第十話 パンの販売開始と久しぶりのお出かけ。
ルードの作った菓子パンの販売が始まった。
ひとついくらくらいで売り出そうか決めかねていたとき、エリスはルードにこんなことを言ってくれた。
「ルードちゃんはね、好きなことをすればいいの。商いのことはね、商人である私が考えればいいのよ。紅玉果のジャムパン、美味しかったわ。あれは売れるっ! 絶対に私が広めるから、ルードちゃんはそういうことは気にしなくていいの」
商売に関してはエリスが心配すること。
そう言ってくれたことで、ルードは作ることだけに集中できる。
貴族街にある『パンのモフモフ堂』はパンの製造をする工房とする。
元々商会のあった城下町の店舗でアンパンとジャムパンを売り出すことに決めたようだ。
貴族街ではなく城下町で販売をすることにした理由は、貴族街と城下町での人の交流を考えたものなのだろう。
貴族街で売られている物を城下町に住む人々が買いに行くのは難しい。
その逆であれば普通に可能なのだ。
そんなことを、エリスはクレアーナと打ち合わせをしたそうだ。
元から料理の得意であったエマーレたち四人は、額に汗しながら忙しそうにパンを焼き続けている。
あれから数日もすると作業工程も洗練されていき、効率よく生産できるようになっていたのだ。
そのあたりはさすがのクレアーナ。
近いうちには彼女の指示がなくとも、パン工房としてひとり立ちできるところまでいってしまうだろう。
エリスの考えた材料費と人件費のバランスを考慮に入れた絶妙な価格設定もあり、甘味としての嗜好品の少なかったエランズリルドではパンは飛ぶように売れた。
瞬く間にシーウェールズでプリンとアイス、温泉まんじゅうを売っている状況と同じように、一般の人々も楽しめるものになっていくのだった。
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「うはうはよ。これは物凄い儲けだわ」
「ちょっとママ。そんなに高い値段なの?」
「そんなわけないわ、十分に安いわよ。求めやすい値段で、作業効率を考えて無理のない状態でもこれだけ儲けが出るの。こうすればね、パンを作る職人さんの給料も余裕で確保できるし、新たな職人さんを育てる余裕もできていくのね」
エリスは商人というより、経営者としての才があったのだろう。
ルードたちが赤ちゃんのときの頃の『傾国の姫君』のようなイメージは、今のエリスには全く感じられない。
パンを売り上げた利益により、他の獣人の雇用も楽になっていくだろう。
そうすれば、また新しい仕事を作ることができる。
まだエランズリルドに来て間もないのだが、エリス商会の名を知らない者はいないくらいになっていたのだ。
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パンの製造もルードが必要ないくらいに落ち着いたとき、ルードは休みをとる余裕ができていた。
今日はクロケットと一緒に、沢山のアンパンとジャムパンを持って村まで来ていたのだ。
「はいはい、沢山あるから慌てちゃ駄目にゃのですにゃ」
「これ、お兄ちゃんがつくったの?」
ベンチに腰掛けたルードの膝の上で、アンパンを美味しそうに頬張りながらクロメはニコニコして聞いてくる。
「そうだね。今はここにいたお姉ちゃんたちが頑張って作ってくれてるんだよ」
「そっか。おいしーね。ふわふわのあまあまー」
口の周りにジャムをつけて、小さな口を大きく開けて頬張ってくれる。
ルードがクロメの口の周りを軽く拭いてあげるのだが、食べる勢いは止まらない。
気が付けば回りには沢山の子供たちがジャムパン、アンパンを夢中で頬張る姿を見ることができる。
クロケットも忙しそうに不公平にならないように配り続けていた。
「ほら、にゃくにゃらにゃいんだから、喧嘩しにゃいのっ!」
パンはエリスとクレアーナの努力によって、ルードが思っていたよりも安く買うことができるようになっていた。
今回、ここに持ち込んだものは全てクロケットの小遣いから出されている。
パンを配り終わったクロケットは、やりきったという表情をしている。
毎日見ているルードでも驚くほど、優しい表情をしていた。
「ルードちゃん、私、やっと村に恩返しができましたにゃ」
「うん。僕もそう思う」
ベンチに座っているルードの足の間から、ひょいと顔をのぞかせたクロメが聞いてくる。
「ねぇ、ルードお兄ちゃん」
「んー?」
「お兄ちゃんがそんちょーさんなの?」
「んー、それはどうかな。クロケットお姉ちゃんかもしれないよ?」
「そ、それは違いますにゃっ」
「あははは。だったら僕なのかもしれないね」
「どっちなの? よくわかんないよー」
それはルードの照れ隠しだったのかもしれない。
ルードはくしゃっとクロメの頭を撫でる。
クロメの目は細められ、にーっとルードに笑顔を見せてくれる。
この村も人が増えていたのだが、皆、思い思いの仕事へ就くことができているようだ。
ルードの作ったパン工房の『パンのモフモフ堂』。
エリス商会で働く者。
村で米の生産に従事するもの。
ルードが解放した獣人の人たちは伸び伸びと生活できているようだ。
そのことは、ヘンルーダが嬉しそうに教えてくれたのだ。
あとは、リーダが頭を抱えながら進めているエランズリルドの立て直しだけになっていた。
これに関しては、ルードは方法を産業としての提案はできても国の運営はリーダほど詳しくはない。
というより、まったくの専門外なのだ。
今日はイリスは二人についてきていない。
それもそのはず、イリスもリーダについて手伝っているらしいのだ。
本当はルードにぴったりとついて回りたいはずなのだろうけど、そこはリーダが許さない。
ある意味ルードのためになると思っているからこそ、イリスを引っ張りまわしているのだろう。
ルードたちは猫人の村を出て、二人の育った森をゆっくりと散歩していた。
ルードがいれば、まず獣や魔獣は襲ってくることはない。
それはウォルガード手前の森で証明できている。
この森でも気配を感じることはあっても、滅多にルードの前には姿を現すことはないのだ。
小さいころ、リーダに狩りを教えてもらったとき『気配を消しなさい』と言っていた意味がこれだったのかもしれない。
「あのさお姉ちゃん」
「にゃんですかにゃ? ルードちゃん」
クロケットはルードの手を握って嬉しそうに木漏れ日の中を歩いている。
「村の名前さ、今までなかったでしょ?」
「そういえば、そうですにゃね」
「クロケット村ってどうかな?」
「や、やめて……」
『にゃ』を忘れるほど動揺していた。
「じゃ、さ。お姉ちゃんが考えてほしいんだけど」
「私がですかにゃ?」
「お嫁さん、の仕事じゃない?」
「そ、そうですにゃ……」
ルードの手を握るクロケットの手に力が少し入る。
こんな何でもないやりとりが、楽しくて、くすぐったくて。
ルードも前よりほんの少しだけ意識した態度になっている。
からかうように、照れ隠しをしながらの意思表示。
それでも、クロケットは充実した日々を送ることができている。
家を守って待っているだけの生活も、あれこれ妄想しながら楽しかった。
ただこうして、ルードと一緒にいられるのはもっと楽しい。
お互いの顔を見たとき、ちょっと目が合うと視線をそらしてしまう。
家族であった時間が長いせいだろうか。
家族から姉と弟。
そこから一歩進んだ今の関係。
焦らずゆっくりと、生暖かい目で見守られながら育んでいく。
そんな幸せな時間を大切にしていきたい。
お互いにそう思っているのだろう。
ルードは最近、あることに気づいていた。
「お姉ちゃん、ちょっと待って」
「ん? はいですにゃ」
ルードは足を止めて祝詞を口ずさむ。
『狐狗狸ノ証ト力ヲココニ』
ルードの頭に狐の大きな耳。
尾てい骨あたりから七本のふわっとした大きな尻尾が現れる。
「綺麗ですにゃよね……」
「そう? じゃ、もういっちょ」
『祖の姿、印となる証を顕現させよ』
ルードの耳の毛が少し変質する。
ふわふわだった毛の質が、ちょっとだけ勇ましくなる。
これはフェンリルの姿と同じ毛なのだ。
「うにゃ? ちょっと変わりましたにゃ。尻尾もふさふさから、しゃきっとした感じににゃってしまったですにゃ」
「うん。狐人の状態でもあり、フェンリルの耳と尻尾で七本の状態でもある。って感じかな」
「うにゃにゃ。それってどっちにゃんですかにゃ?」
「どっちも?」
そう言いながら、ルードはクロケットをひょいと抱き上げる。
いわゆる『お姫様抱っこ』の状態だ。
クロケットの目の前にルードの顔が近くなっている。
少しだけ意識してしまった彼女は、頬をほんのり染めてしまう。
「ど、どうしたのですかにゃ?」
「うん、捕まっててね」
「えっ? えぇええええええっ!」
ルードはその場を軽くジャンプする。
すると、木の高さを軽々と超えて、飛び上がることができてしまっていた。
音もなく一番高い場所の枝に着地をする。
この姿だと、ルードの身体能力が人間のときの数倍に跳ね上がることを気づいていたのだ。
フェンリルの姿とほぼ変わらないくらいの跳躍力。
走る速度。
それを気づかないうちに手に入れていたことを最近知ったのだった。
それを実証してみようと今思った。
こうしてクロケットを抱き上げたまま、軽々とこの位置まで来ることができる。
「うん。間違いないみたいだね」
「ど、どういうことですかにゃ?」
「このフェンリルの耳と尻尾、それがこの状態だとね。人間の姿のときより力が湧いてくるんだよ」
「にゃるほど。でも、元々私が追いつけにゃいくらい足が速かったじゃにゃい?」
「そうだっけ? これはね。こう」
枝から軽く飛び上がる。
軽く数メートルはある高さの枝から枝に飛び移ってしまった。
「ね?」
「ね? って、わけわからにゃいですよ」
「あはは。掴まっててね、ちょっと遠くまで行くから」
「うにゃ? うにゃぁああああああっ!」
ひょい、ひょいっと軽々木の上を移動していく。
それもルードがフェンリルの姿で走る速度とほぼ同じ。
景色を楽しむ余裕などクロケットにはない。
ルードの胸に顔を押し当てて、悲鳴を上げ続けるのが精いっぱいだった。
そこは標高の高い山の上だった。
その切り立った崖の上。
ルードはクロケットをゆっくりと下ろすと、遥か遠くを指さした。
「お姉ちゃん、見て」
「うにゃ?」
「あっちがね、エランズリルド。こっちの先に見えるところが多分シーウェールズかな」
見下ろす位置に森の木々が見える。
その先に、エランズリルドが遠くに。
その遥か先には、シーウェールズであろう海だけは確認できていた。
「うにゃぁ。絶景ですにゃ……」
「うん。綺麗だよね」
滅多に見られないこの景色。
ルードは前に、リーダが宝石を拾ってきたと聞いていた。
森の奥。
さらに先にある山からと。
リーダが言っていたあたりがここなのかもしれない。
そう思って来てみたのだが、これは思いもよらない副産物だった。
こうして並ぶと、クロケットの方がまだ拳ひとつは背が大きい。
それでもルードの手をきゅっと握り、頭を寄せてくっついてくる。
「ルードちゃんがこうして連れてきてくれにゃければ、見ることはできにゃかったんですにゃね」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、かな。僕も初めて来たから、こんな景色が見られるとは思ってなかったんだよね」
「私、ルードちゃんと違って、にゃんにもできにゃいけど。一緒にいてもいいんですにゃよね?」
「うん。いてもらわないと僕、困っちゃうよ」
「ありがとう、ですにゃ……」
そんなときだった。
『いたいよ……』
「ん?」
「にゃんかいいましたかにゃ?」
「ううん。僕じゃないよ」
『たすけて、いたいよ……』
「聞こえる」
「はい、ですにゃ」
「こっちかな」
「わかりませんにゃ……」
二手に分かれて探そうとしたとき。
『たすけて……』
「やっぱりこっちだ。もっと下の方」
「えっ? 何も聞こえにゃかったですにゃよ?」
「あれ? 僕には聞こえたんだけど……。まぁいいや。お姉ちゃんちょっとごめんね」
ルードはクロケットを抱き上げて断崖絶壁の崖っぷちに立った。
「ルードちゃん。も、もしかして」
「うん。ごめんね、お姉ちゃん」
ルードは慣れないウィンクをしようとして左目を瞑ろうとしたが、両目を間違って瞑ってしまう。
「あれ? ま、いいや。行きますっ」
「えっ?」
ルードはそのまま崖を滑るように降りて行った。
「いやぁああああああああっ!」
クロケットの悲鳴と砂煙を上げながらルードは絶壁を滑り落ちていく。
フェンリルの毛は山肌との摩擦程度には負けないのだろう。
まるでボートの舵を取るように、右へ左へ実に器用に凹凸を抜けて行く。
「──あああああ。……あれ? 落ちていにゃいにゃ? でもすごい勢いでででででで」
「お姉ちゃん、ちょっとだけ黙っててくれる? 舌噛んじゃうから」
「は、はいです……、あぐっ」
「あとで治してあげるから」
クロケットは口元を押さえて、涙目でこくこくと頷いた。
ルードは声の位置を頼りに勢いよく降りていく。
結局、声の聞こえた方向は崖を降りきった場所からだったのだ。




