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婚約者が推しは浮気じゃないと言うので、私も推し活を始めた結果

掲載日:2026/10/07

 ベルトーネ侯爵令嬢であるアナトリアは執務机に広げた請求書に目を通しながら、もう何度目かになるため息をついていた。


 お花代にご衣装代、そして数々の装飾品――どれもアナトリアの婚約者であるランツェッタ公爵令息カルロのサインが入っているけれど、請求書は全てベルトーネ侯爵家にやってくる。


(また増えてるわ……)


 アナトリアは報告書をまとめて引き出しにしまうと、ふたたび深く息を吐いた。


 これらの支出は、カルロがとある劇場歌手のパトロンとなってから始まったものだ。彼が支援しているのは、昨年デビューしたばかりの歌手クラリーチェ。年齢はアナトリアより四つ下の十六歳で、舞台映えする華やかな容姿をしているらしい。


 歌劇は、貴族たちに大人気の娯楽だ。皆が競い合うように気に入った歌手の支援者(パトロン)となって名声を高める手助けをする『推し活(パトロネージュ)』は、今では貴族文化の一部となっている。


 だからカルロの行為そのものは珍しいことではないけれど、問題は程度だろう。


「カルロ様、少しお話がございますの」


 たまりかねたアナトリアの招待に応じた婚約者は、相変わらず涼しい顔をしていた。淡い金髪をきれいに撫でつけ、流行の細身の長上衣をスマートに着こなし、優雅に足を組んでいる。婚約が決まる前は、この端正な姿を素直に素敵だと思えたはずなのに……。


「次期侯爵として、劇場通いは節度をお守りくださいませ。特定の歌手に入れあげすぎていると、噂になっておりますわ」


 努めて穏やかに言ったアナトリアに対して、カルロは人当たりのいい顔で困ったように微笑んでみせる。


「素晴らしい才能を見出して後援することは芸術文化への貢献、つまり高貴なる者の義務(ノブレスオブリージュ)の一つだよ」


 その『義務』とやらの費用は自らの稼ぎではなく将来の婚家から出ているのだが、カルロはすでに自分のものだと思っているらしい。侯爵位を継ぐために婿入りする予定でありながら、いまだ「領地経営についての学びが不十分」とか言って、ずるずると正式な婚姻を先延ばしにしているのに、だ。


 古い本家筋にあたる公爵家から婿養子をもらう条件として、次期領主としての学びや社交に必要な経費は侯爵家側が負担すると約束してしまった。まさかこの国でも一、二を争う名家の令息が、これほど恥も外聞もなく散財してくれるとは思わなかったのだ。


 アナトリアがどう言えば伝わるか困っていると、カルロは身を乗り出した。


「そうだ、アナトリア。君にも『推し(プロテジェ)』ができれば僕の気持ちが分かるから、作るといいよ。彼女の歌を聞けば、その素晴らしさに気付くはずだ!」


「……はい?」


「ちょうど明日、新演目の初日なんだ。一緒に観に行こう。きっと気に入るよ!」


 断るすきを与えないまま、カルロは珍しく上機嫌で「また明日、迎えに来るよ」と言って自分の邸に帰って行った。



   ◇ ◇ ◇



 翌日、カルロに連れられて、アナトリアは劇場の中でも最上等の桟敷席(ロジェ)に座った。この席は年間契約で、ベルトーネ侯爵家の占有になっているらしい。もちろん、いつも座っているのはカルロだ。


 クラリーチェの声はまだ初々しさを残しているけれど、可憐ながらよく通る声だった。恋に悩む貴族令嬢を演じる姿も真にせまっていて、確かに才能を感じさせるものだろう。


「どうだい、素晴らしいだろう?」


 小声で話しかけられて振り向くと、隣でカルロが自分のことのように誇らしげに微笑んでいた。


(確かに才能を感じるけれど、次期侯爵があからさまに一人に入れあげていいのかは別の話でしょう)


 そう言いたかったけれど、劇場で言い争うのはマナー違反だろう。


 幕が降りると、割れんばかりの拍手が起こった。さっそくカルロが立ち上がり、「楽屋まで挨拶に行こう!」と言う。


 さすがに「それは貴族らしからぬ行為では」と返そうとしたところで、支配人が現れた。支配人が真っ先にやってきて慇懃(いんぎん)に挨拶する様子を見れば、カルロがどれだけ劇場の収入に貢献しているか分かるというものだ。


 支配人は得意げなカルロに向かってひととおり感謝を述べると、にこやかに笑いながら言った。


「ごひいきいただいております歌手クラリーチェからも、ご挨拶申し上げたく存じます」


 カルロが意気揚々と許可すると、クラリーチェ本人が現れた。舞台衣装のままの姿は可憐そのもので、深々とお辞儀をする所作も洗練されている。


「カルロ様、本日もお越しいただきありがとうございます。こちらの御方が、ベルトーネ侯爵様の……」


「ああ、アナトリア嬢だ。今日は彼女にも君の素晴らしい歌を聴かせたくてね」


 クラリーチェは顔を上げ、アナトリアに微笑みかけた。愛らしくて可憐な笑み――だがその目は、無邪気なだけではなさそうに見える。


「まさか、侯爵夫人にお聞きいただけるなんて……なんと幸せなことでしょう」


「いやいや、まだ夫人じゃないよ。まだ婚約者だからね」


「まあ、私ったら……大変失礼をいたしました。本物の美しい貴族のご令嬢の気品を前に、舞い上がってしまって。さきほどの私のつたない演技に、恥じ入るばかりです」


(……なるほど)


 この娘、思っていたよりしたたかな野心家かもしれない。劇場歌手として頂点に登りつめるには、貴族の支援が不可欠だ。おそらくカルロの財源がどこから出ているのかも、よく分かっているのだろう。だから、あえてアナトリアを『夫人』と呼んで立てることで、障りなくお金を出してもらおうという計算だ。


(これでは咎める隙がないわ……)


 アナトリアは頭を悩ませつつ、顔には出さずに微笑んでみせる。


「いいえ。素晴らしい歌声ばかりでなく、演技も素敵だったわ」


 そう鷹揚に返すと、クラリーチェは花ひらくように笑った。


「ありがとうございます。カルロ様のお支えがあってこそですわ。カルロ様は本当に、芸術にご理解のあるお方でいらっしゃいますもの」


 クラリーチェの言葉を聞いて、カルロは有頂天になっている。


「そうだろう? クラリーチェは本当に素晴らしい才能があるんだ。アナトリアも分かってくれたようで嬉しいよ!」


(あからさまな敵意を向けてくれた方が制限の口実にできるぶん、まだましだったわ……)


 そう考えて、アナトリアは痛むこめかみを押さえた。



   ◇ ◇ ◇



 それからのカルロの行動は、アナトリアの予想を上回る速さでエスカレートしていった。


「歌手としての名声を上げるために、社交界で顔を売ってあげたいんだ」


 そう言って、カルロは社交の場に美しく着飾らせたクラリーチェを連れ歩くようになった。


 侯爵家に婿入り予定でありながら、婚約者を伴わず劇場歌手の少女とともに夜会に現れるなんて、噂にならないはずがない。


 何度苦言を呈しても、「推し活は純粋な応援で浮気じゃないのに、嫉妬するなんて見苦しいよ。もっと侯爵夫人らしい余裕をもって」と、かわされる。


 カルロはそんなことを言うけれど、二人きりで個室に消えてゆく姿まで何度も目撃されているのだ。それで不貞がないなんて、信じろという方が無理だろう。


 そしてある夜――とうとうカルロは、王宮の夜会にまでクラリーチェを同伴した。王家主催の、正式な夜会である。本来ならば婚約者と共に向かうべき場所で、クラリーチェと腕を絡めていたらしい。


「あんな男、やめておいた方がいいわ! 婚約を盾にして、いいように利用されてばかりじゃない!」


 そう憤りつつ教えてくれた友人たちに、アナトリアは力なく笑ってみせた。


「わたくしも、そう思うわ。でも……何度それとなく解消を打診しても、応じてもらえないのよ」


「あ……そうだったわね。辛いわね……」


 そう一人が言うと、他の友人たちも困ったように口をつぐむ。友人たちもみな貴族だから、アナトリアの弱い立場が分かるのだろう。


 友人たちと別れて、アナトリアは帰路につく馬車へ乗りこんだ。揺れに身を任せつつ、今日聞いた話を思い出す。


 怒りとか、嫉妬とか、そんな感情はとっくに失われていた。ただ、これほどまでに蔑ろにされたことが、悲しかった。


 婚約が決まったばかりの頃、彼は優しかった。君と共にベルトーネ領を守っていきたいと、真剣な眼差しで言ってくれたのだ。それが、今は――。


(どうせ変えられないんだもの。ならばもう、何も見たくない……)


 アナトリアは王都にある邸を離れ、領地の城に帰ることにした。



   ◇ ◇ ◇



 ベルトーネ侯爵領は王国の北東に位置し、長い山脈を隔てて隣国と接する辺境にある。肥沃な農地に恵まれているけれど、常に隣国の脅威にさらされていた。


 それだけではなく、隣国から山野に流れついたならず者たちが集落を作って大きな野盗団となり、こちらの村を襲うことも珍しくない。そんな辺境でベルトーネ侯爵家は、代々この地を守り抜いてきた。


 領地に戻ったアナトリアが最初に手をつけたのは、溜まっていた執務だった。ここ数年きな臭い国境の守備に忙しい父を補佐する仕事は、今ごろカルロが分担していたはずだったのに。


 何度お願いをしてもカルロはのらりくらりと正式な婚姻をやり過ごし、王都を離れようとしなかった。初めから辺境の守備などやりたくなくて、でもそのままでは爵位を得られない次男だから、仕方なく侯爵家への婿入りを決めたのだろう。


 沈む気分で書類を片付けていると、その中に国境付近の村で起こった戦闘の報告書があった。


『未明に現れた野盗の一団は、リベリオ殿下率いる夜警隊により殲滅。集落への被害は最小限に抑えられた。以下、被害の内訳を記す――』


 この国の第一王子である、リベリオ殿下――名前は知っているけれど、まだ直接言葉を交わしたことはない。王都の社交界にはめったに姿を見せず、騎士団と共に各地の砦に駐留して国境を守っていると聞いている。


 だが王都に住まう令嬢たちの間では、彼は野盗と対等に渡り合うような、野蛮で恐ろしい人物だと噂されていた。


「お父様。リベリオ殿下は、どのようなお方ですか?」


 夕食の席で尋ねると、父のベルトーネ侯爵は白髪の混じり始めた口髭を上げて、目を細めた。


「素晴らしい御方だよ。まだ二十代の若さであれほどの統率力を持つ将は、そうはおるまい。我が領の騎士団とも何度も共に戦ってくださったが、兵を大切にし、無駄な血を流さぬ用兵をなさる」


「……殿下は第一王子でいらっしゃるのに、なぜ辺境に?」


「殿下はご長男だが、庶子であらせられるからな。正妃の御子である第二王子マリアーノ殿下が立太子されたのは知っておるだろう。リベリオ殿下は政争の種になり弟君を脅かしたくないと、自ら進んで辺境を守る道を選ばれたのだ」


「そんな、自ら……」


「マリアーノ殿下はまだ十二でいらっしゃるのでな。幼い弟を思いやる、実に心優しいお方だ」


 父の声には、本物の敬意がこめられている。そんな殿下は六年前から各地で国境の守備を担っていたが、このところは野盗の被害が激増しているベルトーネ領内に拠点を置いていた。


「……お父様、確か当家からリベリオ殿下の辺境騎士団へは物資の支援を行っておりましたよね?」


「もちろんだ。初めは王族の責務だからと断られたが、当家の領民を守っていただいておるのは事実であるからな。出来うる限りのご支援をさせていただいておる」


「ならばわたくしを、その支援物資を届ける使者に立ててくださいませんか? 遅ればせながら、殿下にご挨拶に伺いたく存じます」


 ここ二年ほどはカルロから目が離せなくて、ほとんど領地へ帰っていなかった。王族の方が領内にお出ましであるのにご挨拶に伺っていないなんて、礼を失することだろう。


「ああ、それがよい。すぐに手配させよう」




 ――数日後。アナトリアは馬車に乗り込むと、辺境騎士団が駐屯する砦へと向かった。後続に引きつれた荷馬車の中には、騎士たちに充分行きわたる量の携行食や、新しい武具防具を積んでいる。


 先触れでご挨拶をしたいと伝えておいたからか、到着してすぐに目的の人物の待つ接見の間に通された。


 奥の主座に座っていた青年は、アナトリアの深々とした跪礼を受けて低く言った。


「楽にせよ」


「はい」


 許可を得て顔を上げると、少し日に焼けた黒髪の青年が、静かな目をこちらへ向けていた。


 精悍な顔だちはつい見とれてしまうほど整っているけれど、左頬を斜めに大きく刀傷が走っている。それに鍛え上げられた長身が持つ威圧感も相まって、彼を恐ろしげに見せているのだろうか。


 社交界の柔らかな空気からはほど遠い、戦場の香りをまとった人だった。けれどその瞳は深い知性をたたえていて、挨拶と感謝の言葉を少し交わしただけでも、思慮の深さがうかがえる。


「殿下、先日の戦闘報告を拝読いたしました。あの急襲から被害を最小限に抑えたお手並みは、まさに英雄の采配でございましょう」


 話の流れでアナトリアが賛辞を口にすると、リベリオは苦笑した。傷あとが少しひきつれて、笑みはどこかぎこちない。でも、もう怖いとは思わなかった。


「ご令嬢に讃えられるようなことは何もしていない。その場しのぎに退けるのみで、いまだ根本の解決には至っていないからな」


「それでも、このベルトーネ領の民を日々お守りいただいているのは確かなことです。領民たちに話を聞けば、口々に殿下への感謝を申しておりました」


「感謝ならば私ではなく、前線を駆ける騎士たちに伝えてやってくれ」


(お父様の話の通り、本当に謙虚な御方だわ……)




 自城へ帰ったアナトリアは、夕食をとりつつ考えこんでいた。


(あれほど国や民を思う御方の真のお姿が、なぜ王都では知られていないの……?)


 リベリオは多くの貴族たちと違って、自らの戦功をアピールするのを忘れているようだ。王族だから名声なんて不要なのかもしれないけれど、それにしても謙虚すぎるだろう。


 ――そのとき。ふと、カルロの言葉が頭に浮かんだ。


『君も素晴らしい推し(プロテジェ)ができると分かるから、作るといいよ!』


「お父様」


 フォークを置いて言うと、向かいで食事していた父が顔を上げた。


「なんだ?」


「わたくし、リベリオ殿下の推し活を始めようと思いますの」


 父は一瞬きょとんとし――それから、愉快そうに口角を上げた。


「ほう。で、どんな支援をするのだ。わざわざそう言うからには、支援物資を届けるだけではないのだろう?」


「はい、殿下の英雄譚を叙事詩にあらわして広めたいのです。これほどの功績が王都ではほとんど知られていないなんて、おかしいと思いませんか? むしろ我々が恩を受けたのですから、我々の口から広く伝えることこそが、ご恩返しとなるでしょう」


「なるほどなるほど」


 父は笑いを噛み殺しながら言った。


「あの婿殿に、よい面当てになるであろうな」


「まあ、お父様。純粋に殿下の功績を讃える活動ですわ」


 本音を言えば、鬱憤を晴らしたいという気持ちも少しある。でもリベリオの功績はもっと広く知られるべきだと思うのも、本当だ。


「ははは。よかろう、やりなさい。――存分にな」


 すんなりと許可が得られて、アナトリアはさっそく辺境騎士団の戦闘記録を片っ端から読み始めた。



   ◇ ◇ ◇



 しばらくして、アナトリアは王都に戻った。


 お抱えの詩人の手を借りて書き上げたばかりの叙事詩を手に、まずアナトリアは信頼できる友人たちとの詩会へ向かった。アナトリアが堂々と朗読を披露すると、令嬢の一人が目を丸くする。


「これ、アナトリア様が作られたのですか?」


「ええ。とはいっても、詩作の先生に手ほどきいただきつつ、ですけれど」


「とっても、格好よかったわ……!」


「でもリベリオ殿下って、あの恐ろしいと噂のお方でしょう……?」


 友人の一人が目をキラキラさせて言うと、別の友人からは消極的な声が上がった。令嬢たちの間では、やはりリベリオ殿下は「怖い」「野蛮」というイメージが先行しているのだろう。


 五年に渡る辺境の戦場暮らしで負った、恐ろしい傷痕――平和ボケした王都の社交界とは、最も縁遠い存在なのかもしれない。


 しかしアナトリアは、微笑んで言った。


「でも殿下がそうして国を守ってくださらなければ、いずれ王都まで侵攻を受けることになるかもしれないわ。だから、もっと功績を知られるべきでいらっしゃるの」


 すると令嬢たちは「確かに」とうなずき合ってくれたけど、勇ましい話ばかりではこれまでの印象と変わらない。そこで次の作品では、リベリオから弟王子への思いやりを丁寧に描くことにした。


 幼い弟の立場を守るため、自ら剣を取って辺境に立つ兄。血塗られた戦場から弟に宛てた手紙には、いつも「元気にしているか」と気遣う言葉が添えられている――という、リベリオの従者に聞き込んで得られた逸話を、柔らかな韻律に乗せた。


 これが、大当たりだった。ただ武勇を誇る話ではなく弟想いの優しさを前面に出したことで、令嬢たちの心の琴線に触れたのだ。


「弟君との争いを避けるために身を引くなんて、なんて優しい御方なの……!」

「しかも大そうお強くていらっしゃるのよ? 夜を徹して戦い続け、ついに敵を打ち払ったのですって……!」

「村の幼い兄妹を救い出した逸話なんて、聞いていて泣いてしまったわ……」


 そして決定打となったのは、王妃殿下だった。第二王子マリアーノの生母である王妃は、義理の息子であるリベリオに対して複雑な感情を抱いていた。


 だがそれは、悪いものではない。自分の息子がなんの憂いもなく王太子の座にあるのは、リベリオが潔く身を引いてくれたからだ。その負い目が、ずっと胸にあったらしい。


 とはいえ、ただ武勇を誇る詩であったなら、反逆の準備ではないかと疑われたかもしれない。だが弟を想う兄の姿を前面に押し出した物語は、素直に王妃の心を打ったようだ。


「この詩を作ったのは、ベルトーネ侯爵令嬢だったかしら? なんて素晴らしいの。リベリオの功績を、もっと広めるべきだわ!」


 王妃のお墨付きを得た瞬間、英雄譚は社交界で爆発的に広まった。


 お茶会に夜会、果ては紳士の社交場でまで、リベリオ殿下の名が語られない日はなくなった。令嬢たちは競うように詩を書き写し、朗読会を開き、辺境に物資を送る支援活動まで始まった。


 アナトリアは、内心で満足してうなずいた。


(布教、大成功だわ……!)


 なにより推し活に打ち込み始めてから、婚約者の心ない仕打ちなんて忘れて、気持ちが上向く日が多くなっていた。


 砦にお届けする防具をより良いものにするための手配を進めながら、アナトリアは苦笑した。


(本当に、カルロ様の言っていた通りね。推しに少しでも良い衣装を贈りたいという気持ちが、今なら分かる気がするわ。社交界に少しでも名声を広めて差し上げたいと願ってしまうのも、仕方のないことだったのね)


 いつしかアナトリアは、推し活をすすめてくれたカルロに感謝すらするようになっていた。



   ◇ ◇ ◇



 ある日、アナトリアが王都の詩会から邸に戻ると、応接間でカルロが座って待っていた。


 いつもの柔和な笑みはなく、憤然として眉間に皺を寄せている。アナトリアが入室するなり、座るのも待たずに口を開いた。


「婚約者である僕を差し置いて他の男を讃える詩を広めるなんて、不貞ではないか!?」


 アナトリアは悠然と対面の椅子に腰かけ、侍女の差し出した紅茶のカップを手に取った。


「恋情を描いた叙情詩(リリック)ではなく、事実のみを描いた叙事詩(エピック)ですわ。何の問題があって?」


「言い方の問題じゃない! 君が他の男をあんなにも熱心に持ち上げているのは、どう見ても――」


「殿下はいつ死ぬか分からぬ身だからと、妻も持たずに戦い続けていらっしゃるような方よ。なんて高潔で、素晴らしい御方なのかしら……! だからわたくし、貴方に言われた通り、殿下を『推す』ことにしたの」


 アナトリアがにっこり笑うと、カルロの頬が引きつった。


「第一王子殿下を劇場歌手と同列に見るなど不敬だろう!」


「あら、王族の方をご支援するのは我ら臣下の義務のひとつではなくて?」


 アナトリアは、小首を傾げてみせる。


「そもそも、推し活は浮気じゃないから嫉妬して制限するのは勘違いだと言ったのは貴方でしょう。もしかして、嫉妬していらっしゃるの?」


 カルロの表情が、凍った。


「――別に、単なる推しに嫉妬などしていない!」


 言い捨てて、カルロは部屋を出ていった。扉が閉まる音を聞いてから、アナトリアはまだ手の中にあったカップに目を落とす。


(本当に嫉妬してくれたのなら、少しは期待できたのでしょうけれど……)


 彼が怒っていたのは、婚約者が他の男へ目を向けていることではない。どうせ、自分の面目が潰れるのが嫌なだけだろう。


(とはいえ……嫉妬していないというのなら、続けてもいいのよね?)



   ◇ ◇ ◇



 それからもアナトリアは、堂々と推し活を続けた。詩を書いては社交の場で広め、推しの功績を布教する。そしてまた領地へ戻ると、支援物資を持って砦へと向かった。


 こうして何度か訪問を重ねたある日、挨拶をしたいと伝えると、接見の間ではなくお茶が用意された応接室に通された。リベリオの向かいに座ると、彼は珍しく自分から口を開いた。


「先日、弟にどうしてもと乞われて王宮の夜会に出たのだが、好意的に話しかけてくれる者があきらかに増えていた」


 そこで一拍置いて苦笑すると、彼は続けた。


「不思議に思っていると、私の英雄譚が出回っていると弟が興奮しながら教えてくれたよ。アナトリア嬢のおかげだ、と」


「あの、勝手なことをしてしまって……ご迷惑だったでしょうか」


「いや。そなたのおかげで、王都にも新たな居場所ができた心地だった」


「いいえ、わたくしは貴方が民のために命を懸けてくださった事実を、そのまま叙事詩にあらわしただけにすぎません。だからわたくしのおかげではなく、殿下ご自身の功績にございますわ」


 リベリオは少し目を見開いて――それから、わずかに口元をほころばせた。


「別に誰にも知られないままでいいと思っていたが、努力を見てくれている人がいるのは嬉しいものなのだな……」


 しみじみとした声だったが、次の瞬間、殿下は表情を引き締めた。


「だが……そなたには婚約者がいると聞いた。他の男の英雄譚を作るなど、嫌な顔をされていないか?」


 アナトリアは一瞬泣きそうになったのを隠して、微笑んだ。


「畏れ多くも殿下をご支援させていただく活動は、その婚約者のすすめで始めたのです。あちらにも、熱心に支援している女性がおりますの」


「そうか……」


「貴族の結婚ですもの。お互いに義務さえ果たせばいいのは気楽ですわ」


 そこでアナトリアは話題を変えて、せっかくなので新しい詩の見せ場について取材を始めた。リベリオは一瞬だけ口を開きかけ……結局何も言わぬまま、話に応じたのだった。



   ◇ ◇ ◇



 アナトリアが領地で大半の時間を過ごし始めてから、しばらくが経ったころ。


「カルロ様がお見えです」


 侍女の報告に、アナトリアは目をまたたかせた。


(あのカルロが、辺境まで来たですって? いつもは何かと理由をつけて、王都を離れたがらないのに)


 あれ以来、王都の邸の方にはたまに苦々しい顔を見せに来ていたが、ここまで来るとは何か急用でもあったのだろうか。


 不思議に思いつつ応接間に入ると、カルロは苛立ちを隠せない様子で窓辺に立っていた。振り返った顔は、不機嫌そのものである。


「このところ領地にこもって、あの殿下にまめに会いに行っているそうだな」


「ええ。貴方におすすめされた通り、推し活を楽しんでおりますわ」


 アナトリアはにこやかに答え、席を勧めた。だが、カルロは座らない。


「……僕の詩は書かないのか?」


 予想外の言葉に、アナトリアは呆れた。


「……貴方の? 青年貴族と歌手の禁断の恋でも書けとおっしゃるの?」


「違う、僕の活躍を讃える詩だ!」


「では貴方が父の代わりに騎士団を率いて、殿下と共に国境を守ってくださる?」


「……は?」


「そろそろ父もいい歳ですから、早く婚姻を結んで世代交代をして欲しいのですけれど。もう少し王都で領地経営について学びたいから待ってくれとおっしゃったのは、貴方でしょう?」


 カルロは、とたんに青い顔をする。


「僕はまだ、準備が……」


「ええ、存じておりますわ。もう貴方には期待しておりませんから、ごゆっくり準備なさってよろしくてよ」


「……何を企んでいる」


「何も。ただ、打ち込める趣味を見つけて心に余裕ができただけですわ」


 にっこり微笑むと、カルロは何か言いかけて――結局「ちょっと急用を思い出した!」とか言い訳にもならないことを言い、そそくさと応接室から出て行った。


 王都へ帰るのだろう馬車が城門から出てゆくのを窓から見送りながら、アナトリアは小さくため息をついた。


(……疲れた)


 カルロと話すと、いつも心が削られる。かつては好ましいと思っていたはずの婚約者が、別人のようになってしまった。いや、元からこういう人だったのに、目をつぶっていただけなのかもしれない。


(癒されたい)


 そのとき、反射的に頭によぎったのは――。


(推しに会いたい)


 アナトリアは手早く支援物資をまとめると、翌朝、砦へ向かった。




 砦に着くと、リベリオはちょうど巡回から戻ったところのようだった。


 まだ武装を解いていない姿のまま厩舎から出てきた彼は、アナトリアの姿を見つけて少し驚いた顔をした。


「また来たのか」


「あの……ご迷惑でしたか?」


「君を迷惑だなどと思ったことは一度もない。ただ……そろそろ王都へ戻らなくては、婚約者殿が寂しがるのではないか?」


「あの方でしたら昨日こちらへいらっしゃいましたけど、何か急用を思い出したとかで、すぐに王都へ戻られましたわ」


 さらりと言ったつもりだったけど、声がわずかに沈んでしまう。


「……追いかけなくてもいいのか?」


「追いかけたところで、あの方は推しに夢中ですもの。いくら割り切っていたとしても、あまり見ていて楽しいものでもございませんし」


 つい本音がにじむと、リベリオは黙って気遣わしげにアナトリアを見た。


 見ないふりをしていても、王都にいれば友人たちが目撃情報を教えてくれる。みな「信じられない!」と憤り、アナトリアのことを本気で心配して報告してくれる。


 それはありがたい、のだけれど――。


(知ったところで、カルロと結婚しなければならない事実は変わらない)


 あちらの公爵家は、アナトリアの家より格上だ。一度婚約を交わした以上、こちらから断ることはできない。あれからも何度も父を通して婚約解消を打診してみたけれど、息子を早く片付けたいらしい公爵に、うやむやにされてしまった。


(正式に婚約を結ぶ前までは、彼も優しかったのに)


 こまめに花を贈ってくれて、領地を一緒に守ろうと言ってくれた。あれは全部、演技だったのだろうか。


(やっぱり……あちらから断ってもらうことは、できないでしょうね)


 カルロは次男だから、婿入りしなければ爵位を継げない。爵位がなければ、歌手のパトロンを続けるための財力を失う。だから彼はアナトリアという名の『爵位』を、手放さないのだ。


「その……いらぬ詮索をしてしまったか。すまない」


 リベリオの声に、アナトリアはハッと我に返った。


「あっ、殿下に謝らせてしまうなんて……本当に申し訳こざいません! どうぞ、お気になさらないでくださいませ。わたくしもこうして推しに会いに来ているのですから、お互いさまですわ」


 軽い調子で笑って言うと、彼は困ったように――けれどどこか嬉しそうに、ぎこちなく笑った。



   ◇ ◇ ◇



 あれから、さらにひと月が過ぎた。その間も、辺境の戦況は確実に動いていた。


 国境の山を越えて侵入してくる野盗たちは、身なりは粗野ではあるが統率が取れすぎていた。栄養状態がよく、武装の質も高い。さらに野盗のたぐいにしては、不自然なほどに戦術を心得ている。


 一連の襲撃の背後で、密かに隣国が糸を引いているのではないか――そう考ていたリベリオの地道な調査が実を結び、とうとう証拠を手に入れた。


 野盗たちの本拠地といえる集落を突き止めたリベリオは、根城を急襲。そこに居た隣国の士官たちを拘束し、あえて「野盗に捕らえられていた貴国の騎士を救出した。国境まで迎えに来られたし」と、隣国へ使者を送ったのだ。


 ただ、この国に嫌がらせをして、じわじわと余力を削いでおきたい……隣国が考えていたのはその程度のことで、あちらも全面戦争は望んでいなかったのだろう。


 隣国は慌てて兵を出すと、我が国の騎士を捕えた報復だと、たちまち隠れていた野盗団の親玉を討ち取った。潜伏先を知っている不自然さを隠す余裕もなく、証拠を消しに動いたのだろう。


 支援者を失った残党たちの掃討は、リベリオの采配によって迅速に行われた。さらに隣国に対する捕虜の引き渡しと事実確認という名の交渉の場で、外交上の大きな貸しを作ることに成功。


 ――その報告が王都まで届いたとき、宮廷は大いに沸いたという。


 長年の懸案であった北部辺境の様々な問題が、一気に解決したのだ。第一王子リベリオの名は今度こそ本物の英雄として、王国中に轟いた。



   ◇ ◇ ◇



 王都の自室にいたカルロは、届いたばかりの叙事詩の写しを握りつぶしていた。


 第一王子が野盗を全て撃破し隣国に貸しまで作ったという内容の、最新作である。今や社交界は、リベリオの話題で持ちきりになっていた。


 貴族たちはこぞって第一王子の戦果を称賛し、令嬢たちも詩の朗読にうっとりと耳を傾けている。その功績を最初に世に知らしめたベルトーネ侯爵令嬢アナトリアの名もまた、リベリオと並んで語られるようになっていた。


(これが、推し活だと!? ただの推し活のはずが、なぜこうなる……!)


 アナトリアはただ下手な詩を書いて、前線の騎士へ物資を支援していただけだ。それなのに、いつの間にか殿下の最も信頼する支援者として、王家からも一目置かれる存在となっている。


 一方、自分はどうだ。クラリーチェの支援にいくら金と時間を費やしただろう。だがあの女は、他の支援者の男と共に馬車に乗り込んだらしい。問い詰めれば、『私は歌手よ。あなたの妾じゃないわ』ときた。


 思い返せば、アナトリアはいつも自分のことを第一に考えてくれていた。婚姻をずるずると先延ばしにしても、貴方の考えを尊重すると言ってくれていた。


(クラリーチェだけじゃない。アナトリアまで、他の男に目を向けるというのか……?)


 とはいえ、アナトリアの方から婚約を破棄することはできない。こちらの方が、立場は上なのだ。


「大丈夫だ。アナトリアはまだ、僕だけのものだ……」


 そう自分に言い聞かせるよう呟いて――それでもカルロは、今すぐ婚姻へ動こうとはしなかった。だが気づいて即行動に移さなかったことを、カルロは永く後悔することになる。



   ◇ ◇ ◇



 最初の報せは、一通の勅書として届けられた。


 差出人の欄には、国王のサインと共に王家の紋章が入っている。本文には、第一王子リベリオが国境平定の功に対する恩賞として、ベルトーネ侯爵令嬢アナトリアとの婚姻を願い出たこと。そして国王はそれを許したことが書かれていた。


『ついては第一王子の臣籍降下、および婿入りにあたり、ベルトーネ領主への公爵位の加爵を検討している』


 とはいえ、これは王命ではなく、あくまでも打診であるとのことだった。元の婚約者を選ぶのであれば尊重する、とも書かれている。


 父から「お前はどうしたい?」と真剣な顔で問われたとき、アナトリアは自分の手が小さく震えていることに気がついた。


(殿下が、わたくしとの婚姻を望んでくださっている……?)


 始めに感じたのは、純粋な喜びだった。でもすぐに、怖くなった。


 自分は殿下を『推し』だと思っていた。あくまで支援者なのだと、一線を引いていた。それを恋愛感情に変えてしまったら――せっかく築いた関係を、壊してしまうかもしれない。


 それに、カルロとの婚約はまだ解消されていないのだ。あのランツェッタ公爵が、素直に引いてくれるだろうか。


「お父様、少し、考えさせてください……」


 アナトリアは自室で一人になると、窓の外を見た。眼下に広がる領地をぼんやり眺めていると、城門が開くのが見える。ここからでは馬車の紋章は見えないけれど、高位貴族のものだろう。


 父への来客だろうか。そう考えていると、侍女が小走りでやってきた。


「アナトリア様、第一王子殿下のお越しです!」


 急ぎ身だしなみを整えて、下階へ向かう。応接室の入り口をくぐると、一人の男性が窓に向かって立っていた。


 その姿は、いつもの武骨な軍装ではない。王宮の昼会に出るような、濃紺の長上衣に銀糸の刺繍が入った礼装を身にまとっている。前髪を軽く後ろに流すように整えられた髪型も相まって、戦場に立つ姿とはまるで別人のようだ。


(――推しの別衣装なんて、反則だわ)


 その端正なたたずまいに見とれていると、彼がこちらを向いた。瞬間、嬉しそうに細められた目に、心臓が小さく跳ねる。


 アナトリアは我に返ると、慌てて淑女の礼を執った。リベリオも挨拶を返し、それきり口を閉ざす。戦場では一瞬の迷いもなく判断を下すという人が、今は言葉を探すように視線を泳がせていた。


「この地は、国境守備の拠点として最適であるから……」


 ようやくそう言いかけて、すぐに止まった。苦笑いのようなものが、彼の口もとに浮かぶ。


「……と、陛下の御前で理由に挙げてしまったのは、臆病者の言い訳だったな」


 アナトリアが黙って耳を傾けていると、低い声が静かに続いた。


「君が私を『推し』と呼ぶように、私もあくまでも君を『推し』だと考えようと思っていた。だが、自分だけの妻にしたいという、欲に勝てなかった」


 心臓が、ひときわ大きく跳ね上がる。


「……どうか、私を選んでほしい。良い返事を期待している」


 リベリオはそれだけ言うと、微かな笑みを残して去って行った。




 ひとり残されたアナトリアは、しばらく動けないでいた。


 彼のことは、推しだと思っていた。推しだと思っていたかった。辺境に通うのは支援のためで、顔を見ると元気になるのは推しだから。次々と詩を書きたくなってしまうのは、推しの供給がすごすぎるからで――。


 ――いつからだろう。ぎこちなく笑う彼を見て、胸が締めつけられるようになったのは。


(わたくしも、殿下のことが……)


 結論が出ようとしたとき、慌てたように侍女がやってきた。


「アナトリア様、カルロ様がお見えです!」




 カルロは、初めて見るような焦った顔をしていた。よほど慌てて来たのか、髪は乱れて服装もどこかちぐはぐだ。


 王宮からの打診の話はランツェッタ公爵にも同時に通知されているそうだから、さっそく彼の耳にも届いたのだろう。


「アナトリア、もう三年も婚約している仲である僕を、まさか捨てるとは言わないよな!?」


 アナトリアは、冷静にカルロを見すえて言った。


「もうそんなに経つのですね。わたくしはその間、ずっと待っていました。でも貴方は、責任から逃げ続けた」


「逃げたんじゃない、準備していたんだ!」


「同じことですわ。わたくし、もう待つのに疲れました」


「ああ、それは本当にすまないことをした。だから、今すぐ結婚しよう!」


「いいえ、貴方との婚約は解消いたします」


 カルロの顔から、完全に血の気が引いた。


「わたくしは、殿下の妻として……つまり最大の支援者として、そばでお支えすることに決めました」


「そ、それは困る! 侯爵位を継いでやるために、色々と学んでいたんだぞ!?」


(――継いでやる(・・)ためにね)


 その言い方がカルロの本音をありありと物語っていたけれど、もう怒りは感じなかった。悲しくすらなかった。


 ただ晴れやな気持ちで、自然に笑みを浮かべて言った。


「貴方が、推し活の楽しさを教えてくれましたのよ!」


「違う、そうじゃない!」


 声を裏返らせたまま、カルロは叫ぶ。


「夫と推しは、別物じゃないか!」


「その通りですわ。でも、ただ一人の夫を全力で推し放題なんて、これ以上の幸せはないのではなくて?」


 それを聞いたカルロは、愕然として立ち尽くし……やがて従者に支えられるようにして、呆然自失のまま帰って行った。



   ◇ ◇ ◇



 カルロとアナトリアの婚約は、間もなく正式に解消された。第一王子の国境平定という功績に対する恩賞である以上、ランツェッタ公爵も異を唱えることはできなかったらしい。


 むしろ息子が婚約者を蔑ろにしていたことには、さすがの公爵も心苦しく思っていたようである。ベルトーネ侯爵家から持ち出された劇場への支払いを慰謝料との相殺にすると伝えたら、公爵は速やかに婚約解消を承諾した。


 こうして婿入り先を失ったカルロは、次の縁談を探すことになった。しかし彼が劇場歌手に度を越して入れあげていたことは、もう社交界の誰もが知っている。


「あなたの元婚約者さま、南部の国境を守る辺境騎士団への配属が決まったそうよ」


 ある日のお茶の席で、そう友人たちが小声で教えてくれた。


「爵位のあてがなくなれば、せめて騎士として身を立てるしかないってことね。お父上の公爵様の判断だそうだけど」


「そう……」


 アナトリアは短く言って、お茶に口をつけた。かつての婚約者に関する噂話を聞いても、もう心が波立つことはない。


「それと、例の歌手のこと……聞いた?」


「いいえ」


「カルロ様がパトロンを続けられなくなったと分かったとたん、新しいパトロンに走ったんですって。あっという間だったそうよ」

「あら、わたくしは元から複数の方から支援を受けていたって聞いたわよ」

「それはそうよねぇ。より多くの方に推されてこその歌手ですもの」


 ――カルロはアナトリアとクラリーチェの両方を手に入れようとして、どちらも失ったのだ。



   ◇ ◇ ◇



 ベルトーネ城のテラスで、アナトリアはテーブルに向かっていた。秋の涼やかな空の下で、今日も羽ペンが紙の上を軽やかに舞っている。


 先日行われた隣国との定期交渉の場でリベリオが見せた見事な外交手腕を、美しい韻律に乗せてゆく。


 武勇だけでなく知略にも優れた英雄は――。


「また書いているのか」


 ハッとして振り返ると、リベリオが苦笑しながら立っていた。


 今では夫となった彼の顔には、恐ろしい傷痕が走っている。けれどアナトリアには、その傷こそが彼の勲章に思えた。


「旦那様の先日のご活躍を描いた新作ができましたわ。さっそく布教しなければ!」


「そろそろ飽きて、うんざりされているのではないか?」


「そんなことはございませんわ。王妃様からお手紙が届いているのです。王太子殿下が、兄君の新しい英雄譚を心待ちにしている、と」


 リベリオは少しだけ呆れたように、けれど隠しきれない嬉しさをにじませて笑うと、アナトリアの隣に腰を下ろした。


「……私は、そなたと出会えて幸運だった」


「わたくしこそ。世界一の素晴らしい推しに出会えましたもの」


「最愛の妻から推しと呼ばれる夫というのは、喜んでいいのか複雑だが……」


「あら、この上ない愛情表現ですわ」


 笑い合う二人の間を、風がやわらかく吹き抜けていった。


 アナトリアは今日も、全力で夫を推している。






 Fin



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