第四話 はじめてのひとり旅。
ルードが出発する前の晩、クロケットはルードを膝に寝かせて話をしていた。
「ルード坊ちゃま。あちらは寒いらしいですから、ちゃんと厚手の服は持っていってくださいにゃね?」
「うん。わかってるよ」
こちらはまだ夏。
だが、フォルクスという国はかなりの高地にあり、一年を通して雪が溶けることがないほどに寒いらしい。
今夜もエリスかリーダに甘えようと思ったのだが、二人に却下されてしまい、こうしてクロケットの膝の上に収まることになった。
本当はリーダはついてきたいらしいのだが、寒いところが好きではないため今回は我慢するそうなのだ。
フェンリルは犬人に近いからといって、寒いところが好きなわけではない。
どちらかというと、シーウェールズと元いた家は温泉があるから我慢できるらしいのだ。
夏場なのに、わざわざ寒いところに行くなんて考えられない、とリーダは言っていた。
フェンリルの姿であれば寒さには弱くないらしいのだが、手で美味しいものを食べる喜びを思い出してしまった彼女にはその姿でい続けるのは避けたいらしいのだ。
「ママ、ひいお婆さんの名前って聞いてなかったけど」
「イエッタよ。言わなかったかしら?」
「うん。初耳だよ」
「ごめんねルードちゃん。忘れてたわ」
「イエッタお婆さまね。うん、憶えた」
「あー、ルードちゃん」
「なに?」
「イエッタさんって言わないと泣いて謝るまでお尻叩かれるわよ……」
「えっ? どういうこと?」
「とにかく、お婆さまって言ったらかなり怒られるから忘れないでね」
「う、うん。イエッタさん、ね」
クロケットのいい匂いから逃げられないルードは、なかなか眠れないでいた。
クロケットはルードの背中にぴったりとくっついて眠っているのだ。
布団の上から逃げ出そうと思ったら、しっかりと寝間着の裾を掴まれている。
ルードは諦めて寝ようとおもったのだが、寝られるわけがない。
おまけにトイレに行きたくなってきたのである。
困ったルードは仕方なく、奥の手を使うことに決めたのだ
なるべく小さな声で、クロケットを起こさないように。
『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』
部屋の明かりが薄暗いとはいえ、黒い靄に包まれたルードは何とかフェンリルの姿になる。
寝間着の裾は掴まれていない状態になったので、やっと我慢していたトイレに行くことができる。
トイレの前で人の姿に戻ると危険な状態から脱出できたことに安心する。
ルードはトイレから戻ってくると、寝床に静かに横になった。
恥ずかしいせいもあり、クロケットからちょっとだけ離れて眠ることにした。
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朝起きると傍にクロケットの姿がなかった。
ただ、家の中にはクロケットの匂いが確認できる。
ルードはほっとしながら、洗面所で顔を洗い、リビングへ向かった。
キッチンからはいつものように朝食の匂いがする。
キッチンで料理をしていたクロケットの鼻がちょっとだけ動く。
それは何かに感づいたような動きなのだろう。
「あ、ルード坊ちゃま、おはようございますにゃっ」
「坊ちゃま、おはようございます」
配膳を手伝っていたクレアーナもクロケットに続いて朝の挨拶をしてくれる。
「うん、おはよ。クロケットお姉さん。クレアーナ」
リビングのテーブルに目を向けると、リーダとエリスレーゼ、タバサの姿も確認できる。
「おはよ。母さん、ママ、タバサさん」
「おはよう、ルード……」
リーダは凄く眠そうな顔をしていた。
「ルードちゃんおはよう」
リーダと違い、朝から目がぱっちりと元気そうなエリスレーゼ。
タバサの表情は分厚い眼鏡とぼさぼさの髪でよくわからない。
「ルード君。毎朝ごめんなさい。あたし、料理苦手なもので……」
「いいんです。他のことでお世話になってますから」
「そう言ってくれると助かるわ……」
そうしていつもの朝食が始まるのだ。
「ほら、母さん。口の周りべちょべちょ……」
「ごめんなふぁい。ありがと、ルード……」
ルードは手拭いでリーダの口元を拭いてあげた。
リーダは半分寝ぼけながら朝食をとっている。
ルードが小さいときは、気が休まらないこともあって常時気を張っていたらしい。
ルードが育って、朝ごはんを作るようになって、やっと緊張の糸が切れたらしく、朝は昔からこんな感じだったのだ。
「クロケットちゃんの美味しいごはん。優しいルードにこうしてもらって、なんだか堕落してしまいそうだわ……」
クレアーナがエリスレーゼの面倒をみてくれるので、基本、リーダの面倒だけを見るのがルードの朝だった。
「エリスレーゼ様、好き嫌いは駄目です。はい、これも食べてください」
「えーっ。私、これ、あまり好きじゃないのよ。ルードちゃん、代わりに食べて。はい、あーん」
「あーん」
「坊ちゃま、エリスレーゼ様を甘やかさないでください」
「ふぉんなこといっふぇも……」
「食べながらしゃべったら駄目です。ほんと、そっくりですよね……」
『仕方ないですね』という表情をしながらも嬉しそうなクレアーナ。
向かってルードの右がリーダ。
左がエリスレーゼで、その隣にクレアーナ。
ルードの向かいにいつもよりつやつやした表情のクロケットと、もくもくと食べ続けるタバサ。
「うん。クロケットちゃん、美味しいです。いつもすみません」
「いいえ。そう言ってもらえると嬉しいですにゃ」
姉妹のように見えるクロケットとタバサ。
無言でおかわりを出すと、クロケットはよそってタバサに渡す。
「そういえば、タバサさん」
「なんですか?」
「その髪、みんなに何も言われない?」
「いいの。あたしは男に興味ないんだもの。錬金術師は見た目は気にしないのよ」
手入れのされていないボサボサの癖っ毛を三つ編みにしているだけ。
『自分よりも頭のいい男にしか興味がない』と言うのも納得してしまう。
「あのさ、タバサさん」
「はい?」
「タバサさんは、錬金術師がもっと尊敬されるとしたらどうする?」
「それは願ってもないことだわ。でもね、そんなに目立つ職業じゃないのよね……」
「あのね。こんなことできない? いい香りのする果物や花の成分を抽出するとか」
「できなくもないけど、そんなものどうするの? あ、お菓子?」
「ううん。違うんだな。それをさ、んー、オリーブって油絞れるよね?」
「えぇ。この国でも食用として当たり前のように使われてるわ」
「その油にさ、抽出した果物や花の成分を混ぜてみて」
「香りのいい油を作るのね?」
「うん。それを、洗った後の女性の髪に塗って、しばらく放っておいてから髪をすすぐんだよ。すると、つやつやしていい髪になるはず」
「えっ? 何それ?」
「いい香りもするようになるし、髪に栄養っていうのかな。そうなる、みたいだよ。どこかでそういう使い方があるって何かで……」
もちろん、ルードの記憶の奥底にある情報なのだが、なんとも説明のしようがないのだ。
「ルードちゃん。そんなの聞いたことないわ。もしそんなのができるなら……、売れるわねっ!」
エリスレーゼの目の色が変わった。
おまけに右手の拳を握り、親指だけ立てるちょっとお下品な仕草。
商売人の血が騒ぎ始めたのだろう。
元々エリスレーゼは、このように活発な女性だったのだろう。
確かにリーダやエリスレーゼも含めて、この国の女性の髪は若干乾燥している感じがする。
前にも気づいたブラッシングという習慣がないことから、そこまで髪に神経を使うことがされていないのかもしれない。
二人の母やクロケット、地味に目立たないようにしているクレアーナや、手入れすらしないタバサにはいつまでも綺麗でいてほしい、ルードはそう思ったのだ。
それとタバサたち錬金術師の地位の向上。
タバサの植物学の知識なら、それは可能だと思ったのだ。
「確かにあたし、そういう抽出とかできなくもないわ。ていうか、得意かも。そうね、香りのいい花、香りのいい果物の皮あたりがいいかも。水よりも、蒸留した酒精のがいいかしら。うーん……。とにかくエリスレーゼさん、あたし、作ってみる。それで錬金術師の評判が上がるなら……」
「えぇ。エリス商会が頑張って広めてみせるわ」
がっしりと握手し、見つめあっていたエリスレーゼとタバサ。
「えっと。果物の皮を砕いたものとかも入れるとね、髪の汚れも落ちやすいとか。そんなことがあるらしいよ」
「うんうん。なるほど。どんな文献にもそんなのはなかったわ。せいぜいそういうのは香水くらいなのよね」
ルードはタバサがやる気をだしてくれて安心する。
エリスレーゼがこれだけ食いつくとは思っていなかったが、それはそれで楽しそうにしているのが嬉しい。
リーダはよくわかっていないらしく、ぽけーっとしている。
まだ覚醒まで時間がかかるのだろう。
ルードはクロケットが用意してくれた鞄を持って立ち上がる。
「じゃ、僕、そろそろ出るね。クロケットお姉さん。クレアーナ。皆をお願いね」
「任せてくださいにゃっ」
「はい。かしこまりました」
「……ルード、気を付けて行くのよ?」
「うん、なるべく早く帰ってくるよ」
リーダとクロケット、クレアーナに見送られて家を出ていく。
エリスレーゼとタバサはそれどころじゃないように見えたので、苦笑いしながらルードは玄関へ歩いて行った。。
シーウェールズの外門で衛士のウェルダートに見送られて出国した。
エランローズからおおよその位置を聞いていたので、その方角に向けて旅立つことにした。
ある程度離れた位置でフェンリルの姿になると、首から鞄を下げて軽く地を蹴った。
クロケットの作った『温泉まんじゅう』を手土産に、途中ガルムたちに挨拶するため集落にに立ち寄った。
さっそくウィルは美味しそうに笑顔で食べてくれていた。
カルフェからは、麦が主食になってから食生活が豊かになったと感謝される。
感謝の服従のポーズをやんわりと断り、見送られながら集落を後にする。
交易を始めてよかったと思いながら、再び北へと進路を取る。
ウォルガードへ抜ける森を横目に北へと全力で走り続けた。
そういえばおおまかな場所は聞いていたが祖母であるエランローズたちはどのルートでこちらの国へ来たのだろうか。
森を迂回して大回りすればさほど危険ではないように感じるのだが、帰ってからアルフェルに聞いてみるといいのかもしれない。
今はただひたすら北を目指して走り続けている。
話によると、ウォルガードまでのように途中に町や村がないらしいのだ。
ここは多少無理をしてでも一気に行ってしまう方がいいのかもしれない。
馬車などの旅であれば町などなくても野営ができるが、ルードは身ひとつで来てしまったのだ。
下手に野営など考えるより、それこそ全力で走った方のが無駄にならないだろう。
走り続けると何もない平原が見えてくる。
何もないというより、どこの国も統治していないというべきなのだろう。
真夏だったはずのシーウェールズを出て、空気がひんやりとした感じがしてくる。
平原だと思っていたのだが緩やかに登っているようにも見える。
さらに遠くに高い山々が見えるのだ。
そこには万年雪のような、なんとも懐かしい感じのする光景にも見える。
きっとそれは、ルードの記憶の奥に眠る知識なのだろう。
雪の見える高い山を目指してひた走る。
ルードの走る速度は馬車のそれとは違う。
背中に誰も乗せていないから手(足)加減する必要もないのだ。
初めて砂浜を全速力で駆けたときよりは足場はしっかりとしている。
走ることに特化したかのようなフォルムをしているフェンリルの身体。
持ち前の力のせいか、それともフェンリルが非常識なのか。
登っているはずの抵抗など関係ないかのように速度は落ちていかない。
日が暮れる前には目的の山へたどり着いた感じがするのだ。
ルードは足を止めて匂いを確認する。
言われないと気づかなかった、エリスレーゼとエランローズから感じた人とは違う匂い。
それが狐人の匂いなのだろうとルードは思った。
その匂いを探す。
周りは真夏のはずなのにひんやりとした気候になっている。
それもそのはず、少し先には根雪になっている場所があちこちに見えるのだ。
するととある方角から、二人に似た匂いが感じられる。
ルードはその方角へ走り始めた。
山を登り切ったルードの視界にはありえないものが映っていた。
登ってきた側とは違う真っ白な銀世界。
加減なしで移動してきたせいもあって気づいていなかったが、標高が違いすぎるのだろう。
本来通るべきルートではない場所を移動してきたから、山頂へあっさり到達してしまったのだ。
そこは平原あたりよりは空気が薄く感じる。
その先に薄く匂いが続いていたので、注意しながら雪で覆われた山肌を降りていく。
見渡す限り雪で覆われた林が続いている。
日が暮れようとしているのかもしれないが、ルードの目にはあまり影響がない。
フェンリルの姿でいるときは、人の姿でいるより暗い場所が見通せるのだ。
足跡のない雪の上を走っていくのは思ったよりも面白い。
一歩踏みしめるごとに『きゅっ』と鳴るのも小気味いい。
徐々に匂いが強く感じられたとき、やっと林を抜けたようだった。
そこは平原のように開けているのだが、向こう側と違って雪で覆われている。
遠くに明かりが見えてくる。
ルードは雪で覆われた地面の硬さを確かめる。
人の姿でも歩いていけるだろう。
ルードは人の姿に戻ると、用意してきた厚手の服を着こんだ。
鞄を背中に背負うと、匂いを頼りに歩き始める。
さっき踏んだ感触と同じ『きゅっ』という感触を楽しみながら明かりを目指して進んでいった。
舗装されている道ではないが、人が歩きやすいように雪かきがされているように思える。
それは大きな町だった。
周りは城壁などなく、ただ雪かきがされていないだけ。
町の入り口か、それとも国境なのだろうか。
もこもこに着込んだ衛兵らしき男が二人、これまた寒そうに立っている。
ルードの姿を見つけた片方の男は驚いたようだった。
「ちょっと待ちなさい。君のような子供がどうやって歩いてきたんだい?」
「あ、こんばんは」
「こ、こんばんは。じゃなく、いや、丁寧な挨拶は嬉しいのだけれど」
「あのここはフォルクスという国ですよね?」
「あぁそうだが」
「よかった、ここにいるイエッタという人に会いに来たんです」
「イエッタ様? ちょっとこちらに来なさい」
「はい?」
ルードは男に連れられて、入り口からほど近い詰所のような建物へついていくことになった。




