第八話 パン焼き工房『パンのモフモフ堂』始動。
ルードは久しぶりに寝坊した。
いつもならばもう誰かに起されているはずなのだが、今日は誰も起してくれなかった。
それどころか、ふかふかの沢山の尻尾で包まれて気持ちよすぎるではないか。
そのふかふかの正体は、イエッタの尻尾だった。
「おはよう。ルードちゃん」
「あ、やっぱりこの尻尾、イエッタお母さんだったんだね」
「えぇ。朝までリーダちゃんが寝かせていたのだけれど、代わってもらったのですよ」
「母さんは?」
「少し話をしたのですけれどね、少し考え事をしたいからって、部屋に戻っていきましたよ」
「そうなんだ……。母さん、大丈夫かな?」
「きっと大丈夫ですよ。とてもいい顔をしていましたからね」
ふわっとした尻尾に包まれた状態で、くいっと身体を起してもらう。
とても柔らかく、リーダとまた違ったいい匂いがする。
海苔は巻かれていないが、味噌焼きおにぎりが用意されていたようだ。
味噌の焦げた匂いがとてもいい香り。
「皆、食べ終わってしまったから、クロケットちゃんが用意してくれたのですよ」
「ありがとう。いただきます。…………、うん、美味しい」
「我もこの焼きおにぎり、お気に入りなのですよ」
「僕もね、大好き。エヴァンス伯父さんも、美味しいって言ってくれたよ」
「そう。本当にいい国に変わりつつあるのね。我がさまざまな人の目を通して見ていたときは、行く末が不安になるような国でした。ルードちゃんが変えてしまったのですよ。よくできました」
「あははは。うん、頑張ったよ。でもね、僕だけの力じゃないんだ。お兄ちゃんも助けてくれたようなものだから」
「そうね。これからも家族に支えられながら、家族を大事にするのですよ」
「うん」
「話は変わるのですけど」
「ん?」
ルードは二つ目の焼きおにぎりを食べ終わり、お茶をもらって一息ついたとき。
「あちらから、小豆を持ってきたのです。それでね、アンパンを……」
「うん。食べたいんだよね?」
「えぇ。夢に出るのです。あの、もちもちしっとりの甘い菓子パンが……」
「わかったよ。アンパンも作ろっか。焼けたパンを真ん中から切って、そこにアンを挟む形になっちゃうけど、それでもいいかな?」
「えぇ。楽しみだわ。お茶もいいし、牛乳もいいわね。それ、いつぐらいにできるのかしら?」
「そうだね。昼までにイリスが店を見つけてくれると思うから、それから元種を仕込んで、明日焼いてみようと思ってるけど。明日の昼くらいかなー」
イエッタはルードを尻尾と共にぎゅっと抱きしめる。
「日本にいた記憶にある食べ物をこうして楽しめるんですね。ルードちゃん、ありがとう」
「日本かぁ。僕もそこにいたんだろうけど、全然憶えてないんだよね」
「無理に思い出す必要はありませんよ。今こうしているのが全てなのですからね」
「うん。さてと、イリスを迎える準備しよっかな」
イエッタはルードの口元を手拭いで拭くと、ひとつ頷いて笑顔で返事をする。
「無理しないでね。楽しみなのはそうなのだけれど」
「うん。皆の笑顔が見たいからね」
ルードはイエッタに笑顔を向けると、キッチンに向かっていった。
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「ルード様、ここでございます。エヴァンス様にも許可を取ってありますので、今日からでもお使いくださいとのことでした」
「ありがと。これまた立派な店だねぇ……」
イリスがドアを開け、招き入れるようにルードを案内する。
ルードが足を一歩踏み入れたとき。
「「「「お待ちしておりました。ご主人様」」」」
「えぇええええっ!」
「うふふ……」
左右に二人ずつ並んだ、クロケットそっくりの服装をした猫人と犬人の女性たち。
皆見覚えのある女性ばかりだった。
「いや、それにしたって、イリス。やりすぎでしょ?」
「ルード様の呼び方でしょうか?」
「うん」
「別にわたくしが教えたわけではないのですが……」
「嘘でしょう? じゃ、一体誰が……」
「私です。坊ちゃま」
奥からすーっと現れた女性は、ここにいるはずのないクレアーナだったのだ。
「えっ? あれ? なんでクレアーナが」
「エリスレーゼ様からここにいる人たちの教育をするよう申しつけられております。イリスさんの手を煩わさないよう、私が叩き込ませていただきました」
よく見ると、皆クレアーナの一言一句にびくっとしながらも、笑顔を作っていた。
きっとスパルタだったのだろう。
「(クレアーナって、怒ると怖いからねぇ……)そ、そうなんだ」
「はい。それにですね、これから作られるパンを知らなければエリスレーゼ様に報告もできないですからね。これは立派な『事業』なのだとエリスレーゼ様はおっしゃっていましたし。半端なことはさせられませんので」
実は、こと作法に関してはクレアーナはイリスが一目を置いているくらいなのだ。
実はクロケットにリーダとイリスが教えていたとき、横から少し女性らしい仕草を教えていたのはクレアーナだったのだ。
このクレアーナの実直な物言いに関しては、イリスも『うんうん』と頷いている。
きっと通ずるところがあるのだろう。
「ルードちゃん待ってくださいにゃ。私も作り方、見たいですにゃっ! 置いて行っちゃうにゃんて、お姉ちゃん悲しいですにゃ……」
そこにクロケットが走り込んでくる。
それはもう、悔しそうな表情たっぷりで。
そうしてやっと『パンのモフモフ堂』が始まったのだった。
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暫く使っていないはずのパン焼きのできる窯を、ルードがチェックする。
少し埃が被っている程度で、火を入れれば使えるだろう。
本来は肉などを焼く窯のようだったから、窯の中の底に当たる部分が少し肉の焦げたようなもので汚れていた。
ルードは率先してその汚れを落としている。
焦げ付いたものを丁寧にこそぎ落としていく。
料理は掃除が基本なのだ。
それはルードもクロケットも同じだと思っている。
料理はそれほど得意ではないらしいが、クレアーナはそれ以外のことであれば完璧超人である。
獣人の女性たちに掃除の仕方を教えながらも、手を止めることはない。
あっという間にキッチンがピカピカになっていった。
「イリス、例のものと小麦と塩は?」
「はい、こちらに」
まるでどこぞの五分間クッキングのように、『予め用意してありました』と言わんばかりの手際。
「お姉ちゃん。大きめの器お願い」
「はいですにゃ」
クロケットもルードが何をしたいのか読んでいるかのような阿吽の呼吸で、大きめのボールのような器を用意してくれる。
「これはね元種っていってね。パンを作る前の準備みたいなものなんだ」
ルードは小麦の入った袋からお椀のようなもので掬って摺り切りを使い、分量をしっかりと計って器に入れていく。
塩を入れてから瓶を取り出した。
「これがね、酵母液って言って、僕の家族のお姉さんが錬金術師をしているんだ。そのお姉さんが作ってくれた魔法の材料なんだよ」
小麦の分量よりも少し多めに酵母を入れていく。
「お姉ちゃん、砂糖を水で溶いておいてくれる?」
「はいですにゃ」
手早く砂糖水を作ってくれるクロケット。
それを受け取って、酵母の入っていた瓶に補充していく。
「酵母ってね、野菜みたいな生き物なんだ。こうすることでね、死なないでいてくれる。時間が立つと元のように増えてくれるんだよ」
酵母と小麦の入った器を手早く棒を使って混ぜていく。
どろどろのものができ上がると、ルードは窯に少しだけ火を灯す。
『炎よ』
こうすることで少しだけ窯の中の温度が上がっていく。
そこに器の上に蓋をして窯に入れて蓋をした。
「これで暫く置いて一回目の作業が終わるんだ。結構時間かかるから、その間にジャムを作っちゃおうか。イリス、果物と砂糖を。お姉ちゃん鍋お願い」
「はい」
「はいですにゃ」
そこでクレアーナが説明を始める。
「今までの坊ちゃまの作業工程、頭に入りましたか?」
「「「「はいっ、先生」」」」
「よろしい。もしわからないときは、後で私が教えますので」
「「「「はいっ」」」」
まるで軍隊のような一体感。
どれだけ短い間にしごいたのだろうか。
『教える』と言ったということは、これだけの流れをクレアーナは理解しているということなのだ。
きっとタバサにあらかじめ教えてもらっていたのだろう。
イリスが果実と砂糖を持ってきてくれる。
今回用意したのは苺に似た果実だ。
食味も食感もそっくりで、甘酸っぱくて美味しい果実だ。
紅玉果という名前でこのエランズリルドでも普通に流通しているものだ。
安くて美味しい、砂糖漬けでもそのままでも食べられる、そこそこ人気のある果物だった。
ルードは水で紅玉果を綺麗に洗う。
丈夫な蓋つきの鍋に入れて、同量より少なめの砂糖をどっさりと入れていく。
この国の砂糖はシーウェールズと同じように、それほど白くはない。
精製される方法の違いなのか、白い砂糖もあるという話は聞いている。
見た目よりも味優先のルードにはそれほどこだわりはないのであった。
「この状態でね、軽く混ぜる。蓋をして一晩置くとね、果物から水が出てくるんだ。本来ならそこまで待つんだけど、ここはちょっとだけ反則技を」
「ルードちゃん、『あれ』ですかにゃ?」
「うん。そうだね」
ルードは鍋の蓋を閉めると、魔法の詠唱を開始する。
『風よ、圧力をかけ、それを逃がすな。風よ、鍋から空気を抜け』
すると、ルードの魔力に呼応するように、鍋がきしむような僅かな音が聞こえてくる。
ルードは魔力を注ぐのをやめる。
蓋を開けると、そこにはしっとりと砂糖が紅玉果の水分を吸いだした状態が見て取れたのだ。
「お姉ちゃん、黄玉果ある?」
「はいですにゃ」
レモンに似た黄玉果。
それを鍋にぎゅっと絞ると鍋に火をかける。
沸騰してアクが出てくる。
それを丁寧に掬って取り除く。
焦げないようにゆっくりと煮詰めていった。
「うにゃぁ。いい匂いがしてきましたにゃ。甘くて、すっぱくて……」
「うん。これでね、とろっとするくらいまで煮詰めていくんだ」
「ルード様、その、味見しても」
「もうちょっと待っててね」
「はい、すみません……」
イリスも匂いで我慢できなくなったのだろう。
クレアーナは自分よりも年上のはずのイリスが可愛く思えてしまっている。
まるで妹を見るような目で、微笑んでいたのだ。
「待っている間、やることがないからといってぼうっとしていてはいけませんよ。あなたから坊ちゃまに自己紹介なさい」
「はい。あの、先日は助けていただいてありがとうございました。私、エマーレと申します」
白い髪にひと房だけ黒い髪の混ざる猫人の女性。
次に前に出たのは耳も尻尾もふさふさのタバサにそっくりの灰色の毛の犬人女性。
「私も助けていただきました。カグレラと申します」
「わ、わたしは、テロールと申します」
この女性も犬人。
黒いショートの女性。
耳はクレアーナに似ているが垂れていて小さい。
大きかったらよく似た感じだな、とルードは思った。
「あの、先日はありがとうございました。ボク、オーメルと申します」
猫人の女性でミケーリエルの色より一色少ない感じの毛色だ。
四人とも覚えはある。
ルードが助けた人たちの中にいたのだから。
「うん。よろしくね」
「「「「はいっ」」」」
「クレアーナ、やりすぎだってば……」
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そんなやりとりをしていると、徐々に鍋の中身はとろっとした感じになっていく。
ルードが匙で掬って軽く落とすと、とろっとした果実もぼてっと鈍く落ちるくらいになっていた。
「本当はもう少し煮詰めたいところだけど、んー、まぁいいか」
ルードは鍋を火からおろす。
濡らした手拭いの上に鍋を置くと『じゅっ』という音と共に熱を奪っていく。
『氷よ、熱を奪って凍らさない程度に冷やせ』
相変わらずいい加減な魔法詠唱。
これで起動してしまういい加減さがルードの怖いところだ。
粗熱がとれたくらいで冷やすのをやめる。
「ん。これくらいでいいと思う。お姉ちゃん」
「にゃんですかにゃ?」
「あーん」
「あーん?」
ルードはクロケットの口の中に小さな匙でジャムを食べさせた。
「あむ……。うにゃぁあああん……。あまあま、とろーり。にゃんともいえませんにゃ……」
クロケットの表情を見た皆は、その味を想像しただろう。
「イリス」
「…………」
「イリスってば」
「はっ、はい」
「パン持ってきたよね?」
「はい、ここに」
ルードはタバサから分けてもらったパンを薄く切ると、上にジャムを乗せてイリスに渡す。
「イリス、あーん」
「そ、そんな。わたくしになんて。……あーん」
クロケットの表情を思い出したのか、あっさりと陥落してしまう。
「だ、駄目です。これは、絶対人を駄目にしてしまいます……」
「どんな表現なんだか。これがね、明日焼くパンの原型なんだ。これから皆にジャムと一緒に試食してもらうから。まずはクレアーナね」
クレアーナはルードに言われる前から口を開けて待っていた。
ルードは苦笑しながらも、薄く切ったパンにジャムを乗せてクレアーナに食べさせてあげた。
「……むっ。こ、これは。とてもおいしゅうございましゅ……」
「クレアーナさん、噛んでますにゃ」
「そ、そんなことはありませんよっ」
クレアーナは顔を赤くして横を向いてしまう。
「ルードちゃん、私も、お願いしますにゃ」
「はい、お姉ちゃん」
「んまーですにゃ。至福ですにゃぁ……」
なぜかルードの前に並んだ皆は、目を瞑って口を開けて並んでいる。
ルードは『仕方ないなぁ』と言いながらも、一口ずつ食べさせてあげた。
誰もが言葉を失うほど喜んでくれていた。
さっきの元種を出して、小麦粉を追加し、塩と水を入れてまんべんなく混ぜる。
そのまま蓋をして、また窯の中に入れておく。
その後、皆で手分けをして数種類のジャムの仕込みをしていく。
ルードは小豆を洗って水に浸けておいた。
元種も二倍近くまで増えていて、表面にぷつぷつと細かい穴が開いている。
これで二回目の発酵が終わったはずだ。
氷室に入れて凍らない場所で一晩放置する。
これで明日の準備は終わった。
「これで元種ができあがりました。明日はパンを焼くからね。ゆっくり休んでください」
「「「「はい、お疲れさまでした。ご主人様」」」」
「これ、どうにかならないかなぁ……」




