第四話 荒野をさまようルード。
ルードは、法衣を纏う男の口元を、窒息してしまわないように拭う。
『癒やせ』
苦しそうにしていた男の表情は柔らかくなった。
男を御者席にもたれかかるようにさせる。
ルードの知らないこの地まで輸送してきたこの男を、なぜここまで気をかけているのか?
それは彼が、ルードに対して、敵意を持っていなかったから。彼の受け答え、ルードが感じ取った結果から、そういう判断がなされた。
だからルードの支配の能力は、彼に『お願い』となって行使されたように思える。
男が意識を失うというトラブルにより、ルードの尋問は失敗に終わった。
彼が首元に着けているものが、もし、ルードが先程逃れることができた、隷属の首輪だとしたら、それは予定された必然の恐れもあっただろう。
ともあれ、彼から得られたのは、ほんのわずかな情報だった。
その情報から、彼らが所属する国で、クロケットは魔力猫様と呼ばれ、丁重に扱われているようだ。
彼は、『魔力猫様は、聖人と同列に扱われている』という言い方をしていた。
彼の使う言葉や、法衣のような見た目から察するに、おそらく教会などに属する神官か、それに準ずる仕事に就いている可能性が窺える。
今までの経験から、少なくともクロケットの身に、今すぐ危険が迫っているというわけではない、そうとも言えるのだ。
彼の状態が安定したことを確認すると、ルードは客車へ戻り、積み荷を確認する。
ここから一番近い村や町から、どれだけ離れているのかわからないからだ。
男が目を覚まし、もし、生きていけなくなると可哀想だ。
そんなルードの優しさがいけなかったのだが、干し肉などの保存食をみつけると、半分だけもらっていくことにしたのだ。
「ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げ、ルードは馬車の向かっていた方向とは逆。やって来たと思われる方へと歩いていく。
夜が明けそうになった時間。ルードは街道から離れた、木陰で木を背にして休んでいた。
こうして、『木々を背に休んでいると、魔力が回復しやすい』と、前に誰かからの話の中に聞いた覚えがあったからだ。
獣臭さの強い干し肉をひと囓りし、奥歯ですり潰して飲み込む。
暖かい風と、乾いた空気もあってか、飲み込むのが少し辛かった。
『水よ』
ルードは掠れた声で詠唱する。
僅かな瞬間に、両手を重ねた手のひらの上へ、大気中から抽出された、混じりけのない水粒が発現し、溢れる手前で魔法を停止するように念じた。
音を立てて水を飲み干す。
粘り気の強かった喉の手前に、引っかかった肉片を押し流せたのだろう。
喉がすっきりし、ほっとする。
そろそろ夜が明けてきた。
遠くの山々の隙間から、日が差してくる。それにより、おおよその方角はわかる。
だが現状、どれだけ西に行けば海へたどり着くのか、予想もできやしない。
近くにある匂いを確かめる。
置き去りにするしかなかった、馬車に繋がれた馬の匂いも今はない。
新たな気配も感じない。
そう、安全を確認したルードは、意識を手放すように、眠りについた。
目を覚ますとまず、手を魔力を這わせてみる。
なんとなくだが、眠る前に使った魔力より多少回復しているかもしれない感じがあった。
確認のため呪文を詠唱する。
『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』
だが、変化の呪文には魔力が足りないようで、まったく変化が見られない。
思ったよりも、人の姿からフェンリルの姿に、フェンリルの姿から人の姿に変化するのは魔力を使うようだ。
次に、詠唱したのはフェンリルの耳と尻尾だけを出現させる、獣人化のための呪文。
『祖の姿、印となる証を顕現させよ』
やはり魔力が足りない。それならばと、唱えたのが最後の手段。
『狐狗狸ノ証ト力ヲココニ』
すると、ルードを黒い霧のようなものが包む。
霧が晴れると、ルードの耳のあったあたりから頭にかけて大きな狐人の耳と、腰にはふさふさの七本の尻尾。
「あー、うん。(一本、一本でいいんだってば……)」
そう念じ直すと、尻尾は一本だけ残る。
ルードの身体能力は、人種より高い。
だが、この何もない荒野では、たかが知れている。
だが今の状態ならば、フェンリルの姿には遠く及ばないが、先ほどよりは速く、遠く移動できる。
移動を開始する前に、ルードは改めて匂いを確認する。
その瞬間、最初はぽつりぽつり。徐々に大粒になり、その間隔は短くなっていく。
気がつけば、雨宿りが必要なほどの、大雨が降ってきた。
「あーこれ、駄目だわ……」
ルードたち獣人の嗅覚も万能ではない。
ここまでルードは、地面に残っていた匂いを追ってきた。
それは人が、馬車を引く馬が、歩いて残したもの。
大気中に香る匂いを追えるのは、せいぜい城下町の中程度の範囲が限界。
故に、雨は匂いを消してしまう、洗い流してしまうのだ。
ルードの戻ってきた街道は、ただ単に木々が生えていないだけ。
道は整備などされておらず、荒れ放題。砂利や大きな石がごろごろしている。
道理で、立派な馬車があれだけ揺れたわけだと、納得してしまうほど。
林に沿って道のように開けているだけで、ルードが見ている先は、呆れてしまうほど何もない。
あの馬車がこの先、林に沿って来たという確証など何もない。
ただ、来たと思われる方角とは逆に進んでいただけだった。
ルードの右手には、同じように林が茂っている。
左手は、時折遠くに木々が見える程度。
ルードの頬を撫でる、弱い風は乾いていて、林の木々の足下には、あまり草が生えていない。
これらはきっと、乾いた地域でも根を深く伸ばして、力強く生きる木々なのだろう。
ここに吹く風からは、潮の香りがしない。
かなり内陸に連れてこられてしまったのだろうか?
リーダの祖母であり、ルードの曾祖母。
ウォルガードの前女王。
〝消滅〟の二つ名を持つフェリス・ウォルガード。
『いままでのフェンリラ、フェンリルの人の姿より、耳と尻尾のある獣人の姿の方が、魔力の消費を抑えることができる』
そう、彼女は言っていた。
この姿になって、人の姿のときよりも、嗅覚はさらに鋭くなっているはず。
だが、大雨で洗い流されてしまった、馬車の通った匂いも今はない。
ルードはかなりの距離を走っては休み、走っては休みを繰り返してきた。
今は木を背にして、一休みしている。
喉が渇いた今のように、ルードは水の魔法を使って、乾いた大気からでも、水を集めることができる。
魔法で冷たくはできるのだが、魔力の消費を抑える必要があるから贅沢はできない。
生暖かい水を、手のひらいっぱいに乗せ、喉をごくごく鳴らしながら、ため息をつく。
「――ふぅ。……お腹すいたなぁ」
ぐぅっと、可愛らしく鳴る、ルードのお腹。そう。
今日起きて、口にした干し肉のかけらが、最後の食事だった。
ここに至るまで、たまに見かける獣もあった。
だがそれは、食べることのできない種類だった。
木の実がなっているわけでもなく、食べられる野草の匂いもしない。
「(どうなってんだろう。ここ。人が住まないからって、ねぇ)」
ルードは、さらに溜め息をつく。
魔力さえあれば、水だけは生成できる。
だが、食べ物は別だ。
キャメリアのように、虚空に荷物を隠すことができたのなら、こうして情けない思いをすることはないだろう。
だがあれはあれで、魔力がないと取り出せないことを彼女から聞いている。
おそらくルードが使えたとして、魔力の足りない状態では、無理だったかもしれないのだ。
現に、ネレイティールズで魔力が枯渇した際、キャメリアがルードに、ひたすら謝り倒したのも、また事実。
便利な魔法の類いは、緊急時に使えないのもまた、フェリスたちが魔法研究に打ち込める理由になるのだろう。
魔力があれば、水は大丈夫。
ついさっき水を飲んだから、お腹はたぷたぷ。
もう無理というところまで、飲んでみたはいいけれど。
それでもこうして、空腹の鐘は鳴る。
魔力はあっても、体力が消耗していたら、身動きはとれない。
その体力を回復させるのは、食料、ご飯なのだから。
「(母さんの焼いた、あのお肉。おいしかった、なぁ)」
この程度で死んでしまうことは、まずあり得ない。
それでも走馬灯のように、リーダの料理が思い浮かんでしまうほど。
これまでは幸せだったことに気づいてしまうほど。
この空腹は、耐えがたいものだっただろう。
「仕方ない。とにかく動けるうちに移動しよ」
ルードは気力を振り絞って、立ち上がり、重い足をなんとか動かして走り始める。
日は落ち、辺りは真っ暗になっていた。
ある程度の暗さであれば、ルードも見通すことはできるのだろうが、今はそんな状況ではないようだ。
きゅるるるるる――
「あ、もうだめ。もう、あ、これ、食べられないかな?」
背にする木の根元に生える草を右手でちぎって、鼻先へ持ってくる。
匂いを嗅ぐと、かなり青臭い。
これは間違いなく、食べたらお腹をこわす系の草だ。
野草ではなく雑草、ただの草。
草食の獣ならば、消化し、栄養とできるのだろうが、ルードたち獣人は無理。
食べて食べられないことはないのかもしれないが、毒草である可能性も否めない。
水だけはなんとかなるから、喉の乾きに悩むことはない。
ただ、空腹から、降ろした腰を持ち上げる気力がなくなっていた。
すんと、鼻を動かし、遠くに感じる山犬か、山狼かの匂い。
「(あれは、食べられない、ん、)だよね……」
山猪か、それに準ずる獣であったのなら。
最後の気力を振り絞って、狩ってその場で、齧りついてしまうところだった。
獣だからと、全てが食べられるわけではない。
ルードはけっして、ただの肉食獣ではないのだから。
ルードの優しさが間違っていたのか。
あの法衣を着た男のために、残した半分の食料。
あれがあれば、もう少し動けていただろう。
だが、ルードはそれをしなかった。
敵意を悪意を持たない人を、何もない状態で放り出すことなどできなかった。
ルードは生まれてすぐに、悲惨な境遇に遭ってきた。
そんな彼をリーダが救ってくれた。
偶然や運もあるのだろうが。
このように、空腹で動けなくなるようなことは、ある意味、生まれて初めてだろう。
「とにかく、だめ。少しでも体力回復、しないと、ね」
ルードの意識は遠くなっていく。
▼
夜空から地を照らすあの星は、滿丸大星と呼ばれていた。
多少足下が明るくなっているからといって、人族やそうでない種族でも、普通は眠りについている時間帯。
だが、こんな状況下でも活動することが可能な種族も存在する。
薄明薄暮性という性質の目を持つ種族、猫人族がそれに近い。
薄明は明け方意味、薄暮は夕暮れや黄昏の意味。
文字通り、昼行性ではなく、夜行性に傾いた意味である。
猫人族は年月を経て環境に適応し、日中も活動できるようになった。
だが、今でも彼らは夕暮れ後や朝方、満丸大星が照らす今のような、少ない光の下でも活動できる。
昼間活動することが多くなったので、眠りに入る時間が早くなり、普段は他の種族のように日が落ちた後は眠りにつくことが多くなった。
そのような状況下でも、活動しようと思えばできる種族でもあったのだ。
いわゆる夜行性の性質を持つと言われている種族でも、新月のような状態、光の差さない闇夜で活動できるわけではない。
ただ、今でも夜型の生活になっている種族もあるようで、昼より日が落ちかけた時間帯の方が、彼らの目に優しい環境になっているということなのだろう。
こんな薄明かりの下でも活動が可能なものは、猫人族以外にも複数の種族がいる。
もちろん、この大陸にも少なくはない。
上空から見えたその光景は、とても異様なものだった。
木の幹を背にして、座り込んで寝ていると思われる人の姿を発見する。
高度を落として視認すると、それは狐人か、それとも犬人族か?
この大陸では、珍しい白毛の耳と尻尾を持つ、獣人族の少年の姿だ。
その少年から、数十メートルの距離を保って、彼を狙おうとしていると思われる、数十頭。
おそらくは、山犬か、山狼のような獣の群れなのだろう。
じわりじわりと近づいては、何かを感じて離れるを繰り返す、まるでコントのような光景。
俯瞰から見下ろす方も、やや呆れてしまうような状況だった。
「あはは。ひっどいな、あれ――」
ツボに嵌まってしまったのだろうか?
油断したら、腹を抱えて笑ってしまう。
そうなってしまえば、落下は必至。
このような場所に眠り込んでいる少年にもまた、違和感だらけの存在。
だがそれよりもこの状況下なら、獣人族と思われる彼を助けない理由はない。
軽く旋回して、さらに高度を落としつつ、獣の群れに、腰の小さな鞄から取り出した何かを投げ落とす。
乾いた土煙と、落下による破裂音。
獣たちはその物体が巻き起こす、その衝撃に驚く。
踵を返して、悲鳴のような鳴き声をあげながら、逃げるようにあちこちへ散っていく。
音もなく滑空するその姿は、まるで大きな鳥のよう。
白と黒に似たコントラストの、美しい翼が広がる。
上下に大きく数回はためかせると、慣れた感じに着陸をする。
同時に翼を器用に背中に仕舞い込む。
地をひっかくような軽い足音を立てて、少年に近寄る。
見た感じ、少年の顔色はあまり良くはない。
だが幸い、息はある。少年を抱えると、想像以上の軽さに驚く。
少し垂れ気味大きな目。
他の獣人とは違い、特徴のある大きく開いた瞳孔。
瞼が降りてくる。細く見つめるその瞳が、優しげな印象のある女性だった。
「(なんとまぁ。純白のふさふさ。可愛いなぁ。この耳と尻尾は獣人族? あちらの大陸にいるっていう、狐人族の子か? そういやうちの子も、小さなときはこんな感じだったっけな)」
彼を抱き上げる、彼女の背中にも、彼に負けない程のふかふかした羽毛が存在してはいるが、彼の可愛らしい寝顔につい、見蕩れてしまいそうになる。
いくら軽いと思っていても、このように抱き上げた状態で、空へ飛び立つのは難しい。
「(んー、どうしよ。やっぱりいつもの方法かな?)」
彼女は、ルードを左手だけで抱え直すと、腰にある鞄から、折りたたんだ布を取り出した。
草の生い茂る場所に布を広げると、ルードをそこに寝かせる。
大星の明かりに照らされた少年の顔。大切そうに優しく包むと、上の部分を結い上げる。
何かをぶつぶつと呟いたかと思うと、キラキラと光る何かが、彼女の周りを光りながら旋回している。
すると彼女を中心に、風が巻き起こった。
彼女の翼はその風を捕まえるようにして、ふわりとホバリングしていた。
それは飛龍とはまったく違う、飛翔の方法だ。
少年の服装に似た、カーキ色で襟のある厚手の長袖の上着。
背中にあたる部分は、猫人族などの尻尾の処理がされたものに似た、翼の動きを阻害しない大きく開いた感じのゆったりめのもの。
太めで余裕のある膝上あたりまでの、ホットパンツより少し長めのズボン。
今まで畳まれていた、ゆっくりと大きく開く、背から伸びる美しい翼。
風をはらんだかと思うと、ゆっくりホバリングするように浮かび上がる。
「よいしょと――あ、やっぱり軽い」
少年を包んだ布風呂敷を、そう独り言を言いながら、つまみ上げる。
彼女がつまむ際に使ったのは、手ではなく足。
その足の様子は、獣人族とはまったく違うものが見えた。
膝から下は細かな柔らかい羽毛で覆われており、その指は長く、前に三本後ろに一本。
指の先には、固く二十センチほどはある爪が存在する。
ただその爪のある指先で、まるで壊れ物を扱うように、優しく持ち上げるその姿。
足の裏にあたる部分に、柔らかい当て皮のような、靴に似たものを履いているから、このような動作も可能なのだろう。
軽いものならば、腕で抱えても飛べるのだろうが、ルードほどの重さになると、バランスがとれなくなるのだろうか?
それで足を使うことになったと思われるのだ。
直につかまずに、布にくるんで持ち上げる行為は、とても優しいものだっただろう。
彼女はそのままゆったりと上昇し、夜の荒野を飛び去っていった。
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