Dirus。
……。
…Dirus?
「彼女は……本当に子供想いの…お母さんだ。」
…?
「……。仔狼たちに、指一本触れさせまい、と…。」
「…本当にごめん。」
…?
そうか、主の声が震えている余り、聞こえなかったようだ。
或いは、嘘だ。
主の嘘など、見破るのも容易い。
きっと我を傷つけさせないための、嘘なのだろう?
しかし、我はそんな嘘で引き下がらぬ。
そう首を力なく振るな。我に、その素晴らしい名を持った、美しい狼に会わせてくれ。
…なあ、Dirusよ。
Dirus。
「……嘘だ。」
「…嘘だっ!」
「……嘘だぁああああああああああああああああっっっ!!!!!!!」
嘘だ。
すぐにそれが、嘘だと示してやる。
待っていろ、我が同胞たちよ。
こんな我に、応えてくれるか?
息が震える。
大丈夫、きっと応えてくれる。
きっと、我の耳に、届いてくれる。
「……。」
“ウォォオオオオオオオオオオオーーーー……アゥオオオオオオオオオオオオォォオオオオオーーーー…”
返事は、直ぐに添えられた。
人間たちが隠そうとしている、我が向かおうとしている、その先から、聞こえてくる。
群れの長の呼びかけに、まだ答えようとしている。
“…アゥオオオオオオオオオオオオーーー……”
“ウォォオオオオオオオオオオオーーーン……ァゥゥゥオオオオオオオーーーーーーー……”
“ゥゥゥゥオオオオオーーーーー……アゥオオオオオオオオオオオオーーー………”
“…………”
“………”
どれだけでも待った。
たった一匹が答えてくれるまで、我はどれだけでも吠えて、その返事を待った。
我の声が枯れるまで、彼らの声が尽き果てるまで、
必死に喉を貼り、耳を尖らせ、眼をきつく瞑ってみても。
あの声だけが、添えられることが無かった。
彼女だけが、応えてくれなかったのだ。
彼女の…遠吠えだけが、聞こえてこない。
「そ、そうか…そなたは、怒っておるのだな?我が、すぐさま主を助けに行かなかったことに、愛想を尽かして…」
「―、それは違うんだ、Yonahは…」
「うるさいっ!!黙れっ!!…気安く彼女の名を呼ぶなぁっ!!」
「………ごめん。」
「Dirus、このような茶番は終いだ。今すぐに、彼女らを此処に連れてこい。言い訳は一切聞き入れん。
さもなくば、我は主を喰い殺すに飽き足らず…」
「―、待ってくれ…」
「聞こえなかったか!?我は今から、貴様ら人間どもを全員喰い殺すと言っているのだぞ!!!」
追悼は、その後だ。彼女に寄り添うのも、その後だ。
今は、…今だけは。
「我は本気だっ!!!その証左に…今から主を、何の躊躇いもなく八つ裂きにしてやる!!
喰ってなどやるものかっ!!主の血など、一滴たりとて身体の内に入れてやるものか…!!
分かるか!?主は、我の怒りの為だけに殺されるのだっ!!主はそれだけのことをしたっ!!
…いいやそれ以上のことをしたっ!!残りは…我が死に伏せるまで、主の仲間どもに贖って貰おうぞ!!」
今だけは、彼女の傍に相応しくない狼でいたい。
「全員…全員、我がっ……我があ˝あ˝あ˝あああああああああああああああああっっっ!!!!!」
息が出来ない。
涙が出ない。
苦しい、苦しいぞ。
Dirus。
“ヴゥゥゥゥ…アゥオオオオオオオオオオオオーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!”




