序章(4)
大部屋に着くと、既に〝作業〟は始まっていた。ああ、これは叱られるな、と思いながら、エルカはなるべくコソコソと部屋に入る。
案の定、すぐに〝お偉い様〟に見つかった。
バチン! と鞭のしなる音が大部屋に響き渡り、エルカは身を縮ませた。部屋中の視線が肌に刺さる。それらは同情的なものばかりだが、決して誰も助けてくれようとはしなかった。なんとなく、世界に自分一人だけが取り残されたような気がして、ひどく寂しい。きっと、昼食前に標的になってしまった少女も、こんな気持ちを味わったのだろう。寂しくて、悲しくて、怖い。そんな感情を。
〝お偉い様〟が、下卑た笑顔を浮かべながらこちらに近づいてくる。その表情に言いようのない不安と不快感を覚えながら、エルカは膝に床をつき、頭をこすりつけた。「すみません」と、喉の奥から心にもない謝罪を絞り出す。
はん、と、鼻で笑う気配がした。
「そんなんで許されると思うのかァ?」
怒りが微塵も感じられない声だった。それどころか、どこか喜んでいるような気がする。本来ならば、怒っていないのならあまり痛めつけられはしないだろうと胸をなでおろすところだが、なぜかそうはできなかった。ざらりとした不安が胸のうちで膨らんで、早く〝作業〟を始めさせてほしい、と思う。疲れるからと嫌っていた〝作業〟だけれども、このまま這いつくばって何かされるよりはマシだ。
エルカは喘ぐように「すみません」と再度謝った。その瞬間、鞭がしなり、肩にあたる。鋭い痛みに、思わず顔をしかめた。痛い。うめき声が漏れてしまいそうだけれど、こらえた。今、こうして謝罪をするのはことを荒らげないため。ここから逃げ出すため。だけど彼らに対する憎しみは薄れなくて。怒りはふつふつと心の中で煮えたぎっていて。だから、声を漏らすことはしたくなかった。そんなの、屈辱的だ。
ギリ、と唇を噛み締めると、バチン! と再度音が耳朶を打った。鋭い風が頬をかすめた。
「はっ! そんな謝り方で許されると――」
「そこまでにしたら?」
優越感に満ち溢れていた〝お偉い様〟の声を、誰かが止めた。無音のまま空気がざわつく。こんなふうに誰かが折檻を止めるなど、今まで一度もなかった。そのイレギュラーに、みなが――止められた者までがとまどう。
だけどそのとまどいを無視して、〝お偉い様〟を止めた人物はさらに言葉を紡いだ。
「早く働かせないとね。ほら、さっさと席に行って、作業をしなさい。他の者たちも。じゃなきゃ、全員に普段の二倍のノルマを課すよ?」
その瞬間、こちらを見ていた魔法使いたちが一斉に〝作業〟に戻る気配がした。普段の量だけでもキツいのに、それがさらに二倍。そんなの誰だって嫌だった。
私も早く戻って〝作業〟をしなきゃ――そう思って動こうとしたとき、「おい」と不穏な声が発せられる。先ほど鞭を振るっていた〝お偉い様〟の声だ。なんだろう、と思って、そろそろと顔だけを上げる。彼はこちらに背を向けて、誰か――おそらく彼を止めた人物に向かって言っていた。
「偉そうにするなよ、〝新入り〟。ここでは俺らがルールだ」
「いいえ、あなたではありません、宰相閣下ですよ。――それとも、あなたは閣下よりも自らが偉いと?」
怒りを含んだ声に、穏やかな声が返した。〝お偉い様〟はちっ、と舌打ちをすると、猫のようにつり上がった目でこちらを振り返った。慌てて頭を下げる。目をつけられるのは嫌だった。脱出がしづらくなる。
そう思っていると、「おい」と声をかけられた。
「さっさと作業を始めろ」
「……はい」
頷いて、エルカは立ち上がった。自分の席へ向かう途中、さりげなく背後を振り返る。
そこには、ニコニコと笑っている青年がいた。〝お偉い様〟を止めた彼だ。とろりとした金髪に、深い青の瞳。その姿に見覚えはない。おそらく本当に新入りなのだろう。
新入りが先輩に逆らって大丈夫だったのだろうか、と思いつつ、エルカは彼から目を逸らした。とりあえずは〝作業〟を始めなければ。
「エルカっ!」
けたたましいドラの音が鳴り響き、〝作業〟が終わった途端、ロットの声が鼓膜を揺らした。疲れ果て、ぐったりと椅子に身をもたれさせながら、エルカは目だけでそちらを見る。ロットが、あの〝お偉い様〟のように目をつり上げながら、こちらへズンズンと歩いてきていた。もちろん手にはカゴいっぱいの魔結晶を持って。
あーあ、と、心の中で嘆いた。これは叱られる。絶対に叱られる。間違いない。
思わずため息をつくと、「おい!」と怒鳴られた。
「おまえ、なんであんなことしたんだよ! 今回は偶然助かったから良かったけど、普通だったら――」
「ロット」
喉の奥から声を絞り出し、ロットを止めた。彼はこちらを見てわずかに目を見開き、沈黙をする。あまり動かない頭でそのことにほっとしながら、エルカは静かな声で告げた。
「話したいことがあるの。ニノも一緒に」
「……」
ロットは返事をしなかった。ただ黙りこくって、こちらを見つめる。何かを感じたのか、彼の瞳で燃えていた怒りは弱火となり、代わりに真剣な光が宿っていた。鋭い刃物のような光だ。獲物を見る目にもまた似ている。
……そのまま十秒ほど時間が経つ。すると、「ロット! エルカ!」と声が聞こえた。ロットから目を逸らして声のしたほうを見れば、何も知らないニノがこちらに向けて手を振っていた。その顔に浮かぶのは満面の笑み。
「行こっか」とロットに呼びかけ、のろのろと立ち上がった。今日は時間がなかったため急ピッチで仕上げたからか、いつもよりも体が重い。その前に魔法を使ったのも、おそらく原因の一つだろう。魔法を使うのが特別上手い子以外は、エルカたちのように簡単な魔法しか使えない上、どうやらそれは効率が悪いらしい。実感はないが、使い方を教えてくれた教育係の女性にそう言われた。無駄だらけで、まともに戦えやしない、と。そのせいで簡単な魔法を使っただけだけれど、体内の魔素を消費しすぎたに違いない。
そう冷静に分析しながら、ゆっくりと入り口へ向けて歩みを進めていく。ロットはなにも言わず、静かについてきた。無言で、大部屋の出口へと向かう。
進むにつれ、部屋の外にいたニノの顔がくもり始めた。笑顔のまま固まると、次第に笑顔が抜け落ちていく。エルカたちが外に出たころには、彼女もまた真面目くさった表情を浮かべていた。
「ニノ」と呼びかける。
「話があるの」
その言葉に、彼女は硬い面持ちで頷いた。