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短編

海神の唄

作者: 天童美智佳

挿絵(By みてみん)


テーマソング「海神の唄」

https://m.youtube.com/watch?v=nSkh12RGyiA

 思えば、あの海辺で過ごした日々が、私の人生で最も幸せな時間だったのかもしれません。頰を撫でる潮風、優しく光る月、どこまでも続く紺碧の海。あの夢のような時間を与えてくれたと思うと、あのとき私の腹のなかに巣食っていた悪しき生き物でさえも、愛おしく思えてくるのです。


 あの海に向かうことを決めたのは、夏休みが終わり、中学校が始まってしばらくしてからのことでした。ひぐらしの鳴く晩夏、肌に張り付く暑さと暗澹たる心地に背中を丸めて帰宅したときに聞いた母の言葉が、身体を氷の剣のように刺し貫いたときの感触を、私は永遠に忘れることができないでしょう。

 私の両親は、少し厳しいところもありましたが優しい人たちでしたし、私のような人間には望むべくもないような満ち足りた環境を私に与えてくれました。衣食住に困ったことは一度もなく、塾や習い事にも嫌な顔ひとつせず行かせてくれ、休みの日には色々なところに連れて行ってくれました。幼少期から人と関わるのが苦手でかなり手のかかる子供だった私に辛抱強く付き合い、少なくとも表面上は社会に溶け込むことができるよう育ててくれました。私は両親が私を気にかけてくれていることを常に感じていましたし、それが幸せなことなのだと知っていました。だからこそ、私はこれから行う最低の親不孝を詫びなければならないと思うのです。

 私は元来、子供は親の、ひいては社会の投資対象のひとつに過ぎず、愛情や教育は成長に必要なものとして与えられているだけで、お金を貯めることと同じ、将来への安全策に過ぎないと考えていました。ですから私には、老いた親や未来の社会を支える義務があるのです。少なくとも与えられたぶん誰かに返さねばならないのだと、私はそう思っていました。私のせいでひとつの家庭が崩壊しかかっていたと知るまでは。

 両親が、社会が私のために払ってくれた代償を思うと、申し訳ない気持ちで胸が一杯になります。けれど、腫れ物はできるだけ早く切り取らなければならないものです。私のように毒を撒き散らし、周りに災いをもたらす前に。私にひとつ不幸があったとしたら、自分が家族の、社会の癌であると気づくのが遅すぎたことでしょうか。そのために私は、一番大切だったはずの家族の笑顔さえ失ってしまったのですから。

 弱い私は未来に向き合うことより、過去に逃げることを選びました。暗黒の海で踠くことより、月影に照らされた水晶宮を目指すことを選びました。私の選択を間違いだと言う人もいるでしょう。それは仕方のないことです。太陽のない空を見上げて絶望するより、揺蕩う海月の夢を見るほうが、無知で無力な私には容易かった。ただそれだけのことなのです。

 覚悟を決めてからの私の行動は、驚くほど速かったように思います。コツコツ貯めていたお小遣いを下ろし、東北地方に向かう新幹線の切符を買った次の日には、小さなノートと万年筆、お財布だけを入れたポシェットを下げて、人影も疎らな始発電車に乗り込んでいました。早起きは苦手でしたが、背に腹は代えられません。平日の昼間に彷徨いて補導されたりしてはなりませんし、学校ではないところに行くのを両親に気取られてもいけません。良くないことというのは、人目を避けてひっそりとするものです。家を出るときは、物音を立てないように細心の注意を払いました。人に顔を見られないように、つばの広い帽子を被ってずっと俯いていました。万が一にもこの旅を阻止されるようなことがあれば、私は地獄に落とされるより恐ろしく、何千もの衆目に晒されるより恥ずかしい目に遭うような気がしたからです。

 列車が鈍い音を立てて動き始めると、私は少し気を抜いて、さきほど自動販売機で購入していた、歯が溶けそうなほど甘いロイヤルミルクティを啜りました。昼間は厳しい残暑に見舞われる東京も、早朝はワンピースと上着一枚だけでは肌寒いくらいです。薄着で出てきてしまったことを少し後悔しましたが、旅の門出は些細な失敗なんて簡単に吹き飛ばしてしまうほど素晴らしいものでした。朝日に照らされてきらきら光る細かい塵が車内を舞い、見たことのない色鮮やかな景色が車窓を流れていくのを眺めていると、私は空でも飛んでいるかのような気分の高揚を感じました。小鳥たちしか目覚めていないような朝早くに家を抜け出して、虫歯になるからと普段は飲ませてもらえない甘ったるい飲み物を好きに飲んで、古めかしい赤いベルベット張りの長椅子が並ぶ空間にひとりきり。自分の部屋に籠ってばかりいた私は、外の世界というものがこんなに心躍るものだと知りませんでした。両親にいろいろなところに連れて行ってもらったときも勿論楽しかったですが、上高地の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだときですら、こんなに晴れやかな気分になったことはありません。しばらく考えても、私にはこの気持ちの正体がわかりませんでした。数駅行ったところで別の乗客が乗り込んできても、それは消えませんでした。新幹線への乗り換え地点にたどり着くまでの間、私はその不思議な気持ちをブルーブラックのインクでノートに書き留めておりました。今更そんなことを書いてどうするのだと思わないこともありませんが、手を変え品を変え、素敵なものをいつまでも残しておきたがるのが人間だと思うのです。もう誰の目にも触れないとしても。

 乗り換え地点の駅をさ迷いやっと新幹線の改札口を発見したときには、朝陽は高く昇っており少し人目が気になるようになっていました。少々の水と食糧、お菓子をキヨスクで調達すると、私は素知らぬ顔をして駅員の前を横切り、あっさりと改札を通り過ぎてホームへの階段を駆け上りました。長い階段に吐息を重ねれば、全身にほんのり汗が滲みます。想像していたより小さな流線形の車体に駆け込み、眠っている乗客ばかりの車内を移動して窓際の指定席に腰掛けると、クーラーから吹き出す風が火照った体を冷やしてゆきました。汗でぺたぺたする上着を脱いで膝にかけ、あんパンを頬張りながら発車を待っていると、腕時計の針はいつの間にか午前七時を指していました。七時といえば、いつもは寝坊助の私を父か母が起こしに来てくれる時間です。と言っても、最近はあまり来ないのですが。だからきっと、私がいなくなったことにもまだ気が付いていないでしょう。できればずっと気づかないでいてください。優しいあなたがたを悲しませたくはないですから。

 いいえ、これは本心ではありませんでした。私が悲しませたくないのは私自身です。私がいなくなって両親が胸を撫で下ろしているのではないかなんて、二人が聞いたらカンカンに怒るであろう妄想を私はずっと捨てられずにいるのです。私は誰も手の届かないところに行こうとしながら、その実、引き留めてもらいたくて仕方がないのかもしれません。ですが、私はそれを恥じてはいませんでした。なりたくて癌になる細胞はないからです。周囲に迷惑をかけるだけの害悪になってしまったことは恥じるとしても、生きたいと願ってしまうことを否定することは誰にもできないと思うのです。それは、幼い頃に私の腹のなかにできた腫瘍だって同じでしょう。彼だって、本当はもっと長く生きたかったはずです。あまりよろしくない場所にできてしまった彼はちょっとした手術で切除され、私は傷痕と引き換えに健康を取り戻したわけなのですが、それと同じようなことが社会にも必要なのではないかと、私は思っています。つまり、ある程度の数の人間が集まれば必ず、おかしくなって周囲の人間やひいては社会全体に仇なす疫病神が現れるので、何かしらの手段を用いて彼らを滅さねばならないのではないかということです。どういう人間がそうなのか、その処遇をどのようにすべきかなどは私にはわかりかねますが、そういう自浄作用はどこにでも必要なはずです。生きることというのは本来利己的なことであり、全くもって善行しかしない人間などいるはずがないし、それで構わないのです。けれど、他人に害しか与えない存在がいたとしたら? たとえば十数年も育ててもらいながら親に悪影響しか与えられず、社会に貢献するには無能すぎる私に、生きる価値はあるのでしょうか? きっとないでしょう。だからこそ私はここにいるのです。一番悪いのは、悪いという自覚がないことです。私は、私のテストの出来のせいで両親の仲が拗れても、私を心配するあまり母が心を病んでも、まるで気にしないような冷たい人間なのです。なお悪いのは、私が自分の冷たさを歯牙にもかけなかったことです。それに気が付いたときも、私は何ら対策を取ろうとはしませんでした。だからこそ、仲睦まじかった両親を諍いが絶えないほど険悪な関係になるまで追い詰めてしまったのでしょう。言葉ではなんやかんやと喚いていますが、私は結局自分のことしか考えていないのです。

 人に与える優しさもなく、身を立てる程度の能力もない。そんな人間はいずれ破滅するに決まっています。だから私は、これ以上社会が資産の運用に失敗する前に私という投資先をなくしてしまおうと思っているのです。私はこれ以上苦しまずに済みますし、社会は無駄遣いを減らせるというわけです。私が癌より幸せなのは、自分の運命をある程度自分で決められることです。考える力と動く身体があるならば、社会を害する必要も制裁に怯える必要もない。自分の未来を自分で決められるのは実に恵まれたことです。

 小さく割ったミルクチョコレートをつまみながら思考に耽っていると、時間は矢のように過ぎていきます。あっという間に遠ざかっていく家々や何か大きな建物を眺めながら、私はこの旅の終わりが近いことを感じていました。あと少し、あと少しで、あの場所に辿り着ける。そう思うと、凍り付いたはずの心臓が僅かに脈打ったような気がしました。

 新幹線を降りて海沿いに向かう鉄道に乗ると、私は再び帽子を目深に被りました。新幹線のような、人が沢山いる上にみんな寝ていたり新聞を読んでいたりして注意散漫な場所では誰も私のことなど気にしないのですが、人が少なくなるとそうもいかないだろうと思ったからです。今ほど、目立たない地味な顔立ちで良かったと思うことはありません。少々痩せ過ぎているとはいえ、特別美しくも醜くもない顔が付いているだけでどこにでもいる普通の人に見えるからです。目当ての駅に到着して、もはや改札ですらないようなプラットホームからの出入口を通ったときも、駅員は気にも留めませんでした。

 問題はこれからです。あの場所は鉄道の駅から遠く離れたところにあるので、車を使わざるを得ないのです。予め調べておいた番号に公衆電話から電話をかけてタクシーを呼ぶと、私は駅前のベンチに座り、少しでも人相を変えようと髪を弄ったり、背筋をピンと伸ばしてみたりしました。ふと見上げると、涼しげなソーダ水色の空に綿菓子のように真っ白い雲がゆっくりと流れていました。爽やかな空気と柔らかな日差しに、私は思わず笑みを零しました。

 少ししてロータリーに現れたタクシーは、ぴかぴかに磨き上げられた黒塗りのセダンでした。運転手は白髪混じりの優しげなおじさまで、客が年端もいかない小娘だと気づいて驚いた様子でしたが、特に何か詮索することもなく乗せてくれました。どちらに向かいましょうかと訊かれた私は、今は廃業しているある病院の名前を口にしました。あそこはもうやっていませんがよろしいですかと言われると、近くに祖父母の家があるのですが、付近の道が狭くて車で行くと迷惑になってしまうのですと言って誤魔化しました。これはあながち嘘ではありませんでした。二人とも私が物心つく前に他界してしまっていて、今は空き家になっていることは内緒ですが。

 運転手さんはそれで納得してくれたようで、セダンは優美なエンジン音を立てて走り出しました。ふかふかのシートに身を沈め、心地良い振動に目を細めていると、旅の疲れが出たのか、私はいつのまにかぐっすりと眠り込んでいました。普段悪い夢ばかり見る私ですが、このときは誰かが目隠しをしてくれたかのような優しい闇しか見ませんでした。

 目が覚めたとき一番初めに感じたのは、生温い潮の香りでした。窓ガラスの向こうを見覚えのある海岸線が走っていくのが見えて、私はあの場所がもうすぐであることを知りました。そのときになって初めて、私は期待と同時に不安を覚えました。思い出のなかのあの場所は、何処よりも優しく温かい場所でしたが、何せ十年も訪れていないのです。私は既に忘れ去られているかもしれません。けれども、私はもう引き返す気にはなれませんでした。古いお友達にやっとの思いで会いに来て、家の前で帰ってしまうお馬鹿さんがどれだけいるでしょう。お勉強はからきし駄目な私ですが、そこまで愚かではないつもりです。

 そうこうしているうちに、セダンは病院の前についてしまいました。お金を払ってタクシーを降りると、私は仄青いコンクリートで建てられた病院の入口に立ち、懐かしいその姿をじっくりと見つめました。私がこの街を去ってから十年経った今も、その建物は美しいままでした。ひび割れていたり、薄汚れて灰色になってしまっているところもありましたが、それが却って私の郷愁を誘うのです。真昼の太陽の下でひっそりと佇む廃墟は、ただいまと言えばおかえりと返してくれそうでした。帽子を取り、半開きの自動ドアをすり抜けて室内に入ると、静まり返った薄暗い廊下を白いナース服を着た看護師や白衣の医者がまだ忙しなく行き交っているような気さえします。放置された古い車椅子には綿毛のような埃が積もり、剥離したタイルの欠片がそこら中に散らばっています。数歩先にある診療室には、朽ちかかった薬袋や白いシーツがかかった寝台、皺くちゃになった雑多な書類がありました。少し奥まったところにある緑色の冷蔵庫には、ラベルが汚れて読めなくなってしまったプラスチックの容器や黴が生えた紙箱が残っていました。続く手術室には、かつて私もお世話になったはずの多くの品々がありました。無影灯つきの手術台を取り囲むように、何やら難しそうな器具が沢山。それらは古ぼけていても目立った損傷はなく、電源さえあれば動きそうな気さえしました。壁に埋め込まれるように設置されているガラスの棚には、メス、鉗子、ピンセットなど、ドラマなどでお馴染みの手術道具が整然と並んでいます。木箱に入った注射器も傷ひとつなく保存されていました。ここはきっと戦跡であり、博物館であり、美術館なのです。人間の生と死がこれほど強く薫っている場所を、私は他に知りません。

 一階を一通り見て回ると、私は階段を上って二階の右端の病室を目指しました。その個室は私が手術の前後を過ごしただけでなく、母が私を生んだときに入院していた病室でもありました。はやる気持ちを抑えて静かに足を踏み入れると、私は視界に広がる光景に強烈なデジャヴュを覚えました。同時にこの部屋で過ごした日々が鮮明に蘇ってきて、私はボロボロの固い寝台に腰かけて目を瞑りました。手術の前もその後も、私の手を握りしめて一生懸命励ましてくれた両親。あのときの私は、確かに愛されていました。あのときの私は、確かに幸せでした。痛みなどは喉元を過ぎれば忘れるもので、もう一度同じ日々を過ごせるのなら腹の傷痕などいくつこさえても構わないとすら思います。悲しいことに、両親の記憶には一番大変だった時期として記憶されているようですが。

 入院中、宵っ張りだった私を寝かしつけるために母がしてくれたおとぎ話のなかにこんなものがあります。昔々、このあたりの漁村全体が厳しい不漁に見舞われた際、村の乙女ひとりを海神に捧げ、豊漁を祈ることにしたのだそうです。選ばれた乙女は、重い病気に罹っていた身寄りのない少女だったそうです。海神はそんな乙女を不憫に思ったのか、海に沈められた乙女を宮殿に迎え、不思議な唄によって病を癒やしたというのです。その証拠に、月の青い夜に耳を澄ますと波音の狭間に今でも海神の唄を聴くことができるそうです。今となってはこの話には疑問符しか浮かばないのですが、当時の私はこの話を真に受けて、お腹のなかの悪いものを消してくださいと月に向かって祈ったものでした。瞼の裏には、病室の窓から見たまん丸い月影が焼き付いています。紺碧の海が月の光にきらめき、潮風が白いカーテンを揺らしていた夜、私は奇跡を信じていました。

 ふと目を開くと、いつの間にか太陽が傾き始めていました。少しゆっくりし過ぎたようです。私は足早に階下に降りて先ほど見つけていた薬品庫にお邪魔し、残されていた睡眠薬ひと箱と無水エタノールの瓶を拝借しました。外に出ると、ちょうど風が出てきたところでした。増えた荷物をポシェットに詰め込むと、私は最後の目的地に向かって誰もいない砂浜を歩き始めました。湿った空気が急に冷たくなり、一雨来そうだと思ったときには、既に大きな水滴が頬を叩き始めていました。今更雨宿りをする気にもならず、私は雨に降られるままになっていました。華奢なサンダルは水を吸った砂にまみれ、白いワンピースは濡れて冷たく重くなっていきます。陽はすっかり沈んで、雲の切れ間から月が見え隠れしていました。震える肩を抱きしめながら、私は父を怒らせて家から追い出された雨の夜を思い出していました。怒声と拳に怯え、血と涙でぐちゃぐちゃの顔を雨粒で洗った幼い日の心細さが、痛いほどの倦怠感に支配された身体から更に力を奪っていきます。私は、本質的にはあの夜から何も変わっていないのかもしれません。

 足の感覚がなくなってよろめき、私は砂の上に膝をついて唇から赤黒い液体を溢しました。鉄臭い唾を吐き捨て、地を這うようにして波打ち際に向かうと、ひと箱分の睡眠薬を水で薄めたエタノールで喉の奥に流し込みます。腹のなかが燃えるように熱くなり、反対に頭は凍ったように冷えていきます。気がつくと私は呆けたように笑っていました。今ならわかります。私は生まれてくるべきではなかったのです。母はあの日、私さえ生まれて来なければと言っていました。私は母の腫瘍だったのです。私は生まれる前から社会の癌だったのです。

 霞む瞳を見開いて、私は天上の月を呪いました。あんなに祈ったのに、何故あなたは青くなってくださらないのですか。私は海神をも呪いました。私のせいで世界が病んでいるのに、何故あなたは唄ってくださらないのですか。

 わかっています。悪魔が神に祈ったところで願いなど叶うはずもありません。願望とは自力で実現するものです。そのために、私はサンダルを脱ぎ捨てて砂の地面を踏みしめ、最後の力を振り絞って立ち上がりました。

 骨ばかりの虚弱な手足に鞭打って風を切り進み、私は身を裂くほどに冷たい夜の海に入っていきます。生まれては消える白い泡沫は手向けの花のように全身を飾り、波のさざめきは密やかな鎮魂歌を奏でてくれます。押し寄せた波に身を任せれば、私は頭から食われるようにして黒い水に飲み込まれ、海の腕に抱かれて沈んでいきました。呼吸をすることができなくなっても、不思議と苦しくはありませんでした。

 月光に照らされた海のなかの景色は、それは綺麗なものでした。輝く鱗の道を残して去っていく小魚の影、透き通った細い腕を嫋やかに揺らしている海月、空を映す鏡のような水面。美しいものたちはどんどん遠ざかっていき、私は何もない暗闇に引きずり込まれていきました。肺に残った空気を吐き出せば、透明な泡のレンズ越しに青い月が覗いた気がして、私は目を閉じて耳を澄ましました。身体に纏わりつく水は何時しか私の肌よりも温かくなり、とろりと粘性を帯びていました。羊水で満たされた胎内に似た温かさと暗さ、安らかな静寂に包まれて、私は深い眠りに堕ちていきます。意識を失う最後の一瞬、焼けつくほどの熱を感じて瞼を上げると、真珠のように光る玉が塩辛い水に溶けていくのが見えました。何が何だかわからなくなった今では、それの名前すら思い出せませんでした。

 もし海神が世界ではなく私に奇跡を与えてくれたとして、私はきっと首を振って沈んでいったでしょう。救われたいなど、私には過ぎた願いなのですから。

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