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巫女? 私が?
混乱する頭では簡単な言葉と単純な意味を繋ぎ合わせることができない。どくんどくんと大きく早く打つ心臓の鼓動がうるさいほど響き、段々息苦しくなっていく。しばらくして無意識に呼吸を止めてしまっていたことに気付き、慌てて息を吸った。
顔を上げると大きな手が目の前にある。男はサラと目が合うと口の端をつり上げた。
「俺の呪いを消せるのはお前だけだ。もう逃がさない」
逃げなければ、とわかっているのに足が動かない。
指がサラの頬に触れようとした瞬間、何かが倒れたような大きな音が響き、空間全体が揺れる。
男が体勢を僅かに崩した隙にサラは身体を翻し、来た道を走って戻った。頭の中は真っ白で何も考えられない。サラの身体を突き動かしているものは、レイの呪いを解かなければ、ということだけだった。
それほど進んでいなかったはずなのに、狭く暗く洞窟を抜けられない錯覚に陥る。今自分がちゃんと走れているのかもわからなくなっていた。
ようやく広間に足を踏み入れた瞬間、もう一度大きな音が響き地面が揺れた。揺れは先ほどのものよりも大きい。
静謐で透き通っていた空気は薄茶色に濁り、何も見えない。細かい塵や砂埃の混ざった風が身体に纏わり付く。口と鼻を手の甲で塞ぎ目を閉じた。
しばらくして目を開けると、視界にはまだ埃が舞っていたものの大分落ち着いていた。何もなかった広間には大きな岩が散乱している。それらがあの石像の残骸だと気付いたのは、縦半分になった顔がサラを睨むように転がっていたからだった。
石像の残骸に囲まれるように、神殿のほぼ中央でうつぶせに倒れている人影が視界に入る。それがレイだとわかった瞬間から、サラの身体は勝手に震えだした。止めようとしても止まらない。声も喉に張り付いてしまったように出てこない。
「レ――イ」
ようやく吐く息と共に絞り出した名前にも彼は動かない。左の手の甲は黒く染まっている。
呪術が身体を蝕み始めていた。
最後に見たあの日の父の姿と重なる。しゃがみ込みそうになる身体を、壁に手を付き何とか支えた。
今度は逃げない。
もう死なせない。
震える足で駆け寄ろうとして腕を掴まれた。振り返ると白髪の男だった。
「放して!」
涙で潤む瞳で男を睨んだ。今は男に対してよりレイを失うことの恐怖の方が勝っている。
男はサラの視線を面白そうに見返し、そして倒れているレイをちらりと見遣った。
「あいつは呪いでもうすぐ死ぬ。行っても無駄だ」
死という言葉にサラの中で何かが弾けた。
「そんなことない! 死なせないから!」
暴れるサラに男は顔を顰め、怒りを滲ませた声で言葉を続けた。
「お前はこれから巫女として俺の傍にいるんだ」
「嫌っ!」
即答の拒絶に男は怒りを露わにした。
「お前の意思など関係ない!」
そう言うと掴んでいた腕を強くたぐり寄せ、サラを自分の足下に引き倒した。
堅い地面に勢いよく打ち付けられた掌と太ももに痛みが走る。けれど声は上げなかった。
「お前が俺にすることはただ一つ。死なないことだけだ」
見下ろす金の瞳には何の感情も見えない。無慈悲で無情な視線に思わず息を呑んだ。
「叫ぶなら声を、抗うなら手を、逃げるなら足を奪う。只の道具には不要だろう?」
嘲笑いながら男は持っていた剣の先をサラに向けた。鈍く光る刃にこびり付いた血はすでに乾き始めている。
男の言葉が脅しじゃなく本気だとサラは悟った。
「だから、手足をもいだら巫女が死んじゃうでしょ? フロウの魔力じゃ治せないよ」
子供のような甲高い声が重苦しい空気に割って入る。
聞き覚えのある声にサラの身体は強張った。
「わかっている! だからお前が治すんだ」
フロウと呼ばれた白髪の男は、怒りと視線をそのまま声のほうへ向ける。
「無理、無理」
声の主は笑いながら神殿の奥からこちらへ歩いてきた。
サラと同じくらい小柄な少年だった。細かな刺繍の施された黒いローブを纏ってたが、裾はすり切れてぼろぼろになっていた。
「破魔の力が強くて、治せるのはつがいのこいつくらいでしょ?」
踊るような足取りは倒れたままのレイの横で止まる。
「あなたは――」
思わず漏れた呟きにローブの男はこちらを向いた。
「あ、もしかして覚えていてくれたの? 嬉しいなぁ」
楽しそうな声の主は目深に被ったフードを指で押し上げる。そこには黄金の瞳に漆黒の肌を持つ、十代前半にしか見えない少年の笑顔があった。
「初めまして、王の巫女。俺はアスワド=アザリー」
少年の口から出てきた名前にサラは目を瞠った。
「アスワド――?」
レクスの記憶にあった、封印される時に対峙していた人物の名前と同じだった。
「まさか」
サラの視線に少年は満足げに微笑んだ。
「ラー=シャイをここに封印にしようして失敗で呪われた間抜けな咎人さ」
薄く笑うアスワドの顔は酷く歪んで見えた。




