閑話 崖っぷちの王と彼を支えた優しい女性
村長の孫だったリネッタは責任感の強い娘だった。
リネッタはこの国へ来た理由は、村の農地を見回っているときに人間に捕まってしまったからだった。
村である異変があるという報告を村人から受けていたのだ。
それは根菜を植えていた畑が連日荒らされているということだった。
近隣に村もないことから、獣が荒らしたとしか思えなかった。
かといって、皆が丹精込めて作ってくれているものだからこそ放置しておくわけにはいかない。
リネッタはひとりで見回りをしていた。
『獣くらいなら私だって追い払える』という軽い気持ちで考えていたのがいけなかった。
まさかその畑荒らしが人攫いの罠だったとは思わなかったのだ。
そんな人攫いの巧妙な罠にかかってしまい、リネッタは攫われてしまったのだった。
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リネッタが目を覚ましたのはとある立派な屋敷だった。
禍々しい首輪をはめられて、とある命令がされていたことだけは理解できていた。
太った人間にとある部屋まで連れてこられた。
獣語しか話せないリネッタに命令がされる。
なぜか『この死にぞこないの面倒を見ろ』と言われたことだけ理解できたのだ。
人間の言葉は理解できないが、その言葉だけは理解できるという不思議な状況。
首元につけられた首輪のせいだろうか。
その屋敷の近くには、リネッタのように攫われてきた犬人がいたはずだ。
匂いだけは感じ取ることができたのだが、この屋敷から出ることが許されていないため会うことはできなかった。
きっと違う建物にいるのだろう。
彼女が面倒をみる男性は病気のようだった。
彼は人間で、最初に見たとき老人かと思ってしまったくらいやせ細っている。
見た感じ、目にも力が感じられない。
言葉も通じないから身振り手振りで意思の疎通を図るしかできないのだ。
リネッタは結構ポジティブな性格だった。
この人は、自分がいないと死んでしまうかもしれない。
そう思って世話をしようと思ったのだった。
その男性はリネッタが顔を見せると、力なく笑ってくれる。
リネッタは彼の面倒をみる以外することがないのだ。
彼の無理をして作ってくれる笑顔はリネッタの心に沁みた。
だから常に一緒にいられたのだろう。
彼女は彼が何を欲しているのかを理解するために言葉を覚えようと思った。
リネッタが言葉を覚えようと思っていることがわかったのか、丁寧に教えてくれるのだ。
彼はリネッタにとって、とても優しい人に思えた。
いつもかけてくれる言葉があった。
だから彼女が最初に覚えた言葉は『ありがとう』だった。
それは彼がリネッタの顔を見るたびに言っていた言葉だったからだろう。
彼は自分自身を指差してこう言ってくれた。
「エヴァンス」
「……えヴぁんす?」
「そうだよ。『エ・ヴァ・ン・ス』」
「エ・ヴァ・ン・ス?」
「うん。それが私の名前」
リネッタは自分を指差してこう答える。
「『リ・ネッ・タ』」
「そう、リネッタさんって言うんだね」
リネッタは笑顔を作る。
「ありがとう」
「アリガトウ?」
「いやいや。リネッタさんはね『どういたしまして』って答えるんだよ」
「ドウイタシマシテ?」
残っている力を振り絞って両手でリネッタの右手を握って。
エヴァンスは力なく笑ってくれたのだ。
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エヴァンスは『目』、『口』、『手』などの単語を、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
貪欲に覚えようとするリネッタの生真面目な性格もあって、数日もすると片言だったが、意思の疎通ができるようになっていた。
「おはよう」
「オハヨウゴザイマス。カラダ、フキマスネ」
「うん、ありがとう。いつもすまないね」
「イイエ。ドウイタシマシテ」
身体を拭いてから、食事をとらせて一息ついたところで言葉を教えてもらう。
エヴァンスは食が細いのか、それとも身体が弱りすぎているのか。
用意された食事は思ったよりもいい食材が使われていた。
だが、消化のいい作り方をしているとは思えなかった。
そこでリネッタは食べやすくなるように、ひと手間加える。
固いパンを小さく切って、スープで軽く煮込んで柔らかくしたり。
手を変え品を変え、少しでも食欲が湧くようにしてみたのだった。
それでも日に日に食べる量も減っていく。
心配だったのだが思ったように言葉を交わすことがまだ難しい。
リネッタは少しだけ苛立ちを感じ始めていた。
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リネッタは半年もしない間に、日常会話には困らない程度に人間の言葉を話せるようになっていたのだ。
毎日とりとめのない話から始まり、彼が知っている物語などを教えてくれる。
リネッタにとって彼は、先生のような存在であり、唯一の話し相手でもあるのだ。
「おはようございます」
「あぁ、いつもすまないね。……って、そこはいいから。自分で拭けるからっ」
「駄目です。エヴァンス様は大人しくしていて……。その……、すみません」
リネッタは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「だから言ったのに……」
「いえ、とても、その……」
「いいから。無理に褒めようとしなくてもいいからっ。まぁいいか。私には妻もいないんだし。誰に怒られることもないよね。こんなみっともないものを見せてしまったからってね」
そんな風に力なく笑うエヴァンスの言葉にリネッタは少し驚いた。
「妻……、ですか? もしかして、奥さんいらっしゃらないのですか?」
「うん。忙しかったし、こんな身体だったからね。そんな余裕なんてなかったんだよ」
「そうですか。奥さん、いないんですね……」
リネッタの口元が少しだけ緩んでいるのに、エヴァンスは気づいていないだろう。
日に日に打ち解けていく二人。
毎日せっせとリネッタは彼の世話をする。
彼は申し訳なさそうにリネッタに身を任せる。
そんな生活が幾日も続いただろうか。
何度目かの季節が過ぎ去ったある日だった。
始めて会ったときよりも痩せてしまった彼。
年齢よりも年を感じるように見えるほど弱弱しい身体。
タライに入ったお湯に手拭いをつけて絞り、彼女の力を借りてやっと起こすことのできた彼の背中を優しく拭いていく。
そうしているだけでも心が締め付けられる感じがして、リネッタは悲しくなってしまう。
「あぁ、気持ちがいい。もう、ひとりで風呂にも入れないから助かるよ……」
「すみません。このくらいしかしてあげられなくて」
「私だって、その、なんだ。その首輪を外してあげられなくて申し訳なく思ってる。本当にすまない……」
お互いに恐縮しあい、それに気づいたとき思わず笑いあってしまう。
「こんなに情けない国王では、引退してしまった方がいいのかもしれないね」
「えっ? こ」
「こ?」
「国王様だったのですかっ?」
リネッタはこのとき始めて彼が国王だということを知ったのだった。
これまで気さくに言葉を、知識を教えてくれたこの弱弱しい男性が。
リネッタは驚きを感じながらも、なんとなく納得できるような気がしてくるのだ。
「聞いてなかったんだね。一応、この国の国王なんだよ」
「こんなに面白い話を教えてくれる、こんなに優しいエヴァンス様が……。こんな国の、国王だったなんて……」
「こんな国、か。そうだろう。情けない国に見えるんだろうね。黙っていてすまなかった。教えられていたと思っていたんだ。……それにしても、誰がこんな酷いことをしているんだろう」
「酷いこと、ですか?」
少し震える手で、リネッタの首元にある首輪を切なそうな顔をして触っている。
「あぁ。リネッタさんがこの首輪をしてるということは、どこからか連れてこられたということなんだね? すまない……。私がもう少し元気であれば、こんなことさせないのに……」
リネッタは理解した。
この国が国として彼女のような人を攫っているわけではないということに。
この王様であれば、そんなことは絶対に許さないだろうということも。
「あの……」
「なんだい?」
「私、この国が私のような人をそうしているのかと思っていました……」
「とんでもないっ! 私はそんなことを命令したこともない」
「でしょうね。あなたと長い間接していればわかりますとも……」
「ありがとう。ただね、私の言うことを聞く者もこの城にはほとんど残っていないのさ……。私もこんな身体なんだ。もう長くないのかもしれない……。こんな崖っぷちの王の話を聞いてくれるのは、君のような優しい女性だけなんだろうね」
エヴァンスは国王でありながら、とても孤独なのだ。
同じ状況に置かれたリネッタだからこど、それがわかってしまう。
リネッタには自分の今の状況をどうにかする力はない。
エヴァンスもこうして日々を過ごすことしかできないのだろう。
「そんなこと言わないでください。エヴァンス様がいなくなってしまったら、私、どうしたらいいか……」
「ごめんね。私が弱音を吐いてしまって、不安になってしまったんだね」
「私こそすみません」
結局似た者同士だったりするのだ。
二人は自分の力でこの状況を打破することはできない。
だが、この日の深夜に、ルードとイリスがこの部屋に入ってくる。
結果的に、この悪い意味で停滞した状況を変えてくれる少年がいたのだ。
エヴァンスはもう一度立ち上がり、国のため民のため、新しい友人たちのために努力していける。
リネッタもやり残したことがあったのだろう。
村に帰らずにエヴァンスのもとへ帰ってきて、彼が驚いていたのを見て微笑んでいたらしい。




