第二話 母としてできること。
時間は、ルードたちが東の大陸を踏みしめた日より、二週間ほど前のこと。
大空へと飛び立つ、愛する我が子の背を見送る、母二人。
視認できる限界を越える距離へと、真紅の姿が消え去る前に、視線をずらす。
隣に立つエリスを向くと、腕を彼女の腰へと回し、力強くぎゅっと抱き寄せる。
時折、姉の立場である自分を窘める存在にもなるほど、愛しくも、信頼の置ける妹に、耳元でそっと、リーダはこう伝える。
「ごめんなさいエリス。あとはお願いね?」
「えぇ、リーダ姉さん。でもあまり、無理はしないで欲しいわ」
「わかってる。イエッタさんにも、毎日〝連絡〟を入れることになっているから。わたしがどこで何をしているか、常に把握されているでしょうからね」
確かに毎日、リーダは連絡することを約束させられている。
イエッタは自ら〝見た〟上に、報告まで受けたのなら、まるでその場にいるかのように、事態を把握することができるのだろう。
〝瞳〟のイエッタにかかってしまえば、リーダの状況は、手のひらの上同然。
それを理解したエリスは、安心して姉を見送ることができるはずだ。
「それなら、心配ないわね。行ってらっしゃい、リーダ姉さん」
ルードたちを見送り、エリスに留守を託したルードの母リーダ。
家族にいらぬ心配をかけぬようにと、気配を消した後、エリスだけが見送る、屋敷を背にして歩いて行く。
ウォルメルド空路カンパニーが運行する、飛龍たちのルーティンワーク。
各国へ向けた定期便の発着口に並んだ、大型種の飛龍の姿。
僅かな色味の違いで、リーダも見分けがつく、屋敷の庭師を兼任するリューザの姿があった。
飛龍になる順を待つ、ルード家の厨房を任される、王太子付き調理師のエライダとシュミラナも、朝の仕事を終えて、自分の担当する地へ向かう予定なのだろう。
彼女たちの大きさの関係で、発着場に並ぶことが不可能なため、こうして順番待ちが発生している。
リーダの姿に気づき、侍女服のスカート裾を軽くつまみ上げ、キャメリアから教わったかのような、綺麗な仕草で一礼をする。
笑顔で右手を上げて、応えるリーダ。
シーウェールズなどの空港と比べると、それほど立派なものではないが、それでも必要十分な設備が整っている。
最近は、ウォルガードと各国を結ぶ定期便を、エリスの父アルフェルが営む、ローズ商工会の会員証を持つ商人たちも利用する。
ローズ商工会の会員証を持つ者は、ウォルガードの商業区への滞在を許されている。
要はその会員証自体が、各国への入国審査の際の身分証明書であり、パスポートの代わりになっているようなものだった。
シーウェールズやエランズリルドに用があるときは、自らの足で向かうよりも早く到着することから、度々彼らに間ざって、リーダも同乗させてもらうことがあった。
今日も所用のためと、職員に理由を告げて、いつものように龍車へ乗り込もうとする。
リューザの背負う、龍車のタラップを上がる前に、彼の鱗に手を当て、
「いつもありがとう」
すると、大きな目がリーダを追い、大きな口を開けて、
「いいえ、いつもご利用ありがとうございます。リーダ様」
そう、丁寧に答えるリューザがいた。
上空で少し考えごとをしている間に、あっさりとシーウェールズに到着する。
龍車から降りるとリーダは、ローズ商工会事務局へ立ち寄り、アルフェルにお願いして、東の大陸へ向かう商船を紹介してもらう。
ルードたちの向かった、ネレイティールズ経由の航路とは違い、リーダは直接、シーウェールズから大陸へと渡るつもりだ。
それは『ルードたちの後を、こっそりと追うために来たわけではない』という証でもある。
リーダにはリーダの目的があって、東の大陸を目指すことになっているのだから。
商船へ乗せてもらう前に、リーダはローズ商工会の事務所の、更に奥へ。
その先には、従業員の休憩所になっている部屋がある。
そこへ入ると、誰もいないことを確認した後、扉を閉める。
リーダは普段着ている深紅のドレスから、ルードと昔、おそろいに作った商人に扮した際の服へと着替える。
「――えっと、確か、『祖の姿、印となる証を顕現させよ』だったかしら?」
思い出しながら、フェリスから教わった呪文を詠唱する。
同時に、頭部と腰の部分に、リーダの魔力の色である、緑色の霧状のものが包んでいく。
その後すぐに霧が晴れると、両耳の上あたりと、腰のあたりに違和感を感じることができた。
そう、彼女の頭部には、緑色の大きな二つの耳と、同色のふさふさ尻尾が存在していた。
リーダは、『フェンリルの獣人姿』になった、自らの姿を鏡に映すし、確認する。
「あらほんと、フェリスお母さまみたいだわね。うんうん。人の姿でいるよりも、魔力の抜けていく感じが減っているようだわ。聞いてた通りなのね。……さて、と」
持ってきた鞄の奥から、ポーチのような小さな手鞄を出す。
そこから、一つの指輪を取り出し、リーダは自らの左手小指に填める。
するとその瞬間から、彼女の尻尾の先からすぅっと、徐々に色味が変化していく。
ものの数秒で、彼女の尻尾と耳を覆う、全ての毛の色がアッシュブロンド――黒みがかった灰色の銀髪、それはまるで、ウォルガード王室付き錬金術師である、タバサの髪色そっくりの色味に染まっていった。
この指輪は、フェリスから預かったもので、『偽装の魔術』の解析中にできた、副産物的な魔道具で、毛の色だけを変化させるもの。
中央に小さく鎮座する宝玉は、くすんだ銀色に輝いている。
今のリーダは、どこからみてもタバサと同じ、狼人族の女性に見えることだろう。
「うんうん。良い感じね。これなら安心して動けるわ。あとは、……と」
先日、タバサから預かった、特注の香油を耳元と襟元へ振りかける。
普段とは違う香りが、リーダから漂う。
「不思議な、でもちょっと安心する香りね。これでいいはず、なのだけどね」
長い髪を三つ編みに結い、くるくると持ち上げると髪留めで留める。
着替えた服を詰めた鞄を背負うと、休憩所を出て行く。
「あら、リーダさん。見違えましたね」
「ローズさん、どうかしら?」
「えぇ。〝あの気配〟も感じられないですし、どこから見ても、狼人族にしか見えませんよ」
ローズはイエッタの娘であり、彼女も狐人族の混血であるため、犬人族や狼人族の上位的存在の種族だ。
人の姿をしていても、嗅覚は獣人と同等。
彼女のの言う〝あの気配〟とは、フェンリラの匂いに反応して、〝服従の印〟の反射的行動のことを言っている。
だが、彼女は、生まれてから化身をした回数が少なく、その傾向が弱いらしいのだ。
もちろん慣れもあり、気を抜けば圧倒されてしまうのは知っている。
「よかった。じゃ、行ってきますね」
「えぇ。船着き場まで、案内させますから」
「ありがとう」
リーダは、ローズ商工会の従業員の案内で、商船へ乗りこんだ。
周りには、交易を行う商人たちや、船員の姿しか見えない。
こうして、誰も見送りをすることのない旅立ちとなった。
視界から離れていく、見慣れたシーウェールズの町。
リーダは先日、フェリスから思い切り釘を刺され、いくつか約束をさせられてしまった。
ルードたちに同行してはならない。
様子を見に行ってもいいが、気配を悟られてはならない。
このために、リーダはルードの嗅覚をごまかせるものを、秘密にタバサへお願いしていたのだ。
商船へ案内してもらった途中、数人の犬人族とすれ違いはしたが、〝服従の印〟の衝動に駆られるものはいなかったようだ。
リーダから自然と出てしまっている、フェンリラの気配と匂いを誤魔化すことができているようだった。
これならルードにも、リーダの匂いを悟られる心配がないだろう。
イエッタが逐一〝見ている〟のだから、『何かが起きた際』は、フェリスたちが判断し、自ら乗りこむから、ルードたちを手助けをしてはならない。
ルードが大人になることを妨げないのと同時に、リーダ自身も、母親として成長しなさいと叱られてしまったのだった。
同時にリーダは、フェリスから使命を受けていた。
それは、以前聞いたオルトレットの話を元に、自分の双子の姉たちを探すこと。
非人道的な、魔道具の出所を探ること。
大陸に起きている、人種とそうでない種族との軋轢を調べること。
全てはルードのためになるのだからと、フェリスから言いつかったこと。
途中、息抜きに、ルードたちの様子をこっそり見てくるつもりはあっても、物見遊山で行えるレベルのミッションではないのは事実。
「――はぁっ……。さて、どうしたものかしらねぇ……」
遠ざかるシーウェールズを眺めながら、ため息をつくリーダだった。
▼
ルードたちがリングベルへ到着し、一夜明けた翌朝のこと。
キャメリアとオルトレットに、『能力を使ってしてでも、一緒にしてもらうからね?』と、白い魔力を漏らしつつ、ルードがちょっとだけ脅かしたため、渋々二人も一緒のテーブルを囲み、朝食を摂った。
その後、キャメリアは必要な物資の買い付けに、オルトレットは馬車の手配のため、宿を出て行く。
残されたルードとクロケットは、彼女が楽しみにしていた町の散策を楽しんでいた。
珍しい鳥の肉の串焼きを頬張り、ご満悦のクロケット。
「こ、これは、駆け尾長にも負けにゃい歯ごたえが、たまりませんにゃっ」
駆け尾長とは、前に猫人族の集落があった場所にほど近い地域に生息する、飛ばないタイプの足が速く、走る野鳥のこと。
猫人族の機動性を持ってしても、捕まえることが困難で、肉質が良く、脂の旨味の強い貴重な蛋白源であった。
「はいはい。串焼きは逃げないんだから、ほら、こっち向いて」
「うにゃ?」
ルードはクロケットの口元を拭う。
あふれ出る肉汁が、彼女の口元を濡らしてしまっていたから。
「あ、ありがとうござい、ますにゃ」
夢中になっていて、多少はしたない状態だったことに、クロケットもやっと気づいたのだろう。
ちょっと頬を染め、それでも手に持った串焼きの匂いに敵うはずもなく、おおきな口をあけて、光る脂のしたたる肉の残りの頬張りを再開する。
小腹が落ち着くと、クロケットはルードの一歩先を歩く。
彼女はルードと一緒にいるときは、遠慮をしない。
こうして二人で出歩くときは、ルードと並ぶか、一歩先を歩くことが多いのだ。
それでも十字路の手前に立ち止まると、
「ルードちゃん、あっちに行ってみましょう、ですにゃ」
「うん、そうしよっか」
必ず、ルードを振り返り、行き先を確認してから先に進んでいく。
珍しい果物を見つけると、ルードは購入し、肩掛け鞄に放り込んでいく。
きっと、あとでおやつにするか、料理に使おうと思っているのだろう。
クロケットの鼻先がすんすんと動く。
甘そうな香りのする揚げものを見つけると、ルードを振り返る。
二本の漆黒の尻尾は垂直に立ち上がっていた。
クロケットは指先を咥える仕草をし、『買ってもいい?』というような、目でルードを見つめてくる。
実にわかりやすい。
ルードは肩をすくめると微笑み、『いいよ』と承認。
クロケットはくるっと回転。
屋台へダッシュし、
「すみませんにゃ。それ、ひとつ、いえ、ふたつ欲しいんですにゃ」
「あ、ひとつでいいです」
あっという間に追いついたルードは、すかさず訂正する。
きっとクロケットは、ルードの分も注文するつもり。
さっきも食べたばかりだから、さすがのルードも食べ続けるのはちょっときつい。
「わかったよ。ちょいと待っておくれ」
額から角を生やした、珍しい種族の年配の女性が、笑顔で受け答えをしてくれた。
このように、このリングベルは、多種族の集まる国。
シーウェールズよりもその数は多いようで、ルードも知らない種族の人々がいて、退屈する暇もない。
女性はこの商店の店主なのだろうか?
手元が五センチほど見える棒に刺さる、直径二センチ、長さ十センチの、きつね色に揚げ上がった香ばしい香り。
その揚げ物を、陶器製のトレーのようなものに準備されていた、白と黒の、細かい結晶の上を転がす。
「(なんだろう? 砂糖? それとも?)」
細かい結晶が薄く付いたかと思うと、揚げ鍋の下にある直火にさらし、くるりとゆっくり炙っていくと、更に甘い焦げた香りが強くなる。
おそらくは仕上げの段階。
美味しいものを更に美味しくする、独自の方法だろう。
焦げた具合を目で確かめ、彼女は一つ頷くと、
「はいはい、お嬢さん。できあがりだよ。熱いから、火傷しないようにね」
クロケットが揚げ物を受け取ると、ルードが『すみませんね』と、苦笑しつつも支払いを済ませる。
クロケットの目は、できあがった揚げ物に釘付け。
「可愛らしい、しっかりしった弟さんだね。はい、おつりだよ」
「あははは……」
ルードは耳と尻尾を出し、おつりを受け取る右手の小指には、フェリスから借りていた、漆黒の宝玉の指輪をつけていた。
それはルードが船上の『遊び』で使っていたものとは少々違うのだが、髪の色だけを変化させる魔道具。
耳の形が少々違っているとはいえ、クロケットと同じ漆黒の艶のある髪色になっている。
今の二人は、姉弟のように見えるのだろう。
どの店でも、クロケットのことを『妹さん』、ルードのことを『お兄さん』とは言ってくれない。
身長差もあり、年齢よりも童顔に見えるから、仕方のないことなのだろうが、それがちょっと悲しくなったりしないこともない、ルードだった。
『可愛らしい』と言われるのはもう慣れた。
フェリスからのダメ押しもあり、ルードは『あきらめようと』努力していた。
あきらめようとした上で、ルードは、フェリスから預かった指輪の鍛錬で『遊んでいた』。
実は今現在も、耳の先の形だけ、クロケットとは似ても似つかないこともあり、見た目をなんとかしようと『遊んで』いる最中。
これがまた、結構集中力が必要だったりするのだ。
そんなときその女性が語りかけてくる。
「店の中に椅子があるから、そこで食べていくといいよ。そんなに可愛らしい服を着ているんだから、立ち食いさせたら可哀想じゃないかい?」
ウィンクしつつ、ルードに促してくれた。
「あ、はい。ありがとうございます。ほら、お姉ちゃん」
いまにもよだれがでそうなほどに、口を半開きにして、おあずけ状態のクロケットの手を引いて、店先にある屋台の横を抜ける。
女性の裏側には、長椅子があり、ルードはクロケットを座らせ、自分も横に座った。
クロケットは『食べてもいいの?』という目で見てくる。
「うん。いいよ。熱いから――」
ルードが頷いた瞬間、
「――あにゃっ!」
もはやお約束。
舌を火傷してしまうクロケット。
「あー、やっぱり……」
いつものように、ルードに向かって舌を出す。
思った通り少しだけ、赤く爛れてしまっている。
舌は敏感な器官だからこそ、こんな少々の爛れでも、結構痛かったりするのだ。
もちろん、口の中の傷は、治りにくいからこそ、手早くなんとかしなければならない。
ルードは、クロケットの空いている左手を握ると、
『癒やせ』
これも、いつも通りの詠唱。
軽く白い魔力がクロケットを包む。
すぅっと、患部が綺麗になっていった。
「ほら、ちゃんと冷ましてからって、言おうとしたのに。揚げたてなんだから」
「にゃははは。……ふぅうっ、ふぅうっ。あむ、――うにゃぁっ。あまじょっぱ。でも、美味しいですにゃ。んー、にゃんていったら。あ、ルードちゃん」
「ん?」
「あーん」
クロケットは自分の口を大きく開けつつ、ルードに口を開けるように促す。
「あ、はいはい。あーん」
一口かじる。
甘塩っぱさを感じる上に、複雑な旨味。
「あ、うんうん。そっかそっか」
口の中に広がる、磯の香り。
食感は初めて味わうものだが、これは揚げ菓子ではなかった。
「すみません、これって、お魚――」
「そうだよ、よくわかったね。ここで獲れる魚をすり身にして、揚げたもの。名前もそのまま、すり身揚げ」
いわゆる、揚げかまぼこのようなもの。
「やっぱり。あとこれ、砂糖と塩、それにんー、……黒っぽい肉厚な海藻を、乾燥させて砕いたものですか?」
「すごいね。よくわかったものさ。黒根っていう沢山獲れるものだよ。乾かすと、味が良くなるものでね」
「そうだったんですね。僕らは最初、揚げ菓子だと思ってたんです」
「見た目が似ているからね。それより、最初は姉弟かと思ったんだけれど、何やら違った仲の良さを感じたよ。獣人さんたちは、見た目も若い人がいるって聞いたから、もしや、夫婦だったりするのかな?」
「――うにゃっ! お、奥さんだにゃんて……」
ルードよりも早く、クロケットが反応してしまった。
すり身揚げを持ったまま、くねくねと身をよじり、頬を真っ赤に染め、二本の尻尾を嬉しそうに動かす。
『いや違うから、言ってないから』と、突っ込みそうになるのをぐっと堪えるルード。
それでも、照れた状態で、
「あー、その、……はい。再来年には」
「そうなんだね。それはめでたいことだよ。ちょっと早いけど、おめでとう。これは、安っぽいけどお祝いの代わり」
そう言って、女性店主は冷たいお茶と、持ち帰りようにすり身揚げを五本包んでくれた。
「あ、その。はい。ありがとうございます」
「うにゃぁ、奥さんだにゃんて……」
クロケットが食べ終わるのを待ち、お茶をいただいて人心地ついたルードたちは、店主へお礼を言った後、町の散策へ戻っていく。
このように、この国の住人は、犬人族もいれば、狼人族、人族もいる。
そうかと思えば、鬼のような角をもつ人、体表にうろこのようなものを持つ人、背中に畳んだ羽根を持つ人、などなどなどなど。
多彩な種族が集まっているように思えるが、ルードにはふと、シーウェールズや、ネレイティールズとは違っていることに気づく。
些細なことなのかも知れないが、思ったよりも、猫人族の人が少ない。
いや、猫人族の姿が見当たらない。
この国に来て二日目になるが、クロケットとオルトレット以外、すれ違ったこともないように思える。
あたりを見回しても、全く見当たらないのだ。
「(エランズリルドも昔は、獣人族の人がいなかったくらいだし、国によって、地域によっても違うんだろうね)」
ルードはそう思うことにする。
どのような種族であれ、皆クロケットやルードには優しく受け答えをしてくれる。
多少環境が変わっているのもまた、国や文化の違いということもあるのだろう。
露天の多い区画が徐々に少なくなってくる。
ここからはまだ、営業が開始されていない店が多く見られるようになる。
リングベルの城下町は、シーウェールズのように港町だ。
おそらくは、夕方から営業が始まる、酒場のある歓楽街なのだろう。
これまでは、左側をずっと歩いてきたから、そろそろUターンして右側を練り歩こう。
そう思った矢先。
「――うにゃ? にゃにか(すんすん)、とても(すんすん)、いい香りが(すんすん)、します(すんすん)、にゃ?」
クロケットは、その匂いに釣られたかのように、小走りに駆け出しはじめる。
彼女から決して握って離さなかったルードの手から、するりと抜けてしまうくらいに。
少しだけ、勢いよく。
クロケットに似せて、猫人族の黒毛を模した耳と尻尾を持つようにしているが、ルードは猫人族ではなくフェンリル。
彼女よりも高い嗅覚を持っている。
クロケットの釣られた匂いを探りながら、彼女が走って行く路地を急ぐ。
その匂いは、つんとした刺激の強い匂い。
ルードにとって、良い匂いとは思えないものだが、クロケットは『良い匂い』だと言っている。
「と、(すんすん)、とっても(すんすん)、いい(すんすん)、ですにゃっ」
その匂いを探すように、その匂いだけに集中しながら、クロケットは足を止めようとしない。
「お姉ちゃん、駄目だって。どうし――」
飛び跳ねるように、走り去っていく彼女の背中を追い求める。
ルードがクロケットの左手に、右手を伸ばし、もう少しで届くという時だった。
首筋に、刺激の強い痛みを感じたかと思うと、目の前のクロケットに、黒い霞がかかったかのように、視界が欠けていく。
それでも、クロケットの背中を見続ける。
ついには、暗転。
届かない右手を伸ばしたまま、空を切る。
ルードは前のめりに倒れ落ち、意識を失ってしまっていたのだ。
ちょっと長くなってしまいました。
お読みいただきありがとうございます。




