12
歪んだ窓枠と破れたガラスが新しくなった後、サラは大家に謝罪も兼ねて修理の報告に行った。
サラの家から少し離れた二階建ての隣家に、大家は一人で住んでいる。低い階段を三つ上がると、赤い玄関の扉に付いている叩き金――獅子がくわえている輪――を三回打ち付けた。
もしかしたら家を追い出されるかもしれない。
最悪な想像が頭から離れず、朝から数え切れないほど溜息ばかりを吐いている。そして今も緊張と不安で溜息の数を一つ増やした。
しばらくして家の中から気怠げな返事と足音が近づいてくる。サラが背筋を伸ばしたと同時に扉が開いた。
目の前に声同様、気怠げな雰囲気の美女が立っていた。少し垂れた目の中の、薄い青色の瞳が来訪者を見つめる。
「あれ、サラちゃん? どーしたのぉ?」
ぽってりした唇から発せられる、やや舌足らずで間延びしたしゃべり方は、普通であれば幼さや軽薄さを感じさせるのに彼女の場合はそれが妙に色っぽい。
「お早うごっ――」
挨拶しようとして、サラは声を詰まらせた。目の前に現れた彼女が着ていたのは肌が透けて見えるベビードールだった。
剥き出しの白い太もも、ずり落ちた左の肩紐、深い胸の谷間。色気過多な姿に思わず叫んだ。
「ざああああああ! ミ、ミシェルさん! なんていう格好で玄関に――」
爽やかな朝日を浴びてウェーブのゆるくかかった金髪が一層輝く。
サラは透けて見える下着に釘付けになった。
布面積が小さいっ!
同性だが、まともにみることができない。
「あ、これ?」
ミシェルは自分の姿を見下ろす。
「可愛いでしょ? 一昨日買ったばかりなの」
うふふ、と屈託なく笑い、裾を摘まんで持ち上げる十歳年上の彼女に「可愛いですけどそうじゃなくて! あぁ、裾は持ち上げないで! 色々見えちゃう!」とサラは一人であたふたしながらミシェルの肩紐を直す。
ふと、目の前の傷一つない綺麗な白い肌がとても眩しく、サラは僅かに目を伏せた。
真っ赤になっている年下のサラに甲斐甲斐しく世話をされていたミシェルは、その可愛い店子の後ろにいる人影に気付き視線を移した。
「サラちゃん、あの人と結婚するのぉ?」
突然の言葉に一瞬サラは眉根を寄せ、そしてはっと思い出した。
後ろを振り返ると、色気の塊のようなミシェルにではなく、色気の欠片もないサラと目が合って艶やかに微笑むレクスがいつの間にか階段の下に立っていた。出掛ける時にレクスには声を掛けたが、いつからここにいたのか、どうしてここにいるのか、サラは全くわからなかった。
ひいいぃ! ここにも無駄に色気のある狼――もとい、御方が!
『前門の虎、後門の狼(※1)』
耳まで赤くなったサラはどこかの国の諺を思い出していた。
サラはレクスにぎこちない笑顔を返すとミシェルに向き直り、誤解をやんわり否定してから窓の件を謝罪した。
窓が壊れた原因は言わなかった。カイは引っ越しの時に両親の代わりで挨拶した後もよく家に来ているのでミシェルとは顔見知りだ。だからという訳ではないが、何となく兄の失態を言いたくなかった。幸いミシェルも詳しくは聞いてこなかった。
「あらあら――怪我しなかったぁ?」
ミシェルは怒るどころかサラを気遣う。
「大丈夫です」
ほっとするサラに年上の大家も安堵の表情を浮かべた。
「あの家はサラちゃんが出て行ったら建て直すし、気にしないでねぇ」
サラが首を傾げると「ほらぁ、一度呪われちゃったでしょ? そういうの気にする人多いからぁ」と、からから笑った。
「あ、でもぉ、だからって気にして出て行かないでねぇ?」
ミシェルは少し視線を落としたサラに気付いて言葉を続ける。
「前みたいに変な人が入居したら面倒だしぃ、だからサラちゃんがずっといてくれると嬉しいんだけどなぁ」
前の住人は大家であるミシェルに一方的に好意を寄せてしつこく付きまとった。はっきり断られると態度を一変させ嫌がらせを繰り返した挙げ句、退去時に家を封印していった。
「自分の家だと思って、改装しようが壊そうが修理しようが好き勝手にしていいからねぇ」
「ありがとうございます」
サラが頭を下げると、ミシェルも「どういたしましてぇ」と笑いながら軽く頭を下げた。
顔を上げたサラの目の前には、前屈みになったことで更に深くなったミシェルの胸の谷間があった。
「ミ、ミシェルさん。胸が見えます」
小声で指摘するとミシェルはくすくす笑った。
「大丈夫よぉ」
「大丈夫じゃないし、レクスさんは綺麗な顔していますけど男の人だし、もっとそういうのは気をつけた方が――」
慌てるサラにミシェルは階段下にいるレクスを見て、すぐに視線を戻した。
「あの人、私のこと眼中にないもん」
サラが振り返ると、先ほどと同じように目が合い、同じように微笑まれた。
「だからぁ、サラちゃんと結婚するものだとばかり――」
サラは慌てながらもレクスとの経緯も簡潔に説明した。
「へぇ――」
ミシェルはもう一度レクスを見遣った。けれど黄金の瞳が薄青の瞳と重なることは、やはりなかった。
「きっと、卵から孵ったばかりのヒナが最初に見たものを親だと思ってしまうのと同じだと思うんです。きっとそうです」
サラは自分の説明で自分を何とか納得させた。
******
ミシェルは生真面目で優しい店子に頬を緩ませた。
窓が壊れたことを素直に謝りにくるし、それにその原因が兄だと言わないところが、何ともいじらしい。
ふとサラの後ろに立つ美丈夫を見遣る。
今時珍しいくらい奥手で真面目な子に、よりによって何であんなのが――。
これからのことを思うとサラが不憫で仕方ない。
ヒナは親をあんな物欲しそうな目で見ないでしょうに。大体あれはヒナなんていう可愛いらしいものじゃないわよ。
あのお兄ちゃんはどうするつもりかしら? 慌てて窓壊しちゃうくらい妹が好きなのにねぇ。
仕事を盾に一線を引いているサラと彼女しか見ていない魔族と、妹を溺愛する血の繋がらない兄。
ミシェルはサラに同情しながらも波乱の恋の行方に、密かに胸を躍らせた。
※1表門で虎の攻撃を防いだと思ったら、裏門から狼が迫ってくるという意味。
無駄に色気のありすぎる美男美女に挟まれたサラの心境。