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「五月蠅いったらありゃしない。騒ぐなら別の場所でやっとくれよ」
喧噪と砂埃が収まった頃、ヨランダはぶつぶつと愚痴りながら階段を降りてきた。悪態を吐きながらも手にはまっさらな包帯と鋏と薬草が握られていた。
「ったく、若い娘がこんな傷をつけて」
ヨランダの強い口調にサラは思わず首を竦めた。老女の短い白髪が鼻先を掠める。
「ほぉら動くんじゃないよ! アタシまであんたの首絞めちまう」
皺だらけの顔で睨みつつも、サラの首に手際よく包帯を巻いていくその手は優しい。
「すみません」
サラは地面に座ったまま、彫像のようにぴたりと動きを止めた。
「これで少しはマシになる」
白い包帯は首に赤く残る指の痕と爪の傷を綺麗に隠した。
「応急処置だから、あとは医者に行くなり治癒術で治すなりしてもらいな」
「ありがとうございます」
「これくらいしてやらんと、あの世からお迎えが来た時に寝覚めが悪いからねぇ」
礼は不要だ、と言わんばかりにヨランダは顔を背け、サラの膝の上で眠っているレクスの頭を掌でばちんと叩いた。
「本当にこの馬鹿タレは――しょーもないねぇ」
破落戸達をあっさり退けた魔王の頭を枯れ枝のような細い手で殴る老女に、サラは声にならない悲鳴を上げた。
魔王は幸いにも起きることはなかったが端整な顔の眉間には皺が寄った。サラはあやすように漆黒の髪を優しく撫でた。
「まぁ、これはこれで大変なんだろうけど」
ヨランダは叩いた魔族を見下ろし溜息交じりに呟くと、その視線でサラを見た。
「な、言っただろ? あれに関わると酷い目に遭うって」
親指が指し示した先には、降りてきたヨランダに速攻で殴られて未だ頭を抱えて蹲るコルヴォがいた。
その姿にサラは少し溜飲を下げた。
部屋に戻るヨランダの背中を最後まで見送ったサラは、膝の上で眠るレクスに視線を移した。端整な顔の左側には変わらず呪術の文字が刻まれている。頬にそっと触れる。
レクスに最初に会った時、記憶の底に封印していた父の最後の姿と無意識に重ねて見ていたのかもしれない。
だから自分でも驚くほどレクスの呪術を解こうと必死だったのかもしれない。
だからレクスの表情が見たかったのかもしれない。
父の顔を思い出したかったのかもしれない。
病気の発作で亡くなったと母からは聞かされていた。魔道院に入るまでは信じて疑わなかったが、自分の魔力を知った時、父は私のせいで死んだのだ、と突然、何の根拠もなく思ってしまった。
この魔力が何かを引き寄せ、呪われたのだと思った。
何も覚えていなかったのにそれだけは気付いてしまった。
でもそのことは、母に聞けないでいる。確かめたい、真実を知りたいと、ずっと思っているのに、面と向かって「あなたのせいだ」と言われたら、私はどうすればいいのだろう。
「それで、知りたいことって何?」
突然降ってきた声と台詞にサラは驚いて顔を上げた。目の前にコルヴォの顔がある。回想と現実がごちゃごちゃになってしまった頭では、視線を合わせるだけで精一杯だった。
「何? 見惚れているの?」
遠慮なく近づいてくる色男に我に返る。慌てて身を引いたが、レクスを膝枕している状態ではそれほど動けなかった。
「俺に用事だったんでしょ? お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんって」
不相応な呼び方に自然と顔が曇る。
「じゃあ名前、教えてくれる?」
ナンパの台詞にも聞こえるが、人なつこい笑顔と話の流れからそんなことには気付かず、サラは自己紹介も兼ねてシズメノミコについて尋ねた。
コルヴォは無精髭の生えた顎にすらりとした指を当て考え込んだ。
知らない、と言い出しそうな雰囲気にサラは固唾を呑む。
「確か、魔族の暴走を止められる人のことだ」
あっさり出てきた情報にサラは目を瞠った。
「力の強い魔族は稀にその力に飲み込まれて自我を失う。暴走とか発作とか、呼び方は色々あるけど」
レクスから聞いていた言葉が現実感を持ち始めた。
「最初は暴走してもすぐに元に戻る。でもだんだんと間隔は短くなり暴走する時間は長くなり、最後にはもう自分ではどうすることもできなくなる」
重みにサラの呼吸が一瞬止まる。
「魔王と女神の話は知っている?」
急な話題転換に戸惑いつつも、この世界の人間なら誰でも知っている話にサラは頷いた。
昔、世界を滅ぼそうとした魔王が女神によって封印されたという話で、悪い子のところにはその魔王がやって来る、と今でも子供を諭す時に使われている。
「これ、元になった実話があるんだ」
「えっ?」
創作だと思っていたサラは思わず声を上げた。
「魔王は暴走して世界を滅ぼしかけた実在の『魔族』で、女神はその暴走を抑えた『巫女』なんだ」
「巫女は今どこに?」
知りたかったことが明らかになっていく緊張感で声が詰まる。
「鎮めの巫女は総称。特定の人物だけを指し示す単語じゃないよ」
「今もその巫女と呼ばれる人たちはいるのですか?」
サラは聞きたいことを正しく言い直した。
「代々受け継がれる能力じゃなくて、何か特別な力を持っていた人だったような――確か資料が」
言葉はそこで途切れ、代わりに小さな舌打ちが発せられた。
元酒場だった瓦礫と砂埃の下には千切れた本や紙らしき残骸も見える。風が吹く度に小さな紙片は埃と一緒に飛んでいった。
あの中から資料を探すことは無理だろう。探し出せたとしても正しく読めるかどうか。肝心の資料がなければこれ以上情報は得られない。
サラは途方に暮れた。
沈黙の中、大きな溜息が聞こえた。
「情報元に直接聞くか」
重い腰を上げながら「今どこら辺をふらついているんだ、あのジジイは」とコルヴォが呟く。
「女性との約束は破るな。これ、ブランド家の家訓なの」
色男はにっと笑った。サラもつられて表情が緩む。
「時間が掛かるけど大丈夫?」
「お願いします」
サラは大きく頷いた。




