第十話 クロケットのちょっとした災難。
一方その頃、シーウェールズではフェムルード家の女性の間でルードが提案したものが期待されていたのである。
それはルードがタバサたち『錬金術師の地位の向上』という建前で開発をするように宿題を出していったものだった。
エリスレーゼも話を聞いただけで『絶対に売ってみせる』と豪語していたその商品。
そのプロトタイプができ上がっていたのだった。
タバサを姉のように慕うクロケットは、ミケーリエル亭での手伝いを終えると彼女の工房へ立ち寄ることにしていた。
タバサは女性でありながら、片付けが苦手だった。
根っからの研究者であり、家庭のことは料理も教わることがなかったため、苦手としていたのだった。
ルードが教えた『フェンリルプリン』と『フェンリルアイス』は、実験のときのような手順に似ていたからできたようなもの。
最初から料理を教えられていたら困ってしまっていただろう。
今でいうところの『女子力が低め』なタバサの面倒をみるのも妹分であるクロケットだったのだ。
「タバサお姉さん、こんにちはですにゃ」
「あ、クロケットちゃん。いいところに来たわ」
「うにゃ?」
『じゃじゃーん』という感じでドヤ顔をしているタバサ。
彼女が手で『これよ』と指し示した机の上には、試験管やフラスコに似たガラス製の容器があるのだが、クロケットには何やらさっぱりわからない。
かといってタバサがドヤ顔をしているのだ。
間違いなく『凄いでしょ? 誉めて褒めて』とアピールしているのがよくわかっていた。
仕方なくクロケットは素直にこう言うのだ。
「よ、よくわからにゃいですにゃ」
「そうよね。見てもわからないわよね……」
がっくりと両の肩を落とすタバサをなんとか慰めようとするいじらしいクロケット。
「そ、そんにゃことないですにゃ。にゃにか、凄いことをしてるのだけはわかりますにゃ」
「ありがと。クロケットちゃんって優しいわよね。あのね、これを嗅いでみてくれる?」
落ち込みかけていたタバサは、『これには自信あるのよ』という感じに立ち直り、木の栓をはめてある試験管を持った。
『きゅっきゅっ』と可愛らしい音をたてて栓を外すと、少し強めだがとてもいい香りが漂ってくる。
「これって、炎花ですにゃね? 香水ですかにゃ?」
炎花とは、この世界で最も高貴な香りがすると言われる生花で、女性への贈り物にも喜ばれるくらいに有名な花だった。
日本でいうところの薔薇に近い香りのするものと、考えていいと思われる。
その値段は花一本でなんと、『フェンリルプリン』を二つも買えてしまうくらい高価な花でもあったのだ。
ルードがタバサの実験にかかる費用は、いくらかかってもいいとお墨付きをもらっていたからこそできたと言えるだろう。
「よくわかったわね。……そう。このままだと香水なのよ。それでね、これをオリーブから抽出した油に混ぜたものがこちらに用意してあります、じゃじゃーん」
タバサが机の上から持ってきたフラスコに入っている琥珀色の液体。
これが、ルードが宿題としてタバサに提案したものだ。
錬金術師しか作れないであろう、手のかかる『髪をつやつやにする油』だったのだ。
現代では家庭で簡単に作れるヘアオイルなのだろうが、この世界ではこのようなものはもちろん存在していない。
現代知識を持っていると思われるイエッタの髪ですら、少し乾燥気味だったことから再現が難しかったのかもしれないのだ。
そこはルードの知識と、ある意味天才的な錬金術師、タバサがいて初めてできたと言えるのだろう。
「これ、ルード坊ちゃまが言っていた『錬金術師のなんたら』というものでしたかにゃ?」
「うふふふ。そうなの。その『錬金術師のなんたら』の試作第一号なのよ。やっとさっきでき上がったの。ほら、クロケットちゃん、そこに座って」
「えっ? 座ればいいのですかにゃ?」
「あたしもね、ルード君に教わった魔法の使い方が少しだけできるようになったの」
「うにゃ?」
タバサは目を瞑って深く深呼吸をした。
ルードほど容易くはできない詠唱方法だから、ある程度心を落ち着けてからでないとまだうまくいかなかったりするのだ。
「動かないでね『水よ右手に宿れ。炎よ左手に宿れ』」
タバサは両手に魔力を込めた後、詠唱を終えると両手のひらを組んで合わせる。
すると瞬間的に両手の隙間から、水蒸気のようなものが発生しているのだ。
タバサは水の膜を手に張っていることで、火傷をすることはないのだろう。
「はい、ちょっと熱いかもしれないけど、我慢してね」
「うにゃ……」
タバサは両手でクロケットの漆黒の髪を揉むように濡らしていく。
ちょっとしたスチームカーラーのような使い方をしていたのだ。
これはさすがにルードは思いつかない。
女性ならではの発想なのだが、普段おめかしをしないタバサが考えたのは凄いことなのだろう。
「うにゃぁ。あったかくて気持ちいいですにゃ」
髪を地肌からマッサージするように揉まれて、クロケットはうっとりとした表情になっている。
「ありがと。よし、これで少し髪を拭いて……、と」
柔らかい布でクロケットの髪をわしわしと拭く。
今度はフラスコから琥珀色の液体を手に取ると、軽く揉むように手に伸ばす。
現代であれば、まるでヘアエステをする準備をしている美容師のようなそんな感じに見えることだろう。
「ルード君がこうしろって言ってたのよね。毛先からゆっくりと手のひらに残ったものを伸ばして、軽く揉みこんでいく、……と」
「うにゃぁ、いい香りと気持ちいい感じがたまらにゃいですにゃ……」
クロケットは力の抜けた、ぽわーっとした表情になっている。
全体に揉みこみが終わると、タバサは最後に手櫛を通していった。
全体に油がいきわたったあたりで、髪全体を柔らかい布で覆っておく。
「よし、と。これで少し置いてから乾かすんだったわね」
「うにゃぁ……」
頃合いを見て、布を髪から外す。
すると、タバサはまた呪文の詠唱を始めたのだ。
「『風よ柔らかな風を起こしたまえ、炎よ風を温めろ』こんないい加減な詠唱で起動するとは思わなかったわ……。あ、出た出た」
左手から温風が出てきた。
なんと都合のいい魔法の使い方だろうか。
その『いい加減な詠唱』で魔法を起動させてしまうタバサも大概なのだろう。
労わるようにクロケットの髪を乾燥させながら右手で櫛を持ち、ブラッシングをしていく。
「よし。こんな感じ……、予想以上だわ」
「えっ? どうにゃったのですかにゃ?」
「これ見て」
タバサは手鏡をクロケットに渡した。
そこに映っていたのは、始める前よりも艶のある髪をしたクロケットの姿だったのだ。
「うにゃっ! 髪がつやつやですにゃ。香りもいいですし、とてもしっとりしていますにゃ。私の髪じゃにゃいみたい……、ですにゃ」
「うん。成功ね。あとはこれをこう」
動物の毛で作った筆に、オリーブオイルと果物の香料を混ぜて煮詰めたものを薄くクロケットの唇に塗った。
この世界にも唇に紅をさすことは普通にある。
タバサはそれを、香りのいい油だけで艶のある唇に仕上げてみたのだ。
今でいうところの『リップグロス』のようなものだろうか。
このあたりも女性の欲求からくる発想力なのかもしれない。
「うん。可愛いわ。これならルードちゃんもびっくりするわよ」
「ほ、本当ですかにゃ。唇もつやつやですにゃ。ちょっとエリスお母さんに見せてくるですにゃ」
クロケットはありえない速度で走って行ってしまった。
「あー、今二人に見せたら。しーらないっと……」
タバサはクロケットの背中を見送りながら、心の中で舌を出したのだった。
喜び勇んでエリス商会へ走っていたクロケットは実に目立っていた。
優雅にたなびく艶のあるセミロングの黒髪。
この国の女性の髪は、潮風で傷みやすいということもあり、若干ぱさついている人が多い実情。
その中でこれだけのコンディションを見せつけたら往来の女性が気づかないわけがない。
あまりの嬉しさにクロケットは普段ならエリス商会の勝手口から入るのだが、今日は店舗側から入ってしまった。
「エリス様、ローズ様。これ見てくださいにゃっ!」
「あらあら。駄目でしょう? 家族なのですから裏から入らないと」
「そうですよ。クロケットさん」
「ご、ごめんにゃさいですにゃ。でも、この髪、見てくださいにゃ。つやつやしっとりした髪ににゃってしまいましたにゃっ!」
「あら? いい香り。炎花かしら? ……あらあらあら。エリスこれはずるいわ」
「いい香りね。……母さん。確かにこれは不公平だわ」
「うにゃ?」
ローズはクロケットの背中から胸の下あたりでがっしり両手で抱いて、動かないようにしてしまう。
エリスは両手をわきわきと動かしながら、クロケットのつやつやしっとりな髪へと伸ばしていった。
「うふふふ。しっかりと調べさせてもらうわよ?」
「エリス。これは例のものなのね?」
「えぇ。間違いないわ。この毛先のしっとり感。光を反射するほどのつやつや感。炎花の淡い香り。ずるいわ。私が最初に使いたかったのに……」
「にゃ、にゃにをするのですかにゃ? ちょっと、まって、いーやーっ」
結局、二人がかりで揉みくちゃにされてしまった。
くるくるに跳ね上がってしまったクロケットの髪。
とても痛々しく、いくらブラシを通しても艶は戻ってこない。
「うにゃぁああああっ。酷いですにゃ。あんまりですにゃ……」
「クロケットちゃん、ごめんなさい。あまりにも綺麗だったから……」
「エリス駄目でしょう。クロケットちゃん、ごめんなさいね」
「母さん、酷いわ。母さんだって目の色変えてたじゃないの」
「あら? そうだったかしらぁ?」
見事にすっとぼけようとするローズと、しっかりとツッコミを入れるエリス。
母娘というより姉妹のような感じだが、趣味嗜好が女性だけに似てしまっているため、今回の共犯ということになってしまったのだろう。
それだけクロケットの髪は綺麗でいい匂いがしたということなのだ。
泣きべそをかいていたクロケットを二人で謝りつつ、慰めていると。
「あの、すみませんー」
「はいはい。何かお求めでしょうか?」
さすがは商人だけある。
切り替えの早いローズは、クロケットをエリスに任せてお客さんの対応を始めようとする。
お客さんは近所の雑貨屋で売り子をしている女性だった。
額の両側に短い角のようなものが生えている、それでいて長い髪を結っている。
「あの、今入って行かれた方。クロケットさんですよね? 道ですれ違ったとき、いい香りがして、振り返ったらとても髪が綺麗だったんです。それでつい、あとをつけてしまいまして、ここに入っていくのを見たので……」
「あら? エリス。私では説明できないわ。お願いできるかしら?」
その女性はエリスに手を引かれて渋々顔を出したクロケットに気づいたようだ。
「あ、クロケットさん、いつもお世話になってます。その髪どうされたんですか?」
「うにゃ。別にどうもして……、あ。にゃんて説明したらいいんでしょうか」
困っているクロケットに助け船を出すエリス。
クロケットの横に立って笑顔で接客を始めたのだ。
「はい。いらっしゃいませ。これはですね。今、開発中の髪を綺麗にする錬金術師特製のオイルなんです。近日中に発売する予定になっていますので。ご予約されるのであれば、発売したその日にお分けすることができますよ?」
「は、はい。お願いします。多少高くてもそれだけ綺麗な髪になれるのなら。こちらからお願いしたいくらいですよ」
『つかみはおっけー』そんな気持ちになったエリスは心の中で『よし、これは絶対に売れるわ』と思った。
すると、その女性だけでなく、遠目からこちらを見ていた女性がわらわらと集まってくるではないか。
「あの、すみません。私も予約を」
「いいえ、私が先よ!」
「あ、ずるい。あたしも」
気が付けば十人以上の女性が予約のために並んでしまっていたのだ。
クロケットは椅子にちょこんと座らされて、まるでモデルのような扱いになっている。
その横で見事な手際でお客さんの予約を捌いていくエリスとローズ。
お客さんが絶えず予約をしていく。
ここまでとは思っていなかった二人は、もうほくほく顔だった。
「うにゃ? 私はいつまでこうして座っていればいいのですかにゃ?」




