第十七話 けだまのまま。
『うわー、たかいー』
「ですにゃ、……ねっ」
クロケットも怖いのだろう。
ルードの胸に顔を埋めている。
「お姉ちゃん、そうやってちょっと我慢しててね」
「はい、ですにゃ」
『ですにゃー』
ルードは苦も無く山の麓までたどり着いた。
そのまま苦も無くひょいひょいと登っていく。
以前、クロケットと一緒にエランズリルドを見下ろした場所よりもさらに高い位置。
さすがに普通の人間であれば空気が薄くなってきていて、何の準備もなければ登って来れない高さかもしれない。
この地域も間もなく秋深くなってきている。
『炎よ少しだけ僕の周りを温めよ』
ルードだけができるだろう適当な魔法の操作。
「うにゃ。暖かくにゃってきましたにゃ」
「うん。寒いからね。お姉ちゃんの身体が震えてたからさ」
「……ありがとう、ですにゃ」
『あったかー』
ルードはクロケットを下ろす。
クロケットの瞳に映る光景は、それこそ生まれて初めて見るものかもしれない。
ルードはこんな光景を知識として知っている。
見下ろす景色には自分の足元よりも低いところに雲海が広がっている。
ルードはそっとクロケットの手を握った。
その手は少しだけ震えている。
寒くて震えているのではないことも、クロケットには十分わかっていた。
「……ほぇええ。すっごいですにゃ」
クロケットはそれを誤魔化すように。
ルードの気持ちに気づいているからこそ、目の前の感想を言葉に出した。
「……うん。これもまた絶景だね」
『あれ? なんかみたことある』
それもそうだろう。
ここはけだまが生まれた地域に近いはず。
ルードはここでちょっとだけ無理をする。
左目の奥に一瞬だけ莫大な魔力を送る。
ルードはこの姿の副産物に気づいていた。
身体能力の向上だけでなく、外気から取り込む魔力の総量も増え、内包する魔力も増えている。
一度に放出できる魔力の量も上がっていることに。
クロケットにもわかるくらいの異常な状況になる。
ルードの足元から半円を描くように白い輪のような形。
その輪のような細い帯のような線が『どんっ』という感じに広がっていった。
「けだま」
『どしたの? るーどちゃん』
ルードはけだまの声を遠くへ届けるように念じることで、ある人に聞かせようとしたのだ。
それはもちろん。
『今の声が聞こえましたよね? この子のママ。ここへお願いします』
『支配』ではなく、『お願い』に特化した力の行使。
こんなこともできるようになっていたのだ。
「ルードちゃん、いまのは?」
『えっ? あたしのままのこと?』
ルードはすぐに込めた魔力を解いた。
こうしないと、倒れてしまうような気がしたからだ。
案の定、ルードの額には脂汗が滲んでいる。
「る、ルードちゃん。大丈夫?」
「うん。ちょっとだけ無理してみた」
『るーどちゃん、だいじょうぶ?』
「けだまは心配しなくていいよ。ありがとう。優しいね」
すると雲海の遥か向こうから、白い鳥のような姿がゆっくりと飛んでくるのがふたりにも見えた。
最初は小さい白い点のように見えたのが、徐々に大きな鳥のように見えてくる。
ゆっくりに見えたのは、それがあまりにも大きく、そして雲海に隠れた翼が見えなかったからだろう。
あっという間にルードたちの目の前に姿を現した美しい純白の飛龍。
けだまのように白く、鱗の代わりに純白の羽毛に包まれたその姿は、圧倒的な存在感を放っていた。
その美しい翼がとても広くて大きかった。
翼を折りたたむとルードの身長のおおよそ三倍くらい。
その優しげな瞳は、けだまを見ている。
『マリアーヌっ。マリアーヌなのね?』
『あれ? まま?』
クロケットは母親らしき女性にけだまを抱かせる。
『心配してたのよ。よかったわ……』
『だいじょうぶ。るーどちゃんと、おねーちゃんと。おいしいごはんたくさんたべたから』
『そう。大きくなったわね。ごめんなさいね。落ちてたなんて気づかなかったの……。里に帰ってからあなたがいなくて、探したのだけれど。小さいあなたに、ちゃんと掴まってなさいなんて無理だったわね。本当にごめんなさいね』
案外アバウトな母親なのだろうか。
なんとなくリーダに雰囲気が似ている感じがした。
『したでがじがじかまれてたときにね、るーどちゃんとおねーちゃんがたすけてくれたの』
『そうなのね。えっと』
一瞬『ぎょっと』するような目を見せたが、安堵の色が戻ってくる。
ルードとクロケットに長い首と目を伏せてお礼の意を示したのだろう。
「僕はルード」
「私はクロケットですにゃ」
クロケットはルードの手をしっかりと握っている。
『えっ? 言葉がわかるの?』
「はい。僕はちょっと変だと言われますからね。あははは」
「ルードちゃん、それ、自分で言うことじゃにゃいですにゃ……」
彼女のけだまを見る優しい目でわかった。
やはり親元に帰してよかった。
ルードは改めてそう思ったのだ。
ルードだってリーダとエリスといるときが幸せなのだ。
けだまもそうに違いないから。
『マリアーヌを助けていただいてありがとうございます。お礼がしたいので、私たちの里へご案内したいのですが』
「お邪魔でなければ」
「ですにゃ」
『ですにゃー』
『あら、気に入られていたんですね。この子、好きな人の真似をする癖があるんですよ』
「やっぱり」
「そうだったんですにゃね」
その女性はルードたちに背中を向けて、低く伏せてくれる。
『どうぞお乗りください。寒いかもしれませんが、少々我慢してくださいね』
「はい、ありがとうございます」
「ありがとうございますにゃ。あ、マリアーヌちゃんをお預かりしますにゃ」
『すみませんね。抱いているとうまく飛べないので、あのときも背中に乗せていたんです……』
クロケットはけだまを預かって抱きしめた。
これがもしかしたら最後かもしれないのだから。
「お姉ちゃん先に乗って。僕が後ろから抱きかかえるから」
「大丈夫ですかにゃ? 私より──」
「ちっちゃくないからねっ!」
「うにゃ」
けだまを抱いたクロケットを後ろから抱えるようにして乗せてもらった。
『あら? なぜかルードさんの周りだけ温かいですね。もしかしたら魔法を使われているんですか?』
「はい、周りだけ温める感じで使っています」
『それは……。いえ、では飛びますので掴まっていて……。マリアーヌ、暴れて落ちちゃ駄目ですからね』
「私が抱いてるから大丈夫ですにゃよ」
『にゃよー』
「あははは」
彼女は翼を広げる。
それはとても美しい翼。
けだまの翼と同じ位置にあり、その大きさは身体の倍はあるだろうか。
彼女は軽く羽ばたいた。
ふわりと浮いた。
ルードはその風に魔力が含まれていたことがわかる。
なるほど。
軽く羽ばたいただけで、これだけの力が生まれるわけだ。
そう思った瞬間。
今までいた場所が後方に一気に飛んでいった。
いや、彼女が飛び立ったからだろう。
物凄い速さで雲海は過ぎ去っていく。
その速さはイリスの速さを軽く凌駕していた。
その割にルードとクロケットには風の影響が少ない。
おそらくは魔力を張り巡らせて、風の影響を抑えているのかもしれない。
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暫く飛んでいただろうか。
いつの間にか雲海が消え、透き通る青空だけが目の前に広がっていた。
すると、進行方向のかなり先にひと際大きな、緑に包まれた山が見えてくる。
徐々に速度が落ちていき、目の前に山肌が迫ってきていた。
ルードが見た感じ、周りには何もないように見える。
彼女は羽を八の字にゆっくりと羽ばたかせ、ホバリングしているような状態になった。
そこで何やらぶつぶつと呟いたかのようにルードたちの耳に聞こえてくる。
すると、霧が晴れるように、その山肌がすーっとぼやけていく。
目に映る映像が鮮明になったかと思うと、そこには広大な里が姿を現した。
さっきのはおそらく幻影を解くものだったのかもしれない。
魔法を使うルードにはそう思えたのだった。
そこは沢山の様々な姿をした飛龍が飛び交う、これまで見たことがないような世界だった。
不思議な形をした建物。
里と言っていたが、とんでもない。
これは立派な国だ。
『ようこそ、私たちの里。メルドラードへ』
「うわぁ」
「うにゃぁ」
『にゃー』
『国』でしょう、と心の中でツッコミを入れるルード。
それだけ広大で、発展したところだった。
彼女はその中でも中心部にある大きな建物のバルコニーのような場所に降り立った。
間違いなく木製の建物なのだが、どうやったらこんな巨大なものが造れるのだろう。
シーウェールズやエランズリルドの王城よりも更に大きな屋敷。
ルードが住んでいる家も大きな種族が住んでいたと言っていたが、そんな比ではない。
間違いなくウォルガードに匹敵する国力を有した場所なのだろう。
この世界にはルードたちも知らない世界がまだまだ広がっているということなのだ。
幻影をもってまで隠している。
おまけに歩いての入国はまず無理な位置に存在するこの国。
人間とも言葉は通じない、人間にも知られていない。
それに驚いたことに、ここの大気中の魔力はウォルガードの周りとそん色ないほど濃ゆいのだ。
それは深呼吸をすると、疲れが飛んでしまいそうになるほどだった。
ルードたちは彼女の背中から降りて、促されるまま部屋に入っていく。
そこはとてもシンプルな造りでありながら、彼女の身体の大きさに合わせて作られたと思われる家具類なども存在する。
飛龍といってもワイバーンというより、立派な羽を持つドラゴンという感じだ。
けだまは手先も器用だったことから、人間と同じような生活をしていてもおかしくないのだ。
『どうぞお座りください。改めて、娘を。マリアーヌを救っていただいてありがとうございました。私はエミリアーナと申します。若きフェンリルの少年。ルードさん。猫人の少女、クロケットさん』
驚いた。
今のルードの姿を見てフェンリルと断定したのだ。
そしてフェンリルを知っている。
「はい。僕はフェムルード・ウォルガードと申します」
「私はクロケットといいますにゃ」
「彼女は僕の、婚約者です」
『まぁ、それは微笑ましいわね。そう……。国名が家名なんですね。では私も名乗らなくては失礼になるでしょうね。改めまして、私はこの国の女王、エミリアーナ・メルドラードと申します。ルードさん、あなたは年齢的におそらく、王子様なんでしょうね。娘をありがとうございました』
器用に片膝をついてルードに会釈をするエミリアーナ。
「ちょっと待ってください。僕はそんな……」
『ウォルガードのことは知っております。我が国など、足元にも及ばない強国と認識しておりますので』
そこまで言われてしまうと、謙遜すると失礼なのかもしれない。
ルードはそう思った。
「僕が強いのでは……。はい。曾祖母のフェリスの名が通っているのだと認識しています」
『やはりそうでしたか。『消滅』のフェリス。実に懐かしい名前を聞きましたね。しかしその、七つの尻尾。どこかで……。もしや、『瞳』のイエッタ』
「はい。イエッタお母さんは、僕の曾祖母のひとりです」
『それは……。マリアーヌはとんでもない方に助けられたのですね』
「あの、この子、ケダマリアーヌという名前ではないんですか?」
『あぁ、それですか。あのですね、ケダというのはこの国の言葉で小さなという意味を持っています』
「それでケダマリアーヌと言っていたわけですか」
「あ、けだまちゃんって呼んでしまいましたにゃ……」
「僕も毛玉みたいにふわふわモフモフだったので、つい……」
『いいの。あたし、そのなまえすきだから、にゃ』
クロケットの手の中でけだまは頭をスリスリしている。
『良いあだ名をつけてもらいましたね。マリアーヌ』
『うん』
エミリアーナに色々なことを教えてもらった。
彼女たち王族は『フェザーハイネス』ではなく、女性は『フェザードラグリーナ』、男性は『フェザードラグナ』と言われているそうだ。
立派な羽を携えているのは王族のみ。
この羽が王族の血の証なのだと。
本来人間が『ドラゴン』と言っている名前の部分が『ドラグナ』ということらしい。
とても長寿ではあるが子供ができにくく、最近やっとけだまが生まれたらしいのだ。
ウォルガードと同じように他種族と交流を持たず、自国だけで食料を作って生活をしているそうだ。
その大きな理由は『言葉が通じない』その一点らしい。
『私も千年以上生きていますが、私たちの言葉を理解してくれた他の国の人は初めてなのです。フェンリルとは凄いのですね。正直、驚きました』
「あの、それ多分、僕だけかもしれません。フェンリラの母もけだま、いえ、マリアーヌちゃんとは話はできませんでしたから」
『それではなぜ、クロケットさんと私はこうして話ができているのでしょう?』
「僕と手を繋いでいるからだと思います。僕だけがなぜか言葉を理解できるみたいなんです。こうして手を繋ぐと、お姉ちゃんも理解できるみたいなんですよね。不思議なんです」
ルードは可能性のある話をエミリアーナにぶつけた。
彼女が導き出した推測は、フェリスとイエッタの血を引き継いでいるくらいしか思い浮かばないということだった。
ただでさえ常識はずれなフェンリル女性と狐人女性の孫なのだ。
そんなことがあっても不思議ではないのかもしれない、エミリアーナはそう思ったのだ。
「でもなんとか、けだまをお返しすることができました。よかったね、けだま……」
『いやっ』
「そんなこと言っちゃ駄目だよ。ママと一緒の方がいいんだからね」
『だって、おいしいのがたべられなくなっちゃう』
「「えっ?」」




