第二十三話 魔獣退治。
「(・・・・・・あれ?)」
ルードは目を覚ました。
もっとも、正確に言えば『意識が戻った』と言うべきだろう。
彼の言う『あれ?』は、どの意味があったのだろうか?
寝床に入った記憶がないのに、うつ伏せに寝ているのは間違いない。
右手がうまく動かない。
もちろん左手も。
指先すら動かない。
感触はあるのだが、まるで痺れて動かなくなっているような感じがする。
まぶたを開けることも、重くて辛くて、難しい。
「(僕、どうなっちゃったんだろう?)」
おかしい、何もかもおかしい。
頭の部分は柔らかい何かに乗せられているようだ。
指先には布の感触がある。
だがその下、背中に当たる部分は固く冷たい感じがする。
それに、よく知っている、安心する匂いがする。
もがくように、渾身の力をふるって、寝返りを打ってみた。
同時に『えいやっ』っと、少し気合いを入れて目を開けてみた。
すると、『夢でも見ているのだろうか?』と思ってしまうほど、意外な人の姿が、視界に入ってくるではないか?
目の前にいた人は、ルードの母、リーダだった。
彼女は、ルードが小さかったころから見慣れていた、その優しい瞳で見つめ、微笑んでくれている。
「ほんと、・・・・・・この子ったら」
その優しく頭を撫でてくれる感触を、忘れることなどないだろう。
「おはよ、・・・・・・母さん。僕より早く起きてるなんて、――って、あれ?」
覚醒と共に、おぼろげながら現在の状況がわかってくる。
手の甲が、白い毛に包まれていた、・・・・・・ということは、フェンリルの姿のはず。
「母さん、僕ね・・・・・・」
ここはどこなのか?
首を回して周りを見ることができないほど、身体に力が入らないのは何故か?
聞きたいことは沢山あった。
それでもルードは、混乱する頭を落ち着かせ、ひとつだけ言葉を伝えなければならないと思っただろう。
「心配かけて、ごめんなさい」
更に力強く、それでいて労るようなリーダの手のひらの感触。
反射的にふにゃりと表情を緩めるが、ルードもフェンリルの姿だ。
目元でしか、それを伝えることは適わなかっただろう。
それでもリーダには、十分だった。
ひんやりとした空気の漂うこの場で、リーダの目元からぽたりと落ちる一滴。
「・・・・・・ばかね、いつものことでしょう?」
母の言葉は、『いつも心配してる』という気持ちを表していた。
ルードも『心配させてたんだ』と、自覚してしまう。
「それでね、ルード」
「うん」
「思い出せた?」
なぜ、この状況になっているのか?
ルードは今まで何をしていたか?
そういうことを問いかけているはずだ。
「うん、ごめんね。ちょっと混乱してるかも、・・・・・・かな?」
「仕方のない子ね」
リーダもふにゃりと目元を緩め、左右を向いて頷いていた。
代わる代わる、様子をうかがうようにルードを覗き込む、イエッタとイリス、ティリシアの姿。
リーダは後ろを向くと、ひとつ頷いたようだった。
すると、リーダの後ろから倒れ込むように覆い被さる姿。
それは、リーダの後ろにいたと思われる、憔悴した表情のキャメリアだった。
「ルード様。馬鹿です。なぜ、私などを庇うようにしてまで・・・・・・」
その一言で、こうなってしまった原因のひとつが理解できただろう。
ルードはキャメリアを庇って、こうなってしまったのだ。
リーダは簡単にだが、ルードが置かれていたと思われる状況を説明してくれた。
「そっか、それで僕、・・・・・・魔力がなくなって、倒れちゃったんだ」
魔法を行使していないのに、能力を使ったわけでもないのに。
そんな疑問も、リーダの言葉から説明がついた。
「ええそうだと思うわ。わたしもね、ルードを助け出すときに、少しだけ吸われたみたいなのだけど。わたしはほら、大人だから、ね」
「フェルリーダ様。それだけでは、説明が足りないと思うのですが」
「あら、そうかしら?」
魔獣に相対していたときは、冷静に分析できていたのに。
今のリーダは、優しくて、大らかで、ちょっと大雑把ないつもの、ルードの〝母さん〟だった。
イリスがリーダの見解を説明し、キャメリアとティリシアが、リーダたちが来る前のことを教えてくれた。
「でもさ、キャメリアたちが無事でよかっ――」
「ルード様っ!」
実に珍しい、半泣きでルードを叱りつけるキャメリアの姿。
それ以上言わなくても、彼女の表情から、痛いほど伝わってくる。
リーダたちに心配かけただけでなく、侍女のキャメリアにもこれだけ心配させたのだ。
ルードは目を瞑って、反省する。
「ごめんなさい・・・・・・。そうだ、あの魔獣のせいでね、ネレイティールズが今――」
「大丈夫、状況はすべて聞いているわ」
「あ、そうなんだ」
ルードが慌ててリーダに状況説明をしようとするが、もう聞いているから大丈夫と言われてしまった。
リーダとイリスがいるならできたはずの、『魔獣を退治してしまわなかった』理由もここで聞くことになる。
「あ、そうだったんだね。僕が調べたときもね、あの魔獣に似たタコっていうのがね、食べられるらしいって知ったんだ」
「我が見た感じ、間違いなくあのタコだと思うのです。干してもいいし、揚げてもいいのです。新鮮なうちはさっと湯がいて、お刺身でも美味しいと思うのです。いいえ、絶対に美味しいはずです」
イエッタが力説する。
「わたしもイエッタさんから聞いたのよ。歯ごたえがいいのよね? 美味しいのよね?」
リーダも支離滅裂な質問をぶつけてくる。
「いや僕、食べたことないから、さ」
さすがのルードであっても、〝記憶の奥にある知識〟から、美味だと言われているのを得たとして、食べたことがないものは、何とも言いようがないのである。
▼
ルードは今、リーダの膝の上に、うつ伏せになったまま喉のあたりを置かせてもらっていた。
フェンリルの姿でいるときは、この格好の方が楽だった。
まだ魔力が全然足りなくて、人の姿に戻れない。
それでも早急に、この先の相談をしなければならない。
そう思ったから、こうして皆と相対している。
「ルードちゃん。我もね、タコのことは、よーく知っているのですよ」
そうイエッタは、『えっへん』と胸を張り、自慢げに話している。
イエッタはルードと同じ、この世界以外から来たとされる、魂を持つ〝悪魔憑き〟だ。
別に悪魔の魂を持つわけではないし、悪魔が取り憑いているわけでもない。
ただ、まるで悪魔が憑いているのではと思うほどに、恐れられた能力を持つことから、人種や獣人種の間でそう呼ばれるようになったのだと、イエッタは教えてくれた。
彼女はこの世界に生まれ落ちる前の、いわゆる前世の記憶を持っていて、そのときに住んでいたとされる場所が〝日本〟というところだった。
それは〝記憶の底に眠る知識〟にも、沢山出てくる語録であり、ルードが無意識に使っていた仕草や、持ち合わせていた知識も、イエッタの知るそれと似ていたことから、同じ〝日本〟にいたのではないかと思っていたのだという。
ルードは前世の記憶を持ち合わせてはいないが、それでも、この世ならざる能力を持っている。
フェンリルではあり得ない力、それが〝記憶の底に眠る知識〟だった。
「あの魔獣、やっぱりタコだったんだ」
「えぇ、もし、〝マダコ〟や〝ミズダコ〟が元になったものだったとしたら、きっと美味しいはずなの、ですよね」
「お、美味しいの? ルード」
リーダもつられて聞いてくる始末。
「だから、食べたことないんだってば」
ルードの言葉に一同、笑いが出てくる。
緊張していた空気が、一気に和らいだ。
「それでね、あのタコを捕らえる方法ならば、我は二通り提案できるのです」
イエッタが提案する方法、それはこうだ。
イリスの能力で、凍らせてしまう方法。
そこでルードは初めて、イリスが持つフェンリラ特有の能力を知ることになる。
「そうだったんだ。この地面が、イリスの・・・・・・」
「えぇ、ですが、わたくしは、その、制御が上手でないもので」
「大雑把なのよね」
「フェルリーダ様に言われたくはありません」
ぷいっと横を向いてしまうイリス。
「あらぁ、そんなこと。どの口が言うのかしらぁ?」
リーダはイリスの頭を両手でぐいっと掴んで前を向かせ、頬を両手の親指と人差し指で引っ張る。
「ふぇ、ふぇるふぃーらふぁま、ゆるふぃふらふぁい・・・・・・」
ルードはイリスのその様子に、思わず笑いそうになるのだが。
「ほらほら、母さん、イリス、イエッタお母さんの話の途中だってば」
「あ」
「いたた。はい、そうでした・・・・・・」
「ふふふ。いいのですよ。さて、それでですね・・・・・・」
もうひとつの方法は、あの魔獣の頭を物理的に、くるっとひっくり返してしまう方法があるらしい。
そうすることで、タコは大人しくなるそうだ。
タコの弱点として、目と目の間、眉間の位置に深く切り込みを入れることで、活け締め状態にできるそうなのだが、かなり深く切らなくてはならないらしく、それも急に生命活動を止められるわけではないそうなのだ。
タコという生物は、足だけになっても、しばらくの間動いていたらしい。
それはルードが助けられたあとに、リーダとイリス、キャメリアも目の当たりにした事実なんだそうだ。
万が一、ルードのように足で絡め取られて、魔力を吸い尽くされないとも限らない。
それ故に、最後の方法は却下されることとなった。
さて、どうしたものか。
最初の案、イリスの能力で魔獣を丸ごと冷凍してしまうのはどうだろう?
「あの、それなのですが」
イリスが挙手をし、説明をする。
「実は、わたくし、全力で能力を使ったことがありません。その上、能力の制御を苦手としていまして、この足場もその、おっかなびっくり、試し試しでやっと作り上げた次第でありまして・・・・・・」
彼女が言うには、こうだった。
海水ごと凍らせることは可能だろうが、イリスは力の加減ができないため、穴より大きく凍ってしまったら移動させられない。
それこそ、穴の周りまで凍らせてしまったとしたら、魔獣を移動させることが適わないどころか、ある意味二次災害にまで発展しかねない。
そういうことで、この案も却下されることになった。
結果、第二案として、頭の裏返しを実行に移すことになる。
ルードは裏返す方法を、〝記憶の奥に眠る知識〟で詳しく探してみることにした。
すると、イエッタの言っていた、魔獣の頭(胴)の裏にある部分に指をひっかけてひっくり返す方法は、確かに存在していた。
だが、さすがにあの大きさでは、魔獣よりも大きな手でないと無理だろう。
リーダが思うに、あの魔獣は魔力に反応して襲ってくると思われる。
それならば、キャメリアの背に乗り、イリスが囮になって、その隙にリーダが背後に回る案はどうだろうか?
その隙に背中の部分を縦に傷つけて、無理矢理剥がしてしまおうとルードは提案する。
ただ、その方法は、どんなに強い力を持っていても、リーダひとりでは難しいかもしれない。
「んー、だったらさ。僕が魔力を回復させた後。キャメリアの背に乗せてもらって、僕が囮になればいいと思うんだけれど?」
力の強いリーダとイリスの二人ならば、同時にひっくり返すのは大丈夫だろう。
「ですが、またルード様が、今のようになってしまったとしたら」
「イリスの言うことはわかるよ。でもね、んー。キャメリア」
「はい」
「空ならさ、あの足に捕まらない自信、あるかな?」
「はい。お任せください。空であれば、私は無敵です」
キャメリアは、はっきりと言い切った。
海底で、受けた屈辱の日々は、キャメリアにも鬱積として蓄積されていたのだろう。
リーダもキャメリアの背に乗って、全開で飛んでもらったときの機動力を知っている。
彼女に任せておけば、ルードは安心だろうということになり、ルードが囮になる案で進めることになった。
▼
キャメリアは、リーダとルードを背に乗せて、ウォルガードへ向けて全力で飛んでいる。
ルードは腹ばいに横になって乗せられ、リーダがしっかりと支えているから、振り落とされることはまずないだろう。
あの場に残ったイリスとイエッタ、アミライルにティリシアは状況を見守ることになった。
あっという間にウォルガード手前の森の上空へ抜けると、ゆっくりと旋回しつつ、速度を落としてリーダ邸の庭先に着陸する。
キャメリアが飛んでくる際の音で、皆が駆け寄ってくる。
リーダはルードをひょいと抱き上げ、ドレス姿のまま軽々と飛び降りた。
ついさっきキャメリアがルードの無事を伝えに来たばかりだった。
だが、今ここにいるルードは、ぐったりした姿をしているではないか?
「ルードちゃん、いたいの? だいじょうぶなの?」
背中の翼で飛び寄ってくるけだまの姿。
ルードの背中にひしっとしがみつき、心配そうな表情をしてくれる。
「けだま、元気にしてた? ごめんね、ただいま。あのね、ちょっとだけ疲れちゃってね・・・・・・」
リーダはルードを、庭先の柔らかな芝の上に寝かせると、けだまを抱き上げてルードの傍らに座る。
「大丈夫よ、けだまちゃん。わたしと一緒に、ちょっとだけ待っていましょうね」
「うん。わかったのー」
けだまは日に日に賢くなっていくと、イリスからも聞いていた。
長い間心配をかけてしまったが、今はとにかく、魔力の回復が最優先。
秋の爽やかな風の吹き通るウォルガードの昼下がり、静かだったリーダ邸は、中から家人たちが遠巻きに、心配そうに見ている。
キャメリアは、そんな彼らに『ルード様は大丈夫です。ほら、仕事に戻りなさい』と、注意するが、そんな彼女は安堵の表情で微笑んでいた。
さすがは大気中の魔力が濃いウォルガード。
小一時間もすると、ルードの魔力はほぼ満タンとなっていた。
力強くルードは四つの足で立ち上がると、『ちょっと着替えてくるね』、そうリーダに伝え、目元に笑みを浮かべながら自室へ戻っていく。
足取りはもう大丈夫。
しっかりと地を踏むことができている。
自室へ入ると、ルードは変化の呪文を唱える。
『祖の衣よ闇へと姿を変えよ』
「あはは、やっぱりね」
思った通り、ルードは裸だったのだ。
ルードは、けだまたちに再度ごめんなさいをしつつ、『まだやることがあるからね。終わったらちゃんと、戻ってくるから』と約束をする。
リーダたちが一緒だから、もう大丈夫だからと、けだまと約束をした。
ルードは、遠くから心配そうに見守ってくれていた、エリスに微笑んで見せる。
リーダもキャメリアの背から彼女に手を振った。
「じゃ、行こうか」
「はい」
彼女の返事とともに、深紅の翼には魔力が集まっていく。
キャメリアは二人を乗せて、大空へとゆっくり飛び上がっていった。
ウォルガードへ戻ってきたときと同じように、全速力でキャメリアは現場に戻ってくる。
イリスに聞くと、状況に変化はないようだ。
平気な顔をしているイリスだったが、見えない尻尾でも振っているかのような瞳をしていた。
一緒に待っていてくれた、イエッタとアミライル、ティリシアもルードの姿に安心したようだった。
軽い打ち合わせをした後、魔獣の討伐、最後の作戦に移っていくこととなる。
ルードはキャメリアの背に乗り、魔獣のいる穴の前にたどり着く。
深い藍色をした穴の奥を見ながら、ルードは白い魔力をまとい始めた。
「キャメリア、お願い」
「お任せくださいまし」
ルードは魔力を放出し、魔獣を釣り上げるのに集中する。
移動については、全てキャメリアに任せることにした。
彼の濃い、純白の魔力に感づいたのか、穴の奥から魔獣の頭が浮上してくる。
水面下から、どす黒い魔獣の足が手が、ルードを捕らえようと、かなりの速度で伸びて、追いかけるように空を切る。
魔獣の手が伸びたと思われる位置には、既にキャメリアはいない。
彼女が『空ならば無敵』と言い放ったほどの、自慢の機動力。
まるで魔獣の動きを読み切っているように、真紅の翼から細かく炎の魔術を放出し、海上を低空で、滑るようなホバリングを行いつつ、縦に横にと縦横無尽に移動していく。
キャメリアはこうして、一定の距離を保ちながら魔獣を挑発し続けた。
ルードの濃密な、純白の魔力を餌に、うまく魔獣の注意を引きつけているのが確認できたはずだ。
その隙に、アミライルの背に乗ったリーダが、上空から飛び降りてくる。
そのままの勢いで、魔獣の背後に接近し、爪を立てて一閃する。
水しぶきを立てながら、水中へと落ちていくリーダ。
その後に残った魔獣の背。
魔獣の表皮に真一文字の傷が入ったかと思うと、魔獣の表面は、その張力に負けてめくれあがっていく。
魔獣は痛みを感じないのか、それとも魔獣化した後遺症で頭が悪くなっている言われていたからか。
自分の背中に気づかず、ルードの魔力を、未だに手足で追い続けているのだ。
イリスが魔獣の背後から近寄り、自らの能力で氷の足場を作っていく。
リーダが海中から姿を現し、足場へと上ってくる。
打ち合わせ通り、中央が切り裂かれて、めくれている右側をイリスが、左側をリーダが噛みつき、いちにのさんのタイミングで、二人は飛び上がるように一回転して魔獣の前側へ。
その勢いで、魔獣の頭は見事にくるっとひっくり返されてしまった。
自分の身体の一部で目を覆われてしまった魔獣は、ルードの姿をもう、捕らえてはいないだろう。
だが、魔力の気配を感じているのか、リーダたちを無視して、手足だけはルードのいる位置を追い続けていた。
普通に知能の高い魔獣だとしたら、今の状況ならリーダたちを排除しようとするはず。
レラマリンの言うとおり、実に残念な魔獣となってしまったのだろう。
しばらくの間、ルードの魔力の気配を追い続けていた魔獣は、徐々にその動きは遅くなっていった。
同時に、イリスが魔獣の正面に氷で足場を作ると、人の姿に戻る。
リーダとアイコンタクトをし、イリスだけが自らの腕力だけで、めくれている魔獣の表皮を抑え続けていた。
リーダは魔獣の背後に回ると、すでに降下してきたアミライルの背から降りてきた、イエッタと合流する。
未だゆっくりと手足を動かす魔獣の背を見て、イエッタの指示のもと、魔獣の内臓を切り落としていく。
「その内蔵、捨てないでイリスさんに冷凍してもらってね」
「はい? ・・・・・・わかりました」
返事をしながら、リーダは魔獣の白い内部に存在する内臓を、どす黒い墨袋、目玉などを、切り取っては氷の足場に置いていく。
なぜイリスが、そのように的確な指示をだせていたのか?
おそらくイエッタは、〝悪魔憑き〟としての記憶か、魔獣の元になったタコを捌いた経験があったのかもしれない。
墨袋や内臓をすべて落としても、手足は動いていたが、最後には全く動かなくなってしまっていた。
こうして、長い間ネレイティールズを苦しめた、魔獣の討伐は完了していたのだった。
ルードたちと、キャメリア、アミライルが力を合わせて、イリスが作った海上の足場へ魔獣を引きずりあげる。
その姿はとてもグロテスクだったが、イエッタだけは『うんうん』と頷いていた。
「イエッタお母さん、これってやっぱり」
「そうですね。我の知るタコそのもので、間違いはないと思いますよ」
ルードは振り向いて、ティリシアの姿を確認する。
「ティリシアさん、お疲れ様でした。戻って、マリンさんとお姉ちゃんに教えてあげてもらえますか?」
「はいっ、そうさせていただきます。では、後ほど」
ティリシアは、その場に直立不動で敬礼をすると、ルードに微笑んでくれた。
その後、綺麗な所作で回れ右をして、海中へ飛び込んでいった。
リーダは人の姿に戻っているが、イリスはまだフェンリラの姿だ。
彼女には、最後の仕事が待っているからであった。
ルードたちが魔獣の手足をまとめて、胴体の近くへ持ってくる。
それが終わると、イリスは彼女のフェンリラの能力で、魔獣の冷凍を始めた。
「うぇ・・・・・・」
改めてイリスが魔獣に触ったとき、緊張の糸が切れていたからか、気持ち悪そうな声を出してしまった。
魔獣には、タコと同じ、『ぬるぬるする成分が分泌されている』から。
かといって、フェンリラ固有の能力を使うためには、この姿でないとうまくいかない。
ルードのように、人の姿で使える人は、リーダの母フェリシアくらいだろうか?
イリスが右前足の肉球を魔獣から離すと、にちゃーっと糸を引いたりする。
すると更に、嫌そうな顔をするものだから、リーダはくすくすと笑いはじめ、イエッタやキャメリア、アミライルは笑いをこらえていただろう。
恨めしそうな瞳をルードに向けてきたが、苦笑して『頑張ってね』と彼女を励ます。
もの凄い大きさだった魔獣が、イリスの右前足の肉球を中心に徐々に凍り始め、冷気を放出しながらその作業はあっさりと終わってしまった。
イリスは作業を終えると、人の姿に戻って、そのまま足場の淵へ行く。
「ぬるぬるするんですよ・・・・・・」
そう言って、しゃがみ込んで海水で手を洗い始めていた。
ルードは、イリスの背中を見て、『お疲れ様、イリス』と声をかける。
その後、キャメリアを振り向き。
「これ、できるかな?」
首を可愛らしく傾げ、笑顔でキャメリアに問いかける。
「このような大きさ、できるわけありません。私は、馬車三台分がやっとだと――」
キャメリアは大きさの限界だと否定するが、そう言いながらも、彼女は試してみる。
手を触れて魔力を流したとき、瞬時に魔獣だったその氷の塊は消えてしまっていた。
「あ、できてしまいました・・・・・・」
気の抜けたようなキャメリアの声と、きょとんとした表情。
「すごいね、キャメリア」
魔獣の肉塊は、彼女の言っていた〝馬車三台分〟を優に超えていた。
ルードとともに過ごしていた間に、キャメリアの魔力制御の力も上昇したのだろうか?
彼女もまだまだ二十歳。
四百歳を超えるリーダから見たら、キャメリアは、ルードやけだまと同じ、可愛らしい少女のようなもの。
成長期であったとしても、不思議ではないのであろう。
なにせ、リーダもまだまだ成長を続けている感覚があるらしいのだから。
▼
格納を終えて、一段落したと同時に、魔獣が棲みついていた穴のあった場所に変化が起きていた。
大きな気泡がぼこぼこと現れてはぽこんと破裂、現れては泡が消えていく。
しばらく経つと、大きな渦ができ、海水が吸い込まれて、また気泡が現れては消えていく。
ややあって海面が落ち着いたと思ったときだった。
船舶を従えたネレイドたちが順番に現れては、誘導しているではないか?
船舶の甲板に立っていた船員たちは、ネレイドに、ルードたちに手を振って、船を進めて去って行く。
これだけの船舶が、ルードたちと一緒に捕らえられてしまったということなのだろう。
ルードたちも、去って行く船の船員たちに手を振って応えていた。
何艘目の船を見送ったときだったか。
しばらく続いたあとに、ティリシアが戻ってくる。
ルードたちはティリシアに連れられて、海底へ。
ネレイティールズへと戻っていくことになった。
内底を通り抜け、浜辺へたどり着くルードたち。
そこにはクロケットやオルトレット、城下町の人々が出迎えてくれた。
膝まで濡れながら、ルードに駆け寄るクロケット。
ルードをぎゅっと抱きしめる。
「お帰りなさい、ですにゃ」
「うん、ただいま。お姉ちゃん」
ルードの手を握って、一緒に浜辺に戻ってくる。
馬車の前に待っていたオルトレットが深々と礼をしてくれた。
「お待ちしておりました。お疲れ様でございます、ルード王太子殿下」
「はい。ただいま。お姉ちゃんをありがとうございます」
「いえ、わたくしこそ、有意義な時間を過ごすことができました故」
にやっと口元に笑みを浮かべるオルトレット。
「オルトレットさん、僕の母さんと、家族です」
ルードに紹介されたリーダとイリスを見るやいなや、もの凄い驚きの表情を浮かべる。
一度目元をごしごしと擦るが、まるで、信じられないものを見るようなものになっていたではないか。
「あ、あなた様方はもしや・・・・・・」
「えぇ。ルードから聞いておりますよ、オルトレットさん。わたしは、ルードの母のひとり、フェルリーダ・ウォルガードです。これはルードの執事のイリスエーラ。わたしの左隣が、ルードのお母さんの一人、イエッタさん。キャメリアちゃんの親族のアミライルちゃんです」
「申し訳ございません。フェルリーダ様と、お連れの執事殿が、その。わたくしが以前、大変お世話になった方々に、あまりにも似ていらっしゃるものですから・・・・・・」
ルードはオルトレットから話を聞いていたから、リーダの親族がいたのだろうと認識はしていた。
だが、リーダは首をひねる。
後ろを振り向き、イリスの顔を見るのだが、彼女も心当たりがないようだ。
ルードから聞いていないからだろう。
ウォルガード本国からは、何人ものフェンリル、フェンリラが各国へと訪れているのはリーダも知っている。
オルトレットはおそらく、ヘンルーダの、クロケットの系統にいる猫人だと認識したのだろう。
「後ほど、時間を作ってから、詳しくお聞きしたいものですわ」
そう言って、微笑むリーダだった。
驚きのあまり、この場に伝説の〝瞳のイエッタ〟がいることに、気づいていなかったオルトレットだった。
ルードたちは、オルトレットが用意した馬車へ乗りこんだ。
その客車部分は、きっと王家が祭事にパレードでも行うように作られているのか、屋根のない立派な装飾が施されたものであった。
このネレイティールズは、海の底にあることもあり、意図的に雨のような水の噴霧を行うそうなので、屋根がついていなくても濡れるようなことはないのだろう。
城下の皆に見守られながら、英雄の凱旋のように、ルードたちは手を振る。
通り慣れた城下町を、馬車でこのように通るのも恥ずかしいと思いつつ、ゆっくりと王城へ到着する。
見知った中庭を抜け、レラマリンが待つであろう場所へと通された。
驚いたことに、彼女らが待つ謁見の間では、女王と王配殿下、その後ろには王女レラマリンが片膝をついて出迎えていた。
場を察したリーダが「楽にしてください」と伝える。
緊張の面持ちの、レラマリンの両親でもある女王と王配殿下。
そんな中、最高の笑顔でレラマリンはルードたちを迎えてくれたのだった。




