第二十話 作戦行動(ミッション)。 その2
ルードはズボンの裾をまくり上げると、靴を脱いでキャメリアに預ける。
キャメリアは魔力を消費して、虚空へ靴を〝隠して〟くれた。
これはメルドラードの人たちの固有の能力で、荷物を隠し持つことができるのだ。
キャメリアは、馬車を三つほど隠し持つことができるのだといい、大型飛龍のリューザに至っては、馬車よりも大きな木枠で組まれたコンテナのようなものを、複数個隠し持つことができる。
ルードの靴を一瞬で隠し終えると、自らの靴も隠してしまう。
服は洗うことができるが、靴だけは革製で、クロケットとキャメリアが侍女としての師匠と仰ぐ、クレアーナの二人が、手縫いで仕上げてくれた宝物だから。
前に落ちてきた際は、少し濡れてしまっていて、乾かすのにかなり気を遣ってしまったことから、再び濡らしてしまうわけにはいかないのだ。
キャメリアは身体が柔らかいようで、背中に手を交差させて、襟足より下にあるボタンを器用に数個外す。
すると、肩口を通る細めの布地だけが残り、少しだけ褐色の彼女の背中が露出する。
これは背中を露出させても、服が落ちないようにと、クロケットの考案したものだ。
同時にキャメリアは、背中のあたりに意識を集中する。
ばさりという音を立て、今の身長に合わせたサイズで深紅の翼を出現させた。
この能力は、この国に〝落ちてきた〟ときの副産物。
けだまのように、くしゃみでたまたま出てしまったものとは違い、自分の中の使える力に訴えかけて、自分の意思の力で顕現させたものだ。
そのせいもあり、縫ってもらった大切な服の背中部分を破いてしまい、半泣きの状態でクロケットに修繕してもらった。
その際に、破いてしまわないように改造もしてくれたのだ。
部屋の中で浮く練習をしてクロケットを喜ばせ、ルードの見守る中、修練場で一度だけ空を飛んでみせたこともあった。
間違いなく、この状態で飛ぶことは可能なのだが、思ったよりも魔力の消耗が激しいようだ。
いざというときにいつでも飛べるように、あらかじめ翼を出すつもりでいた。
その準備として、今朝、クロケットにお願いして、魔力の再補充をしておいたのだ。
キャメリアにとって、クロケットはルードと同じ、仕えるべきご主人様なのだが、二人きりのときは、キャメリアは双子の姉のように振る舞っている。
ルードのことも、種族は違えど、弟のように思っているし、ルードも姉のような存在だと言ってくれたことがあった。
もちろん、キャメリアから、妹分クロケットに『ルード様にも、してあげてくれるかしら?』と、双子の姉のような立場でお願いしてくれた。
だからルードもキャメリアも、今朝は魔力が満タンだった。
キャメリアは、翼をうまくたたみ込むと、スカートの裾を両手の指でつまみ上げ、右足を少々下げて、綺麗にお辞儀をする。
「ルード様。お待たせいたしました」
ルードから靴を受け取って、ここまでほんの数秒。
別に待たせたわけではないが、『準備ができた』と、言う意味も含んでいたのだろう。
ルードは笑顔で応えて、回れ右。
「では、行きましょうか」
ルードが波打ち際へ入っていくが、しばらくの間はくるぶしまでの深さしかない。
キャメリアも続いてルードの後をついていく。
海面が踝を覆いつくし、膝下あたりの深さになってきたところで、ルードは足を止める。
すると、ルードの四方に水色のローブ、いわゆる〝貫頭衣〟に似た、丈の長いものを羽織った女性が四人現れたのは、昨日も協力してくれた、ネレイドの卓越した水魔法使い。
彼女たちは、ルードを中心として各々二十メートルほど離れた間隔で立ち止まった。
「ルード様、目を瞑られた方がよろしいかと」
なるほど、あのローブの下はこの後、腰から下を変化させるため、水着姿だということなのだろう。
シーウェールズでクロケットと一緒に見たレアリエールの姿や、ついこの間の、レラマリンの美しいネレイド本来の姿を思い出す。
「あー、うん。お姉ちゃんに余計な心配させたくないから、ね」
あのときルードは、クロケットにいらぬ誤解を与えてしまった。
だからキャメリアも、噂が立たないように気を遣ったのだろう。
ルードは右手の手のひらから指先までを使って、自分の目を覆い隠した。
それはもう、周りにいる衛士たちが大げさに思えるほどに。
ルードの左側、数歩前に出てきたキャメリアの差し出す右手を取って、『見えてませんよ。だから、キャメリアに手を引いてもらうんですよ』と、アピールしておいた。
ネレイドの水魔法使いの横には、二人ずつネプラスの衛士たちが護衛につく。
彼らはいざという時のために、各々武器として三叉槍を持っている。
鋭利な刃の先端から少し下の位置には、現代の釣り針のような〝かえし〟がついている。
それは対象に刺さると、簡単には抜けなくなるように作られているのであろう。
彼らにはネレイド女性本来の姿は、当たり前の姿なのだろうか?
それとも見慣れてしまっているのだろうか?
ルードのように動揺することはなく、平然としているように見える。
他の衛士たちと一緒に、ルードのいる場所へ入ってくる犬人の衛士の二人。
女性の方が『少しは気を遣ってみたら? ルード様を見習いなさいよ』と言うと、男性の方は『いつものことだろう? なぜ今更?』などと、軽い言い合いをしていたりする。
そんな中、ティリシアの声がルードの耳に入ってきた。
「ルード様、配置が完了しました。前進しますので、お気をつけ下さい」
「了解です。キャメリア、お願いね」
「はい、かしこまりました」
キャメリアは、ゆっくりとルードの手を引きながら歩き始める。
くんっ、と、手を引っ張られる感覚を切っ掛けに、ルードも歩き始めた。
膝上くらいの深さになり、内底の壁が見えてくると、ティリシアが声をかけてくれる。
「ルード様。そろそろ浮上しますので。倒れないようにお気をつけください」
その声に従って、ルードは足を止める。
「はい。ごめんねキャメリア」
「いえ、大丈夫ですから」
キャメリアは手を一度離すと、ルードの背後に回って、両肩を支えてくれる。
同時に、足下がふわりと浮く感覚を覚えた。
ルードはまだ目を瞑ったままだが、キャメリアには周りの状況が見えている。
一辺が二十メートルほどの立方体に似た気泡が、ルードの周りにできている。
四方を囲んでいるネレイドたちが、水魔法を使って、内底の壁を通り過ぎても、ルードたちが呼吸可能な空間を作ってくれたのだ。
彼女達は、小型の船であれば一人で、大型の商船であれば前後に二人いれば、気泡で覆いながら誘導することができるそうだ。
そのままふわりふわりと、海中を漂うように進んでいく。
その状態はまるで、海中を自由に進んでいく、魚そのものか潜水艦のよう。
気泡の壁で歪んで見づらくなってはいるが、ネプラスの一人が、重しで浮力バランスが調整されていて、急激には浮かび上がらないようになっている餌木もどきを、一緒に引っ張っているのも見える。
振り返ると、先程までいたネレイティールズの浜辺が、内底と呼ばれる海水の壁を境に遠ざかっていくの。
「ルード様。もう目を開けても大丈夫です」
キャメリアがそう言うと、ルードはゆっくりと目を開ける。
ルードの周りにある壁の外は、深い海の底。
例えるならば、クロケットの髪のような艶やかな漆黒に比較的近い、寒色の強い藍色だろうか?
もちろん、四隅にいるネレイドやネプラスたちの姿は、暗くてよく見えない。
だからキャメリアは、大丈夫と言ったのだろう。
上を見上げると、四方よりは明るく感じる。
その遙か上方には、海面へ続く穴があり、そこにはルードたちが目指す魔獣がいるはずだ。
「では、このまま魔獣のところまで、ゆっくり浮上してください」
ルードの号令を聞き、ティリシアが指示を出す。
「前回と同じ深度へ浮上」
「「「「「「「「了解」」」」」」」」
暗さと揺らぎの外に見える、気泡を囲むネレイドとネプラスたちが、衛士長の号令を聞きゆっくりと浮上していく。
浮上動作が止まると、目の良いルードの視界の先には、魔獣の姿をはっきりと捕らえることができている。
「重りをひとつ外して、エビの誘導を始めてください」
「「「「「「「「了解」」」」」」」」
ルードは餌木もどきのことを、こちらの人でもわかりやすいようにか、エビと呼んでいる。
ここから魔獣までの距離は、おおよそ四、五十メートルくらいはあるだろうか?
ルードは餌木もどき、ここでいうエビの操作をする衛士たちに、あらかじめ細かな指示を与えていた。
エビの鼻先についている輪へつながるロープは、不自然にならない程度にたるませた状態で、浮上する速度に合わせて徐々に伸ばしていく。
残り十メートル近くになったあたりで、少し張り気味にし、時折〝つんつん〟という感じに、トリッキーな動きを出せるように練習させている。
それは、エビが水中で跳ねるような動作を模したもの。
衛士たちは今も忘れていないようで、魔獣の視界に入る前から、その奇妙な動きを再現させていた。
衛士たちは時折、『それっ!』などと声を掛け合い、ルードが要求する動きをエビに与えてくれている。
「キャメリア、ティリシアさん。準備はいい?」
「はい、ルード様」
「はい、いつでも」
ティリシアは、ルードとキャメリアの後ろへ回る。
「では、あとは打ち合わせの通りにお願いしますね」
「「「「「「「「了解」」」」」」」」
三人は気泡の端へ移動する。
ルードの背後から、つぶやくような短い詠唱が聞こえた後、魔力の流れを感じた。
すると、気泡の壁が外側へ押し出されるように、膨張していく。
これも昨日までに練習していた、ティリシアが作った気泡に包まれながら移動する方法。
大きな気泡から分割されるように、新たな気泡で移動を始めるルードたち。
頭が悪いとされている魔獣が、エビに気をとられている隙に、穴を通って海上へ脱出する算段なのだ。
ここまでは、ルードが予想した通りに事が運ばれている。
慌てず、ゆっくりと、確実に穴までの距離を詰めていく。
衛士たちのいない、海の中はとても静かだ。
風の音も、波の音も、何も聞こえてはこない。
そんな状況だから、キャメリアとティリシアの呼吸や心音が、ルードにもしっかりと聞こえている。
もちろん、緊張するルードの心音や呼吸も、二人に聞こえているのだろう。
この作戦行動は、ネレイティールズにいるすべての人の命運がかかっている。
それは友だちのレラマリンも、大好きなクロケットも含まれている。
絶対に失敗できない。
だから、ルードはよく見た。
魔獣の手に相当する足の動き。
魔獣の目の動き。
間違いなく、エビを追っている。
微妙に届かない位置へ、うまく移動させられているのも確認できた。
もう少し。
もう少しで、海上へ出られる。
あと、数メートル。
穴を抜けた。
「(よし、もうだいじょ――)」
もう海面ぎりぎり、・・・・・・そんなときだった。
ルードの目は、忙しく視点を移動させながら、魔獣の目、エビを追って動いている足を見ていた。
間違いなくエビを追っている足を確認している。
ただ、ルードの視線は、八本ある足のすべてを追い切れていなかった。
キャメリアもティリシアも、視線は海上を向いていた。
八本ある足の一本だけが、キャメリアに迫ってきているのを、偶然ルードは目で追うことができたのだ。
「(こんなところで、失敗なんてできない)」
爆発的に膨れ上がる、白い魔力の気配を、キャメリアは感じ取った。
衛士長であり、剣の使い手である上に、水魔法使いの一人であったティリシアにも、肌で感じ取れただろう。
今までであれば、変化の呪文を口ずさんでから姿を変えていた。
黒い霧で包まれてから、ルードが姿を変えることも知っていた。
だが今は違う。
真っ白な光が一瞬包んだかと思うと、ルードはフェンリルの姿へと変わっていた。
「そんなこと、させないっ!」
ルードが、キャメリアとティリシアを、背中で押し出すように持ち上げると、海上へ向けて二人の身体は弾き出される。
その瞬間、ルードは魔獣の足にその大きな牙を剥き出しにして、噛みついていたではないか?
「ルード様っ!」
キャメリアは声を出すと同時に手を伸ばす、・・・・・・が、届く範囲にルードの姿はない。
振り向いてティリシアの目を見た。
ティリシアはひとつ頷くと、安全な位置へ泳いでいく。
風を感じたキャメリアは翼を広げ、意識を集中し、翼へ魔力を集め、羽ばたいた。
魔獣の頭と、足の数本が海上から出ているのを確認できる。
キャメリアは魔獣を見下ろし、両腕を頭の上でクロスさせ、両手を広げたその間には、炎が巻き起こる。
炎の魔法で顕現させた炎を魔獣にぶつけようとしたのだが、このままではルードを巻き込んでしまう。
ルードは、魔獣の足に絡め取られていた。
それでも必死に噛みついて、キャメリアを逃がそうとしているではないか。
ルードの顎の咬合が緩んでいき、噛みついていた足から、口が、牙が離れていく。
四肢がだらりと力なく、動かなくなっていくのを見てしまった。
心配そうに上空を見上げ、キャメリアの姿を確認できて、ふっと優しく笑うような目をして、徐々に閉じられていく。
あの状態は間違いなく、魔力が枯渇したときと同じ。
「ルード様っ! 今、お助けいたし――」
キャメリアは、何も考えずに、そのまま突っ込もうとした刹那!
見覚えのある深い緑色の塊が、魔獣へと急降下していくのが、キャメリアにも見えただろう。
「わたしのルードをっ、離せぇえええええっ!」
 




