第二話 天使のくしゃみ
そろそろ引っ越しの準備が終わる。
最低限の服を残して、あらかた運び終わっている。
明日には身一つであちらへ飛べば引っ越しは完了する状態だ。
タバサの工房も移転が終わって、あちらでの顔合わせを待つばかりになっているそうだ。
アルフェルとローズの引っ越しが終わったのと、ルードたちの引っ越しのお疲れ様も兼ねてルードとクロケットが料理を作ることになった。
鍋窯の類はあちらの屋敷にあるから置いていくことしたので、いつも通り作り始める。
そろそろ夜は肌寒くなってきたので、ルードは大なべを使って鍋物にすることにした。
魚介類たっぷり、葉野菜もふんだんに入った味噌仕立てのものになった。
ある程度キッチンで煮込んでおき、あとはルードが魔法で温め続けることにする。
カセットコンロのような便利なものがないための苦肉の策なのだが、今のルードなら容易くやってしまう。
「おまたせー」
「おまたせですにゃ」
ルードが鍋を持ち、クロケットが小鉢を重ねて持ってくる。
土鍋でないのが少し残念だが、ルードが鍋の蓋を開けた瞬間。
辺りを魚介の匂いが優しく包んだ。
「味噌鍋ねっ! こ、これは美味しそうだわ……」
一番最初に食いついたのは、予想通りイエッタだった。
つい膝立ちになってしまうほど、興奮していた自分に気づいて顔を赤くしてすごすごと元の位置に戻っていく。
「大丈夫、たっぷり作ったからね。とりわけるから待っててね、イエッタお母さん」
「はい……」
本来であればキャメリアが配膳などルードにさせないところだろうが、ルードが料理をするときは彼女はじっと我慢をしている。
それは何故かって。
もちろん、美味しいものが待っているからだった。
彼女にとっても未知なる美味しいもの。
ルードとクロケットが作る料理をいつも楽しみにしているのだった。
「……ふぅ。美味しいわ。鍋はにほ……、いえ、寒くなると身体が温まるわね」
イエッタは『日本人』と言いそうになったのだが、ルードしか知らない言葉を使うのはまずいと思ったのだろう。
家族に隠すことではないのだろうが、こればかりはルード以外には話すことはできないからだ。
それでも体中に染みる、魚介の味の濃厚な出汁。
味噌がこれまた合う。
白身の魚の名前はわからないが、ほくほくして美味しい。
「うまー。お兄ちゃん。うまー、だよ」
「うん。ありがと」
今晩の鍋はルードが取り分けているため、クロケットの膝の上で彼女に食べさせてもらっている。
クロケットは料理でルードの作らせた菜箸を使うことから、箸を使うのが上手になった。
ルードが『この料理はこれで食べた方が美味しいと思うよ』という提案をするようになって、使い始めたのもある。
今、箸を使っているのはルードとクロケット、イエッタだけ。
他の人は、木製のフォークのようなものを使ってもらっている。
これも、ルードが火傷をしないようにと作らせたものなのだ。
「ルードちゃん、おかわりいいかしら?」
「はいはい。これくらいでいいかな?」
「ありがとう。ルードちゃんがいると、楽しくて仕方がないわ」
イエッタはご満悦のようだった。
基本的な料理はクロケットがキャメリアたちに教えている。
ただ、今日みたいにルードしか知らない料理は作りようがない。
キャメリアもこちらに来て、やっと人間サイズの調理器具に慣れてきたところだ。
今後はルードとクロケットに喜んでもらえるような料理を作るんだ、と頑張っているのだという。
夕食が終わり、ルードが鍋を加熱し続けたこともあって、一度換気をするために窓を開ける。
そこから入ってくる風は、冬を運んでくるように冷たく感じる。
海からではなく、北から吹いてくるその風は鍋を食べて火照った身体には心地よいものだった。
のだが。
「くしっ!」
何やら可愛らしいくしゃみが聞こえてくる。
それはきっとけだまだったのだろうと、ルードが振り返ろうとした。
そこにはやはりけだまがいたのだが。
「冷えちゃったね。先にお姉ちゃんとお風呂──」
そこにはルードの記憶の奥にある知識の絵。
どこかの教会の天井に飾ってある、色とりどりの小さなガラスが組み合わされて描かれている絵。
その絵に描かれている慈愛に満ちた微笑みを浮かべる女性。
その女性の周りに飛んでいるように描かれている。
背中に純白の小さな翼を描かれた、小さな赤子のような少女。
そう、そこには天使がいた。
▼
そこにいたルードとイエッタの言葉が重なる。
「「天使……」」
「ほえ?」
くしゃみのはずみで出てしまったのだろうか。
それとも出せることを知らなかったのだろうか。
そんな細かいことを考えるけだまではないだろう。
その証拠に、ちょっとだけ鼻水が出てしまっている。
可愛らしくも、少し間抜けなけだま。
「寒かったんだね。イエッタお母さん、あれ、あるかな?」
「えぇ」
イエッタは懐から汗を拭うときなどに使う手拭いをルードに渡した。
「ありがと。これ汚れちゃってもいいよね?」
「構いませんよ」
イエッタは機嫌が良さそうだった。
けだまの可愛さもそうなのだが、ルードと重なった言葉が、同じものだったのが嬉しいのだろう。
ルードはけだまを抱き上げると、手拭いを彼女の鼻にあてる。
「ほら、ちーんってしてごらん」
「んーっ」
けだまは、ルードの言っている意味をなんとなく理解したのだろう。
口を閉じて、鼻から息を吐くようにする。
ルードは優しくけだまの鼻を拭う。
「うん。綺麗になったね」
「おにいちゃん」
ルードのお腹に抱き着いてくるけだま。
その背中からは折りたたまれた綺麗な翼が、ぴくぴくと動いている。
抱き上げたまま、ルードはクロケットを呼ぶ。
「おねえちゃん」
「にゃんですかにゃ?」
ルードの呼びかけに答える声がキッチンの方から響いてくる。
キャメリアたちが食器を洗っていたのを見ていたのだろう。
結局手伝わせてもらえたのかはわからないが。
クロケットはけだまを見て驚くことなくいつものように。
「うにゃぁ。モフモフですにゃ」
まるでルードに抱き着くように、けだまを抱きしめ、翼に顔を埋めた。
「お姉ちゃん。けだま、ちょっと冷えちゃったみたいだからさ、お風呂いれてあげてくれるかな?」
「わかりましたにゃ。けだまちゃん、一緒にお風呂に入りましょうにゃね」
「うんー。おふろー」
その場に取り残されるルードとイエッタ。
けだまの鼻を拭った手拭いをルードはポケットに入れてしまう。
「ルードちゃん」
「ん? どうしたの?」
「我と同じことを考えたのですか?」
「んー。なんとなく頭に浮かんだんだよね。綺麗なガラス細工で絵が描かれてた。そこにいる女性の周りに飛んでた小さな女の子。『天使』って名称だって思い浮かんだんだ」
「えぇ。間違ってないわ。我が知ってるものにもそういうものがあるのだから」
「そっか。可愛かったねー」
「そうですね。本当に……」
この世界にはない『天使』という言葉。
それがルードと共有できたのが、イエッタは嬉しかった。
ただそれだけで暖かい時間だった。
翌朝、早い時間だった。
ルードは『──ぇっくしっ』っと、くしゃみをして目を覚ましてしまった。
目と鼻の先にあったのは、けだまの白くて綺麗な翼のさきっぽ。
それが鼻にあたってくしゃみが出てしまったのだろう。
大の字になって眠っているけだま。
おなかが丸見えになっている。
きっとこの子は将来大物になるんじゃないか、とルードは思った。
まぁ、大物どころか王女だということをけだまもわかっていないのだろう。
ルードは蹴飛ばしてしまっている上掛けをかけてあげる。
「……にゅ。……おなかすいた」
けだまの寝言だ。
彼女はきっと、将来立派な食っちゃ寝さんになることだろう。
ルードは改めてそう思ったのだった。
二度寝したらとんでもない時間になりそうだった。
すっかり目が覚めてしまったルードは洗面所で顔を洗って歯を磨く。
居間に出ると、誰もいない。
それもそのはず、まだ誰も起きてきていないのだろうから。
仕方なくルードはキッチンへ向かう。
鍋に水を入れ、火にかける。
出汁の出やすい昆布のような乾燥した海藻を洗って鍋に一枚入れておく。
レッドフォールボアの三枚肉部分を薄切りして沸いた湯の中へ入れていく。
この世界では豚は存在していない。
赤毛の猪に似た獣を狩猟で取ってきたものが、商店に並んでいる。
それを買ってくるのがシーウェールズでも普通である。
この肉は思ったよりも美味しい。
出汁もとりやすく、肉質も柔らかい。
日持ちのしない根野菜も薄切りにしてお湯の中へ。
アクを丁寧に取りながら軽く煮込んでいく。
その間に根野菜の余った部分を短冊に切っていき、ボールに入れて塩を振る。
水が抜けてきたら軽く揉んで塩もみにしておく。
そんなことをしていると、ルードの後ろから声が聞こえてくる。
「……ふぁっ。ルードちゃん、早いですにゃね?」
「あ、お姉ちゃんおはよ。けだまに起されたようなものかな、翼が鼻にあたってくしゃみしちゃってさ」
「それはにゃんとも……。あ、手伝いますにゃ」
「うん。じゃ、その魚お願い。鱗とエラを取って塩焼きにしてくれる?」
「はいですにゃ」
そんな風に仲良く朝ごはんの支度をしていると、また後ろから声が。
「ルードサマ。クロケットサマ。オハ……、ナンデコノヨウナコトヲ? ワタシガヤリマス。ア、ワタシ、ソノリョウリ、シリマセン……」
「うん、教えてあげるからキャメリアもおいで」
「オ、オネガイシマス……」
結局三人で仲良く朝食の支度をし始めるのだった。
▼
「ルード様、申し訳ありません。主として従うと誓いながら、その……」
マイルスが片膝をついて頭を下げていた。
「あのさ、もう一人じゃないんですから、家族を最優先に考えてあたりまえなんですよ」
「ですが」
「それにね、こっちにすぐに来れるようになったんだし。聞いてるでしょ?」
「はい。アルフェル様にはアミライルさんのことは聞いています」
「シーウェールズとさ、ウォルガードはご近所さんみたいなものなんだ。だから気にしなくてもいいって。新しく僕が作ったものは、ミケーリエルさんに持ってくるんだかさ」
「わかりました。身体に気を付けてください。お元気で」
「……わかってないじゃないの」
アルフェルはルードの肩をぽんと叩く。
ルードが振り向くと、アミライルと一緒だった。
「ルード。マイルスさんが知らないのも仕方ないだろう」
「アルフェルお父さん。あ、アミライルさんも」
「ソウデスネ。マダ、アルフェルトウサンシカ、ノセテイマセンノデ」
「あ、空飛んだんだね」
「あぁ。実に興奮したよ。おまけに『隠す』魔法だったかな。あれも凄すぎる。ほんと、もうひとり娘を持った気分だよ。私のことを父さんって呼んでくれるからね」
「そうですね。アミライル」
「ハイ」
「アルフェルお父さんたちを頼んだよ?」
「オマカセクダサイ」
「ルード君たちが出た後、ヘンルーダさんのところに行く予定なんだよ。私とローズの二人でね」
「そうだったんですか。久しぶりじゃないですか? ローズお母さんと出かけるのって」
「あぁ。ローズも喜んでくれてね。これもアミライルのおかげだね。馬車三台分を持って行けるなんて驚いたよ」
やはり隠す能力は個人差があるのだろう。
キャメリアは二台が限界だったが、アミライルはそれよりも多いらしい。
アミライルの頭をくしゃりと撫でるアルフェル。
彼女の表情はとても嬉しそうだった。
「じゃ、そろそろだから。僕、準備しますね」
「あぁ。こっちが落ち着いたらウォルガードに遊びに行かせてもらうよ」
「はい。待ってます」
ローズに挨拶をしようと思ったのだが、戻ったアルフェルとアミライルと一緒に楽しく話をしている。
ルードが見ているのに気づいたのか、手を振って笑顔をくれた。
ルードは軽く頭を下げる。
ローズは頭を横に振って笑顔になっていた。
言葉を交わさなくても心は通じている。
今生の別れではないのだから。
『いってきます』の挨拶なのだから。
ラリーズニアに、リーダとイエッタとクレアーナ。
キャメリアにルードとクロケット。
ルードとクロケットの間にけだま。
タバサは今朝早く工房を見たいからと、先にキャメリアに乗せられて行ったらしい。
二人に乗せられてシーウェールズを出ようとしたら。
馬車が到着する。
ジェルードが扉を開けると荷物をいっぱい抱えてきた。
レアリエールが綺麗なワンピースを着て、嬉しそうに降りてくる。
「おはようございます。ルードさ……」
彼女は絶句していた。
それもそのはず、ルードたちはキャメリアの背にもう乗っていたのだから。
「あ、忘れてた……」
「酷いです。ルード様……」
クロケットとふたりで何とかなだめて機嫌を直してもらうのに、少しだけ時間がかかってしまった。
キャメリアに荷物を隠してもらい、気を取り直して出ようとすると後ろに乗ったレアリエールにきゅっと抱きしめられてしまう。
「ちょっと、レアリエールさん」
「うふふ、冗談ですわ」
「……じゃ、アルフェルお父さん、ローズお母さん、みんな。行ってきます」
ホバリングをしながらキャメリアとラリーズニアは上昇していく。
見送ってくれる家族に手を振りながら、ルードたちはシーウェールズを後にした。
▼
予想通りというか、なんというか。
シーウェールズ、ウォルガード間の移動は引っ越しというより外出という感覚でしかなかった。
おまけに引っ越し先は母、リーダの屋敷だから見慣れている上に勝手知ったる状態。
まるで隣の家を借りたからそっちに移るか、という気軽なものになってしまった。
かなり広めの屋敷の前にある庭に降り立ったルードたち。
そこには音なのかそれとも匂いだったのか。
タバサが出迎えてくれていたのだ。
「タバサさん、工房の方はどうだった?」
「もう稼働させているわよ。ポラリサたちに任せてあるわ」
タバサは見覚えのない顔に気づいたのだろう。
ルードの後ろにいた彼女に声をかける。
「あなたがレアリエール姫ね。あたしはタバサよ。ルード君のところで錬金術師をしているわ」
なんともサバサバした性格だろうと思われてしまっただろうか。
確かにタバサはこんな性格。
シーウェールズに住んでいたのだからレアリエールのことは知っていた。
ただでさえレアリエールの立場はかなり微妙。
ウォルガードに国賓として呼ばれたわけではなく、ただの留学生なのだから。
「レアリエールと申します。あなたがあのタバサ女史ですね。話は伺っております」
「どんな話を聞いているんだか。ルード君、部屋に案内すればいいのね?」
「はい。タバサさんの隣の部屋になりますから。キャメリア、荷物お願いね」
「カシコマリマシタ」
「えっ? 私もここに住むのではないのですか?」
「部屋がね、足りないんだ。近くに家を買ってあるから、そこに住んでもらう形になるんだ。ごはんはうちで食べてもらうからさ」
「それなら安心です……」
「あははは。ルード君とクロケットちゃんのごはん、驚くわよ。美味しいからね」
「そ、そうなんですか?」
レアリエールはルードたちの料理は食べたことがない。
プリンとアイス、まんじゅうを知っているだけなのだから。
「さぁ、部屋に案内するわ。ルード君、明日顔合わせでしょ?」
「はい」
「忙しくなるわよ。レアリエールさんも明日から学園に行くんでしょ? 遊んでなんていられないみたいだからね。結構大変みたいだから……」
「えっ? えっ?」
クスクスと笑うタバサにレアリエールは心配そうな表情になる。
「退学になったらシーウェールズに帰るんですって? 大変よ? この国の学園って生半可じゃないらしいわよ」
「えぇええええーっ!」
ずるずるとタバサに手を引っ張られていく。
「デハ、イッテマイリマス」
「うん。お願いね」
キャメリアは笑顔でルードにいってきますをしてから、荷物を隠したままタバサたちのあとをついて行くのだった。
次は今書いてる最中というか、書いては書き直してます。
ちょっと難しい展開なので、土曜あたりに間に合えばいいかと思っています。




