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もしも私が

作者:

この作品は、作者が初めて書き上げた小説です。ありふれた日常こそが幸せ、を題材に大学生の男女の関係の変化に沿って書きました。いつどんなことが起こるか分からない世の中で、自分の大切なものにどれだけ気づけているか、ありふれた幸せを見つめ直せる作品になっていれば、と思います。

 僕は後悔した。一番近い言葉で表すならば、僕は心底後悔した。こんなにも喪失感を味わったことが、僕の平凡な人生の中で一度でもあっただろうか。いや、ない。

 僕の心を嵐のように奪い去った君は、もういない。


〈4月25日 水曜日〉

 大学3年の春。人と関わることをしない僕は、大学の広い教室の隅にいつものように一人座り、講義を受けていた。なんの変哲もない、ただの日常だった。

 そこへ、どうやら遅刻したらしい女の子がこっそり教室に入ってきた。大学に通って3年目にして、初めて見かける子だった。最も、僕は周囲に興味がなく、気づかなかったのだけれど。僕とはきっと交わることのない、明るそうな可愛らしい女の子だった。

 僕とはきっと交わることのない彼女は、入り口に近い席で偶然空いていた僕の隣に腰掛けた。急いできたのか、顔を赤くし息を切らして、手で顔を仰いでいた。その姿がなんとも綺麗だった。僕の平凡な人生では見たことのないくらい透き通っていて、涼しげだった。汗をかいているのに涼しげだったのがなんとも不思議で、僕は彼女に話しかけられるまで、見惚れていることに気付かなかった。

「あの、私に何かついてます?」

 思ったよりも落ち着いた声だった。と同時に、僕は焦った。女の子どころか人に話しかけられることなんて、そう何回もなかったからだ。

「あ、えっと、いえ、なんでも。」

 僕はこんなに言葉を詰まらせるほど焦っていたのかと、後から気づく。

 そんな僕に彼女が、今度は微笑みながら小声で話しかけてきた。

「何年生ですか?」

 きっと交わることのない僕に。

「さ、3年です。」

「3年生だったんだ、私も3年だよ!1限っていつも遅刻しちゃうんだよね〜」

 小声ながらも口調が柔らかくなる彼女に、僕は経験したことのない感情で溢れそうになった。まるで未知との遭遇かのように。

 それが、きっと交わることのない彼女と僕が、交わることになった出会いだった。


 その日から僕は彼女を見かけるたびに、涼しげな彼女に見惚れてしまっていた。

もちろん、彼女と目が逢うまで見惚れていることには気が付かなかったのだけれど。

 彼女の周りにはいつも友人がいた。僕とは真逆で、周りに輝きを放つ彼女。いつ見ても楽しそうに笑っている彼女。そんな彼女を見て僕は、経験したことのない感情で心が埋め尽くされていった。

 僕が僕の感情に気付かないうちは、間違ってもデートなどに行くようなことにはならなかった。元々彼女とは交わることのないはずだったから、当然である。何も変わらず、一人で講義を受ける日常だった。


〈7月27日 金曜日〉

 僕の日常に変化が訪れたのは、夏休み前最後の日だった。

 いつものように一人で講義を受け、終わったので帰る支度をしていた。明日から長い夏休みに入り、僕は彼女に会えないことを少し惜しく思っていた。今までなら夏休みは実家に帰り、飼っている柴犬のダイキチと遊ぶ毎日をワクワクしていたのだけど、今年は違った。なぜか、寂しい感情が僕の中には存在した。僅かながら。それでいて僕が気付く程度に。

 帰る途中で、僕は背後から誰かに叩かれた。いや、触れられたという方がふさわしいかもしれない。

 イヤフォンで音楽を聴いていた僕は、過剰に驚いた。周りの音が聴こえていなかったからだけではない。ただのビビリだったわけでもない。帰り道に話しかけられることが、今までなかったからだ。

 振り向くとそこには、きっと僕が心のどこかで期待していた展開が待っていた。

「ねえ、何聴いてたの?」

 僕が自分でも分からない感情を抱いている彼女だった。

「えっ、あ、えーっと、今聴いてたのは、ビリー・ジョエル」

 僕はまた焦っていた。というか動揺していた。帰り道に話しかけられたときに、僕の聴いている音楽について質問されたことが、今までなかったからだ。

「え!ビリー・ジョエルって、あのオネスティの?!」

 驚く彼女に、僕はさらに驚いた。正直通じると思っていなかったからだ。

「君、洋楽聴くんだ!私も聴くの。」

 また彼女に共感された。出会ったとき以来だ。人と関わることをしない僕でも、もちろん嫌な気持ちにはならなかった。だが、ここで僕は気の利かない人間であることを悔やんだ。彼女のような、相手を気持ちよくさせるリアクションが僕の引き出しにはなかったからだ。

 僕が何も言えずにいると、彼女がその間を埋めてくれた。

「あ、そういえば私、名前言ってなかったよね?橘陽花(たちばなはるか)です。太陽の陽に、花って書いてハルカ。君は?」

 たちばなはるか。漢字を想像して、僕はそれとよく似た漢字の花を思い出す。

「僕は、高瀬誠(たかせまこと)です。」

 久しぶりに、自分の名前を口に出した気がした。特に難しくも珍しくもない名前だ。

「うわ、誠っぽい。じゃあまこっちゃんだね。」

 まこっちゃん…

 僕は今まで自分の名前を特別意識したことがなかった。だから誠らしく生きようと思ったことも、もちろんなかった。

 初めて呼ばれたその名前に、新しい風が吹いたみたいだった。また僕の心を分からない感情が埋めて行く。こう、鎖骨のあたりがキューっと苦しくなるような、それなのに嫌じゃないこの感覚は初めてだった。

 彼女はきっと人と壁を作らない生き方をしてきたんだろう。フレンドリーとはまさに彼女のためにある言葉だと思った。心地よい間で話してくれる彼女は、人と関わることをしてこなかった僕とは、やっぱり真逆の人間だ。

 そして気づけば僕の隣を彼女が歩いていた。僕はそわそわした。誰かと帰るのが小学校の集団下校以来だったからだけではない。誰かに見られたら、僕たちは何らかの関係があると誤解されるのではないかと思ったからだ。こんな僕と歩いていて、もし彼女に悪い噂でもついたらどうしようか。僕にはそんな噂で離れていくような友人もいないから心配することはないが、彼女にはたくさんの友人がいて、きっと迷惑がかかるのではないか。そうなれば彼女はあの素敵な笑顔を見せなくなってしまうのではないか。僕の中で不安が不安を呼び、悲劇の妄想を繰り広げる。

 そんな僕を見ていたのか、あるいは僕の心を読んだのか、彼女が口を開く。

「私、ずっとまこっちゃんと話したいと思ってたんだー」

 僕の不安を、一瞬で吹き飛ばすかのように。

「いつも一人でいるから、どんな人なんだろうってずっと気になってたの。まさかビ

リー・ジョエル聴いてるとはね〜」

 まるで、何でもないことを言うかのように。

 こんなことがあって良いのだろうか。僕は明日にでも死ぬのではないか。

 彼女が、この僕を、気になっていた…?

 その言葉の真意が掴めず戸惑っていると彼女は続けた。

「ねえ、明日何してる?」

 僕は彼女の言っている意味が分からなかった。

 そんなことを聞いて、どうするのだろう。不思議に思った。

「明日は、特に何も。」

「そうなんだぁ。じゃあさ、明日出かけようよ。」

 彼女は好奇心旺盛な子供みたいに、キラキラした目で僕を見た。眩しかった。

 僕はさらに言っている意味が分からなかった。

 脳が一瞬固まって、動いた時には驚きがぶわあと込み上げてきた。

「えっ、待って、ぼぼ、僕なんかと?!」

 僕が思っていた以上に、僕は戸惑っていた。

「そうだよ、私、まこっちゃんと仲良くなりたい。ダメかな?」

 彼女はおねだりするのがとても上手な子供みたいに、キラキラした目で僕を見た。

 照れた。そうか、これが照れるという感情か。鎖骨のあたりが苦しくて、嫌じゃない感覚になった。

「ぜ、是非。」

 僕が答えると彼女の顔がぱあっと明るくなるのが分かった。不思議だった。

 後から気づいたけど、僕はなんであんなことを言ったのか、自分でも分からなかった。なんだ、是非って。恥ずかしい。僕は失敗した、と思った。

 だけど、彼女はあの涼しげな笑顔を見せてくれた。とても不思議だった。

 こんな僕と出かけても、楽しいと思うのだろうか。なぜこんな僕と、仲良くなりたいと言ってくれたのだろうか。何かの罰ゲームでも食らったのだろうか。だとしたら大変申し訳なかった。僕には彼女の真意がさっぱり理解できなかった。察することもできなかった。だって今までの僕の人生に、こんな経験はなかったから。

 その後彼女とは駅まで一緒に行き、明日の集合時間と場所だけ告げられて、お互いの帰路に着いた。

 帰り道も、帰宅してからも、夕飯を食べている時も、お風呂に入っている時も、寝るまでずっと、彼女と明日のことで頭がいっぱいだった。やっぱり分からない。

 この感情も、彼女の真意も。


〈7月28日 土曜日〉

 夏休み初日。僕の人生で、後にも先にもきっと一番美しい朝だった。カーテンから差し込む太陽の光は、見慣れた僕の部屋だというのに初めて見る美しさで、味わったことのない清々しい朝に、僕はつい浸りそうになった。

 お昼過ぎ、待ち合わせ場所に彼女が現れて安心した。もしかしたら来ないかもしれないと、僕は少なからず思っていた。大学で見ているはずなのに、いつもより綺麗に感じた。不思議だった。

 彼女が初めに向かったのは映画館だった。広くて幾つもスクリーンがある映画館は、僕がいつも観に行く小さな映画館とはまるで違って新鮮だった。

「私、映画好きなんだよね、まこっちゃんは映画とか観る?」

「あ、うん。基本洋画だけど、映画館よく行くよ。」

 良かった。昨日よりも落ち着いてる自分に安心した。

「本当?私も洋画の方が好きなんだぁ。まこっちゃん誘って良かった!」

 また彼女の顔が明るくなった。分かりやすく嬉しそうだった。

 僕はまた照れた。彼女のコロコロ変わる表情は人を魅了する力がある。


 僕らは指定した席に着き、彼女のリクエストで買った、キャラメルポップコーンのペアセットを間に置いた。ペアセットなんてものを僕が頼むことになるなんて、いつの僕が予想できただろう。

「私、キャラメルポップコーンが好きなの。いっつも映画観るときは絶対買うんだよね。まこっちゃん、キャラメルは好き?」

 まこっちゃんというその響きには、きっといつまで経っても慣れないだろう。呼ばれる度にドキッとしてしまう。

「うん、僕もキャラメル派かな。」

「そっかぁ、良かった!」

 うふふ、と可愛らしく微笑む彼女に、僕はまたドキッとしてしまう。

 さて、この感情をどうしたものか。経験のない僕には到底分かりかねる問題だ。自分に呆れるほど、僕には恋愛経験がないみたいだ。

 初めて彼女と観た映画は、僕の大好きなジャンルである、ヒューマン感動映画だった。恥ずかしながら僕は、人と関わらないくせに、人と関わることで主人公が成長していく物語が大好きだ。そして映画でしか表せない、夢が詰まったファンタジー映画が2番目に好きだ。性格と好みが比例していないのは、神様か誰かのいたずらだと僕は思っている。

 しかも僕は、恥ずかしながら、本当に涙腺が弱い。こういう感動モノには特に弱い。彼女に引かれないように、今日は泣かないと決めていたのに。

「まこっちゃん、泣いてたよね?」

 観終えてからすぐ彼女に言われてしまった。ああ、バレていたのか。それなら尚恥ずかしい。ええい、こうなったら。

「僕、こういう感動モノに弱いんだよね。好きだからよく観るんだけど、自分でも思った以上に早々に泣いちゃったりして、隣の人に変な目で見られるんだ。ごめんね。」

 もう開き直るしかない。僕にはそれ以外の回答案が見当たらなかった。引かれたら引かれたで、きっと元の日常に戻るだけだ。ただ、それだけ。それなのに。

「なんで謝るの?」

 彼女は僕にこう言った。

「私もこういう映画好きだし、すぐ泣いちゃって変な目で見られることよくあるよ!だからまこっちゃんが泣いてるの見て、すごく可愛くて、ちょっと嬉しかったよ?」

 え?嬉しかった??僕が泣いてて、可愛かった???

 ハテナで埋まる僕の頭を整理する間も無く、彼女は続けた。

「あ〜やっぱりまこっちゃん誘って本当に良かった!私たち、似てるかもね!」

 拍子抜けした。再び新しい風が吹いたみたいだった。

 不思議な彼女に、この時の僕はもう。きっと。

「ん?」

 また僕はぼーっと彼女を見つめていたみたいだ。というより、見惚れていた。

「ありがとう。」

 気づいたらそんな言葉が僕の口から出ていた。

「え?なになに、私まこっちゃんに感謝されるようなこと言ってないよ〜」

 謙遜しながらも、彼女は少し嬉しそうだった。可愛かった。


 映画の後は軽く食事をして、帰路に着いた。

 幻のような1日だった。もしかしたら幻だったかもしれない。夢かもしれない。そんな僕の不安をかき消すように、彼女から連絡がきた。

 今日の帰りに交換したばかりの、初めての連絡だった。

『まこっちゃん!今日は付き合ってくれてありがとう!泣いてるまこっちゃんも見れたし、映画も最高だったし、ものすごく楽しかった。良かったらまた映画デートしてほしいな!』

 どこからつっこめば良いか悩んだが、まずは泣いたのに引かないでくれて、本当に安心した。実を言うと、僕も彼女が泣いているところをチラッと見た。それはもう、見惚れそうになるくらい可愛かったのだけれど、これは本人には言わないでおいた。見ていたと分かれば、それこそ引かれてしまいそうだからだ。

「また、映画デート…」

 そうか、今日は映画デートだったのか。

 デートと呼ばれるソレを記憶上僕は初めてした。楽しかったなあ。

 また、彼女に会えるのかと、僕は喜びに満ち溢れた。

『僕もとても楽しかったです。こちらこそ誘ってくれて有難うございました。また是非よろしくお願いします。』

 堅すぎるか?

『こちらこそ、すごい楽しかったよーありがとう!また行こうね!』

 いやいやいや、こんな僕らしくないチャラついた文章、恥ずかしくて彼女に送れるわけがない。

『連絡ありがとう、僕もすごく楽しかった。こちらこそ、また行ってくれると嬉しいです。』

 うん、無難だ。結局、無難が一番なんだ。

 ドキドキしながら、送信ボタンを押す。

 ああ、送ってしまった。安堵と同時にまた不安に駆られていると、数秒後。

『わあ!よかった〜、返信来ないかと思っちゃった(笑)じゃあさ、お盆明けの金曜日、また映画行かない?今度はまこっちゃんの観たい映画で!』

 その文章に驚いて僕は携帯を落としそうになった。

 僕はどこかで諦めていた。今日が終われば、また今度なんていう単なる口約束は幻想に過ぎず、永遠に来ない。だから今日だけの幸せなんだと、そう諦めていたのに。

 彼女はことごとく、僕を裏切る。良い意味で、裏切ってくれる。

 僕は次会う日まで、待てない気がした。

 そして、確実に彼女とまた会えるという未来に、歓喜を抱いた。

 こんなに未来が楽しみになったことはなかった。


〈7月29日 日曜日〉

 彼女と過ごした次の日から、僕は帰省してダイキチと戯れる日々を送った。

「ダイキチ、僕はどうしたらいい?何を観れば良いのかなあ」

 答えてはくれないけど、相変わらずダイキチは可愛かった。

「僕が相談できるのは、ダイキチだけなんだよ〜」

 相談というより、一方的に話しかけてるだけだ。虚しいけど、やっぱり可愛かった。

「誠、誰と喋ってるの?ご飯できたよ。」

「あ、はい。」

 ダイキチのせいで、母さんに見られてしまった。恥ずかしい。・・・いや、ダイキチのせいではないか。ごめんな、ダイキチ。

 僕はまた彼女のことで頭がいっぱいになった。


〈8月16日 木曜日〉

 何も解決しないままダイキチとの夏休みが終わり、僕はまた一人の家に戻ってきた。

 ついに、明日彼女に会える。長いようであっという間に明日になってしまった。緊張と楽しみが半々。明日の今頃、僕はどんな気持ちなんだろう。こんな風に考えることは初めてだった。


〈8月17日 金曜日〉

 約束の時間より少し遅れて彼女が現れた。正直、来ないんじゃないかとドキドキした。こういう時につい最悪の想定をしてしまうのが、僕の悪いところだ。

「まこっちゃんごめん!支度に時間かかっちゃって、ごめんね!」

 僕は驚いた。現れた彼女が、僕の知っている彼女ではなかったからだ。

 長かった髪が、とても短くなっていた。

「あれ、まこっちゃん?怒ってる…?」

 また、僕は見惚れていたみたいだ。でも今回ばかりは仕方ない。何しろ髪を切った彼女は、前よりも増して涼しげで、綺麗で、他の何も視界に入らないくらい・・・

「可愛い。」

「えっ?」

 気がついた頃にはもう、心の声が口に出てしまっていた。僕は焦った。

「あっ、ちが、えっと、なんて言うか、髪」

「髪?あーこれ、ロング飽きたから切っちゃったの!」

 危ない。デート早々彼女に引かれるところだった。

「似合ってると思う。」

「本当!?嬉しい〜ありがとう!遅れて本当にごめんね。」

 他の何も視界に入らないくらい彼女は、可愛かった。遅れてきたことなんてどうだっていい。来てくれただけで、僕はもう満足していた。

 それにしても彼女の行動や言動にはとことん驚かされる。未知との遭遇みたいだ。

 僕の知らない世界を彼女はたくさん見せてくれる。いつになっても不思議だった。


 映画館に向かいながら、僕らは話した。

「まこっちゃん、地元どこなの?」

「地元は千葉だよ。千葉の下の方」

「そうなんだ〜帰省した?」

「うん、昨日まで帰ってたよ。」

「そうだったんだ!楽しかった?」

「そうだね、暑かったけど。毎年帰省して、犬と遊ぶんだ。」

「柴犬だったよね?」

「あれ、僕言ったことあったっけ?」

「あ、いや!なんとなく柴犬っぽいなあって!違った?」

「いや、中1から柴犬飼ってる。」

「へぇ〜絶対可愛いじゃん!名前は?」

「ダイキチ。すごく可愛いよ。」

「ダイキチ?名前も可愛い。まこっちゃんがつけたの?」

「そう、子供の頃、初めて引いたおみくじで大吉が出て、縁起が良い言葉ってイメージがあったから、ペット飼ったら名前にしようって思ってて。」

「へぇ〜!理由も可愛いね、誠少年はハイセンスだ!」

「そうかな?」

 楽しかった。なんてことない会話だけど、僕にこんなに質問をぶつけてきてくれる人なんて初めてで、返す度に心地良いリアクションをしてくれる。彼女は、天才かもしれないとさえ思った。


 映画は僕のリクエストで、SF映画界の巨匠の最新作を観た。ハラハラして、ワクワクして、リアリティもファンタジーもあって、新たに僕の大好きな作品になった。

「すっごい面白かったね!」

 いつかの日に見た、キラキラした彼女の瞳に吸い込まれそうになった。

「うん、すごく面白かった。ここ最近のSFでは一番かも。ああいう世界があったら、僕きっと現実に戻れないなあ。」

「うふふ、そんな感じするかも。でもダメだよ、現実にも面白いことたくさんあるんだからね!」

 可愛かった。また僕の中に新しい感情が生まれる。

「うん、君に会って、そんな気がしてる。」

「え?」

「ううん。なんでもない。」

 今日の僕はおかしかった。どうやら心の声を留めておけないらしい。困った。

 僕が困っていると、彼女は何かを企んでいるような笑みを浮かべて、僕を見つめた。

「まこっちゃん、お酒は好き?」


 気が付けば、僕らは居酒屋のカウンターに案内されていた。

「こないだは普通にご飯だけだったけど、まこっちゃんとサシ飲みしてみたかったの。まこっちゃんの酔ってるところ見たくて」

 えへへと笑う彼女はどこか悪巧みをしているようで、だけどやっぱり可愛かった。

 僕はもしかしたら、彼女の魔法にかかっているのかもしれなかった。

「僕は普段あんまり飲まないから、酔っ払ってもあんまり変わらないと思うけど…」

「え〜わかんないよ?めちゃくちゃ饒舌になるかも!私レモンサワーにします!まこっちゃんは?」

 先にお飲み物だけ、と待ち構える店員さんに注文する彼女。

「じゃあ僕もレモンサワーでお願いします。」


 この瞬間が、僕の人生の分岐点だったと言っても過言ではないかもしれない。

 と、僕は後になって気づくのだった。


「はい、乾杯!」

「いただきます。」

 テーブルに届けられたレモンサワーの冷えたグラスを持って、僕らは初めて乾杯をした。震えそうなのがバレないように、僕は緊張を隠した。

「はぁ〜美味しい!」

 良い飲みっぷりの彼女は、いつもより勇ましく見えた。

「まこっちゃんは、私に質問ある?」

 これまた唐突な質問を、彼女がぶつけてきた。

「質問?」

「うん、よく考えたら私ばっかり喋ってて、まこっちゃんに聞かれることあんまりないなあと思って!」

 確かに、いつも話してくれるのは彼女だった。

「じゃあ、聞いても良い?」

 僕の中で一番疑問に思ってたことを、勇気を出してぶつけてみることにした。

「うん、何??」

「どうして、こんな僕なんかに、関わってくれるの?」

 ドキドキした。噛まないように、間違えないように、僕は必死だった。

「なんだ、そんな質問で良いの?」

 彼女は少し残念がっていたけど、丁寧に話してくれた。

「前にも言わなかったっけ?いつも一人でいるまこっちゃんと、ずっと話したいって思ってたの。最初に気になったきっかけは覚えてないけど、まこっちゃんいつも一人でいるから、もしかしたらすっごく面白いのに、人見知りでそれをみんなに気づいてもらえてないんじゃないかって。だって、初めて私が隣に座った時、私のことすごく不思議そうな目で見てきたんだよ?遅刻してきた知らない人が隣に座ってきたら、普通嫌じゃない?なのにまこっちゃん、ぼーっと不思議そうに見てくるから、それがなんか可笑しくて。この人は絶対優しい人だって直感でそう思ったの。そこから、もっと話してみたいなーって思ってて、ただそれだけだよ。」

 僕のことを、こんなに話してくれる人は、生まれて初めてだった。

 彼女にとっての『ただそれだけ』が、僕にとってはものすごく嬉しいことだった。

 こう、胸の奥で何かがキューとなるような、苦しいけど、嫌じゃない感覚。

 それが何なのか、その時は分かっていなかったけど、僕の中には確かに幸せの感情が生まれていた。

 そんな感情を噛み締めながら、僕は言った。

「そっか、ありがとう。」

「なんか照れるね。次の質問!」

 彼女は頬を赤らめていた。照れていたのか、お酒のせいなのかは定かではなかったけど、僕にはそれを察する力がなかったし、そんなのはどっちでもよかった。

 ただ、彼女は可愛かった。


 出身がどこだとか、夏休みは何をしたとか、自分に聞かれた質問をそのまま彼女に返し、僕がしばらく次の質問を考えていると、彼女が思い出したように言った。

「あ、じゃあ私から質問。まこっちゃんはさ〜彼女とかいたことある?」

 随分と話し方が柔らかくなった彼女は、どうやら酔っているみたいだった。

「ないよ。知っての通り僕は人と関わらない人間だからね。」

「え〜もったいない。まこっちゃんこんなに素敵なのにな〜」

 どこをどう見たら素敵なのだろうか。思考回路が回らず、僕の中に答えは出て来なかった。

「そういえば、君こそ彼氏に怒られない?僕なんかとご飯行ったりして。」

 僕は今更心配になった。この密会がバレたら、僕はどうなるだろう。考えるだけで身も心も震えた。

「彼氏?私、今は彼氏いないよ〜」

 今は。いないことに安心するよりも先に、僕は過去にいたことに身勝手にも少しだけ傷ついていた。理由は分からない。心の中がモヤモヤして、その先を聞くべきか迷った。

「それよりも!まこっちゃん、僕なんかって言うの禁止。それ良くない口癖だよ!」

 迷っていたら、彼女に怒られた。怒られたのに、僕は少しドキッとしていた。

「そんなに言ってたかな。」

「言ってたよ〜もっと自信持てばいいのに!あ、じゃあ一回言ってみて、僕は素敵な人間です。はい!」

 僕は思わず笑った。

 中学の英語の授業で、先生の後に発音してねっていうあの、リピートアフターミーを思い出したからだ。

「あはは、なにそれ、そんなの本当に素敵な人は言わないんじゃない?」

「笑った。」

「え?」

「まこっちゃんの笑ってるところ初めて見た!!!」

 彼女は驚きながら、喜び始めた。忙しく変わる彼女の表情は見ていて飽きなかった。

 そんな彼女とは正反対に、僕はあまり感情が表に出ない。それは僕に友達ができない理由でもあった。確かに久しぶりに人前で笑ったかもしれない。

「そう?でも僕なんかの笑ってるとこなんて、全然価値ないよ。」

 無自覚だった。

「あ、また僕なんかって言った!ダメだよ〜」

 確かに僕は、無意識に自分を卑下する癖があった。

「じゃあ罰として、僕は素敵な人間だ。はい、3回言って!」

 彼女はニヤニヤして僕を見つめた。

「罰、なんだね。」

「えへへ、そこはいいの!はい、言って!」

 僕は彼女にこれ以上見つめられると心臓が持たない気がした。お酒のせいか、心臓の音が彼女に聞こえそうなくらいバクバク言っていた。

「…僕は素敵な人間です。僕は素敵な人間です。僕は素敵な人間です。」

 恥ずかしかった。他の誰にも聞こえてないことを心から祈った。

「うん、本当に素敵!だからもう、僕なんかって言わないでね!」

 満足そうな彼女には敵わない。僕はそう悟った。

 だけど心なしか、自分が素敵な人間に近づいた気がした。言葉にすることの力は実在するのかもしれないと、僕は彼女の魔法に感心した。


 それからどれくらい飲んだだろう。いつの間にか店員に閉店をお知らせされるくらい、夜が更けていたらしい。

 僕らはお会計を済ませ、お店を後にした。


 外へ出ると、夏を感じさせない涼しい風が、僕らを包んだ。

 外の空気に触れればお酒が冷めるのではないかと、普段飲まない僕は浅はかな考えだったが、もちろんそうもいかず、僕らは二人してフラフラだった。立ててはいるが、ふわふわと歩いている感覚で、僕らは思わず顔を見合わせて笑った。

「まこっちゃん、酔ってるね〜〜顔赤くて可愛い。」

「君こそ、フラフラじゃん。それに、可愛いのは君の方だよ。」

 僕はお酒という魔力で、言う予定のないことまで言っていた。

「え、まこっちゃん、今私のこと可愛いって言った?」

 急に近寄って僕にもたれ、僕を上目遣いで見つめてくる彼女が、それはもう可愛くて、彼女の瞳に溶けてしまいそうだった。なんてクサイ表現だ。恥ずかしい。

 だけどその時の僕は、お酒の魔力で無敵だった。恥ずかしさよりも、彼女の可愛さを伝えようと勝手に言葉が出てきた。

 そしてその勢いが、可愛さだけに留まらず余計なことも口走ることになるなんて。

「うん。言ったよ。君は、ずっと可愛い。」

 春の僕は想像もしていなかっただろう。

「君は可愛くて、優しくて、分け隔てなくて、友達が多くて、いつも楽しそうで、嬉しそうで、見てて飽きなくて、やっぱり可愛い。」

「ちょっと、まこっちゃん急にどうしたの?照れるからやめてよ〜」

 そう、この照れてる彼女から、僕は・・・

「目が離せないんだ。」

 自分でも何を言ってるか、理解するより口に出ていた。僕らしからぬことを言っているのはなんとなく分かっていた。だけど、止まらなかった。

「まこっちゃん…?」

「僕は、君の虜になってる。」

 ドキドキした。お酒とは違う、心臓のバクバクが、また彼女に伝わりそうだった。

「僕は今まで、誰とも深く関わろうとしてこなかった。君とだって、こんな風に関わると思ってなかった。だけど君と出会って、僕は知らない自分に出会った。人と関わって幸せな感情で満たされるなんて、今までなかった。だから僕は、君に、すごく感謝してるんだよ。」

 少しだけ、声が震えていた。僕は緊張していたかも知れないがその時は必死だった。

 僕は、何を長々と語っているのだろう、と我に返り、途端に羞恥心が込み上げた。

「ご、ごめん。気にしないで。ちょっと酔ってるね、僕。」

 もたれかかっていた僕から離れた彼女の顔を見るのがすごく怖かった。迷惑がっているに違いない。ああ、せっかく楽しい夜だったのに。僕は何を・・・

「嬉しい。」

 僕は耳を疑った。思わず彼女の方を向いたら、さっきよりも彼女の顔が赤くなってるように感じた。

「まこっちゃんに、そんな風に思ってもらえてるなんて…嬉しい。私の方こそ、ありがとう。えへへ、照れるね。」

 僕は、彼女を抱きしめたくなった。

 いや、思うよりも先に、僕は彼女を抱きしめていた。

「ま、まこっちゃん!?」

 またも僕らしからぬ行動をしていたと、理解するまでに時間はかからなかった。お酒の魔力で無敵だと脳が勘違いして、僕は制御不能になったのかもしれなかった。

 もちろんすぐ離れた。そしてまた謝った。

 一瞬だけでも、彼女の良い香りが僕を包み込んで、幸せで満ち溢れそうだったことは、彼女には口が裂けても言えない。


 それからどんな会話をして帰ったのか、記憶が曖昧だった。自分の部屋のベッドで目を覚まして、今までの自分とは別人のような夜を思い出して、自分の言動や行動が夢であってほしいと願ったが、やはり現実だと証明するかのように、彼女から連絡が来ていた。

『まこっちゃん、昨日はありがとう。すっごく楽しかったし、まこっちゃんがあんな風に言ってくれて嬉しかったよ。また会いたいです。』

 結果として、彼女には僕の行動が良い方向で伝わったみたいで、安堵した。しかし、次会った時どんな顔をすれば良いのか、恥ずかしさに打ち勝つほどの勇気が僕の中にはあるのか、何をしていても彼女で頭が埋め尽くされていた。

 ただ、少なくとも、僕の人生が豊かになっていることは確かだった。


〈8月21日 火曜日〉

 あれから2週間後。彼女に会えなくて長く退屈に感じていた夏休みが、また楽しい方向に進展することになる。

「え、花火大会?」

 僕らはいつの間にか電話をするような仲になっていた。そして彼女が突然言い出したのだ。

『そう!今度の土曜日に花火大会があってね、まこっちゃんと一緒に行きたいなって。どうかな?』

 そんなの、行きたいに決まっている。僕は自分が欲張りになっていることに気付きながら、それを止めることができなかった。こんなに誰かに会いたくなるなんて、別人に生まれ変わったみたいだった。

「うん、行きたい。」

 嬉しさを押し殺して、あくまで冷静を装って僕は返事をした。緊張した。


〈8月25日 土曜日〉

 花火大会当日。昨日も僕はそわそわして眠れなかった。2週間ぶりに会う彼女に、ワクワクが止まらなくて、やっぱり僕じゃないみたいだった。

 そういえば、僕は彼女に、告白らしきものをしてしまったような・・・思い出すだけでも穴があったら入りたいくらい恥ずかしいが、あの日からその話はしていないし、きっと彼女も忘れているだろう。大体虜になってるって、僕は何を言ったんだ本当に。今日はとにかく失敗しないように、落ち着いて、いつも通りに・・・

 そんなことを考えていたら、集合場所に着いていた。

 言われていた集合時間ちょうどに彼女が現れた時、僕は一瞬で目を奪われた。いくつもの紫陽花が描かれた浴衣を身に纏った彼女は、間違いなく誰よりも綺麗で、美しく僕の目に飛び込んできたからだ。

 春から唯一変わっていないのは、この彼女の綺麗さと、それに見惚れてしまう僕だけかもしれない。

「お待たせ!浴衣、どうかな?」

 照れながら聞く彼女は今まで見た彼女で一番可愛かった。毎回記録を更新してくる彼女に僕は、

「すっごく可愛い。」

 素直に格好つけず、伝えることにした。

「え、そんなストレートに言われると、恥ずかしいなあ。」

 紫陽花は、僕が彼女の名前を聞いた時に思い浮かべた花で、きっと似合うだろうとずっと思っていた。だから彼女の浴衣が紫陽花だった時、柄にもなく運命的な何かを感じてドキッとしてしまった。

「わたし、紫陽花の漢字が自分の名前に似てるから好きで、今年こそ紫陽花の浴衣着る!って決めてたの。叶って良かった。」

 ほら、こういうところ。僕の心を読んだかのように、嬉しそうに笑う彼女。

 やっと、ようやく、今更、僕はこの感情の正体を確信したんだ。


 僕は、彼女が、好きだ。

 一目惚れだったんだ。彼女が僕の隣に座ったあの春の日から、僕は彼女に夢中だったんだ。さらにワガママなことに、彼女も僕を好きでいてくれたらなんて思うようになっていたことにも気付いた。これが、恋か。なんて素敵な感情なんだろう。知らなかったことの恥ずかしさよりも、気づかせてくれた彼女にはやっぱり敵わないな、と思った。


 都内で3番目に規模の大きい花火大会ということもあり、屋台が並ぶ通りには人混みもすごかった。

「人多いね〜」

「そうだね、花火の前に何か食べる?」

「食べたい!」

 恋だと認めてから、やけに心が軽くなった気がした。僕は今、好きな人の隣を歩いている。嬉しくて清々しくて、それだけで幸せに満ちた。

 彼女のリクエストで僕らはたこ焼きと焼きそばを買って、近くの柵に腰掛けた。隣で美味しそうに食べる彼女がまたなんとも愛おしくて、ああ好きだなあと思った。

「そういえば、この間の返事、まだしてなかったよね。」

 すると彼女が突然、忘れられていたはずの話をし始めた。

「え、この間のって…」

 この展開はまずい、まだ心の準備も出来ていないし、そもそも返事のいるような言い方もしていなかったはず。どうしよう、今日で彼女に会えなくなってしまうかもしれない。この心地よい距離感を失いたくない。僕は一気に鼓動が早くなった。

「えーっと…」

「あれ、陽花?」

 どう話を逸らせば良いか必死に考えていた僕を遮るかのように入って来た知らない声。見上げると、知らない人が僕らの前に立っていた。

「やっぱり陽花だ、久しぶり!俺のこと覚えてる?」

 ズケズケと話しかけてくるこの人が誰なのか分からず動揺していると、

「大樹…先輩。」

 彼女が気まずそうに言った。

 二人の空気になぜか嫌な予感がした。

「先輩なんてつけなくて良いのに。浴衣めっちゃ可愛いね。高校の時から紫陽花好きだったもんな、陽花。」

 高校の時。

 この人の言葉にいちいち引っかかってしまう。もしかしてこの人・・・

「もしかして、彼氏?」

 僕が思ってしまったことを、その人は僕に向かって言ってきた。

 待って、何この人、今一番シビアなことを・・・

「え、いや、僕は…」

「そうだよ。」

 僕はついていけなかった。この人の思惑にも、彼女の返答にも。

「そう、なんだ。陽花のタイプじゃなくない?」

「先輩にはもう関係ないでしょ。」

 こんな強気な彼女を見るのは初めてで、僕は何も言えなかったけど、タイプじゃない、なんてそんなことは僕が一番分かっている。デリカシーのない人だ。

「相変わらずだね〜。こいつ素直じゃないけど、仲良くしてやって?」

 その人が僕にそう言い放ったことで、僕の中で何かが切れた。

「どなたか知らないですけど、彼女のことをこいつって呼ぶのやめてください。あと彼女はとっても素直ですよ。あなたに言われなくても仲良くさせてもらってるので、ご心配なく。」

「まこっちゃん…」

 こんなに幸せじゃない感情が溢れたことは人生で初めてで、彼女に格好悪い姿を見せているのに止まらなくなってしまった。

「君面白いね、俺は陽花の元彼。張り合うつもりはないけど、陽花の初めての相手だよ。意味、分かるよね?」

 不気味に笑うその人に、僕はさらに感情がむき出しになってしまいそうだった。

 嫌な予感が的中した。

「先輩やめて!言う必要ないじゃん!本当に最悪。もう話しかけないで。まこっちゃん行こう。」

 彼女が僕の手を引いてその場を去ってくれなければ、僕は自分の感情をコントロールできていなかったかもしれない、と僕はすぐ冷静になった。

 彼女の怒った姿を見たこともなかったけど、僕の中にあんな怒りの感情があることも知らなかった。

 好きな人が、僕の手を握っている。とんでもなく予想外なことが僕の人生に起きているのに、僕はさっきの人の『初めての相手』という言葉が頭に残って、率直に喜べないでいた。この柔らかい手も、この間抱きしめてしまった時の香りも、わずかな感触も、全てを知っているのは僕ではなく、彼なのだ。僕にとっての初めてが、彼女にとっては違うという事実を痛感して、少しだけ虚しい気持ちになってしまった。僕はいつからこんなに独占欲の強く、自惚れた人間になっていたのだろう。


 人混みが少なくなったところで、彼女は止まった。手を離し、僕の手にはうっすら汗だけが残った。

「か、勝手なこと言ってごめん。」

 僕はひとまず、彼に図々しく口答えしてしまったことを謝罪した。

「なんでまこっちゃんが謝るの…巻き込んでごめん。」

 彼女の元気がない声に、僕はどう言えば良いか分からなかった。

 本当はあの人との関係とか、今はどう思っているとか、なぜあんな風に怒るような態度になったのかとか、聞きたいことがたくさんあった。でも踏み込んだ事を聞く勇気が僕にはなかった。少しの沈黙が、僕にはとても長く感じた。

 心を見透かされたのか、何も言えない僕を察したのか、彼女が口を開いた。

「あの人が言ってたことは本当なんだ。同じ高校の一つ上の先輩で、私の元彼。ってこんな話まこっちゃんに関係ないよね、ごめん。もう謝ってばっかり…」

「話してくれる?最後まで、君から本当のこと聞きたい。」

「まこっちゃん…」

 今にも泣きそうな彼女に、こんな時でさえ可愛いなと思ってしまう僕は、なんて不純なんだろう。

「私が高2の時から1年半くらい付き合ってたんだけど、大学入学した頃に別の女の人といるのを見かけて、問い詰めたら二股かけられてたの。それで、結局私が呆気なく別れようって振られてさ、それから男の人信用しなくなっちゃったんだよね。」

 1年半。二股。僕には未知の世界すぎて、彼女を少しだけ遠く感じてしまった。

 と同時に、男の人を信用しなくなったなら、なんで僕と・・・と不思議にも思った。

「実はね、私がまこっちゃんに初めて会ったの、あの日じゃないんだよ。」

「え…?」

「大樹先輩に振られて少ししてから、私のバイトしてたペットショップに偶然まこっちゃんが来たの。覚えてないと思うけど…」

 ペットショップ…?僕は必死に自分の記憶を辿った。

「柴犬をずーっと愛おしそうに眺めててね、好きなんですか?って話しかけたら、柴犬飼ってるからつい見ちゃうんですってまこっちゃんが言って、その姿に癒されたんだよね。なんとなく誠実そうで無邪気な人だなあって。その時は同じ大学だって知らなかったけど、大学で見かけた時は超びっくりして、それからずっと気になってたの。」

 思い出した。1年の冬、普段寄らないペットショップに、ダイキチに負けないくらい可愛い柴犬がいて、ダイキチに会いたくなったことがあった。まさか、その時の店員さんが、彼女だったなんて。

「まこっちゃんは私のこと全く覚えてないみたいだったから、なかなか話しかける勇気が出なくて、だけど今年の春、遅刻して座った席の隣に偶然まこっちゃんがいて、もう運命かと思っちゃった。あの日、私の誕生日だったの。これはもう話しかける大チャンスだって思って。」

 運命・・・僕の人生には程遠い言葉だった。いつも涼しげで余裕があるように見えていた彼女が、僕に勇気を出して話しかけてくれていたなんて。

 何もかもが、僕の人生ではないみたいで、実感が湧かなかった。

「私、まこっちゃんに救われてた。まこっちゃんといる時は心が軽くなって、居心地が良くて、こんな優しい男の人いるんだって思ってた。私の方が、まこっちゃんの虜になってるんだよ。」

 僕は顔が熱くなるのを感じた。お酒を飲んでいないのに、鼓動が早くなって、ドキドキして、またあのワガママが頭の中に蘇って来た。

 彼女も、僕を、好きでいてくれたら。

「私、まこっちゃんが好きです。」

 僕は、この瞬間を忘れないだろう。

 つい何分か前の怒った表情を一切なくして、それどころか可愛さをさらに更新して、頬を赤らめた彼女が、優しくて落ち着いた声で、僕に言ってくれたこと。

 僕のワガママが、叶ったこと。

 そして、

「僕も、橘陽花さんが好きです。」

 人生で初めての告白をしたこと。

 ドーーーーーン。

 映画みたいなタイミングで、大きな花火が打ち上がったこと。

 幸い、花火の音で僕の心臓のバクバクが彼女に聞こえなかったこと。

 さっきまでのモヤモヤが吹っ飛ぶくらい、彼女が笑顔になってくれたこと。

 僕は間違いなく、誰よりも幸せだ。


 僕らは空に打ち上がるいくつもの花火を隣で見た。久しぶりの花火は、儚くも綺麗で、特別美しく見えた。


「私、彼氏と花火見たの初めて。」

 花火が終わり、彼女が言った。

 彼氏・・・聞き馴染みのない単語で、実感が湧かなかった。と同時に、少しだけ不安にもなった。

「君は本当に僕なんかで良いの?」

「あ、僕なんかって言った!」

「あ…」

「僕なんか、じゃなくて、まこっちゃんが良いの!」

 まっすぐそう伝えてくれる彼女に、僕はまた恋をしたみたいだった。

「僕も、君が良い。」

 だから僕も、まっすぐ返すことにした。不思議と恥ずかしさはなかった。

 彼女は少し驚いて、また少しだけ頬を赤らめた。

「嬉しい。」

 照れながら、微笑む彼女がやっぱり可愛かった。

「さっき、まこっちゃん初めて私の名前呼んでくれたよね。もう1回呼んで?」

 そう、実を言うと僕は、女性を名前で呼ぶことが苦手だった。そもそも彼女に出会うまで呼ぶ機会さえなかったのだけれど。

「た、橘陽花さん。」

「そうじゃなくて、陽花って呼んで?もう、彼女なんだから。」

 彼女・・・いちいちドキッとしてしまう単語だ。

「は…」

 ニヤニヤと意地悪そうに笑う彼女。きっと僕が名前で呼ぶのを苦手と気付いていながら、要求しているんだろう。なんて可愛いんだ。

「はる…」

「うん、はる??」

 じっと見つめてくる彼女に、告白した時よりも緊張しながら。

「陽花。」

 絞り出した声でそう言った。恥ずかしさが込みあげてきて、僕は顔を手で覆った。

「まこっちゃん、可愛すぎるよ〜」

 僕はきっと耳まで真っ赤になってるだろう。全く格好のつかない彼氏で申し訳なくなった。彼女には、いつまで経っても敵わなかった。

「手、どけて?」

 無理やり彼女は僕の手をどけた。ああ、見ないでくれ・・・と思った瞬間。

 ふわあっと彼女の香りを近く感じたと思ったら、僕は唇に柔らかいものを感じた。

 彼女が、僕に、キスをしてきた。

 もちろん僕にとっては初めてで、恥ずかしさで溢れそうなのに、幸せな感触で、一瞬がスローになったようだった。

「!?」

 僕は呆然と、自分に起きたことを考える余裕もなく立ち尽くした。

「へへ」

 彼女には、やっぱり敵わなかった。


〈11月27日 火曜日〉

 僕に人生で初めての彼女ができてから3ヶ月が経っていた。

 未だに僕のことを彼女が好きでいてくれることに慣れてはいないし、相変わらず可愛さを更新し続ける彼女には恋をしてばっかりだった。

「まこっちゃん、そういえば誕生日いつなの?」

 当たり前のように隣を歩く彼女が、当たり前のように手を繋いでくれていることにも、当たり前のように僕はドキドキしていた。

「来月の25日だよ。」

「え!まこっちゃんクリスマス生まれなの!?」

 そう、僕は恥ずかしながらクリスマスが誕生日で、無論家族以外に祝われたことは一度もなかった。

「じゃあ今年は盛大にお祝いさせて!」

「そんな、お祝いなんていいよ。君におめでとうって言われるだけで充分嬉しいから。」

「それじゃ私が嫌なの!あと、まこっちゃんいつになったら陽花って普通に呼んでくれるの〜?」

 僕は結局、告白の時以来一度も彼女を名前で呼べていないのだった。なんて情けない・・・

「まあ、君って呼ぶのまこっちゃんだけだから、これはこれで特別感あって好きなんだけどさ〜」

 許してくれてしまう彼女の優しさに、僕はとことん救われている。情けない・・・

「ごめんね。頑張ります。」

「謝ることじゃないし、頑張ることじゃないよ、そのままのまこっちゃんが好きなんだから。でもいつか、呼びたくなったらいつでも待ってるからね!」

「ありがとう。」

 ああ、なんて優しい彼女なんだ。僕にこんな幸せが次々起こって良いのだろうかと不安になるくらい幸せだ。僕はもうすぐ死ぬのだろうか・・・


〈12月25日 火曜日〉

 クリスマス当日。僕の21回目の誕生日。

 そして、彼女が僕の家に初めて来る日。

「お邪魔します。」

「どうぞ。」

 もちろん、今まで家に誰かを入れたことはなかったので、やけに緊張した。

 久しぶりに二人で映画を観て、また僕が先に泣いてしまって、それを彼女も泣きながら微笑んでくれた。

 夜ご飯は彼女が作ってくれて、初めて親以外の手料理を食べた。彼女のハヤシライスは、忘れられないほど美味しかった。

 親以外から貰った初めてプレゼントは、センスの良い腕時計だった。

 そして僕らは彼女が買って来てくれたケーキを食べながらお酒を飲んだ。

 今日は、幸せが溢れそうだ。大袈裟じゃない、間違いなく人生で最高の誕生日だ。

 隣に大好きな彼女がいて、楽しそうに笑ってくれている。それだけで、僕は幸せに満ちた。一生忘れたくない日。


 バラエティ番組を観ながら、僕らはかなりお酒を飲んだ。

 彼女は僕の家に泊まることになったが、お酒の魔力のおかげで不思議と緊張もしなくなっていた。ほろ酔いの彼女は、また一段と可愛い。くっついてくる彼女に、僕はまた虜になっていた。紛れもなく、大好きだと、思いながら飲むお酒も一段と美味しかった。

 そろそろ寝ようかと、僕らはベッドに入った。彼女の香りがすぐ横にあって、僕はおかしくなりそうだった。僕の人生ではないみたいなこの幸せを噛み締めていると、彼女が聞いてきた。

「ねえ、もしもさ…もしも私が、明日いなくなるって言ったら、どうする?」

「え?急にどうしたの?」

 僕は隣で寝ている彼女の方を向いた。

 真上を向いている彼女の瞳が少し潤んでいた気がした。

「どうもしてないよ、聞いてみたかっただけ。へへ、私酔っ払ってるなあ。気にしないで、もう寝よっか〜」

 彼女は確かに酔っていた。だけどいつもと様子が違う気がして、少しだけ不安になった。経験のない僕には分からないけど・・・寂しそうな気がした。

「…探すよ。」

「へ?」

「もしも君がいなくなっても、絶対に探す。どんな理由があっても、どれだけ嫌われても、僕は君に…陽花に会いに行くよ。」

「まこっちゃん…名前…」

 僕の方を向いた彼女と、近距離で目が合って、鼓動はさらに早くなった。

「陽花。」

「急にどうしたの…?」

「陽花が変なこと言い出すから。とか言って、本当は酔った勢いかも。やっぱりまだ恥ずかしいね。」

「へへ、本当、私まこっちゃんのこと好きだなあ。」

 愛おしかった。

「僕も、君が好きだよ。」

 僕らはハグをしながら、酔いに身を任せて眠りについた。

 なんとも幸せな感触が、僕の胸の中に広がって、ドキドキした。


〈12月26日 火曜日〉

 翌朝。目を覚ますと、隣に彼女はいなかった。

 彼女が、いなくなっていた。

 突然だった。

 先に帰ったのか?何も言わずに?何かあったのかな・・・

 昨晩の彼女の急な質問を思い出して、僕の中に不安が広がり、胸騒ぎがした。


 僕は後悔した。一番近い言葉で表すならば、僕は心底後悔した。こんなにも喪失感を味わったことが、僕の平凡な人生の中で一度でもあっただろうか。いや、ない。

 僕の心を嵐のように奪い去った君は、もういない。

 どんな理由があっても、どれだけ嫌われても、僕は彼女を探し出して会いに行くと言っていたのに、僕の携帯から彼女の連絡先がなくなっていて、大学の先生に聞いても彼女の存在を知る人がいなくなっていた。急いで彼女の家に行ったら、別の人が住んでいた。僕には理解ができなかった。こんなこと、映画でしかない展開だ。

 出会ったこと自体が幻か、全て僕の妄想だったのか。僕には真実を知る術がなかった。不安になって、もしかしたらこの記憶も失くなってしまうのではないかと、悪い方向へ想像が進んで行った。僕はひとまず、彼女との記憶を書き留めることにした。思い出せる限り詳細を、その時の感情も言動も、隅々まで。

 初めて出会った日のこと。初めて隣を歩いた日のこと。初めてデートした日のこと。初めて一緒に酔っ払った日のこと。彼女を抱きしめた時のこと。初めて花火大会に行った日のこと。元彼に遭遇してしまったこと。彼女から告白された時のこと。僕が告白した時のこと。彼女が、僕の初めての彼女になった時のこと。彼女と初めてキスをしたこと。誕生日をお祝いしてもらったこと。初めて彼女の隣で眠ったこと。そして、彼女が、いなくなったこと。

 書き出してみたら、僕には夢のような日々だった。とても僕が妄想した話とは思えなかった。人と関わらずに生きていた僕からは、到底生まれることのない出来事ばかりだった。

『もしも私が、明日いなくなるって言ったら、どうする?』

 彼女は僕にどうしてほしかったのだろう。彼女がいなくなったなんて、信じたくもない。探したいのに、探す方法が思い浮かばない。ちっとも頭が回らない。


 その時僕はふと、彼女がいつの日か言っていたペットショップを思い出した。僕が知らない間に彼女に初めて会っていた場所。


 一度しか行ったことがなかったけど、場所ははっきり覚えていて、僕はいろんな可能性に賭けてお店に走った。

 お店に入って僕は驚愕した。

「いらっしゃいませ」

 そこに、彼女がいたのだった。まるで他人かのように、何事もなくお店の作業をしていた。ドッキリにも見えない彼女の様子に、僕はどうして良いか分からなかった。

 ペットたちが入ったゲージを見ると、あの日と同じ柴犬がそこにはいた。

 もしかして・・・

 僕は頭では何も理解していなかったが、とりあえずあの日と同じように、柴犬を眺めることにした。

 何かが、変わるかもしれない、と信じてみたかった。

「好きなんですか?」

 横から、あの大好きな落ち着いた声がした。

 やっぱり、彼女だった。

「柴犬飼ってるから、つい見ちゃうんです。」

「そうなんですか、可愛いですよね。」

 ああ、彼女が、ここにいる。

「好きなんです。」

 僕は彼女を見て、はっきり言った。

 どういうことか全く分かってないけど、自然と言葉が出てきた。

「橘陽花さんが、好きなんです。」

 言うまでもないが、彼女は驚いていた。気持ち悪がられたかもしれない。だけど、これが合っているような気がした。

 彼女の表情がコロコロ変わって、見ていて飽きなかった。びっくりして、嬉しそうで、不思議そうで、恥ずかしそうで。僕は彼女を失いたくない、と目を瞑るように願った。


 だから、僕は安心した。一番近い言葉で表すならば、僕は心底安心したんだ。

 目を開けると僕の隣には、彼女がいた。どこからどこまでが夢だったのか、もう考える余裕はなかった。ただ、彼女を強く抱きしめた。

「まこっちゃん…?どうしたの?」

 寝ぼけ眼で僕を見つめる彼女が、たまらなく愛おしかった。

「もし…もし君がいなくなっても、僕はまた出会いからやり直して、何回でも恋をして、君を、幸せにしたい。だから、どうか、僕の傍にいてほしい。」

「まこっちゃん、ありがとう。私も、まこっちゃんの傍にいさせてほしい。」

「陽花。」

 僕らは強く抱き合った。





 いつか別れるかもしれない。嫌われるかもしれない。飽きられるかもしれない。僕の好きと彼女の好きに差が生まれてしまうかもしれない。本当はいつだって怖くて、不安でいっぱいだ。手放しそうになる時もあるかもしれない。だけど、本当の気持ちは失ってから気づくんだ。絶対に失いたくないと。失ってからじゃ遅い。失いたくないと思う幸せは、かけがえのない、守るべき幸せなんだ。

 僕は彼女に出会って、失いたくない幸せに気づくことができた。

 人と関わらなかった僕が、彼女と関わって、変わったんだ。

 好きなものを、好きな時に、好きな人と、好きなだけ。そんなありふれた日常こそが幸せで、そんな幸せな人生に、隣にいてくれる彼女に、そして僕を生かしてくれているすべてに、心の底から感謝した。


不慣れで読みづらい文章だったかと思いますが、最後まで読んでくださり有難うございました。

作者が伝えたいことは、ありきたりだったかもしれません。でも誰かと関わることが、自分の存在を証明してくれている、自分を生かしてくれていると、この作品を通して改めて気づきました。もしも私が、明日いなくなったら。自分の大切な人が、明日いなくなったら。きっと、もっと、守れると思います。ありふれた日常を、かけがえのない幸せを。



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