第十七話 叔母と姪。
ルードは先にリーダを乗せ、次にジョエルに手を差し伸べる。
笑顔で緊張を解きほぐそうと思ったのだろう。
ルードの笑顔を見て、ジョエルは呆然としていたのに気づき、少し恥ずかしそうにしていた。
「お手をどうぞ。それ程揺れませんのでお乗りください。そのままクレアーナのいるところまでご案内いたします」
「……乗っても、いいのかい?」
驚きながらもジョエルはさすがアルフェルと同じ歴戦の商人なのだろう。
ジョエルも乗ってみたいと思ったのだろう。
驚きよりも興味の方が強くなっていただろう。
「はい。乗らないと連れていけない場所ですので」
負けずと笑顔で『ありがとう』と言い、ルードの手を借り、キャメリアの背に乗った。
最後にルードがリーダの前にひょいと飛び乗る。
「安全な空の旅になります。少々の時間ですが、雄大な景色をお楽しみください。キャメリア、ゆっくりお願いね」
「はい、かしこまりました。ルード様」
ふわりと物理法則に逆らうような浮遊感のあと、ゆっくりと大空へ駆け上っていく。
あっという間にレーズシモンの国が、小さな背景となり空の彼方へ置き去りにされていく。
各国を旅してきたジョエルにも、その景色は新鮮だっただろう。
絶景に声を失いながらも、今見ておけるものは見逃してはいけない。
そう思ったのかもしれない。
暫しの空の旅。
レーズシモンの豪商。
レナード商会、商会長のジョエルにとって、生まれて初めての空の旅だった。
それは馬車では味わえない、途方もない距離を一瞬で旅する空の旅。
エランズリルドを見下ろしながらあっという間に通り過ぎ、深い森の上空を通り過ぎるとウォルガードが見えてくる。
ルードの屋敷の上空を軽く旋回する。
ゆっくりと庭先に降りていく。
「ようこそ、ウォルガードへ。ジョエルさん」
「ル、ルード君。君は一体?」
「僕の名はフェムルード・ウォルガードと申します」
「えっ? 姓がウォルガードというと」
「はい。あの場で話すと迷惑になるかと思いましたので。改めまして、ジョエルさん。未熟者ですが、僕はこの国の王太子ということになっています」
「ウォ、ウォルガードの王太子? でしたら、お母様も?」
「はい。元第一王女です」
「ルードの母のフェルリーダと申します。リーダとお呼びくださいね」
笑顔で応えるリーダ。
ある意味、プレッシャーをあたえようと、ちょっとしたいたずら心だっただろう。
「母親が二人で、あれ? 狐人の母親とフェンリルの母親?」
「はい。女性はフェンリラと呼ばれています」
「どういうこと……、あたい。混乱してきた……」
さすがのジョエルもパニックを起こしてしまっているようだ。
その騒ぎを聞きつけたか。
ルードの傍にいつの間にかイリスが立っていた。
「お帰りなさいませ。ルード様」
「あ、馬車。お願いできる? イリス」
「はい。かしこまりました」
「ルード様。私は屋敷の方を見てまいりますね」
「うん。お願いねキャメリア」
気が付けば真紅の侍女服に身を包んだフレアドラグリーナのキャメリアが、ルードに一礼をして屋敷へ戻っていく。
程なくイリスが馬車で戻ってくる。
「ルード様。お待たせいたしました」
「いや、待ってないって……」
「ジョエル様でございますね。わたくし、ルード様から執事を任されておりますイリスと申します」
「は、はい。ジョエルと申します」
「どうぞ、お乗りくださいませ」
「は、はい。ありがとうございます」
「イーリース」
「は、はい。何でございましょう?」
笑顔のルードがイリスを呼ぶと、その声は決していつものトーンではなかった。
振り返ったイリスが見たルードの目は、珍しく笑っていなかったのだから。
「イリス。知ってて教えなかったんだね? ジョエルさんの素性がもしかしたら、って」
「いえ、その。先入観を持たない方が……」
イリスは額に冷たい汗が流れてくるのがわかっただろう。
「母さん。どうしようか? イリスに、フリフリのドレスでも着るように『お願い』してみようか?」
「そうね。イリス。駄目よ。ルードに黙っているなんて。わたしにも教えなかったわよね?」
母子揃ってニヤッと笑う。
こんなところはよく似ている。
二人はイリスを家族と思っているからこそ、手加減しないで本当にやろうとするのだ。
イリスもそれを知っているから徐々に彼女は絶望したように真っ青になっていく。
「そんな。わたくしは、ルード様を思って……」
気遣いが裏目に出てしまったのだろう。
がっくりと項垂れながら、御者席に座るイリス。
リーダとルードも馬車に乗り、エリス商会へ向かうことになった。
ジョエルはありえない光景にひたすら驚いている。
「ルード君、変なことを聞くようだけど」
「はい」
「この人たち、全員フェンリル、なのかい?」
「そうですね。今のところ僕の家族だけ違うという感じです」
馬車は商業地区に入っていた。
この中ごろにエリス商会があるから通るのは仕方のないことなのだが、買い物に来るお客さんから売り子のお姉さんに至るまで、全員フェンリルであり、フェンリラであることは間違いない。
「なるほど、ね。あたいが怖がっては失礼にあたる、ということなんだね。慣れるしかない、か」
「すみません。でも、僕のママは狐人の血が混ざってますし。工房では狼人のお姉さんが取り仕切っていますから」
ルードもフェンリルなのだが、言われるまで気づかなかったほど、いい子なのだ。
気が付いたらジョエルは何かが吹っ切れたのだろう。
色々と説明をするルードを優しい表情をして見れるようになっていた。
馬車は気が付くと停まっていた。
馬車の中にいてもわかるくらいの声が聞こえてくる。
「エリス様。駄目だと言ってるではないですか」
「クレアーナ、ごめんね。またやっちゃった……」
エリスが苦笑しているところにクレアーナが商会の奥から出てきて小言を言っていた。
「次にいつ入荷するかわからないんですよ? それなのに勝手に予約を取ってしまうだなんて」
「いいじゃないの。欲しい人がいるんだから、私たちが頑張らないと。それに、ね。タバサさんにもうちょっとだけ急いでもらえば」
「そういう問題ではありませんっ。……まったく、変わりませんね」
「悪かったわねっ。でも、クレアーナがいてくれるから私も無理ができるのよ」
「それはわかっています。ですが、物事には限度というものが」
ルードたちは少し離れた場所で馬車から降りていた。
両手のひらをぎゅっと握り、ジョエルは遠目でクレアーナを見ていた。
彼女の表情はここに来るまで緊張と不安が見て取れたのだが、安堵した表情に変わっていた。
ちょっと駄目な妹の面倒をみる姉のようにも見えなくもない。
そんな仲の良い二人を見ているだけで満足してしまったのか、ふっと口元に笑みを浮かべてジョエルは馬車に戻ろうとする。
「ジョエルさん。クレアーナに──」
「いいんだよ。さぁ、話の続きをしようじゃないか」
「いえ、おかしいですよ。こんな半端な状態で話を聞いてもらう訳にはいきませんって」
「いいっていってるじゃないのさ。それにあんな、辛いことを思い出させても仕方ないじゃないか。酷い状態だったさ。でもね、あたいは皆を弔ったんだ。あんなところのことは忘れて、今幸せだったらいいじゃないか……」
確かにジョエルの言っていることはわからなくもない。
だが、クレアーナが悔いているのも知っている。
だからこそ、こんなときだからこそ、ルードは兄の力を使うべきだと思った。
左目の奥に魔力を込める。
薄っすらとジョエルを包む、白く優しい魔力の霧。
「ジョエルさん。『お願いします』。クレアーナと会ってください」
「……そうだね」
今日初めて、意識して使った支配ではなくお願いの力。
今回の交渉の為ではなく、ルードはただクレアーナに会ってほしかった。
ジョエルの表情は少し困惑したような感じになっている。
意思の強い彼女だからこそ、違和感に気づいたのかもしれない。
そして、これをルードが交渉に使わなかったことも。
「クレアーナ」
「ルードちゃんじゃないの。クレアーナ、呼んでるわよ」
「ルード様。どうなさったのですか?」
こちらに近寄ってくるクレアーナ。
いつもエリスを気にし、ルードの様子も気にして生活をしている彼女だから。
気づいたのだろう。
一緒にいるジョエルが自分と同じ犬人だということを。
耳が同じだということを。
「ルード様。その方は?」
「うん。クレアーナの叔母さんだって。クレアーナのお母さんの妹さんだってさ。クレアーナに会いたいって言ってたから、僕が連れてきたんだ」
ルードは力を霧散させた。
ジョエルを包む霧が消えていく。
彼女はルードを『仕方ない子だね』という表情で見た後、クレアーナの顔を見る。
「リリアーナそっくりになったね。あたいのことは憶えちゃいないだろうけど、さ」
「──ママの名前……」
「そうだよ。あたいはリリアーナ姉さんの妹。ジョエルってもんさ。あのときの赤ん坊が、こんなに大きくなったんだねぇ」
その場で俯き、地面に涙の滴を溢すクレアーナを、そっと優しく包み込むジョエル。
ルードはエリスとリーダの間で二人の手をぎゅっと握る。
「偶然だったんだよ、ママ。そっくりだったんだよ、そうだよね? 母さん」
「えぇ。わたしも驚いたのよ、エリス」
「そうだったのね。リーダ姉さん。ルードちゃん」
「あのジョエルさんが、僕が今回迷惑かけた人なんだ。これはまだ。あの人との約束のひとつなんだよ」
確かにクレアーナとジョエルはなんとなく似ている。
こうしてみると、母娘に見えなくもないくらいに。
▼
その夜、ルード家の食卓ではクレアーナとジョエルが仲良く夕食をとっている。
いつもはエリスの面倒をみている彼女だったが、何十年ぶりかの再会だからと、二人並んで座ってもらった。
クレアーナはエランズリルドに来てから。
エリスがクレアーナの傍に来てからのことをジョエルに思い出すように話をする。
ジョエルはクレアーナが育った村の悲惨な結末を、隠すことなく伝える。
その晩。
二人は一緒に眠った。
叔母と姪。
お互い昔のぼやっとした記憶でしか覚えていない。
クレアーナの部屋の明かりは遅くまで点いていたようだった。
▼
あくる朝、ジョエルはルードに素直に頭を下げる。
「ルード君。あたい、意地を張ってたようだね。あのとき、不思議な力があたいに働いたのはわかってるさ。でもね、あんたはあたいとの話のときに、それを使わなかったのを知ってるよ。クレアーナからもあんたのことは沢山教えてもらったさ。本当に、真っすぐで、いい子なんだね」
「いえ。僕なんてまだまだです」
「謙遜することはいいことかもしれないけど。商人としてはまだまだだね。さぁ、話の続きをしようじゃないか。あたいはあんたを許したわけじゃないんだからね」
「では、ここではなく、ジョエルさんの商会でお願いできますか? 僕が持っていったお土産がもうもたないかもしれないので」
ルードは苦笑しながらそう言った。
ジョエルは『?』という表情でいながら、ルードの提案を受け入れた。
昨日、ルードは日持ちしなさそうなものをキャメリアにお願いして冷蔵保存する蔵にいれてもらっていた。
それを持ってきてもらって出立することになった。
「キャメリア」
「はい」
「んっと、どうしよう。あ、エライダさん呼んできてくれる?」
「はい。少々お待ちください」
キッチンへ戻るキャメリア。
今、ヒュージドラグリーナのエライダとシュミラナはルード家の食卓を任されている。
ややあってキャメリアが連れてきた、黒い侍女服を着た大柄な女性。
「お呼びですか? ルード様」
「うん。悪いんだけどさ、皆を乗せて飛んでくれる?」
「はい。かしこまりました」
「ルード君、この人ももしかして」
「はい。ヒュージドラグリーナのエライダさんです。僕の家の料理人をしてもらっているんですよ」
ジョエルが昨夜ご馳走になった、生まれて初めて見る料理の数々を作った女性も、伝説の飛龍のひとりだったとは思わなかっただろう。
「では、準備させていただきます」
エライダはルード家の庭先で飛龍の姿に戻る。
その姿はキャメリアを遥かに超える大きさだった。
エライダは『どっこいしょ』と竜車を背負うと。
「はい。お待ちどうさまです。どうぞ、お乗りください」
「クレアーナ、私初めてなのよ。空の旅」
「えぇ、私もです。エリス様。叔母様、行きましょう」
「あ、あぁ……」
ルード、リーダ、キャメリア。
エリスにクレアーナ、ジョエルの六人でレーズシモンへ戻ることになった。
「実はエライダさんを含め、三人にお願いして人の輸送も考えてるんです」
「そ、そうなのかい……」
ルードの説明にも、ジョエルは驚くことしかできそうになかったのであった。




