序章(1)
空の色が次第に黒から紫、そして赤の混じった青に移り始めた。夜の間、地上を青白く照らしていた月は地平線へと滑り落ち、太陽が顔を覗かせる。
そんな時間帯。マラミヤ王国の首都、その中心にある白亜の――しかし今は朝日を浴びてほんのりと赤く染まっている美しい王城。そこで、夜勤の仕事に就いていた衛兵が一人、あくびを漏らし、上司に頭を叩かれた。城の外ではパン屋の女主人が夫を叩き起こし、今日の仕込みを再開させる。
平和で、のどかな光景。幸せな毎日。
――しかし誰も、その幸福を支えている人々の苦しみを理解しようとはしなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
かすかなざわめきが鼓膜を揺らし、ぱちり、とエルカは目を覚ました。押し寄せる眠気にあらがい、目元を手でこすりながら、ゆっくりと体を起こす。
そこはいつもの部屋だった。上は三十、下は十一までの人々が何十人も体を寄せあって、薄くてボロい布切れを体に被せて眠るためだけの部屋。今現在も早起きの数人を除いて、多くの者が互いに体を温めながら眠っている。
それはエルカの隣も同じで。
ぼんやりとした頭で、エルカは自らの両隣で眠る二人を見た。右にいるのはロット。一つ年上の十四歳の少年で、短い赤茶色の髪が床の上にパラパラと散らばっていた。何か嫌な夢でも見ているのか、ウンウンうなり声を上げている。
左にいるのはニノ。エルカと同じ十三歳の少女で、背中の半ばほどまであるにんじん色の髪は、こんな劣悪な環境にも関わらず美しい。彼女は体を丸めてすやすやと気持ち良さそうに眠っており、何やら小さく寝言を口にしていた。そっと耳を寄せれば、どうやらロットの名前を呼んでいるようで、エルカは思わず口元をほころばせる。彼女はロットに想いを寄せているのだ。しかしそれは彼に届いておらず、こうして夢に出てきてしまうほど好きなのに、まだ報われていない。つい先日、とうとう鈍感すぎることにしびれを切らしたのか、「そろそろ告白をしようかな」とはにかみながら言っていた。
そんなことを思い出し、胸が温かくなった。どれだけ辛くても、悲しくても、絶望的な状況でも、この二人がいれば大丈夫。そう思えた。そう信じた。
――さて、と思いながら、エルカは体をひねり、眠っていたときは頭を向けていた方向を見た。そこには小さな窓がぽつんとあり、その向こうには鉄格子が、さらに向こうには赤に染まりつつある空があった。夜明けだ。そろそろ起きたほうが良い頃合いだろう。特にロットは寝起きがかなり悪いから、早くしたほうがいい。
そう判断して、まずはニノを起こそうとしたまさにそのとき、窓の反対側にある扉の鍵が開けられる音がした。一瞬シン、と部屋が静まり返り、そして数秒、鍵が次々と開けられていく音が響くと、起きていた者たちは慌てて近くで寝ている者たちを叩き起こし始めた。完全な開錠までにかかる時間は約三十秒。そのわずかな時間に、なるべく多くの者を起こさなければならない。――彼らを助けるためにも。
「ニノ、ニノ」
エルカはまず、左隣で寝ているニノの体を揺すった。二秒ほど後、ニノはゆっくりと目を開く。けれどまだ眠たいらしく、半眼になりながら「なぁに?」と、くぐもった声で尋ねてきた。
そののんびりとした様子にかすかな苛立ちを覚えながら、「朝よ」と短く、鋭く言う。早くしなければ大変なことになってしまうため、急いで反対側のロットを起こそうとしたけれど、「ええー」とニノが声を出したことによって、それは妨げられた。
「まだ早いじゃんー……」
背後でもぞもぞと動く気配がして慌てて振り返ると、そこではニノが再度ボロ布に潜り込もうとしていた。エルカとは反対の方向を見ながら体を丸め、子供のように眠ろうとしている。「ニノ!」と、思わず大きな声を出した。そして彼女の方を向くと、勢いよく布を剥ぎ取る。
「ちょっと!」とニノが体を起こし、叫んだ。だけどエルカはそれに応える気はなく、くるりと体の向きを変えると無言で扉を指で示し、ロットを起こしにかかった。すると彼女も状況が呑めたのか、他の子を起こし始める気配がする。
そのことに安堵しながら、いくら揺すっても声をかけてもなかなか起きないことに苛つき、とうとうロットの頭を叩こうとした、そのとき。
ゆっくりと、扉の開く音がした。ピン、と張りつめたような緊張感が部屋の中に満ちて、エルカは無意識のうちに唾を飲み込み、固まった。ロットはまだ目を閉じたまま、うなり声を上げている。全身を絶望感が包みこんだ。
ああ、このままじゃ――そう、心の中でつぶやいたときだった。「入れ」という声がして、エルカは入り口の方を見る。ちょうど一人の少年が、わずかに開けられた扉の隙間から部屋の中に投げ入れられるところだった。彼が「ぐえっ」と情けない声を出すと、嘲笑が部屋に響く。少年のことを嘲っているのがよく分かる声色だった。扉が閉じられ、再度鍵がかけられるが、嗤い声はしばらくの間続いていた。
……やがて足音が遠ざかり、嫌な笑い声も聞こえなくなると、誰からともなくほっと息をついた。一番年上の男性が、先ほど投げ入れられた少年に駆け寄り、声をかける。おそらくこれから、〝新入り〟の彼にいろいろなことを教えていくのだろう。
そんなころになってやっと、眠り続けていたロットが目を覚ました。眠たげな声で「なんだぁ?」と言い、右手で頭をガシガシ掻きながら上半身を起こす。
その、のんきな態度に、苛立ちが湧き上がる。さっきまで危険な状況だったにも関わらず、こいつはぐっすりと寝ていて……。けれど悪夢でも見ていたようなので、一瞬殴ろうかと思って上げた手を静かに下ろした。報いはもう受けている。
しかし、そうは思わない人もいて。
バチン! という痛そうな音ともに、ロットの頭が勢いよく下へと動いた。突然の衝撃に、彼は頭を抱えて悶絶する。
うわぁ……と思いながら、エルカは彼の頭を叩いた張本人――ニノを見た。彼女の瞳にはうっすらと涙の幕ができており、表情には怒りが滲んでいる。「もうっ!」と叫んだ。
「危ないところだったのに、なんなの、その態度!」
痛みをはらんだ声色だった。心の底から心配していたことが簡単にうかがえるもので、ロットも申し訳なく思ったのか、彼女から視線を若干逸らしながら「……ごめん」と謝った。するとニノもわずかに不満げながらも、「……分かったのなら、いい」と言った。
少しだけ、重たい空気が二人の間に流れる。それを感じ取り、エルカはゆっくりと立ち上がって「はいはい」と、わざと明るい声を出した。二人の視線が集まる。にっこりと笑いながら、エルカは言った。
「なんとかなったのだから、もうこの話はおしまい。ほら、他の子たちも起こさなきゃ。今日は〝新入りの日〟だからいつもより少し遅いかもしれないけど、早めに支度しておいて損はないし」
その言葉に、ニノとロットはぎこちないながらも笑みを浮かべ、さっそく近くで寝ている他の子たちを起こし始めた。次第に眠っている人が減っていく。
そんな光景を見つめながら、ふと、思った。新入りが来た、ということは、エルカとニノがここに来てから、もう二年の月日が経ったのだ。まだ、二年。たったの十三歳。ここから出ることのできる十八歳まで、あと五年。