プロローグ 燃え尽き症候群なルード君。
三章開始となります。
ちょっとゆっくりになるかもです。
早めに毎日更新できるようにストックを貯めないと……。
シーウェールズにあるフェルリーダ家。
暑い時期も過ぎ、そろそろ日差しも弱くなってきていた。
そんな昼前の庭先で、ルードがひとり、ぽかーんとした表情で呆けていた。
抜けるような青い空。
ところどころ薄い雲がかかっているが、その青い空はどこまで繋がっているのだろう。
そんな空の美しさに見惚れているわけではなく、庭に寝っ転がってただぼーっと空を見つめている。
まるで魂が抜けてしまったかのようなルードの表情。
それは喪失感ではなく、やり遂げてしまってどうしたらいいのかわからなくなってしまったようなものかもしれない。
そんなルードをリーダとイエッタは遠巻きに見ていてあげるしかできない。
イリスもどうしていいかわからないでいる。
ルードに声をかけようとしたとき、両肩を叩かれて、首を横に振られると何も言えなくなってしまうのだ。
手を貸すでもなく、事を促すでもない。
ルードは今、何も困っていないのだから助けようがないのである。
その横顔は少しだけ大人っぽい。
多くの人の人生を一時的にでも背負ったのだから。
ルードはいずれウォルガードの王となる存在なのだから。
だからといって、今回のことができて当たり前というわけではない。
まだ十五歳にもなっていない少年の双肩には少し重たかったかもしれない。
それでも背負うと決めた男の子を止めるほど、リーダとイエッタは無粋ではないのだ。
だからこそ『お尻を拭いてあげる』。
そうして背中を守ってあげるのが優しさというものなのかもしれない。
誰が敵に回ったとしても、リーダとイエッタ、イリスは『ルードのお尻を拭いてくれる』のだろう。
リーダ、イエッタ、イリスはリビングでお茶を飲みながら温泉まんじゅうをつつきつつ、ルードの様子をぼうっと見ていた。
三者三様、ルードの様子がどう見えているかは置いといて、皆『可愛い』と眺めているのがどうしようもない。
ミケーリエル亭、タバサの工房の手伝いが終わったのだろうか。
クロケットが帰宅してきて、リビングの異様な状況を見て呆れてしまった。
三人とも、無意識に温泉まんじゅうを食べ続け、お茶を飲んではまた食べている。
そうしながら、彼女たちはルードを見て微笑んでいるではないか。
「にゃ」
リーダ、イエッタ、イリスが振り向いて。
「「「にゃ?」」」
一拍置いてから。
「にゃにをしていらっしゃるのですかにゃ?」
クロケットは尻尾をパタパタと大きく早く左右に振っていた。
こんなとき猫は不機嫌だったりするのだ。
その動きに加えてクロケットのその表情だった。
口元は笑っているようだったが、目は笑っていない。
そんな表情だということがわかると、三人は素直にしていたことを話すのだった。
「可愛いルードを見ながらお茶とおまんじゅうを」
「可愛いルードちゃんを見ながら美味しい──」
「可愛らしいルード様を──」
「にゃんですかそれは……」
開いた口が塞がらない。
クロケットはそんな心境だったのだ。
▼
確かにルードをぼうっと見ているのはどれだけ長くても飽きることはないのはクロケットも知っている。
ただ、ルードがエランズリルドから帰ってきてから、様子がおかしいのにも気づいているのだ。
今日のルードはとにかくおかしい。
クロケットが出るとき、いつもならミケーリエル亭まで送ってくれていたのだが、ずっとあそこから動いていない。
まるで抜け殻のような状態。
クロケットは背中がぞっとする。
気が付いたときにはクロケットは走り出していた。
「あ、クロケット様──」
「いいの。イリスエーラ」
「はい……」
リーダたちはいつでも甘やかすことができるが、クロケットは最近やっと許嫁と認められたばかりなのだ。
悪いとは思ったが、イリスには執事としてでルードを支えてもらわなければならない。
今後のことを考えると、今のルードを再起動させるのはクロケットでないと駄目だろう。
だから今回はクロケットに任せよう、リーダはそう考えていたのだ。
クロケットはスカートを膝の裏に折込み、まるで和服で正座するかのようにルードの隣に座った。
この世界には正式には伝わってはいないが、これはイエッタが女性らしい座り方として教えたものだった。
そのままルードの頭を軽く持ち上げると、膝の上にゆっくりと下ろしていく。
いわゆる膝枕というものだ。
柔らかなルードの髪がうっすらと汗の滲んだ額に張り付いている。
それを左手の指でかるく分けながら、右手には懐から取り出した布で額の汗を優しく拭った。
ルードの目はまだ空ではないどこかを見つめているように見える。
クロケットは苦笑いをした。
まだ気が付かないのか、それともそれだけ重症なのだろうか。
クロケットはルードの額に唇を寄せていく。
中空を見ていたルードの視界に、クロケットの笑顔が入り込んできた。
そこでルードはやっとクロケットに膝枕をしてもらっていることと同時に、クロケットの顔が近づいてくるのにも気づいたのだ。
焦ったルードに気づかないクロケットはそのままルードの額に唇で軽く触れた。
ちょっと顔が赤くなったクロケットとルードの目が合ってしまう。
「る、ルード坊ちゃまっ」
「……あ、クロケットお姉さん」
「ぽけーっとして、どうしたのですか、にゃ?」
照れを誤魔化すように、クロケットは『にゃ』の言葉に合わせて目を細めてみた。
ルードは意識がはっきりすると同時に、さっきのクロケットの柔らかな唇の感触を思い出し、ちょっとだけ顔を横に向けて頬を赤くする。
思った以上の反応に、クロケットは嬉しくなる。
「ん。僕ね、なんか力が抜けちゃったのかも」
「それにゃらね、にゃにもしにゃくていいですにゃ」
そう言いながら、クロケットはルードの髪を指先でくるりくるりと弄んでいる。
ルードはその感触の、あまりの気持ちよさに目を閉じてしまいそうになるが、思い出したかのように目を開いて言葉を繋げた。
「そんなわけにはいかないよ。明日にでもママと相談してヘンルーダさんのとこにいる人たちのことを何とかしないと」
「ルード坊ちゃま」
「何?」
クロケットはルードの顔に覆いかぶさるように抱きついた。
ルードが苦しくならないように、狙ったような強さで。
「ルード坊ちゃまが頑張りすぎるとね、私が寂しくにゃるんですにゃよ?」
ルードの目元だけ抱かれている状態。
恥ずかしいと思いながらもルードは申し訳なさそうに思う気持ちを伝えた。
「僕もね、いつも留守番させて悪いと思ってたよ」
クロケットは身体を起してルードの顔を両手で軽く掴む。
自分の目をルードの目にしっかりと合わせて真っすぐに見た。
「それでしたら、連れて行ってくださいにゃっ!」
「うん。約束したもんね」
「危険にゃ場所についていくにゃんていいませんにゃ。エランズリルドは安全ににゃったんですにゃよね?」
「うん」
「だったらついていきますにゃ。温泉まんじゅうはミケーリエルさんにお願いしてるにゃ。プリンもアイスも今はタバサさんが作っているにゃ」
「そうなんだ。それなら連れて行っても大丈夫だね」
「そうですにゃ。今まで我慢してましたのにゃ」
「うん。明日ママに相談したらさ、一緒に行こう」
「はいですにゃ」
ぼうっとしてたルードの気持ちは少しだけすっきりしていた。
クロケットとあの地域に行くのは久しぶりなのだ。
何のために安全にしたのか。
それはクロケットともう一度エランズリルドを歩きたかったのもあるからだった。
ルードは身体を起そうとしたのだが、クロケットが顔を上げてくれないから少し困ってしまう。
「あの、さ」
「はいにゃ?」
「起きられないんだけど……」
「──あ、ごめんにゃさいですにゃ」
クロケットは気づいていたのだ。
背筋を伸ばすと、にこっと笑って誤魔化した。
許嫁と認めてもらったとはいえ、彼氏彼女の関係ではなく、どちらかというと姉と弟のようなものなのだ。
しかし、こうしていてもルードは逃げるようなことはなくなっていた。
それなりに照れてはいるのだが、前ほどではない。
ルードが起き上がると、クロケットはルードの手を引いて立たせる。
「さぁ、ごはんを作るから沢山食べてくださいにゃ」
「うん」
クロケットはルードの耳元でぼそっと呟いた。
「早く大きくなって、私の身長を追い越してくださいね?」
「それってさ、いじめだよね? そうだよね?」
「うにゃ。違いますにゃ。単にゃる願望ですにゃ」
小走りに走っていくクロケットをルードが追いかける。
ルードの足では簡単に追いつかれてしまう。
だからクロケットも本気で走ることはない。
ただ、ルードがクロケットを捕まえようとすると、ひらりとかわして逃げることくらいはできるのだ。
リーダたちはクロケットの実力を認めないわけにはいかないだろう。
ただ話をしてルードのやる気を出させてしまうのだから。
「クロケットちゃん、……末恐ろしい子ね」
「えぇ。愛なればこそとはいえ、あそこまでとはね」
「……わたくしが元気づけてあげたかったのですが」
「イリスエーラ。あなたは少し自重しなさい」
「……すみません」
▼
翌朝、ルードはクロケットをミケーリエル亭へ送っていった。
昨日の感謝の意味も込めて、手を繋いでの出勤。
そのせいか、クロケットは朝からとても機嫌がいい。
こんなささやかなことでも家族は幸せになってくれる。
だからこそ、こんなささやかな幸せすら奪い去った輩を許すわけにはいかないのだ。
エランズリルドで起きた不幸は繰り返してはいけない。
ルードは改めてそう思ったのだった。
「クロケットお姉さん。僕、ママのところで話してると思うから、終わったら寄ってね」
「はいですにゃ」
「じゃ、頑張ってね」
笑顔のクロケット、生暖かい目で見ているミケーリエル。
そんなくすぐったい朝のスタート。
ルードはそのまま隣の通りにあるエリス商会へ向かった。
そこにはアルフェル、ローズ、エリス、リーダ、イエッタ、イリスがいたのだ。
イリスはルードが解放した獣人たちの相談をするためにここに来ることを知っていたため、あらかじめ先に来て説明を始めていたのだ。
そのせいか、アルフェルとローズもいつにも増して真剣な表情になっている。
「おはよう。ローズお母さん、アルフェルお父さん」
「……その呼び方、すごくいいな。なんかじわっとくるな。そう思わないか? エランローズ」
「そうね。息子がいるってこういうことだったのね。頑張らないといけないわ」
「あははは……」
ルードは皆が座っていた会議用のソファに座った。
背筋を正して、皆をくるっと見回す。
「イリスから聞いてると思うけど、僕はエヴァンス伯父さんのエランズリルドを立て直すことの手伝いをすることになったんだ。それと、解放した獣人さんたちのことだけど──」
ルードからの提案はこうだった。
解放した獣人の中には、米の生産を手伝う人が増えたということ。
ヘンルーダの集落とエランズリルドの交易が必要になってくるということなど。
「そうね。父さん、母さん。どう思う?」
エリスは顎に手を当てたまま考え込むと、アルフェルとローズに話を振る。
「そうだな。俺たちの手だけではどうにもならないかもしれんな」
「えぇ。エランズリルドにあった商会、あそこをもう一度使う必要があるかもしれないわね」
ルードが思っていた以上にアルフェルとローズ、エリスは考えてくれている。
商会を軸にして獣人たちを雇用する方法の模索。
交易を前提とする形での、獣人たちの帰郷。
「僕はね、エランズリルドがシーウェールズみたいになってくれるのが一番望ましいと思ってる。そのためにも、エヴァンス伯父さんと密に話を進めないと駄目だと思うんだ。幸い、資金は伯父さんがミーシェリア商会から取り上げたものが潤沢にあるから、それを当てるといいと思うんだよね」
リーダ、イエッタは黙ってルードの話を聞いている。
イリスはルードの説明をサポートするように、現在の状況を事細かに補足してくれる。
皆、ルードの成長を喜ぶと同時に、末恐ろしさを感じているようだ。
たっぷり時間をかけて打ち合わせが進んでいた。
エリスが考えても、これは一大事業になる。
儲け云々ではなく、エリス商会の今後の行方にもかかわるほどの重要な案件だったからだ。
「それでね。今回は皆でエランズリルドに行く方がいいと思ってる。僕とクロケットお姉さんは先に行くけど」
「そうね。リーダ姉さん、私たちは馬車で後を追う形になるけど、姉さんはどうするのかしら?」
「そうね。わたしもイエッタさんと一緒にエリスたちと行こうと思うけど」
「えぇ、我も行ってみたいと思いますね。同行してもよろしいでしょうか?」
「はい。ルードちゃん。それでいい?」
「うん。こっちを空けるわけにいかないから、ローズお母さんは留守番になっちゃうけど」
「それは構わないわ。誰もいなくなってしまったら、タバサさんが泣いてしまうかもしれないですからね」
「そうだね。タバサさんがこっちにいてくれないとちょっと困っちゃうね……。馬車以外の移動方法、考えないと駄目かもしれないなぁ」
そんな感じで打ち合わせは進んでいった。
そうこうしていると、クロケットが仕事を終えてエリス商会へやってくる。
「お疲れ様ですにゃ」
「あ、クロケットお姉さん。おかえり」
「はい、ただいまですにゃ」
「クロケットちゃんも来たことだし。ルードちゃん、私は馬車の手配を始めるわね」
「そうだね。ママお願い。アルフェルお父さん、マイルスさんたちにも説明お願いね」
「あぁ、わかった。任せておいてくれ」
「あなた。これからが大変ね」
「そうだな。でも、ルードのためだ。頑張らないと駄目だろう」
「えぇ。そうね」
こうしてエリス商会発足後、初の一大プロジェクトがスタートすることとになったのだった。
「あの、わたくしは?」
「イリスエーラはわたしたちと一緒に馬車ね」
「せ、せめてお二人の世話をするためにわたくしはついていきたいのです……。ルード様は将来わたくしの旦那様になりますし、クロケット様は奥様になられるのです。いまのうちから、その……」
とても言い訳がましいが、ついて行きたいという気持ちは伝わってくる。
リーダは苦笑しながら。
クロケットは『奥様だにゃんて』『奥様だにゃんて』と呟きながらイリスの背中をバシバシ叩いていた。
何気に力が強く『痛い』とも言えず、苦い顔をしてルードの言葉を待つイリスだった。
「どうする? ルード。二人っきりじゃなくなっちゃうけど?」
「いや、別に、そういうわけでは。……クロケットお姉さん」
ルードはクロケットに判断を仰ごうと思ったのだが、彼女はイリスの背中をバシバシ叩き続けていた。
『猫パンチ』とは言えないほどに強い力で。
はっと我に返ってルードを見て、目を細めて笑顔で誤魔化そうとしながら。
「い、いいですにゃよ。イリスさん。一緒に行きましょうにゃね」
最後の呟きは皆にもはっきりと聞こえていた。
クロケットの口元からは八重歯のような牙のような、可愛らしい歯がちらりと見えるほど緩んでしまっている。
イリスに『奥様』と言われて嬉しかったのだろう。
彼女の口元がにやにやしているのは、誰が見てもわかってしまうのだ。
「あ、ありがとうございます……」
イリスは背中をクロケットに見えないようにトントンと叩きながら礼をしていた。
これで何とかイリスは、二人に同行できるのだった。
「……奥様だにゃんて」
クロケットのぼそっとした呟きに気づいたイリスは、ルードの背中に逃げようとしていた。




