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ジャックはその後どのようにしてコーニッシュパスティの店に戻ったのか覚えてない。
王都ではあまり見る事のない程の抜けるような青空の下ジャックに手を振る可愛らしい少女。心配そうな顔はジャックを思っての事だろう。
自分が見てる光景は本当に現実なんだろうか?
全てが夢で、長く目を閉じたら王都のタウンハウスのベッドの上で目を覚ますなんて事はないのか?
「ジャックさん大丈夫ですか?顔色が酷いですね」
「そう見えるか……?」
心配そうに見上げるシエルから目を反らし、混乱する頭を整理しようと努めるがまともな言葉一つ出てこない。
そして目の前の皿に大量に盛りつけられたパイ包みを見ても当然ながら食欲がわかない。
(落ち着いてから戻るべきだった……)
年下の少女にみっともなく動揺している姿を見せている事が恥ずかしいと思うのだが、兄ブライアンの事を考えると心配で、平気なフリで取り繕う事が出来ないのだった。
あの様子で無事に生きていると思う方が難しかった。
シエルはさっきの現象について知っているのだろうか?言っても馬鹿にされないだろうか?人間が一人空気に溶けたとはなかなか口に出せない。
目を閉じ、心を落ち着かせようと深呼吸していると、ふと爽やかな香りがした。
(なんだ?)
目を開くと、ジャックの顔の高さにオレンジ色の小瓶が近付けられていた。小瓶に絞られた目の焦点をずらし、シエルを見ると、何故か必死な顔をしている。
「先ほど購入したオレンジの精油なんです。この瓶の色、ジャックさんの髪の色に似てると思いませんか?オレンジの匂いって人を元気にしてくれるんです。良かったら貰ってください」
ポカーンとしてシエルを見つめてしまうが、彼女の様子はふざけている感じではない。
もしかしたらジャックを元気づけようとしてくれているのかもしれない。
そう思うと温かいような気持ちになってくるのだった。
昨日シエルが傷を癒してくれた時の感覚に似ている。
「気を遣わせて悪かったな。有難う」
キラキラと輝くアンバーの瞳が細められるのを見て、ジャックは自然と頬が緩んだ。
「おお!?」
「?」
「ジャックさんの笑った顔初めて見ました。結構可愛い顔で笑うんですね」
「可愛い!?やめろ、二度と言うな!」
シエルがずずいっと身を乗り出すようにしてジャックの顔をのぞき込むので、ジャックは恥ずかしくなってきた。
顔を手で隠し、椅子の出来るだけギリギリまで逃げる。
でもどういう訳か、先程よりも不安の影が遠のいて行ったような感覚だ。
精油の効果だろうか?
後ほんのちょっとで、前向きに物事を考えられそうに思えてくる。
「落ち着いたら、相談したい事があるんだ。もしかしたら王都に帰った後手紙で聞く事になるかもしれないけど……」
「相談ですか! オーケーですよ! 男の人の悩みに興味があります!」
頼もしい友人を持てた事に喜びを感じる。
しかしはたと気付いた。
(俺、金出してない……)
「シエル、ごめん。代金払うよ。昼食と精油いくらだった?」
「え!?支払わなくてもいいですよ!これはプレゼントしようと思って……」
「人に借りを作るのが嫌いなんだ」
ジャックは財布から50,000G取り出し、シエルに無理やり握らせた。ちなみに王都で働く男性の平均年収は5,100,000Gほどなので、50,000Gだと社会人の毎月のお小遣い平均よりも高いくらいかもしれない。
「えええ……!?受け取れません、返します!」
シエルが返そうとするので、手で制して拒絶するのだが、ごちゃごちゃとやっている間に10,000G札がバラバラとテーブルの下に落ちてしまった。
「あ!すまん!」
「ああ、もう!」
テーブルの下に潜ったシエルは10,000G札5枚を汚いもののように摘み上げ、口をへの字に曲げて出てきた。
「ごめん。足りなかった?」
「多すぎなくらいですよ……。はぁ……、何かこうスマートじゃないって言うか……」
ジャックは与えられたものには同等の物でお返ししないと気が済まないので、ブツブツと言うシエルが不思議だった。
精油を貰っても初めて入手するものなので使用法などは未知だ。
「精油ってどうやって使うんだ?」
「香水と同じで大丈夫ですよ。ちょっと貸してください」
シエルにオレンジ色の小瓶を手渡す。
伸ばしたままだった手を取られ、小瓶から取り出した細長いスポイトから手首の動脈に1滴だけ精油が落とされた。そのまま温めるようになじまされる。
いつのまにやらシエルの可愛らしい顔を凝視していた事に気づき、慌てて目を反らした。
「肌荒れしたら、使うのやめてくださいね」
「ああ、有難う……。あのさ、余計な事かもしれないけど」
「何ですか?」
「男に香水とか精油とか贈らないほうがいいと思う」
キョトンとするシエルに言うのは少し気がひけたが、無邪気すぎるこの少女にはちゃんと言わないといけない気がした。
「他国では異性に香水とかを送る意味は、独占したいって事らしいから」
「な!? ジャックさんを独占したいなんて思ってないです!」
茹蛸のように真っ赤になるシエルが気の毒になるものの、これを言っといたのだから、この少女に将来降りかかりそうな危険の一つは消えたなと言う謎の安心感があった。
(もしかして俺、保護者みたいな感覚になってるのか?)




