序章(6)
翌日、エルカたちは食堂でちまちまと朝食のパンを食べていた。既に、早い者は食堂をあとにし、地下の大部屋へと向かっている。いつもなら三人とも食べ終わり次第席を立つのだが、今日ばかりは違った。脱出するところを見られないよう、あまり目立たないためには、部屋を出るのは遅いほうが良い。
ちまちまちまちまと食べていると、いつの間にか〝お偉い様〟方は去り、食堂に残っているのも数人となった。「なぁ、」とロットが言う。
「どうして見張りがいないんだ? いつもなら必ず誰か一人が残っているはずだろ?」
「あ……」
確かに、とエルカは思った。普段なら最後の一人が食堂を出るまで〝お偉い様〟のうち誰か一人はここに残り、そして誰もいなくなったことを確認すると食堂を出ていくはずだ。しかし、今日は誰もいない。もしかしたら昨日も。そうでなければ、エルカが魔法を使って壁を壊す現場に誰かが居合わせるだろう。そうでなければ監視の意味がない。エルカがあのまま地上まで戻り、そこの玄関から脱出したのならば、どうするつもりだったのだろうか。
……嫌な予感がした。緩い監視。もしや、本当は監視など必要ないほどの脱出防止策があるのではないだろうか。〝お偉い様〟の監視はただの威圧だけで、実際は意味のないものなのでは。だから罰は重いにも関わらず、あまり監視は厳しくないのではないのだろうか。そんなことを思ってしまう。
つぅ、と、冷や汗が背筋をつたった。鼓動が激しくなるが、指先に血液が巡らない。血の気が下がり、不安が身を包んだ。もしそれが本当で、脱出できず捕まってしまったら。そうなってしまったら、おそらく鞭打ちだけでは済まないだろう。下手をしたら殺されてしまうかもしれない。
それならば、脱出なんてしないほうが……そう思ったとき、「エルカ」と呼ばれる。そちらを見れば、ニノが厳しい目でこちらを見ていた。
「行くよね?」
正直、かなり恐ろしい。自分のわがままのせいで二人を死なせてしまったら、と思うと、目の前が真っ暗になりそうだ。
だけど、エルカは頷いた。ここにいたところで、なにも変わらない。ただひたすら怯え続け、消費される日々。そんな生活が耐えられそうにないから、脱出を決意したのだ。覚悟は、できている。
するとニノは少しだけ口元を緩め、立ち上がった。彼女の視線は食堂の出口へ向いており、エルカもつられてそちらを見れば、ちょうどバタバタと慌ただしげに何人かの少年が出ていくところだった。間もなく〝作業〟の時間だからだろう。彼らの表情は少しだけ青ざめている。
ガタ、と音がして視線を戻すと、ロットが立ち上がったところだった。少し乗り気ではないようだったが、彼はこちらを見て、「行くぞ」と言う。
エルカは大きく頷き、立ち上がった。しっかりとした足取りで食堂を進み、部屋の外に出る。そして緩やかな下り坂となっている廊下を進み始めた。
あの場所に近づくにつれ、ドクドクと心臓がやかましくなっていく。手汗も滲んできて、貫頭衣の裾で拭うハメになった。緊張がひどく煩わしい。
そして――とうとう、そこに着いた。まっさらな、他となんら変わりないように見える、壁。だけどここに来てからの二年間ずっと似たような壁を見ていたから、見分けは簡単についた。
そっと二人を振り返る。二人とも真剣な眼差しをしていて、覚悟はできていた。そのことに少しだけ安堵しながら、エルカは壁に触れ、魔法を使う。その瞬間、音を立てて壁に穴ができた。一人がなんとか四つん這いになって進むことのできる程度の直径の穴だ。それを奥に三メートルほど掘り、出てきた土は廊下に捨てると、穴の中に入りこむ。そして突き当りまでに行けば、また魔法を使って同じくらいの長さの穴を掘った。
そうやって、少しずつ進んでいく。後から二人もついてきていて、最後尾のロットが、エルカが穴を掘り進めるたびに脇に寄せた土で、通り過ぎた道を埋めていった。だけど壁の穴は、三人とも小さなヒビは直せても、あれほど大きなものとなると直すことができないため、そのままになっている。脱出がバレるのも時間の問題だろう。〝お偉い様〟の中に魔法使いはいないためなんとか逃げ出せるだろうが、やはり脳裏には不安がチラついていた。本当にこのまま進んでもいいのか。あのまま暮らしていたほうが良かったのではないだろうか。そんな不安が精神を苛む。
そのとき、「エルカ」とニノに呼ばれた。「なに?」と前を向きながら尋ねる。
「そろそろ地上に出よう。もう結構来たから、大丈夫だと思う」
「俺も」
さらに後ろから、ロットの声が聞こえてきた。それなら、ということで、エルカは今ある穴の奥まで行くと、今度は上に向けて穴を掘った。勢いよく土が落ちてきて、思わず目を瞑る。
「エルカ!」
ニノの悲鳴じみた声が聞こえた。だけど返事をする余裕はなくて、ただ落ちてくるとてつもない量の土に耐える。忘れていたが、穴を掘れば土は自然と下に落ちるのだ。穴の下にいれば、埋もれてしまうのは必然。
やがて崩落が終わると、ゆっくりとまぶたを押し上げた。周囲が全部土に埋めつくされていて、苦しい。どうにかこの状況から脱出しようとしたが、意外と重く、なかなか抜け出せない。このままでは死んでしまう。闇雲に体を動かそうとしていると、突然右腕を掴まれた。ぐいっと引っぱられ、指先が土の外へと出る。よかった、と安堵しながら、エルカは軽く魔法を使って体の近くにあった土をどかし、外へと出た。
ぷはっ、と口を開き、いつの間にか止めていた息を再開させる。鼓動がひどくやかましい。腰から力が抜け、エルカは狭い穴の中でへたりこんだ。しばらくは休んでいたい。
しかし、そうはいかなくて。
「エルカ!」とニノに呼ばれて顔を上げると、すぐ目の前に彼女の顔があった。その瞳にはうっすらと涙の膜ができていて、眉が下がっている。心配をかけてしまったとすぐに分かる表情だった。
「ごめん」
「……無事なら、いいよ」
そう返され、エルカは胸をなでおろした。そういえば、最近こんなことばかりな気がする。気をつけないと。特に今は逃げ出している途中だから、三人で無事に逃げ出すためにも、不用心な行動は避けなければ。
エルカが密かに決意を新たにすると、「それにしても、これじゃ、上に出れないよな」とロットが言った。彼の視線を追うと、土で埋まってしまった上への穴がある。
鬱々とした空気が三人のあたりに漂った。そのとき、ニノがパン! と手を合わせる。
「じゃあ、緩やかな上り坂になっている穴にすればいいんじゃない? ほら、〝塔〟の廊下みたいに」
「ああ、それなら埋められないね」
「でしょ?」
ニノが笑う。いつでも明るく、前向きな彼女。そんな一面に、エルカはよく救われてきた。初めて会ったときだって――。
そこまで考えて、小さく頭を振る。過去に思いを馳せることはいつでもできる。今は目先のことに集中しなければ。
そうして、三人はエルカを先頭に、地上を目指して再出発をした。