第一話 森の狼さん。
支配するものとされるもの。
何故人は安らぐことができるのか。
何があれば人は明日に希望を持てるのか。
人がいて、集落があり、村になり、町になり、国となる。
そこに当たり前のようにある幸せ。
それは人の不幸の上に成り立ってはいけないはず。
ルードが思うそれは、普通の人々が考えることではない。
もし誰かが今不幸になっていたとしても、それをルードが辛く思う必要性はないはず。
だがルードは自分だけが幸せであればいいと思える子ではなかったのだ。
この我儘な世界にはルールというものが希薄にだが存在する。
それは家族でもあり、種族でもあり、国でもあるのだ。
ルードはあることに憂いを感じている。
人間は自分と違う生き物、知性を持ち合わせているのにただ言葉が通じないというだけでそれを人として認めない。
それが自分たちよりも弱い存在であれば好きにしていいと思っている。
そんな腐った人間たちがそこにいた。
ルードはただそれが許せなかった。
それはルードのエゴであり、自我であり、自惚れなのかもしれない。
ルードには強くて優しい育ての母がいる。
ルードには優しくて幸せになってもいいはずの生みの母がいる。
そんな二人の母のおかげで、ルードには人々より少しだけ大きな力を宿すことができていた。
それを使えば、人々を今より少しだけ幸せにできるかもしれない。
そんなまだ十四歳の少年であるルードが、ひとりでそれの模索を始めた理由だったのかもしれない。
ルードの生みの親、エリスレーゼが始めたエリス商会もやっと動き始めていた。
最初の交易の場所は予定通りヘンルーダの集落。
シーウェールズで集めた海産物の乾物などを馬車荷台に積んで現地へ向かっている。
残ったエリスレーゼは母エランローズと共に、クレアーナの故郷の場所を探し始めた。
次の交易の場をクレアーナの故郷とするつもりらしい。
クレアーナは攫われてエランズリルドへ連れてこられたため、故郷とこちらの国の位置関係などはわからないという。
シーウェールズに住む犬人たちに話を聞きながら特定を始めることにしたのだが、犬人の集落というのは、猫人のクロケットとミケーリエルが違う集落だったように、あちこちにあるらしいのだ。
頼りになるのは大きくて垂れた耳の形とその毛色だけだった。
シーウェールズにも、クレアーナと同じ故郷の人はいないようで、焦らないで探そうということになった。
いつものように、エリスレーゼとクレアーナを送り出す。
「ママ、クレアーナ。いってらっしゃい」
「いってらっしゃいませですにゃ」
例の一件から少しだけクロケットとの距離も近くなり、毎朝クロケットをミケーリエル亭に送り届けることにしていた。
クロケットは手を握ってもらい、嬉しそうに後ろを歩いている。
その顔はとても幸せそうで、すれ違う人々が朝からほっこりとしてしまうくらいだった。
「ルード坊ちゃま、行ってらっしゃいませですにゃ」
「うん。クロケットお姉さんも頑張ってね」
「はいですにゃ」
そのあとルードは鍛錬をするために町の外へ出ていく。
シーウェールズでは、海での漁や森での狩りも専門で行っている人がいるため、そんな人たちの狩場を邪魔するわけにいかないことから、ルードはちょっと深めの場所で鍛錬をすることにしていた。
この場所はシーウェールズの人たちも来ないほどの深い場所。
人を襲ってくるような獣は、ルードの気配を感じると近寄ろうとしない。
それほど気にしない獣はたまにルードの目の前を通り過ぎたりする。
時折目の前に出てくる獣相手に力を使って、立ち止まらせてみたりしながら発動までの時間を徐々に短縮していったのだ。
黒の力の使い道はなんとなくわかっているのだが、白の力は使いどころが案外難しい。
ルードの目標を達成するためには、ある程度以上、力をコントロールできるようにならないといけない。
ただ、人間相手に鍛錬をするわけにいかないため、このようなじれったい方法をとるしか今はないのだった。
いつものようにクロケットを送り届けてから鍛錬のために町を出ていく。
いつもの森へ向かおうと思ったのだが、今日はいつもよりも日差しが強くて暑いのだ。
気分を変えるために、普段とは違う方角。
ウォルガードへ向かったときの途中にある森に来てみた。
フェンリルの姿で走ると、それほど時間はかからない。
森に入ると、フェンリルの姿から人の姿に戻っていた。
普段足を運んでいる森と違い、獣の強い気配をあちこちに感じることができる。
ここは、匂いも違う。
森の草木の濃い匂いが頭をすっきりさせてくれる。
この先全力で走って二日ほどの場所にはウォルガードがある。
そういう人間の立ち入らない場所にあるのだ。
リーダが言っていた通り、ルードには獣は近づいてこない。
気配は感じるが、近寄ってくる感じがしないのだ。
適当に散歩するような感じで歩いていると、少し開けた場所に出る。
そこにルードは腰を下ろすと、水筒に入ったお茶を出して一息ついた。
エランズリルドに捕らえられている獣人の人たちのことをどうやって助けるべきかを考えていた。
最大の悩みは『隷属の魔道具』と呼ばれるものだ。
首輪状になっているらしく、ルードの目的にはとても厄介なものでしかない。
そのようなものは大概、他人には簡単には外せないようにできているのだろう。
まだまだルードは子供だ。
いくらフェンリルだとはいえ、無理なことはできない。
リーダやフェリスにお願いすれば手を貸してくれるのだろう。
いや、もしかしたら、ルードのためにならないと貸してくれないかもしれない。
これはルードが決めたこと。
だからルードが誰かに力を借りたとしても、ルード自身が解決しなければならないのだ。
そんなとき、人とは違う、嗅いだことのない匂いが近づいてきた。
「おい、そこの坊主。こんなところで何をしている?」
その声の主の方を見ると、そこには犬人に見える男性が立っていたのだ。
狩猟をするような木々に溶け込みやすい服の色。
腰には大きめのナタのような刃物。
傍らには仕留めたと思われる鹿のような大きめの草食獣。
おそらく狩りの帰りなのだろう。
ルードは慌てず、笑顔を作って男性に応える。
「一休みしてるだけです。別に怪しいものではありません」
「いや、この森でそうしているだけで十分怪しいと思うのだが……」
確かにこんな危険な森の中、少年がひとりで木の根元に座っているだけで普通なら気味悪くて近寄らないだろう。
「そうですか? 僕はシーウェールズに住んでいて、ちょっとした鍛錬でここに来ていたんです」
ルードも二人の母に似て天然なところがあるようだ。
『ちょっとした鍛錬で』シーウェールズからこんなところまで来る少年はいない。
男は訝し気な表情をしてルードをじっと見てくる。
犬人にしては、耳としっぽの毛並みが太くて若干荒々しい。
身体つきも筋肉質で、腕はルードの倍以上の太さはある。
「とにかく、こんなに危険な場所で休憩などするな。俺の集落まで来ればいい。その気があるならついて来ればいいだろう」
「すみません。でも、迷惑になりませんか?」
「子供が心配したり、遠慮することはない」
「わかりました、寄らせていただきます」
怪しいとは思っていてもルードを心配してくれている。
ルードは親切にしてくれている気持ちに応えようと男の後をついていく。
男は自分の身長とほぼ同じ大きさの獣を、軽々と引きずって歩いている。
ルードが軽く見上げてしまうくらいに、男の身長は高い。
男の方の高さにもルードは届いていないのだ。
その背中はとても逞しく、背の低い華奢なルードは羨ましく思った。
ルードは『父の背中』を知らない。
ウォルガードに行けば、祖父のフェイルズがいる。
彼も身体は大きく、筋肉質で立派な体格をしている。
だが、前に会ったとき針の筵状態だったこともあり、あまり頼りになるという感じには思えなかったのだ。
豚と情けない男がルードの父だったと考えると、泣きたくなってくることもあった。
もちろん、リーダとエリスレーゼには口が滑ってもそんなことは言えないのだ。
男の後をくっついて暫く歩いただろうか。
ヘンルーダの集落より大きめの村のようなものが見えてくる。
匂いからして、間違いなく人以外の集落。
リーダの話では、この森にはとてつもなく強い獣がいると聞いている。
人間の小さな村ではまず襲われてしまうだろう。
どちらかというと、目の前にいる男と同じ匂いがする。
間違いなく犬人系の村なのだろう。
村の入り口にはこれといって人が立っているわけではなかった。
中央には広場があり、そこを取り囲むように家が建てられている。
柵で覆われているわけではなく、周りは何かを植えている畑のようだ。
ルードと同じように匂いに反応したのだろうか。
あちこちの建物から人が出てくる。
シルバーや黒、茶など色のバリエーションは多いが、クレアーナに比べると耳は小さめで毛も太くて短い。
その反面、しっぽはふさふさで大きく見える。
シーウェールズにいる犬人の人たちとは少し違う感じがした。
不思議なことに人間の姿のルードを見ても、誰も逃げようとしない。
それどころか笑顔で歓迎してくれているようなのだ。
この男の後ろをついてきたからかと思っていたのだが、そうではないことがこの後にわかる。
「さぁ入れ。ここが俺の家だ」
「お邪魔します」
だがその男は家に入らず隣にある倉庫のような場所へ行ってしまう。
家の奥から同じ耳をした女性が、小さな男の子を連れて出てきてくれた。
「すみませんね。夫は不愛想なもので。私はカルフェって言います。この子は私の息子のウィルです。ご挨拶なさい」
「お兄ちゃん。こんにちはー」
「は、はい。こんにちは。僕はフェムルードと申します」
「ご丁寧に、ありがとうございます。ではこちらへどうぞ」
小さな男の子は、ルードの足にぼふっと抱き着いてくる。
なぜここまで歓迎されるのかがルードにはわからなかった。
「あの」
「はい。どうしました?」
「僕の姿を見て、何も言わないんですね」
「あら、そのことでしたの? 匂いでわかるんですよ。あなたからは私たちと同じような匂いがするんです。ねぇ、ウィル」
「うん。とってもね、おとうさんみたいなにおいがするよ」
『お父さんみたいな匂い』とはどういう意味だろう。
シーウェールズで仲良くしている人たちの匂いがする、わけではなさそうだ。
「それにですね。この界隈は、危険な獣も多いですから。普通は近づくこともできないはずです」
確かにこの集落は森に面している。
森を抜けてすぐの場所にあるくらいだ。
獣が襲ってくる感じがないということは、それなりの理由もあるのだろう。
カルフェがお茶とお茶うけのような、煮物に似たものを出してくれる。
「何もありませんが、どうぞ。この豆はこの集落でとれるものなんです」
「あまくておいしいよ」
ウィルも笑顔で頬張っていた。
「すみません。いただきます」
ルードは匙で一口食べてみる。
するとどうだろう。
甘く煮てあって、柔らかくて美味しい。
そのときふとルードはあるものが記憶の奥底から浮かんでくる。
「(これってもしかして。小豆?)」
紫色の小粒な豆。
間違いないだろう。
「あの」
「はい、どうしましたか?」
「この豆は沢山とれるんですか?」
「えぇ、ここでは麦がとれない代わりに、豆が主食になっているんですよ。
この他にも大きめの豆がとれるんです」
「麦がないと不便じゃないですか?」
「そうですね。あれば助かりますね。お料理ももう少し違うものがつくれますから……」
ルードはすぐに考える。
この集落と交易が結べれば、豆が手に入るかもしれない。
かといって、ここまで来るのには危険が伴ってしまう。
ルードがあれこれ考えていると、男が部屋に戻ってきた。
「うわっ。大丈夫ですか? どこか怪我でも?」
「あぁ、すまん。これはさっきの獣を捌いてたから」
「あなた。お風呂に入ってください。お客様に失礼ですよ」
「ごめん。カルフェ……」
そういって彼は風呂へ行ってしまった。
ウィルを肩車のように乗せながら、カルフェと世間話をしていると彼女の夫が風呂から戻ってくる。
「すまんな。俺はこの集落の長で、ガルムという」
「フェムルードです」
ウィルを上に乗せたまま、間抜けな挨拶になってしまった。
ガルムはその瞬間、破顔して優しい表情になっていた。
「ウィルがこれだけ懐くのも珍しいな」
「そうね」
「フェムルードと言ったか」
「はい。ルードで構いません」
「ではルード。さっきは坊主と言ってしまってすまなかった」
「いえ。まだ子供ですから」
「そうか。ところで、ルード。お前は人間ではないだろう?」
「わかりますか?」
「あぁ。匂いが違う。何ていうのか、俺たちと同じような匂いがするんだ」
「それならそうなのかもしれません。僕の周りにも沢山いますし」
「隠さなくてもいいだろう? どの集落から来たんだ? 『化身』がやたらとうまいように見えるが」
「『化身』って何ですか?」
「お前のように人の姿になることだ。知らんのか?」
「『化身』という言い方は知りませんでした」
「そうか。それでどこ集落なんだ?」
「あなた。あまりしつこく聞くものではないですよ。失礼じゃないですか」
「だがな、これだけ強い匂いがするんだ。俺たち狼人と同じか、それ以上だぞ?」
「わかりました。でも、驚かないでくださいね」
「あぁ、俺はここの長だ。多少のことでは驚かんぞ」
ルードはウィルをひょいと抱き上げると、ガルムに預ける。
その場に立ち上がると、使い慣れた詠唱を始めた。
『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』
すると、いつものようにルードを黒い霧状ものが包む。
その隙間から光が漏れたかと思うと、ルードは目を開ける。
ルードは驚いた。
ぽかんとしたウィルを残したまま、ガルムとカルフェは服従のポーズをとっていたのだ。
「だから驚かないでくださいって……」
「も、申し訳ございませんでした。まさか、ウォルガードからいらした方だとは……」
「気が付かなくて申し訳ありません」
「あの、ウィル君が驚いています。僕も元の姿に戻りますから」
ルードがフェンリルの姿から戻ると、二人はカチコチに固まっていた。
おなかの上に両手を乗せて、仰向けの状態で。
「あの。もうやめてください。僕それ、慣れていないんです」
「そうでしたか。これは失礼しました。カルフェ」
「はい。では失礼しますね」
やっと普通の状態に戻ってくれた。
ルードはウィルを膝の上に乗せる。
「おとうさん、おかあさん、どうしたの?」
「あぁ、いいんだ。なぁ、カルフェ」
「そうね。そのうちわかる時期がくるわ……」
「あの。それでですね、隠してたわけではないんです。僕は、フェムルード・ウォルガードと言います」
「えっ? 王族の方ではありませんか!」
カルフェは驚いた表情をしていた。
「王族ってどういうことだ?」
「あなた、お名前にウォルガードの国の名があったではありませんか」
「あぁ、そうなのか。そうかもしれないな。これは失礼なことを……」
「だからやめてくださいって。そうです。それで間違いないです。王族の末席に加えてもらっています。ごめんなさい。もう隠しても仕方ありませんから。でも、僕はそんなことをしに来たわけではないんです。本当に鍛錬で森に来たとき、たまたまガルムさんに会って」
「なるほど、それで獣が寄り付かなかったわけですね」
これでウィルが『おとうさんみたいなにおい』と言った意味がなんとなくわかった。
まだ幼いウィルは、本能的にルードの正体が違うものだと感じたのだろう。
やっと普通に戻ってくれたかと思っていたが、ガルムの表情はまだ硬いようだった。
カルフェは笑顔に戻っていてウィルを抱いている。
「厚かましい話かもしれませんが。僕は豆を譲ってほしいんです」
「あんなものでよければいくらでもどうぞっ」
ガルムは胡坐をかくまでリラックスしていてくれたが、それでもその場で頭を下げてくる。
「だから違うんですって……。僕には母が二人いるんですけど。ひとりが商会をやっていまして、この集落と交易ができればと思っているんです。麦と交換していただければ助かるのですが」
「まぁ、それは便利になりますね」
「ただ困ったことに、僕がいないとここまで森を抜けることが難しいんですよね……。僕は常に交易に来れるわけではないので」
「あぁ、それはそうかもしれません。俺はここを離れるわけにはいきませんから。……あ、カルフェ。あれならどうだろう?」
「そうね、でも大丈夫かしら?」
「あんな『食っちゃ寝』、役に立ってもらわないと駄目だろう」
「駄目ですよ、そんな酷い言い方をしては」
夫婦の阿吽の呼吸とでも言うのだろうが、ルードは察することはできないのだった。
それにしても、なんと聞き覚えのあるフレーズだっただろうか。




