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序章(5)

 食堂で、三人で固まってパンを食べながら、エルカは口を開いた。


「ここから逃げよう」


 その瞬間、二人の表情が固まった。咀嚼が止まり、ぽかん、と間抜けな表情でこちらを見てくる。

 そんな二人の目を、エルカはじっと見つめた。ここで笑えるほど、脱出は簡単でないことは分かっている。魔法を上手く使えず、しかもあまり種類を知らない三人が逃げたところで、〝お偉い様〟の目をごまかすことなど、ほぼ不可能に違いない。しかも、三人とも〝塔〟生まれ〝塔〟育ちだ。魔法使い以外の人々がどのように生活しているのか分からないし、そんな人々に混じって暮らして、追っ手に見つからず、平穏に暮らせるとは思えない。

 それでも、逃げたかった。二人を助けたかった。

 ……しばらくして、「はは」とロットが笑う。引きつった笑顔で、ありえない、と目が雄弁に語っていた。


「何を言ってんだよ、エルカ、そんなこと――」

「見つけたの。脱出できる場所。私は、このままでいたくない」


 ロットの言葉を遮って、言った。彼はしばらくこちらを見たあと、つい、と目を逸らし、後頭部をガシガシとかき混ぜた。はぁ、と大きなため息もつく。呆れているらしい。

 そのことにかすかな苛立ちを覚え、「ちょっと」と声をかけようとした。

 だけどその直前、別の方向から声が発せられる。


「ねぇ、エルカ、どうしてここから出たいって思ったの? ロットは三十になるまでは無理だけど、女の私たちはあと五年で出られるんだよ? ここで無理に逃げ出すよりも、待ったほうが確実じゃない?」


 ニノがこちらを見て、訊いた。その瞳は真剣そのもので、もしかして彼女もここから逃げ出したかったのかもしれない、と思った。あえて待つほうがいいと提案するのは、彼女もそう考えて、断念したからか。

「ニノ」とロットが呼びかけた。彼は信じられない、とでも言うような顔で彼女を見ていた。唇がわなわなと震えている。

 ニノはエルカから視線を逸らすと、彼を見た。唇が動く。


「ロット、あのね、私だって逃げ出したかった。外の世界では、私たち以外の人々が幸せに過ごしているんだよ? どうして私たちだけ、こんなところで、虐げられないといけないの?」

「それは……」


 ロットが口ごもる。反論が思いつかないようで、つ、と視線を下へと向けた。短い髪がぱらりと揺れ、彼の瞳を、感情を覆い隠す。

「エルカ」とニノに呼ばれた。彼女に目を向ければ、澄んだ紫色の瞳とぶつかる。どきりとした。彼女の瞳に浮かぶ感情は、決意は、刃よりも鋭く、危ういものだった。脱出に向ける覚悟は、エルカのものよりも重いかもしれない。そう思ってしまうほど、彼女のまとう空気は重たく、冷静で、だけど高揚感にも満ちていた。

 ゆっくりと、彼女が声を発する。


「覚悟はある? 勝算は?」


 その言葉にエルカは目を閉じ、すぅ、と深く息を吸い、そして慎重に、細く長く吐いていく。肺を空っぽにして、心臓を落ち着けた。頭も冷え、まぶたを押し上げる。

 ニノがこちらを見つめていた。彼女へ向けて、言う。


「勝算は、正直分からない。だけど覚悟はあるよ」


 そう言うと、ニノは小さく口元をほころばせた。「そっか」と、目を伏せ、どこか嬉しげにつぶやく。そしていつの間にか食べる手を止めてしまっていた固いパンにかじりついた。彼女にしては珍しく勢いよくパンを口から離してちぎり、咀嚼し始める。おそらく、これから脱出することを了承してくれた。そのことにほっと息をつきながら、エルカもパンを持つ手を上げ、口に含んだ。噛みちぎって口を動かすが、ただひたすら固くて、味はしない。いつものことだが、思わず眉根が寄ってしまった。きっと外にはもっと美味しい食べ物が溢れているのだろう。それがひどく羨ましい。


 そのとき、バン! と音が鳴った。テーブルが跳ねる。

 エルカは慌ててロットのほうを見た。彼は顔を歪めながら、立ち上がった状態で「ちょっと待てよ!」と、食堂中に響くような声で叫ぶ。すぅ、と大きく息を吸って、さらに大声で何か言おうとしたロットの口を、隣に座っていたニノが急いで立ち上がり、ふさいだ。「待つのはあなたよ!」と、鋭く囁く。


「こんなところで大声出さないの! 見咎められちゃう」


 それを聞いて、エルカはあたりを見回した。多くの貫頭衣を来た人々がこちらを迷惑そうに見ており、その中にはちらほらと、壁際に立つ〝お偉い様〟のものが混じっていた。ロットを――というよりは三人を注視しており、これからなにか問題を起こした場合に備えてか、みな腰に差した鞭に手をかけていた。好戦的にニヤニヤと笑っている者もいる。ずっとこうしていては問題児扱いされ、常に見張られるようになり、脱出が難しくなってしまうだろう。


「ロット」と呼びかけた。彼のほうを見つめる。すると彼もまたこちらを見つめてきた。次第に、こげ茶色の瞳の中で揺れる感情が沈静化していき、やがて落ち着いたのか、彼は大きくため息をついてどかっと椅子に座った。ニノは彼が動き出す直前にぱっと手を離し、座るのを見届けると安堵の息をついた。数歩進んで、自らの椅子に座る。


 エルカもゆるりと口元を緩めた。とりあえず目をつけられる展開にはなっていないようで、良かった。

 そのとき、「エルカ」と呼ばれる。ロットだ。顔を上げてわずかに首をかたむければ、彼はもごもごと口を動かし、尋ねてくる。


「それで、どんな計画なんだよ。場合によっては、協力する」


 あまり乗り気ではないような声色だった。それでもこうして尋ねてきたということは、ほんの少しは脱出のほうに心の天秤がかたむいているのだろう。どんな思考回路で結論に至ったのかは分からないが、少しでも乗ってきてくれて、本当に良かった。彼をここに置いていくことなんてしたくない。

 ほっと息をつきながら、エルカは口を開いた。


「実はね、地下の壁の一部に、なぜか魔法を無効化しないところがあったの。だから明日の朝食後、そこの壁を壊して出て行く」


 沈黙がおりた。「……それだけか?」とロットが口にする。

 エルカは頷いた。確かに、「それだけ」とも言えるだろう。だけど、


「私たちは外のことをほとんど知らない。だからこれくらいの計画で、あとはその場その場で対応すればいいと思うの」

「確かに……」


 ロットの隣で、ニノが同意を示す。そのことに、エルカは胸をなでおろした。自分一人で考えたことだったから、本当に正しいのか自信がなかったのだ。だけどニノが賛成してくれたのならば、これでも大丈夫だろう。

 そう思ったとき、はぁ、と、わざとらしいため息が耳を打った。そちらを見れば、ロットが額を押さえて下を向いている。ゆっくりと、彼の唇が動いた。


「ちょっと納得いかないこともあるが……いいよ。ここから一緒に逃げ出そう」

「ロット!」


 嬉しすぎて、エルカは思わず椅子から立ち上がって叫んだ。本当は抱きつきたいが、間に挟まる机が邪魔で、それはできなかった。代わりに手に持っていた食べかけのパンを机に置き、彼の手を取ってぎゅっと包みこむ。

 すると「エルカ!」と鋭い声でニノに呼ばれた。そちらを見ると、彼女は視線で、こちらを見つめている〝お偉い様〟を示す。このままでは目をつけられて、個別に監視までされてしまうかも。慌てて手を離し、エルカは椅子に座った。明日の今ごろはこの〝塔〟の外にいるかもしれない。そう思うと気分が高揚して、早く明日になれ、と願った。




 ――だけど、もし、逃げ出さなければ。

 何度も何度も絶望することになるだろうが、あれほどまでの絶望を味わうことはなかったに違いない。

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