第十二話 現女王(はは)の優しさと厳しさ。元王女(むすめ)の覚悟。
母親たちのちょっとした井戸端会議が終わった事で、簡易的な通信機に似た魔道具の開発を早急に進めるべく、フェリスとシルヴィネは王城にある研究室という名のフェリスの書斎へ戻っていった。
ここに残ったのは、先程まで眠っていたリーダと彼女の母フェリシア、けだまの寝顔を見守るイリスとイエッタ。
イエッタはフェリシアに視線を移すと、そこには、目を覚ましたリーダの姿を確認できていた。
『あとはフェリシアちゃんに任せましょう』と伝えて促すと、けだまを抱いたイリスと共に、イエッタはこの部屋を出て行く。
フェリシアの横に座ったリーダは、母の肩に頭を預け、フェリシアは彼女の髪を上から下まで優しく撫で下ろしていた。
「フェルリーダ」
イエッタから教わったのか、フェリシアは正座をして背筋を伸ばしており、リーダはぺたんと座り込んでいる。
「はい……。お母様」
フェリシアはこう見えて、リーダとあまり身長が変わらない。
座り方による身長差が若干出ているのか、リーダの方が見上げるような感じになっている。
それはまるで、幼かったあの日のように、泣き顔の残った可愛い娘を諭すように。
「あなたはね、頑張りすぎなの。いくらルード君が心配でもね、彼はそんなに弱くはないわ」
「うん。でもね、あの子みたいに……」
ルードの兄であり、同じ名前のフェムルード。
彼はフェンリルでありながら生まれつき身体が弱かったのか、一歳の誕生日を迎える前の冬を越す事ができなかったのだ。
「その話は聞いたわ。悲しかったわね。でもね、その子がいたから、ルード君と出会えたのでしょう?」
「……うん」
「お母様から聞いてるわ。ルード君がいたから、私の姉さんと、お父様と最後の別れができたって。……あなたも、そうだったのでしょう?」
たしかに、シーウェールズへ引っ越して来たあの日、一晩だけの邂逅だった。
たしかに、彼の『ありがとう。大好きだよ』の声を聞く事ができた。
あれはきっと、彼ら兄弟の起こした奇跡だったのだろう。
「……うん」
「ルード君の中にはね、お兄ちゃんと弟君がいるのを、あなたが教えてくれたじゃない?」
年若くしてその身を散らした弟のエルシードもまた、ルードの奥で助ける力と成り代わり、兄フェムルードと一緒に、今も助けていてくれる。
「うん」
「二人がね、彼に力をくれたの。その力をね、ルード君は無駄にしないように、使いこなせるように努力したのを知っているでしょう?」
「うん」
「それにね。エリスちゃんは、あなたの妹なのでしょう?」
「う、うん……」
ルードを産んだエリスと、ルードを育てたリーダ。
エリスはルードに何もできなかったからこそ、ルードを育ててくれたリーダには、感謝してもしきれないと言っていた。
だが、エリスがルードを産んでくれなかったら、リーダはあのとき立ち直る事はできなかっただろう。
お互いに尊重し合い、お互いに感謝し合った。
ルードをきっかけとして、結ぶことが叶った、義理の姉妹のような関係。
親子以上に年は離れているが、髪の色を除けば、二人は双子のようにそっくり。
そんな彼女は、リーダを姉のように慕ってくれている。
そんな彼女を、リーダは妹のように可愛がっている。
「あなた達、本当の姉妹のようにそっくりだものね。私も初めて会ったとき、驚いたくらいだもの。そんな彼女はね、あなたよりも三百歳以上若いのよ?」
「うん」
「三百歳以上年上なお姉ちゃんが、そんなにだらしなくてもいいのかしら?」
「…………」
「そんなに情けないお姉ちゃんだと、エリスちゃんに笑われてしまうわよ?」
「……いや」
「学園にいた時のような今のあなたでは、ルードちゃんにも笑われてしまうわよ?」
「……いやよ」
こんなに優しい言葉で諭してくれる母。
こんなに温かい言葉で叱ってくれる母。
何年ぶりだろうか、こんなに長い時間、母娘が一緒にいたのは。
学園にいるときですら、こんな事はなかっただろう。
こうして、叱ってくれながらも、フェリシアは癒やしの能力でリーダの心を温かくしてくれている。
「ルードちゃんはね、私にとっても、息子のような存在なの。息子のいなかった私を、〝お母さん〟と呼んでくれるのよ? あなたが嫌がった、私の後を継いでくれるのよ?」
ルードは、フェリスとフェリシア、イエッタ達を母と呼ぶ。
見た目が若いからではなく、ルードがそう呼びたいと思ったから。
ルードに、そう呼んで欲しいと望んだから。
「うん」
「私だってね、そんなルードちゃんが心配。でもね、私はこうして、待つ事しかできないの」
「あ……」
「お母様が行くとね。絶対に大事になってしまうわ。それは私も思ってるの」
「ふふっ。たしかに、そうよね。水しかない海が、焼け野原になってもおかしくないものね」
やっと、リーダに笑顔が戻ってくる。
そんなリーダの髪を、くしゃりと強く撫でるフェリス。
「クロケットちゃんは将来、私達の娘になるのでしょう?」
クロケットは、親友のヘンルーダから預かった大事な娘。
先日二人の誕生日に、ルードの婚約者として正式に認められたのだから。
「うん」
「キャメリアちゃんだって、娘のようなものなのでしょう?」
本人は自分の事を侍女だとは言っているが、ルードが姉のように彼女を大事にしている事も、知っているのだ。
「うん」
「フェルリーダ」
「はい」
「あなたには、私に、エリスちゃんにはない、その能力があるのですよ?」
「はい」
「遠慮する事なんて、最初からなかったのです。たしかに、ルードちゃんの自主性を高めるのは大切かもしれません。ですが、今はルードちゃん達だって、困っているのです。あの時助けたあなたには、これからも、あの子を見守る義務があるのですよ?」
「はい」
「一度も二度も同じです。息子と娘達を助けられなくて、何が母親ですか」
「はい」
「あなたは女王になる事を、拒否したのです。ルードちゃんに全て、責任を負わせたのです」
「はい」
フェリシアはその場に立ち上がり、リーダにその手を差し伸べる。
リーダが彼女の手を取ると、その手はとても力強く引っ張り上げてくれる。
体力的に、腕力、魔力、全ての面において、リーダはフェリシアを遙かに凌駕しているはずなのに。
これが、母の力なのだろうか?
「だから、お行きなさい。行って、母としての務めを、果たしてくるのです」
「はいっ」
ぎゅっと両の腕でリーダを抱きしめ、その額に慈愛の口づけを与える。
顔を離したときに見えたリーダの瞳には、もう、迷いなどなかった。
「あなたの二人のお姉ちゃんが、あのような子達に育ってしまったのは、私の責任。ごめんなさいね」
「ううん。姉様達が戻るまで、しっかりするって約束したわたしがいけないんだから」
『もう大丈夫でしょう』と思えたから、フェリシアはリーダから身体を離す。
「行ってまいります。お母様」
「えぇ。行ってらっしゃい。フェルリーダ」
リーダは、背筋を伸ばして、踵を返す。
その姿は、この国の第三王女としての気概があった頃のような。
そんなフェンリラの姿があったのだ。
ドアを開けると、いつもの凜とした、透き通る声が響く。
「イリスエーラ。いるのでしょう? 用意をなさい」
「はいっ。フェルリーダ様」
▼
リーダとイリス、イエッタの三人は、シーウェールズへの毎朝の定期便が飛んでいた事もあり、大型のヒュージドラグナ、リューザの背中に背負われた龍車で移動することになった。
タバサの工房へ勤めるドラグリーナのラリーズニアがいたのだが、いざという時のために、フェリスが動けなくなるのは困るということになり、ウォルガードに残ってもらうことになったのだ。
イエッタがイリスの手を借りて、タラップのような踏み台を登っているとき、次に控えていたリーダの元へ、駆け寄る姿があった。
「リーダさん、……はぁ、はぁっ。ま、間に合ったぁ。ね、間に合うって言ったでしょ?」
「えぇ。お忙しいところ申し訳ございません。フェルリーダ様」
振り向くとそこには、タバサとレアリエールがいた。
二人とも、走ってきたのか、額に少々、汗を滲ませている。
その必死な表情は、きっと、ルードの事だろうと思った。
「えぇ、構わないわ」
「ありがとうございます。これを、お持ちになってください」
「これは?」
リーダに渡された、封蝋のような印の施された封書。
「ルード様の件は伺っております。私共の親族が原因で、ご迷惑をおかけいたしました。私は何もできませんが、こちらの文を、私の弟へお渡しください。きっと、お力になれるかと思います。本来は、私が案内しなければならないところでしょう。ですが、私は何分、ここを踏ん張らないと、母国へ帰らねばならないという、情けない状況でして……」
リーダの顔に笑みが浮かぶ。
この娘も、ルードの事を心配してくれている。
それでいながら、シーウェールズ本国にいる国王、王妃との約束を違える訳にはいかないという、複雑な状況を作ったのもまた、リーダ本人だったから、彼女の事情も十分承知しているのだ。
「いいのよ。わたしの息子が原因なのだから。心配させてしまってごめんなさいね。ありがたく、使わせていただくわ」
よく見ると、タバサがイエッタに何か鞄のようなものを渡していた。
中を覗いたイエッタは、かなり嬉しそうだった。
用事を果たしたタバサは、レアリエールの傍へやってくる。
錬金術師の彼女は、シーウェールズの王女レアリエールのルームメイトであり、家庭教師でもある。
レアリエールの成績があまりにも不出来で、不憫に思ったタバサが買って出ていた。
「いってらっしゃいませ、フェルリーダ様」
「いってらっしゃい。リーダさん、イエッタさん。三人によろしくね。イリスさん、二人をお願いね」
「はい、任せてください」
リーダの手を取り、タラップへと導いたとき。
「フェルリーダ」
その声の主は、親友のヘンルーダだ。
彼女が胸に抱いていたのは、留守番をする事になったけだま。
「無理をしないように。いいわね?」
「えぇ。大丈夫。心配かけたわね」
「リーダちゃん」
「けだまちゃん。良い子にしてるのよ?」
「うん。いいこにしてるの。だから、まってるっていってね。ルードちゃん、おねーちゃん。あ、キャメリアもね」
「くすくす……。わかったわ。ちゃんと伝えますからね。では、ヘンルーダ」
「えぇ、いってらっしゃい」
「いってらっしゃいなの」
イエッタも手を振り、イリスは無言で会釈をする。
リーダが再び背を向けた手を、ぎゅっと握る両手がある。
「リーダ姉さん」
「エリスね?」
「ルードをお願いね。私、何もできなくて――」
「ごめんなさいね。だらしのない姉で」
「そ、そんなことっ」
「でも、もう大丈夫よ。もう、我慢なんてしないから」
「うん。リーダ姉さん、気をつけてなんて言わないわ。やり過ぎないように、祈ってるわ」
「あのねぇ……」
「えへへへ……」
軽く振り向いて、笑みを見せるリーダ。
眉が下がり、少しだけ、後悔の念の窺える彼女の表情は、エリスにも十分わかっただろう。
リーダにも、エリスの安堵した目元に気づいたはずだ。
うっすらと涙を浮かべ、両手を離して一歩下がり、エリスは遠慮がちに小さく手を振る。
リーダは皆に見守られながら、龍車へ乗り込んでいく。
家族というのはここまでも温かいものなのだ。
皆の期待を背に受けて、リーダは自分が間違っていない事を再度認識する。
「では、皆様。シーウェールズに向けて出発します。少々揺れますので、ご注意ください」
魔力の感じられる、緩い風がふわりと起きる。
あり得ない程の巨大なリューザの翼が数回はためいたかと思うと、その重量級の身体が軽々と、それでいてゆっくりと上昇していく。
「さぁ、部屋に戻って復習しましょうか。今度の試験落としたら、あれに乗って、シーウェールズへ帰らないとダメだったわよね?」
「そ、それだけは回避しますわ。これまでもそうでしたし、これからも絶対にっ」
「あたしがつきっきりで教えているのに。何でいつも、ぎりぎりなのよ……」
遠くの空へと消えていくヒュージドラグナの姿を見ながら、ため息を漏らすタバサだった。
▼
本来、ウォルガードとシーウェールズ間は、リーダが陸路で向かう場合は二昼夜。
イリスでも半日はかかるという距離なのだが、大型のリューザとはいえ、さすがに、空の旅は格段に早く到着する。
空港に到着すると、リーダたちが降りるのを確認すると、リューザは龍車を格納し、人の姿になる。
リーダたちはリューザに労いの言葉をかけると、空港施設を出てエリス商会へ向かおうとした。
だが、そこには何故か、馬車が待っているではないか。
「お待ちしておりました」
御者席から降りてきたのは、シーウェールズ王室付きの執事、ジェルードだった。
「あら? こちらへ来ると何故、知ってたのかしら?」
「はい。執事の勘にございます」
そう言うジェルードに、リーダはイリスの顔を見ると、彼女は少々苦笑している。
「(執事って、こういうものなのかしら?)では、ジェルードさん、だったわね?」
「私めの名前など、よく覚えてくださいました。ありがたく思います」
「これを、レアリエールちゃんから預かったのですけれど」
「はい。……これは。なるほど、姫様から若様へのもののようです。王城へ案内いたしますので、どうぞ、お乗りくださいませ」
魔法の印に手を翳すジェルードは、そこから何かを読みとったのだろう。
「ありがとう。イエッタさん、イリスエーラ。行きましょうか」
「えぇ」
「はい。かしこまりました」
王城へ到着したリーダたちを迎えたのは、最早、趣味としか思えない程の見事な五体投地を見せようとした、王妃クレアーラと、王子アルスレットに両脇をがっちりと固められて止められた国王のフェリッツだった。
きっと、愛娘のレアリエールが迷惑をかけているだろうという、予測の上での、条件反射だったのだろう。
アルスレットが封書を受け取ると、指先で魔力を込めた瞬間、印が消滅する。
中にあった文を読んでいくと同時に、顔色が真っ青になっていくではないか。
「しょ、少々、おまちください。父さん、母さん」
「これ、アルスレット。ここでは、国王なのですか――」
母親であり、公の場では王妃のクレアーラが、アルスレットを窘めようとするのだが。
「そんな悠長な事を言ってる場合じゃないんです。ルード君を……。いえ、ルード殿下と婚約者のクロケットさんを、ネレイティールズが一ヶ月も幽閉してしまったようなのです」
「何だと(何ですって)?」」
二人とも、顔から血の気が引いて、青いどころか、どす黒くなってしまう。




