靴
あたし、恋をしてるの。
靴の身で生きている限り叶うはずのない恋だけれど、あの人の感触に高まる心を忘れられないのよ。柔らかな綿の身体、少し後ろがハゲて薄くなっているのだって、愛しいわ。そう思ってやたらと触れたらもっと薄くなってしまうでしょうから、しないけれどね。
あたしたちが最初に出会ったのは、いつだったかしら。多分もう3,4年も前になるわね。
あの頃、あたしたちはどちらもまだ若かったけれど、あたしの方がこの世界では少しだけ先輩だった。最初のとき、あの人は随分緊張していて、ずっと申し訳なさそうに身を強ばらせていたっけ。
でも何度か顔を合わせるうちに、あたしとあの人はぴったりくるようになった。緊張が解けたあの人は、誰よりも誠実に仕事をこなして、何より優しかった。どんな状況でも、ペアを組む相手の子の身体を気遣ったわ。あたしだけにじゃないってことが、少しだけ悲しかったけれど、あたしにはあの人、あの人にはあたしだっていうことはみんなが認めるところだったから、別にそれでも構わなかった。
でも、そうやって二人で一日を過ごすことが増える中で、あたしは気がついてしまったの。
あの人もまた恋をしていた。それも、許されない恋。あの人の相手は自分の分身だった。鏡合わせの姿に、同じ仕事。つまりはあたしの同僚でもあって、だからその意味では三人で一緒だったという言い方もできるんでしょうね。そのことさえ、あたしには最初は理解できなかった。
だってあたしたち靴は、左右で一人。どちらかがあたしなんじゃなくて、あたしという靴は左右合わせてあたしなの。右か左のどちらでも片方が失われた時点で死んでしまう。あたしたちはそういう風に出来ていて、それが当たり前だと思っていたから、あの人もそうなのだと考えもせずに思ってしまっていたのね。
でも、あの人は死ななかった。ある日片割れと同時に恋を失ってしまっても、あの人は良く似た未亡人と組んで働いていた。不幸にも片割れの子が行方不明になってから、毎日階段を何段も飛ばして下るように、あの人の身体は弱っていった。あちこちに傷みがきて、前ほどはあたしとしっくりくることもなくなってしまった。
そして今日、あたしはあの人に会った瞬間に悟ったの。多分、今日が最後だって。あの人はもはや自分の身体を支えることさえできなくなっていた。だらりと力が抜け、どんな気力もないようだった。時折、もう二度と組むことのない片割れの名を呼ぶばかり。こんな状態では、今日が終われば引導を渡されて、それで終わりだって思った。あの人はもうずっと前からそれを望んでいるような気もした。
あたしは、考えたの。何ができるだろうって。あの人の喪失を埋めることはできない。行方不明の片割れを探し出すことだってできない。あたしにできることは、あの人を受け入れることだけ。
だから、そうすることにしたわ。あの人を受け入れて歩く。最後までそうするって決めたの。少しだけ仕事に手を抜くことになるけれど、それは勘弁してもらうことにした。
踏切か、じゃなければ川かなと思って、踏切にしたわ。別に人を殺したいわけじゃないもの。あたしが線路に引っかかれば、人はあたしを脱いで逃げるでしょう。その時、あたし一人にされては意味がないから、内側であの人の身体を強く噛んでおく。人がちゃんとあの人を置いていってくれるようにね。
電車はきっと減速もせずにあたしたちの上を走り去るでしょう。二人ともバラバラの布きれになって飛び散ったら、その時にはきっと、あたしはあの人と一緒になれる。一緒くたになれるのよ。靴だとか靴下だとか、そんなことは関係なくなるわ。
ねえ、そうでしょう?