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僕の家にはぬらりひょんがいる

作者: 佐田直貴

 どこにでも存在していて、どこにも見つからない。

 誰もが知っているのに、誰も出会ったことはない。

 ――そんな、存在。



「ぬら、ぬら」

 柳瀬優斗が少女の奇妙な声を聞いたのは、中学校からの帰り道だった。

「ぬらぬら」

 住宅街にある電柱のすぐ傍。少女は笑顔で、そんな言葉を発していた。

 笑い声にしては奇妙だ。しかしながら、その楽しそうな顔を見ると、どうしても笑っているようにしか見えない。

 夕方近くということもあり、住宅街には優斗以外にも人気はあった。けれど、誰一人として少女のその笑い声も、姿も、気にならないようだった。

 もう十月も半ばだと言うのに、白い半そでTシャツに赤いハーフズボン。肩までの黒髪の天辺には、鈴のついたリボン。

 肌の色はTシャツに負けないくらい白くて、小さな鼻と細い唇が、少女の整った顔立ちを物語っている。

 そして相変わらず道行く人を眺めては、可愛らしい声で、

「ぬらぬら」

 と笑う。

 普通ならば、気にならないわけがない。

 しかし要するに、この奇妙な少女は一般人には見えない存在なのだ、と優斗が気づくまで、そう時間は掛からなかった。

 妖怪か幽霊か。はたまたその他の何かなのか。

 何はともあれ、優斗は無視を決め込むことにした。霊能力少年と世間で騒がれていた身としては、こういう時、どういう行動を取ればいいかというのは考えるまでもなかった。

 また、視えるようになったのかな……。

 一抹の不安を覚えながら、そして溜息をつきながら、優斗は少女の前を通り過ぎようとして――

「ぬらー!」

 奇声と共に、謎の少女に足を掴まれてしまった。


 

 柳瀬優斗は霊能力者である。と最初に気づいたのは、母親でも父親でもなく、優斗の祖母だった。それは当然の事で、何故なら優斗の祖母もまた霊能力者だったからだ。

 その祖母が霊能力者として具体的に何をやっていたかというのは、優斗自身も知らない。ただ、優斗と祖母にしか視えないモノとよく話をしていて、そしてその存在を、集まる近所の子ども達にきかせていた。

 周りの大人たちも何故かそんな彼女を怖がったり避けたりはせず、まるで祖母がこの街を、世界を支配しているような、そんな風にさえ思った。

 だから優斗は自分の能力に誇りを持っていたし、幽霊や妖怪が視える事が嬉しかった。

 あくまでも子どもの頃は、の話だが。



 ぬらりひょんという妖怪がいる。

 勝手に人の家に上がりこんで、まるで家主のような振る舞いをして、いつの間にか消えている。そんな妖怪だ。

 自宅の二階、優斗の部屋。

 ベッドの上であぐらをかいている少女は、私はまさにその存在なのだと、高らかに言い放った。

「どうだ凄いだろう、はじめて見ただろう。しかしお前、人間なのに私を知っているとは中々偉いな。だから早くオレンジジュースを持ってくるのだ」

「いや、意味が……」

 優斗は首を横に振った。既にベッドの上には御盆にのせた菓子類が置いてあり、隣にあるコップの中は空になっている。ベッドに散らかるクッキークズなんてなんのその。自称ぬらりひょん少女は、ポリポリとクッキーをかじっていた。

 妖怪が視えたのは、何年振りだろう。

 少女を眺めながら、優斗は思う。

 視えなくなっていたはずの妖怪が視える。これは、優斗にとって決してありがたいことではない。世間で騒がれて、そのせいで家庭がおかしくなって、同じ時期に祖母は死んで。

 妖怪が視えていた頃の事なんて、嫌な事ばかりだったから。

「お前は、私のことが好きではないようだ」

「君が嫌いなんじゃないよ。ただ、妖怪が、あまり好きじゃないだけ」

 少女の言葉に驚きながらも優斗は答えた。そんなに嫌な顔をしていたのだろうかと、顔に触れる。

 すると、それを見た少女が笑った。

「ぬらぬら。安心しろ、お前は悪くない。私はぬらりひょん、他人の大事な部分に踏み込む妖怪だからな。人の感情など分かるのだ。だからこそ、お前について来たのだ」

「え、何で?」

「だってお前、死んで腐った魚みたいな目をしていたからな」

「巨大なお世話だよ……。っていうか、感情関係ないじゃん」

 まったく、変な妖怪だ。

 思わず優斗は笑ってしまった。

 家で笑顔になったのはいつ振りなのか、自分でも分からないというのに。

 同じように笑う少女を見て、また笑ってしまった。


 

 優斗が家で笑わなかった理由は単純で、要するに、家庭環境がよろしいとは言えない状態なのだ。

 朝食や夕食なんて母の暗い顔を見るだけで陰鬱とするし、かと言って中学生の自分が家を出て生活ができるわけもないので、それに耐えるしかない。

 だから優斗は、家では自分の感情を表に出さないようにするしかなかったし、基本会話のない家はとても静かだった。――だというのに、ぬらりひょんという妖怪は、その世界を一瞬にして破壊した。

「早くしてくれ。私は腹が減っているのだ」

 カンカンとスプーンとフォークを鳴らしながら、テーブルの下で足を振る少女。向かいに座っている優斗は時々その駄々をこねる足に蹴られながらも、不思議と怒る気はしなかった。

 少女にせかされているのは、優斗の母親だ。いつもは無口でこれみよがしな溜息ばかりの母が、まるで祖母が生きていた頃のように慌ただしく、しかしどこか充実した顔つきで動いている。ぬらりひょんに対する疑問や驚きを持っている様子はない。

 これが、ぬらりひょんの能力か。と優斗は感心すら覚えた。

 ずっとこの家に君臨していたかのように、堂々としていて、誰も違和感を覚えない。家族の一部に溶け込んでいるようで、しかし格が違う存在だった。

「妖怪もお腹がすくんだね」

 母には聞こえないよう、優斗は小声で話しかける。

「妖怪がお腹を空かせることはないぞ。神棚のお供えはもらうが」

「だからそれは貰っちゃダメだって」

 既に台所に来る途中、ぬらりひょんは居間の神棚に供えてあった饅頭を、人間離れしたジャンプ力でかすめている。あまりにも傍若無人。唯我独尊であった。

 そして今も、カンカンとテーブルで音を鳴らしながら食事を催促している。

「っていうか、じゃあどうしてお腹が減ってるなんて言ったの?」

「言っているだけだ」

 一度言ってみたかったからな! と続けて、少女はぬらぬらと笑った。



 食事中は静かなものだった。ぬらりひょんが食事に集中して喋らなかったからだ。

 優斗と母親は元から話すような事などない。しかし、母親は少女を家の主人として気遣っているようで、いつものような溜息はなかった。それだけで、優斗にとっては十分に有意義な夕食であったのだが。

「お前たちは仲が悪いのだな」

 夕食を終え部屋に戻る途中。頭の天辺についている鈴を鳴らしながら、ぬらりひょんが言った。

「まあ、ね。仲が良いとは言えないだろうね」

 優斗は苦笑しか出来ない。

「今日は君がいたからそうでもなかったけど、いつもはもっと鬱々している感じだよ。母さんは溜息ばっかり吐いているし、僕は目も合わせることなく黙々と食べているだけだからね」

「そうか、幸せだな」

「バカにしてる?」

「いや、そんなことはないぞ。それより何故、お前らは仲がよろしくないのだ。何だあの沈黙は。居心地が悪くて仕方ないぞ。話すことくらいあるだろうに」

 少女に怪訝な顔で見上げられて、思わず優斗は顔をしかめてしまう。話さないまま流そうとも思ったが、何か身体がそれを許さないような、黙っていることが本当に悪い事のような、ムズムズとした変な感触を胸に覚えたのだ。

 そしてそんな自分を、隣の少女は楽しそうに覗きこんできた。

「ぬらぬら。ぬらりひょんの言葉からは逃れられんのだ。さあ、吐け」

「きみ、根性悪いね……」

 憎まれ口を叩きながらも、言い様のない強制力により、優斗は階段の前で足を止めた。そしてそのまま、階段の奥にある仏間へと向かう。少女が黙って着いてくるのを感じながら、ふすまを開けた。

「ほぉー」

 ぬらりひょんが感嘆の声を上げる。

 そこは、八畳の和室だった。部屋の奥には仏壇が置かれており、それ以外のものは何もない。この家にある中でも一番大きな部屋。それを仏間として使用しているのだ。

「いい場所だ。ここは居心地が良い」

 ぬらりひょんは部屋の真ん中まで行くと、両手を後ろについて足を広げ、くてっと座った。

 優斗は奥にある仏壇の扉を開けた。

 中には、二人の遺影が飾られている。

「僕のおじいちゃんとおばあちゃんだよ。と言っても、おじいちゃんの方は僕が生まれる前に死んでいたから、ほとんど知らない人も同然だけど。おばあちゃんは霊能力者だった。それで、僕もおばあちゃんと一緒で、霊能力者だった。過去系なのは、昔の話だから。何故かきみのことは視えたけど。昔はさ、そうじゃなくて、色んな妖怪とか霊とかが普通に視えていたんだよ。僕とおばあちゃんにしか視えないものがあった」

 祖母がいた頃は楽しかったと、素直に思い出す。

 初めて視る妖怪の名前を、特性を、話を聞く。そんなことを繰り返していた。

「――でも、いつ頃だったかな。確か小学校二年生くらいの時に、テレビ局が来て。僕を取材して、そして、取材料を受け取った。それから何かが狂い始めたのかも。僕は母さんに言われるがままテレビに出て、色んな霊を視た。僕はそれが嫌で仕方なかったけど、どうしようもなくてさ。母さんが喜んでる顔が見たかったのかもね。子どもなりに頑張ったつもりだったけど、でも、ダメになった」

 何故かはわからないが、ある日突然優斗は霊能力を失った。

 今まで視えていたものが視えなくなり、収録した番組で何もしゃべれなくなって、プレッシャーから体調を崩した。

 それから、家族の空気は崩れていった。しかしそれでも、妖怪をまた視たいとは思わなかった。

 母と父はよく口喧嘩をするようになり、優斗はその話の中心にいることに罪悪感を覚えた。だから家でも喋らなくなったし、唯一の拠り所となるはずの祖母は優斗が霊能力を失くした頃には寝たきりになっていたから、相談する事もできなかった。

「そして、おばあちゃんが死んでからはもう、どうしようもなくなったよ。皆が仲直りのきっかけを失くして、でも家族だから一緒にいなくちゃいけないしで、ずっとこんな感じだよ。父さんは帰ってくると母さんと口喧嘩をする。それを僕は時々止める。そんな感じ。もしかしたら別れるかも、っていう話も何度か聞いているし」

 苦笑しか出てこない。何に対して笑っているのかはわからなかったが、とりあえず優斗は笑顔を作った。

「なるほど」

 長い説明を聞いたぬらりひょんは、大きく頷いた。

「つまり、要約するとあれだな。よし、分かった」

 そう言って、優斗を指差す。

「お前が、悪いのだ」

「……何で?」

「うむ。ではお前に訊いてやろう」

 そしてまた、ピッと人差し指を優斗に向ける。

「幸せとは、何だ?」



***


 見覚えのある神社の境内。一人の少年が、祖母と一緒に鳥居の上を眺めていた。

 ――ああ、あれは小さい頃の自分だ、と優斗は思った。

 祖母の手を取り、よく一緒に出かけた。色んなものを見つけながら住宅街を歩き、商店街でお菓子を買って、家に戻る。

 今思えば最高の幸せだった時間を、当たり前に過ごしていた頃の夢だ。

「あの子、なんであんなところにいるの? あぶないよ」

 小さい自分が指差したのは、鳥居の上に座っているおかっぱ頭の少女だ。鳥居の先はすぐ住宅街へと降りるための石段が続いており、子どもながらにその少女がとても危ないところにいるのだというのは分かった。しかし、祖母は優しく笑う。

「とても幸せな妖怪を見つけたね、優斗。あれはね、座敷わらしというのよ」

「ざしきわらし! 前におばあちゃんが言ってた、人を幸せにするっていう、すごいやつ!?」

 興奮している小さい頃の自分を祖母が撫でる。

「そうだよ。あの座敷わらしは、ああして町の人を眺めているの。そうして、幸せにする人を決めているのよ。皆が不幸になり過ぎないように、あまりにも不公平にならないように、天邪鬼や貧乏神と協力しながらね」

「へぇー」

 祖母はこうして、色々な話をきかせてくれた。優斗は小さい頃の自分を見ながら、羨望すら感じてしまう。

「でも、全然動かないね」

「そうねぇ。貧乏神や天邪鬼と違って、座敷わらしはあまり一般には知られていない言葉だから。ぬらりひょんも、同じような妖怪なのに、知られていないからね。ああいう妖怪さんは、どちらかと言うと嫌われるものなのかもねぇ」

「どうして嫌われるの? 人を幸せにするんだよ?」

「んー、おばあちゃんにはよく分からないけど。優斗はああいう知らない子が、いきなり家に現れたら、何て思う?」

「すごいって思う」

「優斗はお茶目だねえ」

「え、何が?」

 訳が分からない自分の頭を祖母が撫でる。それが気持ちよくて、でもなんだか恥ずかしくて、小さな頃の優斗は視線をそらした。

 鳥居の上に居た座敷わらしが、いつの間にか笑顔で二人を眺めていた。

 小さい頃の自分がそれに気づくと座敷わらしは小さく手を振り、鳥居の上から飛び降りて、階段の下へと消えていった。

 小さい頃の夢。

 まだ、幸せだった頃の夢だ。


***


「起きたか」

 机に突っ伏していた優斗が目を覚ますと同時に、幼い声が部屋に響いた。

 声がしたベッドの方に目をやると、ぬらりひょんがこちらを眺めていた。優斗は壁にかかっている時計を確認する。十二時を回ったところだった。

 優斗は立ち上がって、体を伸ばす。宿題をしながら眠ってしまうなんて初めてだった。

「疲れがたまっているのだな。いや、きっと私が居ることで安心して眠ってしまったのだろう。……罪な私だ」

「そういうのいらないから。あ、そうだ、座敷わらしって知ってる?」

「なんだ藪から棒に」

「いや、ぬらりひょんが居るなら座敷わらしもいるのかなって」

 優斗が言うと、少女は怪訝な顔をした。

「お前も座敷わらしがよいのか? まったく困ったものだ。人を幸せにするなんて、あんなおこがましい妖怪の何がいいのか」

「失礼なこと言うね、きみ……」

 本当に堂々と失礼な事を言う妖怪だ。

 思わず優斗は感心すらしてしまう。

「さっきの私の問いのせいか? 座敷わらしなんぞが与える幸せなんて所詮まやかしだぞ。そんなもので答えを得ようとするな」

「いや、誰もそんなこと言ってないけど。ただ、ちょっと今、夢を見たから。小さいころに見たことあるんだけど、座敷わらしって今もこの町にいるのかなと思ってさ」

 優斗の言葉にぬらりひょんは首をかしげた。

「どうだろうな。死んでいなければ居るんじゃないか?」

「……妖怪って、死ぬの?」

「死ぬぞ。妖怪が死ぬのは、人間に忘れられた時だ。誰もその妖怪の事を知らなくなれば、あるいは思い出さなくなれば、その妖怪は死ぬ。妖怪は、人間が必要とするから存在するのだ。人間に必要とされない妖怪は死ぬか、カタチを変えるだけだ」

 ぬらりひょんは、その少女の外見にそぐわない声調で言った。

「でも、それは人間も一緒だぞ。お前は祖母が死んだ死んだと言うが、お前の記憶の中にいる祖母は、この家の仏間に飾ってあった遺影は、祖母の存在を否定するものなのか? 違うだろう。お前がこうして覚えている限り、誰かに伝える限り、完全には無くならない。生きていないかもしれないが、死んでいるわけでもないと思う」

 ――だから、と少女は続けた。

「意識をするのだ。何かを忘れないという意識、見つけようとする意識。人間の意識が、全てを変えるのだぞ。……と、私は思う」

「どっち!?」

「ふん、こんなこと他人の言う事を鵜呑みにするものではないだろう。……まぁ私は妖怪だが!」

 そしてまた、ぬらぬらと笑う少女。

 優斗も釣られて笑顔になってしまう。

 本当に変な妖怪だ、と思いながら。



 ぬらりひょんが住み着いてから、優斗は家に帰るのが嫌ではなくなった。学校を終えた後の足取りが、軽くなっているのを実感していた。

 今までなら、友人と別れる場所で長話をしたり、コンビニに寄ってみたり、ちょっと遠回りをして帰ってみたりしていたが、彼女が来てからというもの、そういう時間つぶしをしようとは思わなくなった。家に帰ると、真っ先にとてとてと迎えてくれるし、何より、彼女がいる限り、母親と父親が喧嘩をすることはないのだ。喧嘩をしても、彼女の「うるさいぞ」の声で一瞬にして収束する。

 自分は今、幸せなのだと、はっきり自覚できた。数日前までにはなかった、家の中の平穏。しかし祖母が居た時にはあったもの。

 これこそが幸せなのだと、言える気がした。

 この事をぬらりひょんに言ってみよう。そう思いながら、優斗は帰り道を急いだ。今日は先生たちの講習会があるということで、授業は昼までで終わっている。少し前なら、どうしようもなく鬱だっただろうけど、これが嬉しいと思える事が幸せなのだろう。

 住宅街を少し早足で歩き、しかし前方の影を見て、優斗は止まった。

 遠目で見ても分かる、白い半そでTシャツに赤いハーフズボン。

 家にいるはずのぬらりひょんが、住宅街を歩いていたのだ。

 優斗は自分の心臓が大きく波打つのが分かった。突然押し寄せてきたのは、不安だ。

 ぬらりひょんは知らぬ間に他人の家にあがりこみ、いつの間にか消えている。そういう妖怪である。それに、別れはいつだって突然だ。それは自分の能力の喪失からも、祖母の死からも学んでいること。

 優斗は慌てて、ぬらりひょんの後を追った。彼女はその身長では考えられないほどに早く、まるで地面を滑るようにして進んでいく。呼びとめようかとも思ったが、でも何故か、今の自分の顔は見られたくなかった。

「それに、まだ出て行くって決まったわけじゃない」

 自分に言い聞かせるようにして優斗は呟く。

 そうだ、実際、自分が学校に行っている昼間に、彼女が何をしているかなんていうのは知らないのだ。まだ出会って数日とはいえ、毎晩話を楽しんでいるようだし、いきなり居なくなるはずがない。

 そう思いながらも、情けないくらいに動揺している自分がいるのだ。

 なぜなら、彼女がなぜ今も自分の家に留まってくれているのか。その理由を知らないのだから。

「ぬらぬら。お前は別れというのが異常に苦手なようだな」

 突然の声に、優斗は悲鳴をあげそうになった。

 いつの間にか、前を歩いていたはずのぬらりひょんが、自分の隣にいた。

「な、なん……」

「な、なん……ではない。お前、そんな激しい感情を持ったまま私を尾行できると思っていたのか」

 ぬらりひょんは人の感情を感じる事が出来る。そういえばそういう事も言っていたなぁと、今更ながらに優斗は思い出す。

「いや、尾行する気はなかったけど、どこへ行くのかなぁと思って着いて行こうとしただけだよ」

「それを尾行とは言わんのか……。まあいい。別に見られて困るものでもない。着いてくるがいい。ただ、一つだけ忠告しておくぞ?」

「え、なに?」

 真面目な顔になった少女に、一抹の不安を覚える。

「私と外で話す時は気をつけるのだ。私は今、お前の家族以外には視えんのだからな」

 少女の指につられて、優斗は周りを見渡した。

 言うまでもなく、怪訝な顔をして通り過ぎる主婦や、近くの家から警戒するような視線を向けてくる主婦がいた。

「行こうか……」

 やっぱり妖怪なんて視えない方がいいのかもしれない。

 そんな事を少しだけ思うのだった。



 ぬらりひょんに連れられた先は、住宅街の中にある神社だった。先日、祖母の夢を見たところだ。石段を登っていくと小さな境内があり、階段を登りきったところには赤い鳥居が設置されている。

「ぬらぬら」

 ぬらりひょんは優斗の元を離れると、笑いながら鳥居の天辺へと上って行った。

「おぉ……」

 両足で重力を無視して歩いていくその姿に、思わず感嘆の声を上げてしまう。

 彼女はいつかの座敷わらしと同じように、鳥居の真ん中に座って住宅街の方を眺めて始めた。

「いいなぁ」

 そして唐突に聞こえてきた呟きに、優斗は眉をしかめる。その言葉は、あまりにも少女に合わない言葉に思えたのだ。

 自分の要求を正直に口に出し、迷いがなく、自分に自信を持っていて。

 ぬらりひょんという妖怪は、ある意味優斗の中で尊敬にすら値する存在になっていた。

 だから、そんな彼女から他人を羨む言葉が出てくるとは、思いもしなかった。

 静かに座るぬらりひょんを見上げる。その後ろ姿は、本当にただの子どもにしかみえない。

「何を、見てるの?」

「家だ。そこからも見えるだろう。立ち並ぶ家は壮観だぞ」

 言われて、優斗は鳥居の真下から住宅街を見下ろした。そこまで高い所に位置する神社ではないが、それでも遠くの方まで見渡す事が出来た。

 確かに改めて見る住宅街は、壮観だった。

 所々を歩く人たちは自分たちに気づく事はなく、優斗は今まで自分が歩いていた場所とは違うように感じた。

「どうして人間はあんなに浮かない顔をするのだろうな」

 鳥居の上に居るはずのに、不思議と少女の声は耳の奥へと響いて来る。

「上から見ると、よく分かるだろう。みんなが下を向いて歩いている。だから私も、座敷わらしも、こんな小さな姿でしかない。そうしないと、見つけられないから。お前らは、いつも大きなものほど気にとめない。等身大のものほど気にならない」

 ぬらりひょんの言葉を聞きながら、確かにその通りなのかもしれない、と優斗は思った。

 昔はいちいち見上げていたビルもいつの間にか気にならなくなったし、自分と同じくらいの人間なんて、すれ違っても気にしない。その代わり、この少女のようにちょこまかと動くものには目が行く。

 ぬらりひょんは、そんな優斗の思考に語りかけるように続ける。

「だから、自分が幸せだということにも気付けない。自分の幸せというのが何かも分かっていないからだ。分かるか? 本当はあの家の数だけ、幸せがあるのだ。どこかに埋まっているモノばっかり見つけようとするから見つからないのだ。だから、自分が不幸せだと思ってしまう」

「でも、幸せや不幸なんて人それぞれじゃないの?」

「そうだな。人それぞれかもしれない。だからこれは私から見た、憧れの幸せというものを語っておるのだ。偉そうなことを言っておいて、私も同類なのだ」

 ぬらぬら、と笑う少女。けれどいつもとは違う、元気のない失笑。

「君にとっての幸せって何?」

 自分には答えられなかった問い。

 しかし、ぬらりひょんの少女は鳥居から飛び降りると即答した。

「まさに今。この時だけの、私の状態だ。――帰ろうぞ」

 ぬらぬら、と笑いながら、少女は優斗の手を掴んできた。

 冷たくて小さな手を掴み、優斗はもっとこの少女の事を知りたいと思った。

 例え少女の姿そのものが、少しずつ薄くなっているように思えても。



***


「どうしてあんな番組に優斗を出したんだ!」

「仕方ないじゃない。ギャラがよかったんだから!」

 幼い頃の自分が、その風景を眺めていた。昔から変わらない台所の風景。夜中にトイレに行きたくて起きた自分が、見てしまった亀裂だ。

「だからってあんな……。分かってるのか。あいつらは、優斗の事なんか信じていない。理解しようともしていない。ただ面白がっているだけなんだぞ」

「分かってるわよ! でも、テレビ局がどう思おうと関係ないじゃない。お義母さんもいるから、この近所はみんなが優斗は嘘吐きじゃないって知ってるわ」

「そういう問題じゃないだろっ。優斗が、小学生なのにあんな扱いをされて……! 何が、今見えている妖怪の外見を説明してくれ、だ。バカにするにも程がある。見ただろう、あの珍獣を見るような目を。悔しいと思わないのか!」

「じゃあどうしろって言うのっ。今更放送しないでくれなんて言えないわよ!」

「言えばいいじゃないか。あんな遊び半分な映像なんてお断りだと言えばいい」

「無理よ、もう出演料の話も終わってるんだから!」

 二人はしばし、にらみ合う。小さい頃の優斗は、それを隙間から覗いている。

 なんて嫌な光景だ、と小さい頃の自分を眺めて優斗は思った。今すぐここから連れ去って、記憶を消してやれたらどんなにいいだろう。

「あの子がもっと、はきはき喋ればよかったのよ! 視えるんなら視えるって、今は居ないなら居ないって、はっきり言えばいいのに! あんな子、産まなきゃよかった……!」

 感情で放った言葉ほど、それは本音なのだと、優斗は思う。

 だからこそ、この言葉は今でも心に残っているし、もう一度聞きたくはなかった。

 しかし、なぜか、この後の事は覚えていない。

 これだけ衝撃的なことがあったのに、あるいはこのショックが大きかったせいか、この部分だけしか、覚えていない。

 しかし、今日の夢には続きがあった。

 

 小さな頃の自分が、ゆっくりとドアから体を離した。

 音も立てずに、虚ろな目をして廊下を歩いて行く。

 そして――

「お願いです、神様。もう妖怪なんか視たくありません。僕を、普通の子にしてください」

 何を思ったのか。祖母の部屋の前で、お祈りをしていた。

「お願いです、神様。僕から霊能力を奪ってください。そうすれば」

 ――みんな、幸せになるんです。

 と、間違った願いをこめて。

 思わず止めようとした優斗を遮るようにして、一つの影が近づいて行った。

「なんだお前、霊能力が欲しくないのか?」

 それは、小さな少女だった。神社の境内で祖母と一緒に見た、座敷わらしだ。

「それが幸せならば、私が叶えてやるぞ。それがこの家に住んでいた私の、仕事だからな」

 座敷わらしは言うと、小さい頃の優斗の頭に手を置いた。

「でも、どうか忘れないでほしい。妖怪はいつでも、どこにでも居たこと。たったこれだけのことで、お前は幸せになれると思っていたこと。忘れないように意識していて欲しい。お前は、確かにあのおばばと私を見つけてくれたこと」

 にこりと笑い、少女は消えた。

 優斗は自分がこの時、霊能力がなくなったのだと悟る。

 どういうわけか、覚えていなかった記憶。いきなり消えた霊能力。

 そしてぬらりひょんにそっくりな、座敷わらし。

 夢の中だというのに、何も信じたくなくて、目をつぶってしまった。


***


「……嫌な、夢」

 目を覚ました優斗は、呟いた。ひどく不快な汗をかいてしまっている。時計を確認すると、まだ十二時を少し回ったところだった。

 これくらいの時間なら、もう一度シャワーを浴びてもいいかもしれない。

 そう思い、優斗は階段を静かに降りていく。父と母は既に眠っているようだった。二人とも二階に寝室があるので、一階にある浴室を使うのに支障はない。

 不思議と気分は落ち着いていた。小さい頃のあまり良いとは言えない記憶。だけどもそれは、たった一つの事を思い出させてくれた。

 ぬらりひょん、だよね……。

 改めて、自分の願いを聞いてくれた妖怪を思い出す。先ほど見た夢に出てきた少女、あれは間違いなく今家にいる、ぬらりひょんの少女と同じ顔だった。

 一体どういう事なのだろう。自分とぬらりひょんは一度会った事があるのだろうか。それとも、ただ単に似ていただけなのか。あるいは、ただの記憶違いなのか。

 そもそも、今更あんな夢を見るのも訳が分からなかった。

 ただの願望なのかもしれない。とも思う。

 ぬらりひょんは、どんなに優斗が気づかない振りをしようとしたところで、日が経つにつれてその姿が薄くなってきている。原因は分からないが恐らく別れの時が近いのだろう。

 でも、それが嫌だから自分はあんな夢を見たのかもしれない。

 ぬらりひょんの存在がそこまで自分の中で大きくなっているのに驚きながら、優斗は浴室に向かおうとして、ソレに気がついた。

 降りてきた階段の向こうにある部屋。仏間の電気が灯っていた。階段の裏側にあるので、降りてくる時が気付かなかったのだ。

 優斗はゆっくりと仏間に向かう。誰かが消し忘れた。なんてことはないだろう。基本的に仏間に入るのは、優斗と母親だけだし、入るとしても朝や昼間だ。わざわざ電気をつける時間に入らないし、そもそも今更消し忘れるわけがない。

 近づいていくと、誰かの話す声が聞こえてきた。

 幼くも、威厳のある声。

 ぬらりひょんだ。

 いけないと思いつつも、優斗はそっとふすまに耳を寄せる。

 彼女はゆっくりと、まるで誰かに語りかけるかのように言葉を紡いでいた。

「お前の言う通り、妖怪も人間に負けないくらい脆いようだな、柳瀬登世子よ。毎晩こうしてここに来ても、まだお前の死を惜しく思ってしまうぞ」

 その声は、いつも好きなことを言っている、陽気さの混じる少女のものとは違っていた。

「ぬらりひょんとは、なんとも難儀なものだぞ。どれだけ好き勝手しようとも、その家から出ていけば私を覚えているものはいない。何の違和感もなく日常を戻してしまうのだ。こんなに寂しいものはないのだぞ。ま、座敷わらしなんかは、人を幸せにさせても家から出ると忘れられるヤツだからな。そっちよりは好き勝手出来る分、マシかもしれんが」

 ぬらぬら、と元気のない声で笑う。

 明らかに、つよがりだと分かってしまった。

「……いつでも帰って来いと言っておきながら、お前が死んでどうするのだ。バカ者め。私が出て行っても記憶を保っていられる霊能力者など、そうそう居らんというのに。――それでも、お前の子孫は私を知っていてくれていた。嬉しかったぞ。お前が生きていた証が見られた」

 ぬらりひょんが動く気配がして、優斗は少しだけ身体を離した。

「私もいつまで存在して居られるか分かったものじゃないが。お前みたいに、最後まで笑ってみせるぞ」

 一人でぬらぬら、と笑うぬらりひょん。これ以上聞いてはいけない気がして、優斗は浴室に向かう事にした。

 妖怪は、人間が忘れた時に死ぬ。

 彼女が言った言葉が、なんだか、凄く残酷なように思えてしまった。

 


 翌日。優斗は、一階の一番奥にある部屋に居た。

 祖母の部屋に入るのは、久しぶりだった。

 四畳ほどの部屋に、本棚と机、そしてベッドが置いてある。机の上は本であふれていて、その内容は占いだったり風水だったり妖怪辞典だったり。生活色のある部屋というよりは、書斎という字が当てはまる気がした。

 今までは、入るのに少し躊躇していた部屋だ。ここに来ると、どうしても祖母がいたころの事を思い出してしまう。そして、居ないことを思い知らされてしまう。

 優斗は自分の頬を大きく一回、両手で叩いた。

 けれど、それでいいのだ。思い出せばいい。未練たっぷりで構わない。

 そう教えてくれた、小さな妖怪がいるのだから。

 優斗は落ち着くよう大きく息を吸って、祖母の机に向かった。祖母お手製の日記図鑑を手に取り、ぬらりひょんの項目を探す。

 ぬらりひょんは、祖母に会った事があるだけでなく、この家にいた事があるようだった。もちろん優斗にそんな記憶はないが、それがぬらりひょんの能力だ。

 忘れているというのなら思い出したいし、祖母とのやり取りを知りたい。

 ぬらりひょんはやはり、少しずつ存在が薄れてきているようだった。今では優斗でさえ、時折ぬらりひょんが家にいる事を忘れてしまう事がある。母親などは、ぬらりひょんの姿を見ない限り、以前のように暗い顔を見せるようになってしまった。

 すがる思いで、優斗はページを進める。

 自分の願いがお門違いだというのは理解している。きっと、ぬらりひょんをここに留めることで、この環境を守っていきたいと思っているのだ。しかしそれがエゴだと分かっていても、彼女が消えるのは嫌だった。

 ――しかし、予想に反してぬらりひょんの項目は見つからなかった。

「なんで……」

 あっさりと希望が潰えてしまい、優斗は呟く。何度見直しても、ぬらりひょんの項目はない。

「何で無いんだ……」

「何を探しているのだ?」

 突然の声に、優斗はガタタン! と音を立てながら、祖母の図鑑を隠した。

「な、ななな何でもないよ! どうしたんだい、この部屋に来るなんて珍しいね!」

「お前はそれで話をそらしているつもりなのか……。別に理由などない。お前が変な感情を撒き散らしながら歩いておったから、来ただけだ」

 オレンジジュースを飲みながら、何でもない事のようにぬらりひょんは答える。

「……ふむ。柳瀬登世子の部屋だな」

「やっぱりおばあちゃんのこと、知ってるの?」

「知っているぞ。白々しい事を言うな。お前ここに来たと言う事は、私に気づいたからだろう」

 いつの間にか本棚の上に移動していたぬらりひょんが、優斗を見下ろしていた。

「私が、座敷わらしだったということに」

「……え、そうなの!?」

「気づいておらんかったのか!?」

 二人して同時に驚く。オレンジジュースを持ったぬらりひょんは「あちゃー」と額をおさえた。

「なんともまあ、鈍い男よ」

「いやいや、分かるわけないから……。大体きみ、ぬらりひょんじゃないか」

「たわけものめ。今すぐその図鑑から座敷わらしの項目を見つけてみよ」

 言われて、優斗は図鑑を開き座敷わらしの項目を探す。

「座敷わらしは、その知名度が下がると、ぬらりひょんになるのだ」

「人が調べてる最中にばらさないでよ」

 優斗が呆れて見上げると、少女はぬらぬらと笑った。あまりにもいつも通り過ぎて、それがなんだか、優斗にはひどく、遠くに感じた。

「座敷わらしというのはな、人間が幸せを求めて作った妖怪だ。幸せを運んできてくれる存在。そんなものを夢見て、人間は座敷わらしを語り、作った」

 優斗の手元にある図鑑と同じ内容を、ぬらりひょんは言葉にする。

「昔はな、座敷わらしを呼ぶための方法として、各家庭に神棚があったものだ。しかし今ではそういう家も少ない。人は自分の手で幸せを手にすることができるようになった。恵まれれば恵まれるほど、神というものを忘れ、座敷わらしという妖怪を忘れていくのだ。そしていつしか、座敷わらしなど、勝手に家に上がりこむ迷惑なモノでしかなくなった。だから、私たち座敷わらしはその姿を変えた」

 言って、自分を指さす。

「ぬらりひょんに、な。傍若無人、唯我独尊。それが我々ぬらりひょんだ。私がぬらりひょんになったのは、数年前。座敷わらしとしては、残った方だろうな。今も全国でどれくらいいるかは定かではないが」

「ぬらりひょんに変わるのに、条件とかはあるの?」

「知らん。ただまあ、私を座敷わらしと認識していた柳瀬登世子が死んだから、というのはあるかもしれんなぁ。柳瀬登世子が死んだから、私という座敷わらしを知る者は居なくなった。それだけのことかもしれないし、まあ、理由なんてどうでもいいのだ。今はぬらりひょんとして楽しくやっておるからな。ぬらぬら」

 オレンジジュースを飲むぬらりひょんを、優斗はやりきれない気持ちで眺めていた。

 座敷わらしという、尊ばれる立場から、ぬらりひょんという排他される立場になった少女。それが、納得できなかった。

「僕が、覚えていれば」

「それは無理だ。座敷わらしにしろ、ぬらりひょんにしろ、家を出ていくと記憶から消える。覚えていられるのは、霊能力のあるものだけだ」

「だから僕が!」

 そこまで言って、優斗は思い出した。

 自分の霊能力を、よりにもよって、この少女に消させていたことを。

 ――なんて残酷な事を願ってしまったのか。

 自分が願った事で、存在していたかもしれないこの少女との思い出までなくしてしまったのだ。しかも、それを、幸せになるためだと言って。

「ぬらりひょんは、人々に忘れられると、どうなるの?」

「ぬらぬら、どうなるのだろうなぁ。ま、消えるのだろう。もう同じように他人の家にあがる妖怪は居らんからの。……なあ、柳瀬優斗。そんな顔をするでない。私は今、ぬらりひょんであることに不満など持っていないし、お前が覚えていたところで、座敷わらしのままであったという保証はないし、私が消えない保証もない」

「でも、その可能性はあった! 僕が、僕の事だけ考えなければよかったんだ!」

 なんて酷い事をしてしまったのだろう。自分は、この少女に死刑宣告にも等しい願いをしてしまったのだ。考えるだけで吐き気がする。

 何より、どうしてこの少女が、こんな事にならなくてはいけないのか。

 ぬらりひょんが家を出ていく時にどうなるかなんて知らない。今のように、段々姿が薄くなっていくのが正しいのかもしれない。でもそれでも、納得できないのだ。

 ずっと居て欲しいと思うし、忘れたくないと思う。それなのに、優斗の頭は、彼女との出会いの事すら、忘れかけてしまっていた。

 なによりも、自分が情けなかった。こんな時になって、こんな事しか言えない自分。何もできない自分だ。

 ふわり、と暖かい感触を受けて、優斗は目の前にぬらりひょんが居る事に気がついた。

「何だお前。きちんと自分の感情を表に出せるじゃないか」

 何故か彼女は嬉しそうな顔をしていた。そしてそっと、優斗の涙を撫でる。

「それで良いのだ。柳瀬優斗。お前には立派な目も、思考も、口もあるじゃないか。自分に正直な気持ちを、少しだけ表に出してみろ。それだけで、お前を取り巻く環境は変わっていくはずだぞ。幸せなんて求めるな。他人に祈るな。不幸だなんて思うな。それらは全部、自分を否定しているだけなんだぞ」

「なんでこんな……」

 なんでこんな時に限って、言葉が出てこないのだろう。

 いつの間にか半透明にまでなっていた少女は、ゆっくりと優斗は涙の涙を撫で続ける。

 言いたいことなど、たくさんあるのだ。

 ごめんなさいとか、ありがとうとか、また会おうとか。

 けれども、それを言ってしまうとこの時間が終わってしまう気がして。

 全ての言葉が、別れの言葉に思えてしまって。

 ――何でこんなにも、理不尽なのだろう。

 勝手に人間に求められて、勝手に忘れられて。どんなに存在を証明したくても、誰にも視られなくて。それでも、その存在は少しだけ語り継がれる。

 それが、妖怪なのだろうか。

「妖怪はな、幸せと似ていると思わんか?」

 ぬらりひょんの唐突な言葉に、優斗は顔を上げた。

 相変わらずの、可愛らしい笑顔がそこにはあった。

「どこにでも居るのに、誰にも視えないのだ。誰もが知っているのに、誰も出会ったと言えない。そんな存在だ」

 ぬらぬら、と少女は笑う。

「だから、妖怪とは幸せそのものなのだ。幸せだと人は笑うだろう? だから私は笑うし、お前に笑って欲しい。人によって求められて、いつの間にか見失われて。そういうのが理不尽だなんて、思ったことないぞ。妖怪とはそんなものだ。私たちは長い間、生きてきた。大人は子どもに我々の存在を語り継ぐ。だから我々は妖怪らしき妖怪であろうとする。我々の楽しみを嘆かんでくれ。こうして世代を超えてお前に会えた事が、私の幸せな姿なんだからな」

 頬を撫でていた少女の手が、優斗の頭に移った。

「では、別れようぞ。初めて会った頃に比べて、お前の顔は大分よろしくなった。自分の家庭の事など、自分でどうにかするのだ。お前のおばばはもう居ない。私も所詮は妖怪だ。生きている人間にしか、変えることが出来ない事がある」

 優斗は、何も言えなかった。言葉を聞きもらさないようにするのが精いっぱいで、こちらから何かを言う事は出来ず、どんどんと瞼が落ちていく。

 納得できない。嫌だ。

 そう思っているのに、抗えない力が優斗の体を包み込んでいく。

 奇跡が起こるなら。

 もし自分に、他の人間と違う能力があってくれたなら。

 ――絶対に、忘れないのに。

 優斗は力いっぱい歯を噛みしめた。

 でも、この状態を望んでしまったのは自分だから。こういう状態にした責任は自分にあるから。

 だからこそ、ぬらりひょんという少女に出会えたから。

 だから、何にも祈らない。誰にも、頼まない。

 その代わり、己に誓うのだ。

 絶対に、この少女のこの泣き顔だけは、忘れまいと。



 果たして何故、祖母の書斎で眠っていたのか。

 優斗は小一時間考えてみたものの、答えは出なかった。けれども、何か悪くない気はしながら、優斗は祖母の部屋を後にした。

 午後六時を知らせるチャイムが住宅街に届いている。夕飯まではあと一時間ほどだろうと思い、部屋に戻ろうとして、

「優斗、ちょっと来て」

 居間から顔を出した母親に呼び止められた。いつの間に帰って来たのか。父親が、その後ろにいた。



 ――多分、こうなるような気はしていたのだ。

 目の前で繰り広げられるやり取りを、優斗はどこか遠いところで聞いている感覚だった。

 予想はしていたけど、予想ができていただけに、現実味はない。

 別れはいつだって突然だ。

 机の上には離婚届と書かれた紙が置いてあり、二人の会話はそれを中心にして、どんどんと進められていく。

 多分もう、修復は不可能なのだろう。

 優斗はそう思い、ソファーに深く身体を預けた。

 今までこうならなかったのが不思議なくらいで、ある意味絶妙なバランスで保たれていたのだ。それが、……のせいで、崩れただけ。

 ……のせいで?

 優斗は何か違和感を覚えた。そもそもどうしてこんな事になったのか。そもそも、どうして自分はこんなに落ち着いているのか。そして、どうしてこんなにも、泣きそうになっているのか。

 分からない。

 いつかは別れるだろうとは思っていたし、それが来たところで、自分が言うべきセリフは決めていたはずだ。

 二人の仲は修復不能でありながら、絶望的に悪いというわけではない。決して良くはない、というだけだ。

 お互いがお互いを、そして優斗という子どもを思ったからこその行動。

 それとなく父親からも、母親からも臭わされていた決断。

 ――なのに、どうして。

 どうして、こんなにも絶望的なまでに、自分が情けないのか。

 父と母の話はいつの間にか止まっていた。心配するような視線を送ってきている。

 優斗は知らぬ間に自分の頭を抱えていた両手に気づく。

 何かが、違うのだ。

 自分の中にある何か。この状況を頭でも理解しているのに、納得させられたはずなのに、覚悟はできていたはずなのに。

 それでも、抑えられない感情。

「どうして……」

 どうしてこんな事になったのだろう。

 ――簡単だ。

 自分が、いけないのだ。

 今まで自分は何かをして来ただろうか。こんな事になるまで、こんな事にならないようにするために、何かをしようと思っただろうか。

 どうして、ではない。自分はどうしたい、のか。

 それはとっても簡単で、単純明快な、答え。

「僕は……」

 気がつけば、口が開いていた。

「僕は、幸せだったんだ」

 あふれ出た感情は止まらずに、頭ではそれを抑えようとするのに、体は言う事をきいてくれない。

 勝手に口が動いて、勝手に体が力んで、涙が出て、喉が震える。

「僕は幸せだったんだ! 帰る家があって、父さんがいて、母さんがいて、僕がいて。家族がいるってことが、幸せだった! おばあちゃんが居なくなったって、妖怪が視えなくなったって構わない。幸せだった! 喧嘩したっていい、仲が良くなくたって構わない。でも、それでも、僕はみんなで一緒に居たいと思ってた。何で家族が別れて暮らさなくちゃいけないのさ。僕がいて、父さんがいて、母さんがいる。そして帰る家がある。どうしてこれだけじゃダメなの!? これをなくすことが、幸せなの!?」

 頭で整理できない感情を、口が吐き出していた。

 息がうまくできなくて、むせかえりそうになる。ガンガンと頭が鳴って、両親の唖然とした顔だけが目に入る。

 まるで、子どものワガママだ。

 それでも、優斗は止まらなかった。

 だってこれが――

 ぬらりひょんから、学んだ事だから。

「こんな薄っぺらい紙切れで失う幸せじゃないんだ!」

 優斗は、机にあった離婚届をグシャグシャにした。

 そのまま、力の限り遠くまで投げ捨てて、居間を飛び出していく。地面をこれでもかと蹴りながら、全速力で家を出た。

 まるで、駄々っ子と変わらない。

 それでも、悪い気はしなかった。

 言いたい事をぶつけて、自分の考えを正直に伝えた。

 そして、失う前に、幸せだったということに気が付けた。

 これもすべて――ぬらりひょんのおかげだと、思えた。


***

 

「そういえば君は、なんで『ぬらぬら』って笑うの?」

「ぬらりひょんだからな」

 少女は腰に手を当てて楽しそうに、「ぬらぬら」と笑う。

「あ、じゃあ、座敷わらしはなんて笑うの」

「……わらわら?」

「きみ、僕の事バカにしてる?」

 言うと、少女はまた笑顔になった。



「聞けー、今日の夕飯はすてーきだぞ! 私がお前の母親に言ってやったのだ。お前が昨日、食いたいと言っていたからな!」

「本当っ? ありがとう!」

「ぬらぬら、もっと褒めるがいい。ところで、すてーきとはなんだ?」

「肉だよ」

「――!? お、男のか、女のか?」

「うーん、メスの方がおいしいとは聞くよね。君のおかげで高いのを買ったのなら、メスなんじゃないかな」

「鬼、悪魔! 共食い!」

「え、え。何が?」

 人肉と勘違いしてぬらりひょんが投げた枕を、顔面でキャッチするはめになった。



「なあ、柳瀬優斗よ」

「んー?」

 ベッドの外から聞こえる声。半分眠りながら、耳を傾ける。

「ここに居るのが、私でよかったと思うか? やはり座敷わらしの方がよかったと思うか?」

「……聞くまでもないよ。君は、感情が読めるんでしょう」

「お前は今、恥ずかしがっている」

「いちいち言わなくていいから! 寝させてよもう!」

「妖怪は夜寝ないのだ。暇なのだ」

「本当にワガママだね、君……」

「よいか、柳瀬優斗。ワガママを言えるのは、その人間を認めているからなのだぞ。まったく知らない人間にワガママなんて言えないだろう? だからお前も家族には……寝るんじゃない!」

「また明日ね」

 布団を深くかぶった。「つまらんやつめ」と呟き、しかし軽い足取りで彼女が部屋を出ていくのが分かった。


***


 住宅街を走りながら、優斗の頭にはぬらりひょんとの思い出が蘇っていた。

 何でもない日々。それがとても楽しくて、愛おしいのだ。

 ただ、これまで一緒に過ごした数日の中で、どうしても自分だけが相手に言えていない言葉がある。何度も言ってもらったのに、自分だけが言えなかった言葉。

 それだけが、本当に心残りだ。

 だから優斗は走った。

 どうしても、伝えたい事があるから。



 神社の鳥居の上。ぬらりひょんは、境内の方を眺めて静かに座っていた。

 石段を登りきった優斗は、鳥居を振り返る。

「見つかってしもうた」

 少女は、ぬらぬら、と笑った。

「お前の家の様子は、ここから見ていたぞ。よく言ったな、柳瀬優斗。それでいいのだ。ワガママでいいのだ。自分の幸せに正直であれ。言いたい事を言って、伝えたい事を伝える。それが、家族なのだと思う。それが、幸せなのだと思う。だからお前はそれでいいのだ」

「いきなり、あんな流れになっていたのは、君のちから?」

「ぬらぬら。どうせ遅かれ早かれ、ああいう流れにはなっていた。そう怖い顔をするな」

「……違うよ」

 優斗は呟いた。

 顔がしかめっ面になっているのは、それが彼女の優しさだと知っているから。そして彼女がこの町から離れるつもりなのだと気づいているから。

「ずっと、居ればいいじゃないか。どうして、僕の家じゃダメなのさ。」

「ダメということではない。これがぬらりひょんなのだ。よいか、柳瀬優斗。勘違いをするな。ぬらりひょんは、他人の家に上がりこんで自分勝手をする妖怪なのだぞ。決してよい妖怪ではないのだ」

 ぬらぬら。と笑う顔は、しかしいつもの陽気さではなく。

「お前は、自分の霊能力を取り戻したようだな。霊能力を取り上げた私が、一度消える寸前まで弱まったからかもしれん。悪いことをした。座敷わらしと違って、ぬらりひょんは人の望みを叶えられないから、もう一度霊能力を失くすことはできない。そこだけが、心残りだな」

 彼女が果たして、座敷わらしなのかぬらりひょんなのか。

 そんなのは、どうでもいい。

 でも、もし彼女がこの目の事を気にするのなら、それは、お門違いだ。

 優斗は自分の目をそっと撫でた。

「失くしてからずっと経って、ようやく気がついた。僕はこの目を持っていて、本当に良かったと思う」

 例えば、小さい頃に視た妖怪だとか、体験だとか。見えるからこそ楽しめた事が、たくさんあった。

 その頃はそれが当り前で、だからこそ失くすまで気付かなかったもの。

 けれども、失くしたものを取り戻せないなんて、そんなことは絶対に思わない。

「僕はもう、大丈夫だから。帰ったら、父さんと母さんと話すよ。たぶん色々、色々話す事があるんだと思う」

 本当に色々な当たり前を見逃していて、それを少しでも掴むのは本当に頑張らなくちゃいけなくて。

 ――だから、

「だから、いつかまた帰ってきてよ! 今度は僕が『おかえり』って君を迎えるからっ。あの家で、家族をそう言って迎えられるように頑張るから!」

 だからこそ、自分の気持ちを見つけた時には、それを正直に伝えるのだ。

「柳瀬優斗は絶対にぬらりひょんを忘れないから。僕はもう家族を絶対に見失わない、君を忘れないと誓う! そうすればぬらりひょんはずっと存在しているから! だから、また帰って来てよ!」

 何度だって同じ事を言う。本音なら何度だって繰り返せられる。

 優斗は大きく手を振った。

 鳥居の上の少女は降りてくる気はない。それは分かっていた。

 だから、手を振った。

 少しでも印象に残るように。少しでも遠くまで見えるように。

「帰る家がある、か。ぬらぬら。幸せな事だのぉ」

 ぬらりひょんは一回だけにかりと笑い、

 そして、消えた。

 静かな秋の風が葉を運び、優斗と少女の間を撫でていく。

 優斗は誰もいない鳥居をもう一度だけ見上げ、石段を降りることにした。

 家に帰ったら、まずは何から話そうか。そして、何を訊こうか。

 歩き出した足はいつもより、少しだけ軽くて。

 誰のおかげかなんていうのは、言うまでもなくて。

 鳥居をくぐった時――

「ぬらぬら」

 という、上機嫌な少女の声が、聞こえた気がした。



 どこにでも存在していて、どこにも見つからない。

 誰もが知っているのに、誰も出会ったことはない。

 ――そんな、存在。

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