第三話 不思議な状況と、恐ろしい魔道具。
――時折、何かを乗り越えるような、不規則に刻まれるリズムのような振動が、身体の背面より伝り、そのたびに同調する、何かとぶつかる固い音。
幾度も繰り返した、心地の良い朝のものとは違う、まるで怖い夢を見たような、憂鬱になりそうな不快感により、ルードは自分の意識が戻ったことを理解する。
鈍い動きしかしてくれない、張り付くように重い瞼を開けてみるが、眼前に認識できるのは、視点の定まらない闇だけ。
どこからか感じる、わずかに感じる人種と、獣の匂い。
不思議なことに自分の吐息が、近い何かに当たって跳ね返る感じがする。
右手の指は動く。
左手、右足、左足の指は動く。
手首は固定されているようで、うまく動かせない。
そのまま無理矢理両手を上げてみるとすぐに、鈍い音を響かせる、何やら固いものにぶつかるのが確認できる。
構わずに力を入れてみた、すると、乾いた古い木が軋むような音が、耳に入ってくる。
右側から、薄くだが、ここよりは多少ましな明るさが漏れてくる。
左側の何かを軸にして、蓋のようなものを押し上げ、やっと、見覚えのない天井というか、天幕が見えてくる。
何やら狭い場所へ押し込められていたようだ。
このだるさと、身体が重い感じは覚えがある。
魔力が枯渇した状態と同じだった。
ゆっくりと身体を起こすと、そこで初めてルードは、揺れる何かに乗せられていることに気づいた。
時折僅かに差し込んでくる、日の光ではない、満丸大星の光に似たもののせいもあり、現在は夜だと予測することができた
壁に備え付けられたものは、魔道具だろうか?
外から差し込む一瞬の光よりも淡いものが、ルードの周りを照らしている。
ここはどこだろうか?
左右に二メートル程度、前後にもう少し長い感じ。
立ち上がったとしても、ルードに頭に届かない高さの部屋に似た空間。
綺麗な装飾のようにも見えなくもない、少々手のかかる感じのする、上下に蝶番のついた蓋のつく、見たことのない箱に、ルードは寝かされていたようだ。
これまで幾度となくこの状況に陥ったが、魔力が枯渇していると、辛さから頭の回転がやや鈍くなるのは知っていた。
ただ、今まで味わった以上の酷さを感じ、頭がぼうっとする。
それでも、振り絞るように状況の整理を始める。
「(僕の名前はルード。母さんと同じフェンリルだ。なぜ僕は、ここにいる? 僕は誰かと一緒にいたはず。――あ、お姉ちゃんがいない)」
そう思った途端、頭がはっきりとしてくる。
一刻も早く、必要な情報を手に入れるためには、今置かれた自分の現状を把握する必要がある。
手首には、丈夫な木材で作られていると思われる、手枷に似たものがはめられており、右手と左手は。間に鎖状になった金属で繋がっているようだ。
両足も同じように繋がれている。
手首にあるもの、ここでは仮に木製の手錠、木錠として、外せないようにと、金属の留め具がついている。
ルードは口の中でつぶやくように、
『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』
フェンリルの姿に変わろうとしたのだが、詠唱を終えても術が発動する感じがない。
変化の術が発動するのに、必要な魔力が戻っていないようだ。
身体を大きくして、その反動で木錠が壊れないだろうかと試してみたのだが、無駄に終わってしまった。
この場で考えられることは、二つ。
魔力が枯渇してから、それほど時間が経っていないか?
それともこの地にある、大気中の魔力が薄い地域なのか?
他国よりも技術の進んでいるはずのウォルガードですら、屋敷の据え置き型の、大きな時計しか存在しておらず、ルードたちは携帯できる時計を持っていない。
それ故に、今、昼なのか夜なのかを確認する方法は、目の前に見えるもので判断するしかないのだ。
少々乱暴だが、フェンリルの姿になれば、手枷足枷を破壊するだけの力があっただろう。
だがそれは、確実な方法とは言えず、この手枷足枷が外れるとは限らないのだ。
焦りや憤りもあったのだろうが、短絡的な手法を選んでしまったことを、ルードは反省した。
改めて、薄暗い状況下で、再度目視で確認する。
手枷と足枷は、木製だがしっかりとした作りで、金具で開け閉めするタイプのもののようだ。
「(だったら)」
今度も、口の中だけで小さく呟くように、
『炎よ』
ルードは、火の魔法の起動に最低限必要な、キーワード程度の詠唱を完了する。
右手の指先に、小さく炎が灯るのが確認された。
本来、フェンリラ、フェンリルの生まれながらに持つ、能力を開放することに詠唱は必要ない。
だが、魔法は違う。
フェリスとは違い、ルードは完全な無詠唱展開はまだまだ無理。
だから、起動に相当する簡単な詠唱が最低限ないと、魔法を展開することができないのだ。
あとは、『どうなってほしいか』をイメージし、願い念じる。
一度発動してしまえば、ここから先は魔力制御。
集中力と展開するための脳内イメージ、術者本人の想いに応えるのが魔法。
ルードは地水風火、四大元素とも言われるものより、その魔法が逸脱している場合は、フェリスたちが使うキーワードの、『どっこいしょ』で誤魔化してしまうことが多い。
実際は去年辺りから、最初の魔法の起動に必要なキーワードは、その『どっこいしょ』でも可能なのだが、その先にイメージしやすい言葉を紡いだ方が、より集中できることに気づいたのもルードだった。
「(細く、更に細く、高温に。焦点距離を短く――)」
右手の指先に、ミリ単位の細さで収束する、ガストーチのような炎を展開していく。
魔力を抑え気味にしないと、頭が痛くなる感じがする。
おそらくは、魔力が足りなくなりつつあるのだろう。
残りの魔力をなるべく消費しないようにするのが、この方法しかないと思ったのだ。
いつもみたいに勢いや力任せではなく、少ない魔力で効果的に発動させる制御を心がける。
ルードは慌てずゆっくりと、なるべく音を立てないように、金具部分を焼き切る。
左手、次は右手。
右足、左足。
こうして枷からの戒めが解かれる。
そっと自分が寝かされていた足下に、枷の残骸を置いた。
「(――ふぅ。次は)」
現在の魔力残量がどれほどのものか。
いつまで動けるかわからないからこそ、慌てないで考える。
なぜかわからないが、これまで自分にあったと思われることが、うまく思い出せない。
目を覚ます以前、自分の身に何が起きていたのか?
ただひとつだけ思い出せるのは、握られていた手に残る、暖かさと忘れられない匂い。
クロケットが一緒にいたはずだという、事実だけは記憶にある。
馬車の客車と思われるここには、板張りの床があり、天壁は木製ではなく、布製の幌のように見える。
だたその幌は、触れただけでわかるくらいに、厚く固く丈夫そうで上質で、外の光が出入り口と思われる場所以外からは、漏れている感じがしない。
自分の座っている場所を起点に、周りを見回したところ、正面に光の漏れる場所がありそこが出入り口だと判断できる。
同時にルードの背後から、先程から感じられる、人種の匂いと複数の獣の匂いが感じられた。
ということは、背後にいるのは御者と馬車を引く馬か、それに準ずる獣。
背後には出入りできる場所が見当たらないため、ルードはなるべく音をたてないようにしながら、正面の漏れる明かりを目指す。
思いのほか作りが良い物なのか、それとも、外から伝わる振動のせいなのか。
足を踏みしめる際の、床のきしむ音が感じられない。
意匠の凝らされた、精度の高い扉が備え付けられている。
開け放たれる部分のみ、若干の隙間があるのだろう、そこからだけ光が漏れていたのだ。
扉と幌とのつなぎ目には蝶番が挟まれ、その部分は細い金属で縫われるように固定されている。
ルードは初めて目にするほどの、水準の高い技術だ。
感心している暇はない。
丸いドアノブが見える。
これも初めて見るタイプのものだ。
引けばいいのか、押せばいいのか。
手に取って軽く押しても、引いても、動く気配がない。
横を見ようとしたとき、身体が傾いた拍子で、手首が捻られる。
「(あ、これ、回すんだ。へぇ……)」
ウォルガードの高い技術水準であっても、現在は上下または左右に、レバーを押すタイプのドアノブしか開発されていない。
かちゃりと僅かな音を立てて、ドアが開く。
このドアは、外開きのようだ。
自分で開けるタイプではなく、開けさせるタイプ。
思ったよりも、位の高い人を乗せる客車だったということなのだろう。
外から漏れていた明かりは、やはり満丸大星の明かりで、予想した通りまだ夜のようだった。
夜目の利くルードには、外を移動しているのがはっきりと見えている。
「(僕と御者の人しかいないみたいだし、とにかく外に出て〝聞き出さなきゃ〟駄目だね)」
ルードは外に出ようとした――瞬間、
「――っ!」
首を起点として広がるように、つま先から指先、頭皮に至るまで、全身を無数の長い針で、深く刺されたような恐ろしい激痛に襲われた。
ルードは扉から離れるように、後ろに倒れる。
倒れたと同時に、歯を食いしばって漏れ出る声を押さえ込み、必至に痛みに耐える。
その時間は、十秒だっただろうか?
それとも、数分だっただろうか?
短くも長く、気を失ってしまうほどの痛み。
痛みの起点となる、喉元をかきむしろうとしたとき、何かが指先に触れた。
金属と思われる〝何か〟が、ルードの首に巻かれている。
やっと痛みから開放された。
おかしい。
ルードが倒れた音が響いているはず。
僅かとはいえ、口から漏れてしまった悲鳴も聞こえたはずだ。
それなのに、馬車は止まる気配がない。
御者が確認に来る気配も感じない。
そんなことより、今のは何だったんだろう?
「(これ、もしかして……)」
ルードがあたりを見回すと、壁に小さめとはいえ、やや小さめだが、姿見のための鏡が確認できた。
今まで見た客車に、こんなものがあっただろうか?
普通の、客車に姿見があるわけがない。
もしかしたらこの客車は、王族や貴族が使うような、そんなものなのだろか?
そのような考えが頭に浮かんだとき、そこに映し出された、ルードの首元には、見覚えのないものがあった。
人差し指ほどの幅で、細く入り組んだ丈夫な金属が、網目状に組まれた見事な意匠の首輪。
宝飾品としてみたとしても、かなりの価値があるとも思われる精巧な作り。
それが、指一本分入るかどうか微妙な程度の隙間しかないくらい、首に密着した状態で巻かれている。
「(これ、もしかして。隷属の首輪と同じ……)」
ルードは、あのとき助け出した獣人たちの話から聞いた覚えがある。
それは、『主人に逆らう行為をすると、激痛を伴う罰が与えられる』と。
ルードは首輪をゆっくりとずらしながら、一周させてみると、驚いたことに、この首輪には留め具が存在しない。
どのように留めたのか、ルードには思い付かない。
ルードは、万が一襲ってくると思われる、先ほどのような激痛を覚悟する。
無理矢理指をねじ入れると、首輪を引きちぎるように、思い切り力を入れてみるが、……駄目だった。
指を入れた逆側の首が、絞まるような苦しさが襲ってきただけ。
ルードの今の力では、簡単に破壊できるものではないようだ。
首輪をした状態で、フェンリルの姿になったことがないからこそ、もしそうなった場合、首への負担がどれほどのものなのか。
想像しただけで恐ろしくなる、ルードだった。
ただ、覚悟していた痛みが襲ってこないことに、首を傾げる。
「(なぜ? これを外そうとする行為は、痛みの引き金にならないの?)」
ルードが思う、痛みの引き金とは、『この首輪をつけた主に反する行為』のことだ。
ルードは、ネレイティールズで使った、地の魔法の応用。
これは『土よ』で始まる地の魔法より逸脱したもので、『どこいしょ』の方が相応しかった。
金属を変化させる無理矢理な魔法を起動するべく、頭の中に『首輪の目見える部分が、金属の粒のように破断する』ようにイメージし、詠唱のキーワードを発する。
『どっこいしょ』
……おかしい。
対象の首輪が、まったく変化しようと、反応しようとしないのだ。
首輪を破壊しようとする行為に対しては、効果が発動しないが、この馬車からでようとしたときには発動した。
ルードは馬鹿ではないが、確認のため、歯を食いしばり、客車の範囲から、指一本分外へ出してみる。
「――んーっ!」
予想したとおり、ルードの首から全身に向け、針を刺しこまれたような激痛が襲ってくる。
今回は覚悟をしていたからこそ、倒れ込むようなことはなかった。
その激痛に耐えた後、ルードは確信する。
この首輪が発動するための引き金は、『この範囲から出ようとすること』だろう。
この首輪には、留め具がないこと。
無理に引きちぎることも、できないこと。
御者に何かを確認しようにも、外へ出ることも叶わない。
枯渇していた魔力が、まだ十分に回復していないから、いつまた枯渇するか不安になる。
結果、このままの状態では、何もできやしない。
「……ふぅ」
呆れのため息をつく。
ルードはポケットから手ぬぐいを取り出す。
それを固く折りたたむと、口に咥える。
隙間から、息を漏らすように、
『炎よ』
ルードは詠唱をすると、右の指先に先ほどと同じ、ガストーチのようなごく短い炎が出現する。
姿見で首元がよく見えるように近づく。
薄暗い客車の背景。
指先だけが、強い光を発している。
左手の指で、持ち上げられるだけ、右側の頸動脈が締まらないぎりぎりの力で、首輪を引っ張る。
ルードは手ぬぐいを強く噛む。
炎をより高温に念じると、それを首輪へゆっくりと近づけていく。
この時点で、首輪が熱を持ち、持ち上げている左手の指が、首の皮膚がちりちり焼けているような感覚を覚える。
もはや、火傷ができているのかもしれない。
それでも姿見に映る、首輪の表面が溶けていく。
やはりこれは、対魔法の何かが込められてはいるが、熱に対しては対策されていないようだ。
「――う゛ーっ!」
その熱と、火傷によるものなのか、先ほどの痛みとは違い、意識が飛んでしまうほどの、激痛が伴う作業。
ルードはうめき声を上げながら、手ぬぐいを涎で濡らしながら、慎重に一本一本、細い金属と思われるものを焼き切っていく。
一番上の、組紐のような細い部分。
その下の網目。
一番下を焼き切ったとき、だらしなくルードの右肩に、首輪が垂れ落ちる。
ルードは右手の指にある魔力を霧散。
首に右手を当てて詠唱する。
『癒や、せ』
ルードは酷い火傷になった皮膚に対して、手ぬぐい越しに詠唱をし、癒やしの魔法をかける。
二度目、三度目でやっと、痛みが引いていく。
涎で濡れた手ぬぐいを左のポケットに、反対側のポケットに、焼き切った首輪をねじ込んだ。
一度だけ、深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
ルードは痛みに耐える覚悟をして、右腕だけ出入り口からそっと出す。
痛みは感じないということはやはり、痛みの原因は首輪だったのだろう。
客車の外へ出ると、ルードは幌伝いに屋根へと登り、御者の見える位置で足を止める。
そこには、白い帽子を被った男性と思われる御者が、馬を操っていた。
どれだけ魔力が残っているのかわからないが、状況を確認するのはこの方法しか今はない。
ルードは左目の奥に魔力をそっと流す。
目下にいる人だけを囲う程度の、白い魔力の霧を発生させる。
枯渇して倒れる感じがなかったから、そのまま行使を続けた。
『馬車を停止させるんだ』
そう、ルードが命令すると、男は巧みに手綱を操り、馬車を停止させる。
ルードは額に脂汗を垂らしながらも、続けて命令する。
『大人しくしろ』
すると、
「はい、わかりました」
そう返事が返ってくる。
不思議に思いながらも、ルードは馬車から降り、男の横へ立つ。
『こっちを向け』
わざと横を向かせようとする。
男は身体ごとルードの方を向き、両手は膝の上に置いてこう返事をする。
「どうか、されましたか?」
ルードは吃驚する。
目の前にいる男から、まったく敵意も害意も感じられないからだ。
表情もやわらかく、彼の目を見ても、嘘を感じられない。
「お姉ちゃん。――一緒にいたはずの、猫人族の女性は、今どこにいる?」
「はい。『魔力猫様』のことですね? 丁重に、おもてなしせよと言いつかっており――」
「ま、魔力猫様?」
「はい。魔力猫様は、我々の間では、聖人と同列に扱われています」
「じゃ、無事なんだね?」
「はい。勿論でございます。魔力猫様は、我々より遙か高みに存在されるお方ですので、間違いがあってはならないと教えられております故」
魔力猫様?
聖人?
ルードには、彼の言葉の意味がわからない。
ただ少なくとも、目の前にいる男の目は嘘を言っていない。
間違いなく、ルードの支配の能力は効いている。
「お姉ちゃんは、その。……魔力猫様は今、どこにいるの?」
「はい。私が配属されておりました、グ――」
そう言った瞬間、男は両手で首元をを掻きむしるように苦しみだし、泡を吹いて御者席に倒れ込んでしまった。
気絶してしまった彼の首には、ルードがつけられていたものとは違う、意匠の凝った、幅の広い金属製の首輪がつけられていた。
その中央には、白みがかった透明な石。
もしかしたらこの首輪も、隷属の首輪なのかもしれない。
優しいルードは、慌てて男に駆け寄った。
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