第七話 パン作りに向けての準備。
クロケットが案内をして、屋敷に向かうことになった。
ルードは早速タバサの元へ一度戻ることになった。
今回は、夕方までにはこちらに帰ってくるつもりでいる。
「イリス、悪いけどさ。時間が惜しいんだ。乗せて行ってくれるかな?」
「はい。喜んでっ! 『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』」
ルードの返事を待たずして、フェンリラの姿になるイリス。
ひょいとイリスの背中に乗り、ルードはクロケットに話しかけた。
「お姉ちゃん。早めに戻るから、ママたちをお願いね」
「はい、わかりましたにゃ。気をつけていってらっしゃいですにゃ」
「うん。いってきます」
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イリスはルードに教わった方法で走り続けていた。
その速度は、今までの比ではなかった。
今までは無理やり大気を切り裂くように走っていたのだが、今はまるで空中を滑るかのように疾走している。
イリスの背中は揺れない。
「ルード様、これ、凄いですね」
「う、うん。ちょっと加減してほしいかな……。息が、苦しい……」
「はい? 何かおっしゃいましたか? それにしても、これは加速しやすいですね。まるで空を飛んでいるような、そんな感じが……」
ルードはそろそろ限界だった。
顔を上げられないほどの空気の壁。
イリスにしがみついて、かろうじて首元の毛の間から呼吸ができるくらいなのだ。
「イリス、苦しいって……。おねがい、だから」
「そろそろシーウェールズが見えてきましたよ。減速しますから捕まっていてくださいね」
徐々に速度が落ちていく。
それにつれて、呼吸も徐々に楽になっていった。
「……ふぅ。危なかった。イリス」
「はい」
「苦しいって言ったじゃないのっ!」
ぺちっとイリスの頭を軽く叩く。
「も、もうしわけございません。走るのが、楽しすぎて、その……」
「もういいよ。今度から気を付けてね」
「はい。かしこまりましたっ!」
ととん、と軽く跳躍してから、イリスは姿を変えた。
空中で人の姿になると、ルードを背負ったまま着地してゆっくりと走り始める。
実に器用なものだった。
クロケットと三人でエランズリルドへ向かったときの時間よりも、かなり早くついてしまった。
予想より早くついたのはいいのだが、ルードの髪の毛はくちゃくちゃ。
イリスが後ろから髪に櫛を通しながら、ウェルダートの受け答えをするルード。
ウェルダートも『忙しそうですね』と苦笑していたくらいだった。
タバサの工房へ着くと、見習いの人を捕まえてタバサの所在を確認する。
自室にいると聞き、そのまま扉をノックする。
「タバサさん。ルードです」
「あら? エランズリルドにいたはずじゃ?」
扉を開けてくれたタバサは、少し驚いている。
それはそうだろう、つい先日エリスたちが出立したばかりだったのだ。
「うん。さっき急いで戻ってきたんだ。あのね」
「えぇ」
「酵母が欲しいんだ。なるべく多めに。あの方法、成功した?」
『あの方法』とは、ルードが宿題のひとつとしてお願いしておいたこと。
「えぇ。あたしの好みになってしまうけど、これが一番美味しくて柔らかかったと思うわ」
そう言ってタバサが出したものは、丸い紫色をした小さな粒の入ったもの。
こちらの名前はわからないが、おそらくはブドウなのだろう。
「これって、ブドウ?」
「他の国ではブドウって言うのね。これはこの国でも売ってるけど、紫粒果という果物ね。これからお酒も作れるのよ」
やはりブドウと似た果実なのだろう。
「あたしの好みで決めていいって言われたからね、これを大量に作ってあるわ」
「うん。助かるよ。どのくらい作ってあるの?」
「そうね。この小さな瓶で百くらいかしら?」
「うっそ。そりゃすごいわ」
「これならね、あたしの助手たちでも作れるのよ。温度管理を間違えなければ、いくらでも作れるわ。でもいいのかしら?」
「うん。言いたいことはわかるよ。これはね『錬金術師しか作れない』んだからね」
確かに品質の違うものなら見様見真似でも作れるだろう。
材料の選別はどうにかなるかもしれない。
だが、繊細な温度管理、特にこれは魔法を使っていたりもするのだ。
「それ、壊れないように持っていけるかな?」
「大丈夫だと思うわ。ケースに入れれば割れることはないと思うし。それにね、案外丈夫なのよ、この瓶」
試験管とは違い、黒ずんだガラスでできた容器。
手のひらに乗るくらいの大きさだが、密閉されたちょっと重みのあるものだった。
「これひと瓶でどれだけ作れた?」
「そうね。この大きさなら、二十個はいけるわよ」
その試作品のパンは、ルードの顔の大きさはある大雑把なものだった。
それでいて食欲をそそる香ばしい匂いがするのだ。
料理が苦手という割に、食品工業として作業をすると、錬金術師には料理も立派にできてしまうのだろう。
タバサが軽くつまんで力を入れるとパンは不思議な音をして、軽々とちぎれてしまう。
ルードがそれを口に入れると、確かに柔らかくて食感がいい。
顎が疲れるなんていうことは全くない。
外側が少しパリッとしていて、中はもちもちしている。
小麦の香もいい感じに思えて、何もつけていないが美味しく思えた。
「うん、美味しい。これならいけるかも」
「喜んでもらえて嬉しいわ。あたしとしてもこれは自信作なのよね」
「じゃ、これ。もらっていっていいかな?」
「助手に準備させるわ。ちょっと座って待っててくれるかしら?」
「うん。忙しいところごめんね」
「いいのよ。好きなことさせてもらってるんだからね。あ、それでね、ローズさんのごはん、美味しいのよー」
「あ、僕食べたことない。いいなぁ」
結局食べ物の話になっていた。
タバサの助手が鞄に割れないよう、酵母の入った瓶を入れてくれた。
かなりの重さになっていたが、ルードにとっては大したことはない。
『どっこいしょ』と背負ってよろけたところを、イリスが支えてくれる。
イリスも同じくらい大きなカバンを持っているのだ。
「あははは。ちょっと重かったかな。でもこれくらいっ」
「ルード君、美味しいものを作ってね」
「うん。よだれが止まらないくらいのを作るよ」
「あたしだって負けないわよ。例の遠心分離法、いい方法考えたのよねー」
「おぉおお。それは楽しみかも」
「楽しみにしててね」
「うん。じゃ、戻るね」
「いってらっしゃい」
「うん。行ってきまーす」
いつも通り正門で見送られながら、ルードたちはシーウェールズを後にする。
さすがに人気がなくなったあたりで、イリスの背中に乗せてもらうのだ。
ルードが走るよりも遥かに速い。
今回は時間がもったいないからイリスに甘えることにした。
「イリス、ありがとね」
「いいえ。お役に立てるのがわたくしは嬉しいのです。こうして連れて歩いてもらえるのが嬉しいのです」
「あのとき、イリスが執事になってくれて僕も嬉しかったよ。いつも頼りにばかりして悪いなーと思ってるんだ」
「ルード様がそんなに早くひとり立ちされたら、わたくし、寂しいですよ……」
「ありがと」
二人分の荷物にもたれかかって、ルードはイリスに乗せられてエランズリルドを目指した。
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陽が暮れる前に屋敷に着くことができた。
何やらまだ騒がしい感じがする。
膝に重さを感じながらのっしのっしと屋敷の敷地内へ。
「イリス」
「はい」
「明日でいいから、この区画で閉まってる店の中で、窯があるところを探して許可を取ってきてほしんだけど」
「かしこまりました。明日の昼までにはご用意できるかと」
「速すぎるよ」
さりげなくルードのツッコミが終わった後、クロケットが迎えにやってくる。
「ルードちゃん、お帰りですにゃ。ごはんできてるから、広間に来てくださいにゃ」
「お姉ちゃんただいま。これ倉庫に置いたら行くねー」
「はいですにゃ」
厳重な警戒は必要ないだろうが、ここがルードのいる屋敷だと周知がされない間は放置するわけにもいかないだろう。
氷室の中の凍らないところに保管することにした。
幸いここの倉庫には氷室が二か所あって、凍らせる必要のあるものと、そうでないものを分けて保存できるようなのだ。
鞄から出していつでも使える準備がこれで整った。
確か多少減っても、糖分をつぎ足しすれば培養させられると記憶の奥の知識にあったはずだ。
一度タバサを連れてきて正しい方法を教えてもらう必要はあるかもしれない。
「イリス、ごはんにしよっか」
「はい。ルード様」
ルードはイリスを連れて、屋敷で待つ皆のところへ向かうのだった。
もしかしたらこんなに賑やかな夕食は初めてかもしれない。
リーダとエリスを中心に、アルフェとマイルスたち。
クロケットの作った味噌汁を飲んでほっこりしているイエッタ。
ルードとクロケットはおかわりを渡したりしながら、忙しく皆の世話を焼いている。
最近イリスは遠慮しなくなったのかもくもくと食べ続け、申し訳なさそうにルードにおかわりをせがむ。
「はい、イリス。いっぱい食べてね」
「も、申し訳ございません……」
「美味しそうに食べてくれるのは嬉しいんだよ、ね? お姉ちゃん」
「そうですにゃ。作った甲斐があるというのですにゃ」
「あ、マイルスさん。部屋の方、どうだった?」
「はい。あのままの状態だったので、必要なものは皆で取ってきました。シーウェールズに持ち帰るものは馬車に積むことができたので、思い出していただいて助かりました」
夜逃げ同然で出てきたマイルスたちの部屋が、まだあの当時の状態で残ってるかもしれないとルードが話したことで、荷物が残っていてすべて引き上げてこれたみたいなのだ。
アルフェの商会もそのままで残っていたらしく、荒らされることなどはなかったようなのだ。
この屋敷を拠点として、元の商会でも商売を続けられるとアルフェも言っていた。
獣人たちで商売に興味のあるものに店を任せるつもりらしい。
ルードも焼いたパンを城下町で置いてもらってもいいかも、と思っているのだ。
賑やかで楽しい夕食も終わり、ルードは自室(勝手に決められてしまった)でリーダの膝に寝っ転がっていた。
ここしばらく我慢していたらしく、リーダのストレスが溜まっているかもしれないとエリスから言われたための緊急的な措置が必要だろうと、家族の間で囁かれていたらしいのだ。
「母さん、言わなきゃわかんないよ」
「だって、ねぇ。わたしが一番ルードと居た時間が長いのよ? あまり贅沢言えるわけないじゃないの」
リーダはルードの頬を指でつつきながら、ちょっとだけ拗ねたように言うのだ。
彼女は最近、家族を最優先にしてきた。
どこにいるときも、皆の安全、皆の心配をしていたのだ。
ルードはイリスに任せることができたから、それほど心配はしなかったのだが。
それでも一緒にいられる時間があまりにも少なかったため、最近食事の量が減っていたらしいのだ。
それは誰が見ても首を傾げるほどだったという。
「僕にとって母さんは、大事な母さんなんだよ? 母さんがいなかったら、僕今頃獣の胃袋で消化されちゃって、こうしていることもできなかったかもしれないんだからね」
「そう言ってくれると、とても嬉しいわ。わたしだって、ルードがいなかったら、どうなっていたんでしょうね。ウォルガードの屋敷で、食べて眠る毎日を送っていたかもしれないわね……」
「それ、今とあまんまり変わんないんじゃ?」
「ルードっ?」
「あ、嘘嘘。母さんは綺麗だし、かっこいいし」
「今頃言っても遅いわよぉ?」
ルードの頬をぶみょんと両手で引っ張った。
「いふぁい、いふぁいって。かあふぁん、うぉふがわるふぁったっふぇば……」
「うふふふ。焦ってるルードも可愛いわね」
「んもう……」
結構本気で引っ張られていたのか、頬がひりひりしていたが、これもなんだか幸せに感じていたのである。
「ルード、あなたは本当にやり遂げちゃったのねぇ。わたし、何をいままでやってきたのかしらね。女王になることから逃げて、王女であることから逃げて、あの子を亡くして。泣いて、落ち込んで。あなたに会って助けられて」
「僕は、母さんがいてくれただけで、十分だったよ?」
「そう?」
「うん。お兄ちゃんにも会えたし、エルシードの敵もとれたし。今でもね、こうして僕の中に二人を感じられるんだ。この左目の奥と、右目の奥にね」
「そう……。わたしはね、あなたがやりたいことを見守ることにするわ。何があっても、あなたを信じる。好きなようにやりなさいね。全ての障害はわたしが取り除いてあげるわ」
「あのね。僕だってもうすぐ十五歳だよ。いつまでも子供じゃないんだ。……でもね、かあさんがいてくれるのは心強いよ。母さんがそう言ってくれるなら、僕。頑張ってみるよ」
「えぇ。頑張りなさい。あなたを必要としている人は、この世界には沢山いるわ。わたしたちフェンリルにできなかったことを、あなたはやろうとしているのだからね」
「そうかなぁ」
「そうよ。わたしが言うんだから間違いないわ」
「あははは。母さんが言うならそうなんだろう、ね……」
ルードは疲れたのだろう。
すぅっと目を閉じて眠ってしまった。
気が付けば可愛らしい寝息を立てていた。
こんなに小さな身体に、沢山の人の期待を背負って足掻いている。
リーダは母親として、この先何ができるだろう。
妹分のエリスだって頑張っているのだ。
今まで逃げていた分、余計に考えなければならない。
彼女はそう思ったのだった。




