第九話 パンが焼けたよ。
翌朝ルードとクロケット、イリス、クレアーナは、朝ごはんを食べ終わるとすぐに『パンのモフモフ堂』へ向かった。
皆の見守る中、作った元種と同量の水。
約二倍強の小麦粉。
元種の一割くらいの砂糖と少々の塩。
まずは元種と水を器に入れて混ぜておく。
別の大きな器に小麦粉と砂糖、塩を入れていく。
木べらを用意して、大きな器に水溶き元種を一気に入れる。
手早く混ぜていくと、だんだん生地がまとまってくる。
ボールから大きなまな板のような板の上に軽く打ち粉をする。
その上のどさっと器から全部出した。
両手を綺麗に洗い、ひたすら生地をこね始める。
途中、まだバターができていないので、オリーブオイルを代用として少しだけ混ぜる。
それからひたすらこねる。
こねる。
こねる。
「お姉ちゃん」
「はいですにゃ」
「腰、痛いの。ちょっと叩いてくれる?」
「はいですにゃ。にゃははは……」
『ここですかにゃ?』『うん、そこそこ』と腰を叩いてもらう。
再開。
生地を折りたたんでは、またこねる。
折りたたんではまたこねる。
こねる。
オリーブオイルが生地になじんで、生地の表面がつるつるした感じになってきた。
ここで器に生地を戻す。
布を上にかけて、窯に少しだけ火を熾して温度を上げる。
窯に入れて発酵を待つ。
「ここまでいいかな?」
「「「「はいっ」」」」
「ちょっと休憩。昨日教えた通り、ジャムを作ってみてください」
「「「「はいっ」」」」
「クレアーナ、これ、なんとかならない?」
「どこかおかしいですか?」
「もういいや。ちょっと休むね。あとお願い」
「はい、ゆっくりお休みください」
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暫くしてから、器から生地を取り出して、また丸めて器に戻す。
それを数回繰り返すと綺麗に発酵して膨れてくれた。
生地を手のひらに二つ乗るくらいの大きさに丸めて、濡れた手拭いを全体にかける。
大きな板のまま、窯に入れて最後の発酵をさせる。
実はこの世界には簡単な時計というものがあり、手のひらに乗る大きさの魔道具として売られていたりするのだ。
ルードの記憶の奥にある十二時間の時計と同じように、十二で区切られた針がゆっくりと動いているだけの時計。
それで時間を計りながら、二つ針が動くごとに発酵具合をみてきたというわけなのだ。
そうこうしている間に、数種類のジャムもできあがっていた。
とてもいい匂いがキッチンに漂っている。
「お姉ちゃん、味見はした?」
「いいえ、パンが焼きあがるまでの我慢ですにゃっ!」
「あははは。さてと、最後の作業を始めますか」
ルードは窯に火を入れる。
クロケットは窯を使うのに慣れているらしく(確かに集落、ヘンルーダの家には肉を焼く窯があった)、準備は彼女がやってくれたのだ。
「んー、だいたいこれくらいですかにゃ?」
「お姉ちゃんを信じるよ。とりあえず、やってみようか」
ルードは十個ほど生地を窯に入れた。
短い針の十二の間にまた細かく目盛りが刻んである。
焼き時間は、ルードの記憶の奥にあるものでは約十分ちょっとだとあったのだ。
おおよそ十分焼いた後、ゆっくりと窯を開けてみる。
いい感じのきつね色に焼けた小さなパンが姿を現した。
「お、結構いい感じかも」
「お、美味しそうですにゃ……」
十個全部取り出して、ナイフでパンを半分に割れるように亀裂を入れる。
そこからむわっと熱気が上がってくる。
昨日作ったジャムを真ん中にたっぷり塗ると、クロケットに渡した。
「はい。お姉ちゃん」
「いいのですかにゃ?」
「うん。食べてみて」
「いただきますにゃ。……あむ。むぐむぐ。う」
「う?」
「うにゃぁああああああっ!」
もう何もいらない。
クロケットの蕩けそうな表情がすべてを物語っていた。
「パンを二つに割って、好きなジャムをつけて食べてみてください」
「「「「いただきますっ」」」」
「坊ちゃま、いただきます」
「ルード様」
「うん。イリスも食べて」
「はいっ」
イリスとクレアーナを始め、皆何も言わずもくもくと食べ続けている。
ルードは皆が試食をしている間、次の生地を窯に入れる。
何度も焼いた結果、百個足らずのパンを焼くことができた。
焼きたては美味しいのだが、冷めても美味しいことがわかった。
窯の火をクロケットが落とすと、今日の焼き作業は終わる。
焼いたパンは、ひとり五個ずつお土産として持たせることになった。
そこから明日の仕込みが始まった。
皆で手分けをして、パンの生地の仕込みをしていく。
ジャムも数種類仕込みをしておき、明日減ってもいいようにしていった。
明日の分の仕込みは、今日の生地の三倍程度。
ルードの手順をクレアーナが指示しながら作らせていく。
決して難しいわけではない。
きちんとした手順を踏めば、ルードでなくとも作れてしまうのだから。
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明日の分の仕込みが終わった。
皆思い思いのジャムをつけて、家に帰るということだ。
ここにいる四人は、ルードたちが別に借りている部屋に住むことになったのだ。
社員寮みたいなものだろう。
小さな部屋だが、城下町で賑やかなところにある綺麗な貸部屋なのだ。
ルードも残ったパンの半分をわざと一日置いておくことにした。
明日になってどの程度乾燥しているか、味は変化があるかが知りたかったのだ。
残りの半分にジャムと、ルードが作った粒あんを挟んでおく。
イエッタが待っているであろう、アンパンのできあがりだった。
明日も早いということで、解散となった。
皆充実した表情をしていた。
明日は三百以上のパンを焼くことになる。
それでも、美味しいものを作ると言うのは時間を、疲れを忘れさせるのかもしれない。
戸締りをする前に片付けしているとき、イリスがぼそっと言ってくれた。
「ルード様」
「ん?」
「美味しかったです……」
「ありがと」
向かいで作業台を拭いていたクロケットも。
「ルードちゃん」
「ん?」
「大好きですにゃ」
「そっちか。お姉ちゃんったら……」
「クロケット様。どさくさに紛れて何を言ってるのですか? あれほど女性らしくしなさいと」
「す、すみませんでしたにゃ。クレアーナさん」
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ルードの屋敷に戻ってきた。
クレアーナはお土産を持ってエリスのところへ。
ルードはリーダとイエッタのところへ。
「お姉ちゃん、アルフェルお父さんたちの方配ってね」
「はいですにゃ」
「あとで、ヘンルーダさんとこにも持って行ってもいいよ?」
「か、母さんは後ですにゃっ」
本当は持っていきたいのだろうけど、村の皆にも渡さないとならなくなる。
まだ数が少ないから、そのあたりは後日になるだろう。
クレアーナが持ってきた分を含めると、三十個以上は持ってきたのだが、きっとリーダとイエッタでかなりの数を消費してしまうのだ。
安定して作れるようになってから、村に持っていこうと思っているのだから、慌てる必要はないだろう。
クロケットはエリスから小遣い程度だが、給料をもらっている。
使い道がないこともあって、結構な額が貯まっていたりするのだ。
その中から自分で買って、持っていきたいという希望もないとは言えない。
このパンが、あれだけの時間と手間暇かけて作られるとは思ってもみなかった。
だから余計に無理をしようと思わないのかもしれない。
ルードは居間にいたリーダとイエッタを見つけた。
彼女たちはお茶を飲んで寛いでいる。
エランズリルドに来て、彼女たちは何もしていないわけではない。
イエッタは自分の力を使って、帰郷する獣人たちの故郷の特定を手伝っている。
リーダは実はエヴァンスと会って会談をしたそうなのだ。
食っちゃ寝さんとはいえ、元は王女。
国の治め方の知識は十分に持ち合わせているのだ。
エランズリルドの立て直しの、影のアドバイザー的なことをしているらしい。
らしい、というのはルードが聞いてもはぐらかして教えてくれないのだ。
イエッタが言ってた通り、彼女にも考えることがあったのだろう。
「母さん、イエッタお母さん。できたよ」
「あら、本当に?」
「ルードちゃん、その匂い、アンパンなのね? そうなのね?」
リーダはあまり興味がない風に振舞っているが、声のトーンが違っていた。
息子のルードにはそのちょっとした違いがわかっていたのだ。
それもそのはず、フェンリラの姿だったころは、声のトーンで気持ちを理解していた時期もあったのだから、これくらいできても不思議ではない。
リーダはルードがフェリスから聞いた呪文で、耳と尻尾を出したがらない。
それは、尻尾の動きで悟られたくないという部分もあるのかもしれない。
イリスが用意してくれた鞄にたっぷりと詰まった焼きたてのパン。
多少冷めてしまっているが、ルードが初めて焼いたものなのだ。
「母さん、お待たせ。イエッタお母さん、アンパンってこれでいいのかな?」
鞄をテーブルの下に置いて、植物で編まれたバスケットを取り出す。
そこには軽く十個は乗っかっている。
「こっちがジャムで、こっちが粒あんかな。ごはん前だからあまり食べちゃ駄目だよ」
「わかってるわよ。子供じゃないんだから……。驚くくらい軽いのね」
リーダは手のひらに乗るくらい小さいパンは初めて見る。
今まで食べていたのは、顎が鍛えられてもおかしくないほど固いものばかりだった。
それが普通だったから余計にありえないものを見てしまった気がする。
人間を軽く凌駕する力を持っていたリーダ。
その指先で壊さないように注意をしながら触る程度で軽く引きちぎる。
『パリ』っと音を立ててあっさりと千切れてしまう、その柔らかさ。
中に厚く塗ってある紅玉果のジャムがリーダの指をゆっくりと伝って垂れてくる。
そっと口元まで持っていき、舌先で舐めてみた。
甘い。
それだけでなく、紅玉果の酸味も心地よく思えた。
我慢できなくなったリーダは、一口でその千切れたパンをかぶりついた。
「うっそ。歯が立たない。いえ、それはおかしい表現だわ。噛んだ感触がないのよ。嘘みたいに柔らかいわ……」
今までどんな上品に焼かれたパンよりも香ばしい。
普通、この世界のパンには砂糖が練り込まれていないからだろう。
噛めばほんのりと甘く、それ以上に強い甘味の紅玉果のジャム。
口の中にまとわりつくくらい、粘り気の強いとろっとした感触。
それ以上に驚いたのは、生で食べるよりも香りがいいのだ。
体中にじわっと染み渡るような甘さ。
それがパンにも染み込んでいて、口の中にじゅわっと広がっていく。
「──はぁ。ルード、わたしね」
「うん」
「食っちゃ寝って言われてもいいわ、もう……」
「何が言いたいのか、よくわからないよ……」
「それだけ幸せってことなのよ」
「うん。ありがと」
隣に座るイエッタを見ると、彼女の頬には涙が流れていた。
「ルードちゃん」
「はい」
「千年よ。軽く千年は夢見た味だわ……」
駄菓子のようなものではなく、とても上品な味になっているルードの作ったアンパン。
シーウェールズで食べた温泉まんじゅうにも涙したのだが、今回はそれ以上に感動していた。
彼女は和食党なのだが、実は洋菓子が大好きだった。
アンパンが洋菓子かといえばそれは違うだろう。
ルードが作ったプリンもアイスも大好きなのだが、こういうチープな甘味はまた別物。
彼女が千年以上もの間、試行錯誤して似た感じのものを作ろうとしても再現できなかった。
イエッタは、料理が苦手だったのだ。
もちろん、家庭料理程度であればごく普通のものは作れる。
だが、嗜好品レベルともなると、味を覚えていてもそれは無理になる。
料理の得意な者に作らせてみたことはあるのだが、イエッタのイメージ通りな期待に応えられるものはできなかった。
夢や記憶の理想というのは本人が思っているよりも高いのかもしれない。
そういうこともあり、ルードが今初めて、イエッタの理想に叶ったものを作り上げてしまったのだ。
右手にアンパンを、左手にイチゴ味のジャムパンを持って、交互に齧っては懐かしさが込み上げてきて涙が溢れてくる。
「あぁ。生きててよかったわ。ルードちゃんに出会えて、本当によかった……。千年以上、退屈だったの。何もやる気が起きないときもあったわ。でもね、こんなに元気にしてもらえて、こんなに美味しいものを食べさせてもらえたの。ありがとう、ルードちゃん」
「そういうものなんだね。僕は喜んでもらえるのが、一番、嬉しいかな」
ルードは、この柔らかいパンを作る製法を非公開にするつもりはない。
ただ、タバサたち錬金術師の作った麹や酵母。
これをきちんとしたルートから手に入れてもらう。
そういうことだけは確保しておきたいと思っているだけなのだ。
そのうち誰かが気づいて自分で作ってしまっても構わない。
それは現代日本の著作物のように、いつか枯れた技術となって一般的になっていくのだろう。
ルードだって、これを積極的に技術提供するつもりはないのだ。
技術と言うのは一つ間違えれば国家レベルの戦略的なものになってしまう。
それを明かすことで自分の首を絞めてしまうことだってありうるのだ。
家族と人々を秤にかけて、人々を優先するつもりもない。
それは国王となるルードにとっていけないことかもしれない。
ただ、そんなことは国益と考えればどこの国でも普通にやっていること。
自分の家族の、自分の国の利益はそうやって守らなくてはならないのだから。




