序章(2)
部屋にいるみんなが身支度を整えて――と言ってもエルカたちに支給されているのは貫頭衣が一枚だけなため、髪を手ぐしで整えるくらいしかすることはない――思い思いに過ごしていると、扉がガン! と蹴られた。シン、とあたりが静まり返ると、カチャカチャと再度鍵を開ける音がして、やがて扉が全開に開かれた。そこに立つのは数人の男たちだ。薄汚れた貫頭衣をまとうエルカたちとは違い、彼らは煌びやかな、ぴっちりと体に沿う服をまとっている。
けっ、と、一番前に立つ男が顔をゆがめ、唾を吐いた。彼の顔に浮かぶのは侮蔑の感情。「さっさとしろ」と彼は吐き捨てるように言うと、後ろの男たちを引き連れ、カツカツと音を立ててその場を去った。
足音が聞こえなくなると、エルカはほっと息をつく。ちょうど同じタイミングで、隣に座っていたニノも息をついたため、顔を見合わせて笑った。するとニノの隣に座っていたロットがはん、と鼻で笑う。
「あいつら、俺らが全員起きてて、ぜってー悔しがってるな」
その言葉に、ニノが慌てて口の前で人差し指を立て、「しっ!」と言った。
「聞かれたらどうするの!」
「大丈夫だいじょーぶ。もう聞こえないだろ」
そう言って、ロットはへらへらと笑った。「確かにそうだね」と、エルカは同意する。
実際、彼らが戻ってくる気配はない。今日は〝新入りの日〟だから、スケジュールがいつもよりも遅れている。早くしなければ国民に届ける魔結晶の量が減ってしまうから、たとえロットの発言が聞こえていたとしても、おそらく鞭打ちなどの罰はないだろう。
ニノもそれくらいは分かっているはずだが、「でも……」と心配げな表情を浮かべている。それくらい、彼のことが好きなのだろう。
そんな彼女のことを微笑ましく思いながら、エルカは「ほら」と口に出す。
「そろそろ行くよ。早くしなきゃご飯も食べられなくなる」
言いながら、部屋の出口を見た。既に半分近くの人物が部屋から出て、食堂へ向かい始めている。まだ開けられていない部屋もあるだろうが、あんまりゆっくりしすぎると本当にご飯を食べることなく〝作業〟をするハメになってしまう。以前何回かそうなってしまったことがあったのだが、あのときはまさに地獄のような状況だった。もう二度と経験したくない。
その思いは二人も同じなのか、わずかに青ざめた顔でニノが頷き、立ち上がると、ロットもすぐさま立ち上がった。エルカも二人に続いて立ち上がり、並んで食堂へ向かい始めた。
たわいのない話をしながら、人の流れに身を任せて下へ下へと向かっていく。廊下は反時計回りに緩やかな下り坂になっており、三人ほどが横に並べるくらいの幅しかない。また窓は一切なく、光源は天井に埋められた魔具だけだった。
それが、この〝塔〟だ。中にいる〝魔法使い〟が決して逃げられないよう、閉ざされた施設。
「……ねぇ」と、小さな声で二人に呼びかけた。
「早く、ここから出られないかな」
前を向いているから、二人の表情は分からない。だけど明るく、楽しそうに話をしていたにも関わらず、二人とも黙った。沈鬱な雰囲気が、三人の間に漂う。けれど周囲にいる人々はみなわいわいと話していて、なんとなく、三人だけ世界からこぼれ落ちてしまったかのような、そんな気がした。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――魔法使いとは、百年ほど前に突如現れた存在だ。炎を出したり、光を出したりなど、様々な力――魔法を使うことができ、魔法の原理が解明されるまではずっと恐れられ、同時に崇拝されてきた。しかし二十年前、魔法が空気中にある魔素という目に見えない物質と、体内にある魔素を混ぜることによって、引き起こされることが明らかになり、さらに一年後、魔法の使用を外部から制御することができるようになり、また道具に魔法の力を付与した魔具が発明されると状況は一転し、魔法使いはただ搾取されるだけの存在になった。
けたたましいドラの音が、大部屋に鳴り響く。〝作業〟の終了時間だ。
エルカはずっと椅子に座っていたため凝り固まってしまった体を伸ばし、脱力する。解放感からか、自然と息が漏れた。体中を倦怠感が覆っていて、今は一歩も動きたくない。それくらい、ひどく疲れるのだ。
改めてもう一度ため息をつくと、トン、と軽く頭を叩かれた。あまり動きたくなくて、目だけを動かせば、ロットが不機嫌そうな顔をしてこちらを見下ろしていた。手を掲げていることから、叩いたのは彼だろう。
彼が口を開く。
「ほら、行くぞ。昼メシを食い損ねちまう」
仏頂面でそう言っている。その余裕そうな態度に、なんとなく不満を覚えた。なんでロットはそんなにも余裕そうなのか。いや、体力や体内の魔素の量の違いだろうけど。
ぷいっとそっぽを向いてやる。
「分かってるけど、動きたくないのー」
「わがまま言うな!」
その言葉と同時に、今度は力強く叩かれた。「いっ!」と思わず声をこぼす。痛い。後頭部がジンジンする。頭をさすりながらエルカは仕方なく立ち上がった。あたりを見回す。周囲にいた人たちは疲れた様子を隠すことはせず、だけど根気を振り絞って、こぶし大ほどの赤い結晶が多く入ったカゴを手に、部屋の出口へ向かっていた。
――魔法を使う際に必要不可欠な魔素には、いくつかの種類がある。細かいものを含めれば数百、千もあると言われるほど種類が多く、大まかに分けると火、水、風、土、そしてそれ以外だ。前四つは四大魔素と呼ばれており、この世にある魔素の大半を占める。
この大部屋は、同種類の魔素を固めたもの――魔結晶を作るための部屋の一つだ。魔結晶は魔具の動力源で、使い捨て。だからずっと作り続けなければならず、魔法使い以外の人々が魔具を使って健やかに暮らすために、魔法使いたちは魔結晶を作ることを強いられ、〝塔〟に閉じこめられていた。
胸が苦しくなり、エルカはぐっとこぶしを握りしめた。魔法使いだからと差別をされ、自由を奪われ、ただここで淡々と〝作業〟をこなす日々。〝塔〟の外には広大な大地が広がり、街があって、ここにいるのとは比べものにならないほどの人々がいるという。服もこんなくたびれたものじゃなくて、『ドレス』とかいう、素晴らしいものもあるのだとか。それなのに、私たちは外を知りもせず、ずっと魔結晶を作り続けるだけ。その魔結晶もすべて魔法使い以外の人々の手にわたり、彼らの生活を豊かにするだけで、自分たちの生活は一向に変わらない。怒りが湧かないわけがなかった。
だけど、ここから出ようと抗わないのは――。
「ロット! エルカ! 早く!」
大声で呼ばれ、エルカは顔を上げた。遠くでは、ニノがこちらに向かって大きく手を振っている。彼女は別の部屋で、エルカたちとはまた別の種類の魔結晶を作っていたのだ。誰がどの部屋に入るのかはずっと変わらないため、エルカはニノと一緒に〝作業〟をしたことがない。
「ほら、」と、ロットが言った。エルカの分のカゴも持ち、くいっ、とニノのいる方を指す。
「行くぞ」
「……うん」
エルカが抗わない理由。それは、この二人を失いたくないからだ。脱出を試みようとすれば、罰を受ける。殺されてしまうかもしれない。そんな経験を、二人にさせたくなかった。
大丈夫。そう、心の中でつぶやく。二人がいれば、どこでだってでも生きていける。
――本当に?