第十二話 ママ、モフモフにされる。
パンができ上がった夕刻後。
食事を終えたルードは、正座をして背筋を正しアンパンを頬張って悦に浸っているイエッタに近寄っていく。
さも貴重なものを食べているかのように、小さく千切っては口に入れて嬉しそうに咀嚼していた。
和服姿のイエッタだと、そんな食後のデザートを食べている姿も、とても優雅な時間を過ごしているように見えるのだ。
「そういえばイエッタお母さん」
「あら、ルードちゃん。どうしたのかしら?」
パンを食べている手を休めてルードを見てくれた。
その目はとても優し気で、
「ママって狐人の姿になったことあるのかな?」
「ないと思いますよ。エランローズにも教えていませんからね。急にどうしたのですか?」
「あのね、イエッタお母さん。あの姿になると身体能力が上がるんですよ。ママってちょっと体力ない感じなので、例の祝詞を教えてあげた方がいいんじゃないかなって思ったんです」
ルードは不思議に思っていたことをクロケットと散歩してきたあの日に確信していた。
人間から狐人状態になってみると、それだけで身体が軽くなるような気がしたのだ。
その上フェンリルの姿を重ねることで圧倒的な力が湧いてきた。
その結果があのような馬鹿げた身体能力。
「ルードちゃんのあのときの状態ですね。確かに驚くくらいの効果があるようです。我は身を守る術を持たないエランローズとエリスレーゼには教えないようにしていました。ルードちゃんも知っているように、誘拐が怖かったからですね」
確かにイエッタの狐人としての姿は美しい。
これが幼い少女や若い女性に加わったとしたら、それはある意味人間と比べると異質なほどに魅力的だ。
猫人、犬人と同じように狐人も争い事が苦手と言われている。
奪い奪われの歴史を歩んできた人間に目をつけられてしまえば、贖う術がないのだろう。
イエッタがエリスたちにそうさせなかったのは、仕方のないことなのかもしれない。
「うん。僕もそれは痛いほどわかったような気がします。今度そんなことが身近に起きたとしたら、僕は躊躇しません。全力で戦います」
「ルードちゃん……」
「なので、旅も辛いでしょうから教えてあげてほしいんです。僕が教えるのは何か違うんじゃないかって思うんです」
イエッタが決めたことだから、イエッタに許しをあげてほしい。
そういうことなのだろう。
「そうね。エリスレーゼー」
「はーい」
エリスはイエッタに呼ばれた理由をおそらく知らない。
そこにはルードの優しさと好奇心が混ざっているとは。
何も疑うことなくすとんとルードとイエッタの傍に座るエリス。
その表情は『何かな? 何かな?』という、愛らしいものだった。
「エリスレーゼ、これから我が言う言葉を復唱してごらんなさい」
「はい?」
「いいわね。『狐狗狸ノ証ト力ヲココニ』」
エリスはきょとんとした目、首を傾げた仕草でイエッタの後に続いて言葉を紡いだ。
「『こくりのあかしとちからをここに』?」
ルードのときと同じように、『ぼんっ』という音と共に煙がエリスを包む。
「あら? あらあらあら?」
「ぷぷぷぷぷ……」
「落ち着きなさい」
「は、はい」
覚悟なしで祝詞を唱えたのだ。
驚いてしまっても仕方がないのだろう。
煙がすーっと消えていく。
そこにはなんと可愛らしい大きな耳。
ふわふわのこれまた大きい尻尾。
それも三本あったのだ。
「いち、に……、三本もある」
「あら、三本もあるのね。これは気づきませんでした」
「えっ? 三本? どういうこと?」
ルードは立ち上がると手近にある手鏡を持ってくる。
エリスはわけがわからないまま、ルードから手鏡をもらい、覗いてみるとそこにはありえない姿が映っている。
「あら? 何これ?」
「うん。ママの大好きな、モフモフ、かな?」
「えっ? えっ?」
さすがのエリスも驚いてしまったようだ。
「我たち狐人にはね、尻尾の数で位を現すのです。位とは、フォルクスでは妖力。こちらで言うところの魔力の内包量の違いですね。二本以上持って生まれるのは稀なのですよ。それも三本ですか。あなたは巫女の素質があったのかもしれません。気づいてあげられなくて、ごめんなさいね……」
とても申し訳なさそうにしているイエッタ。
ルードは音もなくエリスの後ろに回り込んでモフっていた。
「もふもふもふもふ……。ママ、すごいよ。モフモフだよ」
「えっ? えぇええええええっ!」
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フォルクスにいるとき、エランローズを、エリスレーゼを箱入りとして育ててしまったイエッタ。
前述のとおり、誘拐が怖いということが大きな要因だったのだ。
男性の狐人と違って、女性の狐人はその耳と尻尾の美しさから狙われないように変化を教えない風習があったようなのだ。
イエッタの家も例外ではなかった。
彼女自身、見る力に特化しているからといってそれは攻撃にも防衛に特化した力ではない。
けん制にしか使えない力では娘たちを守り切れないと思ったのだ。
そのようなこともあり、ローズやエリスを人間の娘として育てることになった。
そうした方が、幸せになれる。
そのはずだった。
ただ人間の欲望はその上を超えていた。
まさか、エリスがあの豚に見初められるとは思っていなかったからである。
あれはイエッタにも誤算だった。
ただ、エルシードとルードが生まれてくれた。
それだけは神に感謝したのだ。
エルシードを死なせてしまったのはイエッタも力不足を感じた。
容姿と言うのはそこまで危険性を孕んでいるとは思ってもいなかったのだ。
「もふー、もふー……」
エリスはルードを膝に寝かせて尻尾で包むようにしている。
最近疲れていたのだろう。
ルードはモフりながら眠ってしまって、寝言までモフっていた。
「イエッタお母さん、これは?」
「ルードちゃんが言ってたの。身体能力が上がることがわかったから、あなたにも教えて欲しいと。どうかしら? 何か変わった感じがする?」
言われてみれば確かに違うかもしれない。
拳をぎゅっと握れば、以前よりも力強く握れるような気がする。
膝に眠るルードを抱いてみた。
これがまた軽々と抱き上げることができてしまう。
「……なにこれ? 嘘みたい」
「ルードちゃんが言ったことは本当だったのね」
「身体が軽いのよ。力がぞぞぞぞって込み上げてきたわ。自分の身体じゃないみたい……」
エリスはイエッタにルードを預けると、その場でくるりと後方宙返りをしてしまう。
「よくそうやって小さいころに飛び回っていたものね……」
「えぇ。まるであのときのようにどこまでも走っていけそうだわっ」
「ルードちゃんは敏いだけでなく、こう、ちょっとしたことを疑問に思って検証してしまうのね。我の場合は力はすべて『見る』ことに使ってしまうから、動き回ることがなかったのです。なので気が付かなったんですよね……」
「最初からこんなに動けるならば、エルシードを助けられたかもしれない……。でも、過ぎてしまったことは仕方ないわね。今もあの子はルードちゃんの中に生きてるんですもの」
「そうね。この子にはリーダちゃんの最初の子と、エルシードちゃん。二人の魂が宿っているのね。いつまでもルードちゃんと共にあるのです。仲の良い兄弟ですよね」
「えぇ。リーダ姉さんも言ってたわ。ルードちゃんが二人の分、頑張ってくれているって。頑張りすぎないように私も支えないと駄目ね。これなら私も守ってもらうだけじゃなく、強いママになれそうだわ」
「そうね、我もしっかりしないと駄目ですね。せっかくあの『諦めの毎日』から解放してくれたのですものね」
エリスはイエッタの傍に座り、彼女の抱くルードの頬をつんつんとつつく。
『ふみゅ』と意味不明な寝言を言うルードがまた可愛くて仕方がない。
年は離れていても見た目は姉妹のように二人とも年若い。
九本の尾を持つイエッタと、三本の尾を持つその孫のエリス。
二人とも自分を救ってくれた目の前のルードが大事で仕方がない。
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ルードとクロケットは久しぶりにエヴァンスに会いに来ていた。
けだまはルードかクロケットがいないと落ち着かないようで、結局連れてきてしまった。
城下町では『以前魔物使いの少年がいる』と知れ渡っていたこともあり、ルードたちがけだまを連れて歩いても不思議に思う人は少ないようだ。
けだまもここ数日。
ルードとクロケット、家族に与えられるごはんの栄養の高さもあってすくすくと育ってきている。
クロケットが抱いて歩いているのだが、じっとしていられない気性なのか。
まだ飛ぶことはできないくせにじたじたと羽を動かすことが多くなってきている。
そんな姿がすれ違う人々にも可愛らしく映るのか『可愛い』『もこもこ』などの声をかけてくれるのだ。
クロケットはまるで自分のことのように喜んで愛想を振りまいている。
もちろんけだまは人間の言葉も獣語も理解できていない。
ルードやイエッタあたりでも『龍語』があるのかもしれない程度の理解なのだ。
だからけだまが気づいて振り向くわけじゃない。
それがまた可愛らしく見えるのかもしれない。
この世界では一般の人の間では家畜以外の愛玩動物を飼う習慣はない。
以前のエランズリルドにあった、獣人への扱いとは違う。
純粋に家族として人間、獣人以外の生き物と一緒に暮らすということが考えられていないのだ。
それはきっと『魔獣使い』くらいなのだろう。
貴族街に入るところでシェイブが迎えてくれる。
いつものようにルードとクロケットの姿を見つけると声をかけてくれるのだ。
「ルード様、今日は執事の方は一緒ではな……。なんですかそれ?」
「あ、これね。うちの家族になったけだまだよ」
「けだま……、様ですか?」
「うにゃ。けだまですにゃ」
「そ、そうですか。どうぞお通りください」
きっと彼の頭の中には『?』という文字が浮かんでいるのだろう。
貴族街ではルードたちはある意味有名人。
現国王であるエヴァンス・エランズリルドの甥なのだ。
そしてパン工房『パンのモフモフ堂』のオーナーでもある。
貴族街でもエリス商会の商会長、エリスも有名だ。
以前から一部の貴族の間では、エヴァンスの義理の妹として知られている。
それ以上にエリス商会はこの柔らかなパンの売り主でもあり、ひっそりと貴族の女性の間で流行りつつある髪油のせいでもあった。
エリス商会の御曹司でもあり、エヴァンスの甥でもあるルードを知らない者はここにはいない。
何より手を振り、微笑みかけると同じように返してくれる。
そんな愛らしい少年だから、人気もあるのだろう。
王城へ着くと、やはりけだまを見る人の笑顔が柔らかい。
可愛らしい生き物も心を豊かにするのだろうか。
エヴァンスに会いに来たことを告げると、いつものように謁見の間に案内される。
ルードは扉の前で立ち止まった。
「お姉ちゃん」
「にゃんですかにゃ?」
「前みたいなことないよね?」
「前みたいにゃこと?」
「うん。エヴァンス伯父さんが、リネッタさんと……」
あれは確かにばつが悪い。
クロケットもルードもさすがに唖然としてしまったからだった。
「だ、大丈夫じゃにゃいですかにゃ?」
「うん。ちょっとノックしてすぐに開けないようにしようと思う」
ルードは扉をノックする。
ルードとクロケットは扉に耳を近づけて、中の様子を探ろうとした。
「伯父さん。ルードですけど」
ルードは扉越しにエヴァンスへ語り掛ける。
中ではごそごそと何やら慌ただしい音が聞こえてくる。
「すまない。もう少し待ってくれると助かるんだが……」
「だから言ったでしょう? ルード様が来るかもしれないからって……」
「そんなことを言ってもだね……」
ルードとクロケットは目を見合わせて、苦笑していた。
「お姉ちゃん。思った通りだね」
「そうですにゃね、ルードちゃん」
『ぐぎゃぁ』と、けだまもわけがわからないが鳴いていた。
▼
「いやぁ、申し訳ないね」
「こんなことばかりでは、あなたとの婚姻を考え直しますよ……」
エヴァンスは国王というより、ちょっと駄目な伯父になってしまっている。
その彼を窘めているリネッタは、何やら気苦労をしているようにも見えた。
前よりも仲がよさそうに見える二人は、おそらく油断していたのだろう。
ルードたちよりも先にリーダとイリスが来ていたはずだ。
ここにいないということは、きっと今日の会合は終わっているのだろう。
「伯父さん、リネッタさん。仲がよさそうで安心しましたよ」
「そうかい? やっとリネッタも私の妻になってくれると言ってくれたんだよ」
「本当ですか?」
「いえ、考え直そうと思い始めてきましたわ……」
「そんなこと言わないでくれないかな……」
「知りませんっ!」
何やら尻に敷かれているような二人の関係。
今にも死んでしまいそうなほど憔悴していたのだが、今は精力的で、元気そうなエヴァンス。
心配そうな表情だったが、気を振り絞ってエヴァンスの介護をしていたリネッタ。
二人とも、初めて会ったときよりも安心そうに見える。
それに、二人は結婚するのだろう。
今エヴァンスもそう言っていた。
見た目以上に少年っぽいエヴァンスに手を焼いているように見える、優しいお姉さんみたいなリネッタ。
まるで自分たちを見ているような気分になってくる。
「あの、母さんからそろそろ王室も安定してきたと聞いたのですが?」
「そう、それなんだよ」
「はい?」
「いや、凄いね。リーダ様とイリスさんは」
「そうですか?」
「あぁ。私はね、亡くなった父から国王になるべく小さなころから国を治めるために必要なことを叩き込まれてきたんだ」
いわゆる英才教育というものなのだろう。
ルードには行われていない育てられ方のようだ。
「はい」
「それがね、私も知らないような家臣の育て方から始まってね、もう圧倒されてしまったんだ」
「一応、母さんもウォルガードの王女でしたからね。そういう勉強もしてきたんでしょうね」
「そうなのかい。それに加えて、リーダ様の案を補完するように隙間を埋めていくイリスさんの提案も凄かった。つくづく思い知らされたよ。ウォルガードは力だけではない強国だったことをね……」
「そこまで言ってもらえると僕も嬉しいです。僕の自慢の母さんと、僕を助けてくれる立派な執事さんですからね」
ルードの笑顔につられてけだまが『ぐぎゃっ』と鳴いた。
その声で初めてエヴァンスとリネッタがけだまに気づいたのだ。
「る、ルード君。その白いもこもこしたのは?」
「なんでしょう?」
言葉足りないエヴァンスの続きをリネッタが補完するように同じ質問をしてくる。
クロケットはけだまの脇に手をいれて、足をぶらーんとさせた状態で二人の前に出して見せた。
そこで笑顔で。
「けだま、ですにゃ」
「いや、お姉ちゃん。間違ってないけど、間違ってるような……」
「うにゃ?」




