過去であろうと今であろうと
軽めな群像劇です
目指したのは2000年代初頭の昼メロでした
様々な立場の方の名前が登場しますのでその旨ご了承してから御拝読願います
因みにこの話に出てくる三大喜劇のタイトルはフィクションです、あくまで異世界のお話です
「今、若者達の間で真実の愛からなる婚約破棄とが流行っているらしいな」
それはズヴィードン侯爵家主人ヨハネス氏と夫人のザーラ、そして一人息子のロルゴが揃った場にて、ヨハネス氏が口にした言葉だった
「私の頃にもその様な流行があれば良かったと最近とみに思っていてな」
社交の為に王都のタウンハウスへと出向き、そこで家族と夕食を取っていた時に、ヨハネス氏が同じ席に座る家族に向かって何気ない体で言った言葉である
(この方は今更何を言っているの?)
ヨハネス氏が何気なく己が望みを口にしたその夜は、王都の貴族学校に寄宿していたロルゴが卒業準備の為にズヴィードン家のタウンハウスに帰って来ており、家族は久方ぶりに同じ卓に座し食事を取っていたのだ
そんな状況下で
『私も若かったらお前とは結婚せずに婚約破棄していた』
と同意義の、つまりは現在の妻であるザーラとの婚姻及び、その間に生まれた息子ロルゴを含む現在の家族全てを無下にするような発言を、父親のヨハネス氏は言ってのけたわけだ
「「 … 」」
その言葉は、ザーラとロルゴの内々でヨハネス氏への今後の扱いを最終決定するには十分な言葉だったと言える
最近になって漸く簡単な必要事項だけはそれなりに出てくるようになった食卓にて、夫=ヨハネス氏からの心無い言葉が響いた瞬間、二度とそこにいた人員とで今後はまともな会話が交わされる事は無くなるとは、この時のヨハネス氏は思ってもいなかったであろう
そんな夕食から一夜明けた次の日、寄宿舎に戻る前にロルゴは母親であるザーラと茶会をした時に
「ヨハネス様があそこまで愚かな人間だったとは思いもよらなかったですよ」
年頃の青年特有の父親に対する反抗期とは別の、人間として尊敬すら出来ない相手への侮蔑の言葉を息子であるロルゴは父であるヨハネス氏に向けて口にする
「お祖父様の決めて下さった事に私とて少しは思う所がございましたが、ヨハネス様のあの心無い言葉を聞いてしまったからには、私はもうあの人の意に構う事はありません」
父であるヨハネス氏を父と呼ばずに敢えて名前で呼びながら呆れた様な声音でロルゴは言葉を続けた
実はヨハネス氏の父であり、ロルゴの祖父に当たるズヴィードン家の先代当主が先年亡くなったばかりで、その後継に自身の息子でありザーラの夫であるはずのヨハネス氏を通り越して、ザーラの一人息子であり先代にとっては孫になるロルゴを指名していた
「母様、私は父無しになってもこのズヴィードン侯爵家と母様を最後まで守り抜きますので、どうかご決断を」
「父無しだなんて、あの方は最初からこの家に居なかったでしょう?」
母の口から出た予想以上の言葉にロルゴは目を丸くして息を飲む
(この家は最初からヨハネス様の血脈を認めていなかったもの)
その上でロルゴが成人するまでの間はズヴィードン家の事業承継をロルゴの後継人として実家のティニング家の血を引くザーラが請け負うように、と先代当主が生前の内に決められていたからこそ
「ロルゴ、私の事は気にしないで貴方はこの家に良いように動きなさい」
「母様…」
「私とて当の昔に覚悟は決めておりましたからね」
そう言いながらザーラは先代が亡くなった直後の事を思い出す
いかにも侯爵家当主らしい相応の葬儀を終えて、先代が遺した遺言発表の場でズヴィードン家の嫡子権が自分には用意されていなかった事を知ったヨハネス氏は
「私は先代当主の実の息子なのに、ズヴィードン家を継承出来ないのはおかしい」
と場を憚らずに散々文句を言っていた
しかし先代当主は生前にキッチリと公的機関に後継申請を済ませ、役所の方でも正式に受理されていた
更に言えば親族や社交界への根回しに関しては、後継役のロルゴ本人が生まれるより前に済ませている
自分の能力では手も足も出ない範囲まで固められていると知っていながらも、それでも納得が出来なかったヨハネス氏だったので
「先代の息子である自分がズヴィードン侯爵家を継げるように」
とあちこちに向けて手を尽くしてはいたようだが、ヨハネス氏は生憎政治的な勘や貴族的能力が元から欠けていた人物であったし、その上で
「ヨハネス氏がズヴィードン侯爵家を後継出来ないのもやむなし」
と貴族社会から思われるには十分な理由が他にもいくらかあったので、誰もヨハネス氏の無駄な足掻きに協力する人間は一人として現れなかった
そんな自身に不利な状況すら気が付く事も無く、彼は恥も外聞もなく足掻きも足掻きまくって所構わず引っ掻き回したせいで、最終的に自身の評価を更に落としたのは記憶に新しい
「ならば予定通りにですね、母様」
「そう致しましょう」
今後の予定を確認し決定したロルゴは自分に用意されていたお茶をさっさと飲み切り、一人寄宿舎へと戻って行った
因みにヨハネス氏の方は王城への定時出仕を理由に、朝一番にはズヴィードン家のタウンハウスを出ている
(旦那様はきっと王家の晩餐会の日までここに帰ってこないでしょうね)
茶会室で一人残されたザーラは、目の前のカップに残った茶を口に含みながら思考する
「王城での仕事が忙しい」と言いながらヨハネス氏はその実、実務能力の低さと若い頃の女癖の悪さが原因で閑職に置かれている、ここ十数年は定時退庁してその足でかつての恋人が所属している娼館へと入り浸っていたのは、妻であるザーラは当然知っていた
(エリカさんすらいなくなったお店なのにそれでも住み続けているだなんて、あの人の外聞感知能力はどうかしている)
エリカとは平民の女性で、ヨハネス氏が学生時代からの恋人であり、様々な理由によりエリカは貴族が運営している娼館に娼婦として所属していた
ちなみにズヴィードン家の先代当主が亡くなってからしばらくして、娼館特有の病気を拗らせて亡くなっている
(他に行けるところなんて無いのでしょうから、しょうがないのかもしれませんわね)
ヨハネス氏は恋人がいなくなってるのにも関わらず、今も変わらず習慣のようにその娼館へ自宅の様に通い詰めていた
そんな夫の不誠実な所業を知っていても、ザーラは誰に向けるでもない微笑みを静かに浮かべている
(その時が来るまで、真実の恋人すらいなくなったあの店で現実逃避しているが良いわ)
近いうちにヨハネス氏は社交界から追放されるだろうし、ついでに最後の拠り所でもあった娼館からも追い出されるだろう…と分かりきっているからだ
更に言えばヨハネス氏やロルゴが想像しているよりもずっと昔から、ヨハネス氏の追放計画は水面下で進められてきた事も
(旦那様の追放で持って、長らくズヴィードン侯爵家だけに掛かっていたこの歪みが無くなるのよ)
ザーラの手の中のカップから茶が無くなった時、雲の隙間から一筋の光が真っすぐに降りているのが窓からも見えていた
*
「貴女に良い縁談を用意したの」
今から二十年ほど前、デヴュタントを終えたばかりの若きザーラへ、ヨハネス氏との婚約話を実父が正式に持ってきた時にザーラの実母=ジャクリーネが言った言葉だ
「ヨハネス様は地味なザーラには勿体ないくらいに華やかで素敵な方なのよ」
ズヴィードン侯爵家先代当主とは似ても似つかない程に美丈夫だったヨハネス氏が、ザーラの実家であるティニング侯爵家に婚約の挨拶に来た時は、婚約者のザーラ以上にジャクリーネが満面の笑みを浮かべながら迎え入れていたのが今でも印象に残っている程の歓待ぶりで
「ヨハネス様がお相手ならきっと幸せになれるわ」
二人の婚約が決まり結婚間近になってからは、ジャクリーネはいつにないほどの笑顔を向けながらこれから嫁ぐ娘に根拠一つもない発言をしたものだが、若きザーラから見ても
「自分とヨハネス氏との結婚は決して幸せなものにはならないだろう」
と既に感じとるには十分な状況下にいたのだ
(ヨハネス様には婚約者云々の話以前に平民の恋人がいるような方ですのに…どうやって幸せになれと?)
『侯爵家の一人息子が平民の特待生と気の置けない仲になっている』
その事実…もとい噂話はザーラやヨハネス氏が通っていた貴族学校でも有名な話だった、勿論醜聞めいた方で
このヨハネス氏と言う男は昔から女受けが非常に宜しい見た目をしていたので、貴族学校入学した辺りには既に様々な女性関係についてやたらと浮ついた評価が付いて回るようになっていた
そんな折に特待生として平民の女性=エリカが入学したのである
彼の一目惚れかどうかは分からないが、それ以来ヨハネス氏はそれまでの軽薄な態度を捨て去り、貴族出身とは思えぬような事をいくつかしでかしながらもエリカにアプローチし続けて、漸く男女の交際へと関係を持ち込んでいた頃にザーラとの婚約話が出たのである
「またあのお二人くっついていらっしゃるわ」
「ここは公共の場ですのに恥ずかしくは無いのかしらん?」
「あそこまでくると、こちらが気持ち悪くなりそうだわ」
何せ彼の恋人達が結ばれるや否や、勉学の場である学校内で場所時間構わずにお互いの体を引っ付き合っていて、そんな二人の逢瀬を視界の端に見えただけでもつい顔をしかめたくなるくらいには非常に破廉恥で見苦しい状態だった
「あんな事が出来る殿方が自分の婚約者だなんて、考えるだけでも嫌だわゾッとする」
「本当に貴女のお母様はヨハネス様と貴女の婚約を喜んでいらっしゃるの?頭がおかしいのではなくて?」
「本当にあの人達はどうかしている」
ザーラの同い年で同級生だった(普段は夢見がちな)友人達ですら、ヨハネス氏という人間や婚約については素直に眉を顰める程度には気色が悪い相手なのに、ザーラの実母のジャクリーネだけが
「ヨハネス氏と婚約して「幸せな結婚」が出来れば幸せになれる」
と根拠の一つもない言い分を唱えるのだ
元から子供の様に夢見がちなジャクリーネとはソリが合わなかったザーラにとって、実母からの根拠のない幸福宣言なぞ最初から許容出来るものではない
むしろそんなジャクリーネを反面教師にして育ったので、この時点で一介の貴族として現実主義になっていたザーラから見れば、貴族学校で勉学や社交に勤しむべきところを平民との恋にうつつを抜かすだけのヨハネス氏や、実情を知る気も無く見た目の良さだけで闇雲に他に恋人がいる男との婚約を喜ぶだけの実母みたいな人間は、とても信用ならない相手だと確信するには十分なものだった
ヨハネス氏本人に対しては表では婚約者として無難で余所行きな笑顔を向けながらも裏では胡乱げに構えて警戒していたし、ヨハネス氏の美貌を神のように崇拝しているジャクリーネの見解については完全に無視を決めていた
そんな風に信用できない者達に囲まれながら、少しずつ若い精神が苛まれ始めていたザーラに
「結婚前にザーラには伝えておきたい事がある」
と、実父とズヴィードン侯爵家の先代当主がひっそりと伝えてきたのは
『ズヴィードン侯爵家の跡を継ぐのはヨハネス氏ではなく、ザーラの子にする』
という計画だった
先代当主からズヴィードン家とヨハネス氏に纏わる昔話をザーラに一通り説明を受けた後に
「ヨハネスは元からズヴィードン家を継ぐ権利は無いのだ」
「それでもまともに育ってくれていたら継がせる事も考えていたが、あれの母親のせいでそれすら叶わない男に育ってしまった」
「あれの中には嫡子の血脈も素質も何一つない」
まだズヴィードン家の籍にすら入っていないザーラを相手に将来の義父になる人が真実を伝えた後に、今度は実父の方からも
「だからこそズヴィードン家とは祖父の代で血が繋がっているティニング家の血を引いているお前の子でズヴィードン家の次代を繋ぐ必要がある」
と追加で互いの家の状況説明をされたのである
「当家の祖先の血脈を守る為なんだ、どうかズヴィードン家を助けると思って当家に嫁いで来て欲しい」
実父と先代当主が未成年の小娘であるザーラに対して、只管に頭を下げて懇願してくる事に驚きながらも
(まるで私が生まれるから決められていた出来レースのような婚約ね)
と踏まえた上で
「分かりました、私の内にあるティニング家の血脈でもってズヴィードン家の次代を繋げますわ」
彼女はズヴィードン家の未来の為に自分がすべき事を悟り、その上でヨハネス氏との婚約を了承したわけだ
そうして娘の婚約をやたら寿ぐだけのジャクリーネや、ザーラとの婚約を嫌がりつつもエリカとの恋の為に貴族の生活を捨てられないヨハネス氏には、当主達が用意した計画の一端すらも一切悟らせずに、両当主はズヴィードン家の嫡子にまつわる事項を確認し合い契約し、それらの書類はすぐに公的機関に正式に承認され収められたのである
(後は私がズヴィードン家の次代の子を産み育てるだけ)
そんな事をザーラは考えている間に、ズヴィードン侯爵家の一人息子ヨハネス氏と、ティニング侯爵家の長女ザーラは両家の了承の下で婚約を済ませて、ザーラが貴族学校を卒業して間もなく結婚したわけだ
婚約時に両家の当主間で密やかな契約が行われていたと知らない者達から見れば、ザーラとヨハネス氏の結婚は、学校卒業と共にヨハネス氏は学生時代の遊びに過ぎなかった平民の恋人と別れて、身持ちの固い普通の侯爵令嬢と結婚するという貴族内ではそう珍しくもない只の政略結婚に見えたであろう
しかしヨハネス氏は違かった
婚礼祝いの両家の晩餐会の夜
「お前のせいで愛するエリカと別れる羽目になった、お前の事など今後一切絶対に愛してなどやらん!」
初夜の準備の為に親族が集まる席から離れた途端に、新郎のヨハネス氏は自分の嫁であるザーラに(言ったからとて何の意味もない)捨て台詞を言ってのけた
平民であるエリカとの結婚など、発覚した当初から先代当主や親族達から反対されていたのにも関わらずにだ
(本当に状況判断が出来ない方なのね…でも私達の間に子が出来ないうちは、貴方はその愛するエリカにすら会えないのに気づいているのかしらん?)
貴族学校を卒業した後に、エリカは素行と身持ちの悪さを理由に実家を勘当され、そこから貴族の息がかかった娼館に拾われていた
かつては平民の出でありながらも、優秀な特待生として貴族学校に入学したのにもかかわらず
「勉学を怠り在学中に知り合った貴族子息と淫らな関係になり、子息に婚約者が出来た後も別れずに男女の関係を続ける女」
だと貴族学校を通して社交界に限らず世間に知られた事により、世間からの悪評価を恐れた実家の商家からは勘当され、身持ちの悪さのせいで誰一人として貰い受けてくれなかったが故に、日々の糊口をしのぐべく彼女は泣く泣く娼館にその身を置くしかなかったのだ
「彼女にはもう私しかいない」
かつての恋人が学校卒業後に市井の娼館で春を売っていると知ったヨハネス氏は、当時学生時代の旧友達に向けてそんな発言をしていたらしいが
「だからって今娼館に行ったら不味いだろうよ、このタイミングで昔の恋人の間に子が出来たら面倒だぞ」
「お前はもう結婚しているんだ、エリカの事は忘れて家を盛り立てる方を考えた方が良い」
「家が決めた妻を蔑ろにして昔の女に走ろうものなら、碌な事にならんぞ」
当然彼の友人達はヨハネス氏が成そうとしている事を察して、口々に止めてはいたらしい
婚姻して間を置かずに市井の娼館に通い市井に子種をばら撒く貴族の若者など、社交界においても信用が置けないのは当然だからだ
それでもしばらくは娼館に行こうとヨハネス氏なりに奮闘していたらしいが、いくら奮闘しても「上手くいかない」と自覚し始めた時期になって、先代当主より
「ザーラ殿との子が出来ない内は、お前はまともに外歩きが出来ないと思え」
と手厳しい忠告を受けたヨハネス氏は
(跡取りさえ生まれたらその辺りの事情が少しは緩和される)
とようやく認めた上で、一度は「愛さない」と伝えていたザーラと一応夫婦らしくそれなりに事を済ませた
そして結婚して一年半が過ぎた頃に二人の間には息子であるロルゴが生まれたのである
これを大いに喜んだのはロルゴの父親であるヨハネス氏や、娘の婚姻を喜んでいた実母…でもなく
「良く男孫を産んでくれた!ザーラ!」
「有難うザーラ殿!これでズヴィードン侯爵家は救われる!」
ズヴィードン侯爵家の先代当主を始めとした両家の当主達だったのが、産後直ぐのザーラの心に強く残ったものだ
(後はこの子を世に出しても恥ずかしくない子に育てるだけ)
この時のザーラは既にズヴィードン家の長年に渡る歪みの原因を知った後であったし、女主人としての自覚も芽生え始めており、夫であるヨハネス氏に対する依存などは少しも存在していなかった
更に言えば、結婚前に先代当主が責任を持ってザーラから生まれた子供に十分な当主教育をし、侯爵家の財産はキッチリと残し、ザーラの侯爵夫人としての名誉を守り続けると確約してくれていたのだから
後は社交界の暴れ馬ヨハネス氏の手綱をしっかりと握り、なあなあと宥めながら過ごして行けば、貴族同士の夫婦としてそう珍しくない流れになっただろうと言える
が、元より浅はかだったヨハネス氏が、今度こそ間違いなく貴族の家に生まれた者としてあり得ない行動に出たのだ
「私とお前が行うべきズヴィードン家に必要な仕事は終えた」
生まれたばかりの赤子を抱えたザーラに向かってそう宣言するなり、ヨハネス氏は学生時代に恋人だった平民の女=エリカが務めている娼館に、まるでそこに居住するが如く入り浸るようになったのだ
娼館に通いつめるのではなく、娼館に「住み」始めたうえで、かつての平民の恋人を真実の妻と呼び、王城での働きで得た収入全てを娼館での滞在費や恋人との衣食住に注ぎ込む
…という暴挙に出たのを見て、ザーラや先代当主だけでなく貴族社会や平民達ですら呆れ果て、ヨハネス氏が持ちうる幼稚な性分が一気に広まった
「エリカこそ真実の恋人」と世迷言を言い訳にして、家内や仲間内には王城にて仕事に勤しんでいるからと喧伝しながら、その実領政に励むでもなく、次代の子の教育をするでもなく、妻と社交に勤しむでもなく、王城での仕事の時間が終わるれば、すぐさま市井へと赴き娼館に帰りついては、かつての恋人を「妻」と呼んでのんきに日々を過ごし始める貴族の男
そんな取り繕いもせずにヨハネス氏は自身の欲望に塗れた行動を見て聞いて知った者達の口から噂が広がっていく
そしてその噂を元に平民達がすぐさま面白おかしな戯曲や喜劇(もちろん登場人物達の名は匿名である)の題材へと変えていき、誰もが知る「駄目な夫=ヨハネス氏」の代名詞が一気に周知されてしまったのである
そうなってしまえば今度は
「あんなに幼稚な方がうちにいないだけマシですわ」
とお茶会や夜会で愚痴るザーラに対して同情こそすれど、「夫に逃げられたダメな妻」と馬鹿に出来る者はいるはずもない
そんな事をザーラを相手にしようものなら、逆に世間からは「人でなし」と罵られるのが関の山
凡人の想像を超えたヨハネス氏の救いようのない暴挙のおかげでザーラは
「ダメな夫を切り捨てた婚家を取り仕切る賢婦人」
と言われるのにそんなに時間すらかからなかった程の効果があった
そうしてズヴィードン家の家政や領政、嫡子ロルゴの教育を先代当主や実家や親族、友人などの協力を得た上で、適度にこなしつつ結婚から十数年の時が経った今になって、ヨハネス氏の口からあの言葉が出て来たのである
(今更自分の外聞を取り繕うにしても、とっくに地に落ちておりますのに…)
先代当主の遺言発表の後は
「己こそがズヴィードン家の嫡子だ」
と世間に思い至らせる為だけにヨハネス氏は娼館暮らしを止めて、ズヴィードン家所有の屋敷に戻ってくるようになったが、家族どころか使用人ですらもう誰も彼の事をズヴィードン家の一員だとは考えていない
「しばらくの間だけで良いから、旦那様の事はお客様として扱いなさい」
というズヴィードン家の女主人であるザーラの言葉が無かったら、帰ってきた瞬間にヨハネス氏は屋敷から放り出されていただろう
そんな事も露知らずに彼はズヴィードン家のタウンハウスを拠点にしつつ自領へと足を延ばしたり、妻のザーラを引き連れて社交の場へと戻ろうとしたが、自領の役人はヨハネス氏の名は知れど顔すら知らなかったし、以前まではザーラをエスコートしていたのは義父として先代当主が、先代が亡くなる頃にはロルゴもデヴュタントを終えており、母親のザーラの臨時パートナー役として社交界デビューは済ませていた
そんな隙の無い布陣を前にして、ヨハネス氏は表舞台でザーラの隣に立つことすら許されるわけがない
ならば娼館にいるエリカを身請けして共に社交界に戻ろうとしても、十数年も娼館に住み続けたせいで彼自身の貯蓄が碌に残って無かったので、高額な身請け金を用意するなど夢のまた夢、あげくに娼館特有の病気を拗らせ体が弱っていた晩年のエリカに無理をさせたせいで、そのまま儚くなってしまったらしい
妻も恋人も社交界でのパートナーにするには無理と分かり、年を取っても端正な見た目を武器にして新たなパートナーをと自分に都合の良い人員を探してみても、貴族側の人間は当然ながら誰も彼の思惑なぞに付き合ってくれやしない
「こんなはずでは…」
学生時代こそ端正な見た目のおかげで色んな女性から沢山の秋波を貰っていた経験があったからこそ、ヨハネス氏は十数年かけた自身の凋落ぶりに気づき、落ち込み、現実を受け止めきれなかった
されど十数年間、仕事場と娼館を行き来していただけの夢見がちな男に手を伸ばしてくれる者は誰一人残っていなかったのを実感した上で、ここで反省し心を入れ替えてそのまま大人しく真面目に生きていれば、彼はもう少しだけマシな人生を送れていたかもしれないのに…
運命の神は間違いなくヨハネス氏を味方したのだ
この時、味方した運命の神とやらはきっと「どうしようもなく愉快で滑稽な」話をお求めだったのだろう…と思えるようなとんでもないタイミングで奇跡が起きてしまったのだ
「ヨハネス様の名誉は私が取り戻しますわ」
ヨハネス氏の美貌を心底崇拝していたザーラの実母ジャクリーネが、世間の冷たい風に晒され落ち込んでいたヨハネス氏に向かって、都合が良い言葉をかけながら手を差し伸べるという、非常に杜撰な奇跡が起きてしまったのである
その奇跡が原因で
『ヨハネス氏の真実の結婚』
と言う題名の
「ヨハネス氏と言う名の主人公が様々な恋愛模様に翻弄された末に、完膚なきまでに貴族としての矜持を叩きのめされ、みじめに落ちぶれ、最後は一人消えて逝く半生」
をなぞらえた滑稽で反面教師な意味を含んだ喜劇が、この世界の三大喜劇の一つとして後世まで名が残る事になってしまうとは、この時は誰一人として想像していなかったのだ
*
「ヨハネス様」
ズヴィードン侯爵家を継ぐべく、ヨハネス氏は一人公的機関や友人達の家を訪ねまわっていた時に、道端でぼんやりと馬車を待っていると不意に名を呼ばれたので振りかえ見れば、そこにいたのは馬車の窓から顔を出す懐かしい人物の姿があった
「ジャクリーネ様?」
ロルゴの生誕の祝いの場の時から、久しく会っていなかったザーラの実母(ヨハネス氏にとっては義母)のジャクリーネが心配そうな顔でこちらを見ていたのだ
「これはこれは、お久しぶりで…」
「ヨハネス様、私は貴方様の味方ですわ」
「お久しぶりでございますなぁ」と嫌味な声音を投げかけようする前に、ザーラの味方であるはずのジャクリーネが思わぬ言葉を告げてくる
「どうか私の話を聞いては頂けませんか?」
そう言ってくるジャクリーネの姿は、まるで今は亡きエリカが学生時代に「お慕いしております」と若きヨハネス氏に縋るように交際を求めてきた時の表情に良く似ていた
(罠…とは思えないな…)
若い時は幾度となく女性から声をかけられ秋波を送られる事が多かったヨハネス氏は、ジャクリーネの心配そうな母性めいた表情の向こうに微かな恋慕の感情がうっすら込められていることに気づいている
(そう言えば…この方からはこれまで悪し様に扱われたことは無かったな)
若い頃はエリカとの交際を邪魔をするザーラとの婚姻を推し進めてきた人物の一人だったので、長らく気に食わなかったものだが、ザーラと結婚してからは娘のザーラや孫のロルゴよりも、義理の息子であるヨハネス氏の方に何かと親身を寄せてくれていたのを思い出していた
「お疲れでしょう?どうか当家でお休みくださいませ」
「ジャクリーネ様」
ザーラに似ているはずなのに、何故か先日亡くなってしまったエリカの微笑みを思わせるジャクリーネの苦笑した表情を、ヨハネス氏はぼんやりと眺めていると
「夫は仕事で夜まで帰ってきませんので…」
ヒソリと小声で義理の母親から言ってきたのだ
ヨハネス氏とティニング侯爵の間には確執があるのを知ったうえで、家の主人が居ないタイミングでティニング家に招待してくる彼女の真意をすぐに悟り
「ではお義母上のご招待とあらば…」
ヨハネス氏は義母から請われたの理由にして、ティニング家の馬車へと乗り込む
そして義母に誘われるがまま、自身の妻を隣に置かずに妻の実家であるティニング家の玄関を通ったヨハネス氏を待っていたのは、ジャクリーネの付きの使用人とティニング家のお抱えの商人であった
「我が夫に知れると邪魔をされるかもしれませんので」
と言いながらジャクリーネは、ヨハネス氏が身に着けていた(家に帰っていなかったせいでここ2、3年は買い換えていない)古ぼけたジャケットを控えていたメイドに受け取るようにと仕草一つで指示を出す
「ヨハネス様にこの様な古着を着せて平然としている我が娘の所業は、到底許せるものではございませんわ」
そんな恨みの様な言葉を吐きつつ、今度はお抱えの商人達が黙ってヨハネス氏の体の寸法を測らせ始めた
「ジャクリーネ様、これはどういう…」
まるで下にも置かれぬ状況に戸惑うようなフリを続けながらも、ヨハネス氏は半ば確信めいた質問をジャクリーネに投げかけると
「娘や夫が貴方様に行っている仕打ちを許せぬ者がここにいるというだけですわ」
ジャクリーネはそう返して、デザイナーとああでもないこうでもないと新しい服のデザインを指示をしている
(これは随分と良い風が自分に吹いてきたぞ)
敵陣にまさか自分の支援者がいるとは思っていなかったヨハネス氏は、表では戸惑うような顔を見せながらも、心の内ではしめしめと舌なめずりを始める
そして慌ただしくもしめやかに体の計測が行われ、一息をつこうとお茶と軽食が用意された茶会の席についた時に、ジャクリーネから
「貴方様は尊き血を引いておられる方です」
と予想もしていない言葉を言ってきたのだ
「決して地味で錠の一つもない上に分別すらもつかないような悪女の様な娘から悪し様に扱われるようなお方では無いのですよ」
まるで親の仇の話をしているかのように怒りが滲んだ表情で、ヨハネス氏が今の今まで知らされていなかった過去と真実を伝えてきたのである
*
「あれは…ズヴィードン侯爵家のヨハネス…様です…よね?」
そして幾日か時が過ぎ、王国中の貴族達が集う王家主催の夜会の場にて
「どうしてティニング侯爵家のジャクリーネ様をエスコートなさっているの?」
「ジャクリーネ様は確かにザーラ様の母君で彼にとっては義理の母親にはなりますが…ねぇ?」
新しく煌びやかな衣装を纏ったヨハネス氏は、義母のジャクリーネを脇に置いて堂々とした佇まいで夜会に現れたのである
同様にザーラの方も、ズヴィードン家を継承したロルゴの後見人として夜会に参加しており、主催の国王と王妃に挨拶を終えて、他家の主人達にズヴィードン侯爵家の当主になった息子のロルゴの紹介をしていた
ロルゴを連れて各方面へ挨拶回りをしていたザーラの姿を見つけるなり、ジャクリーネをエスコートしながらヨハネス氏はツカツカと歩み寄ってきてから
「君との結婚生活は私にとって不幸だった」
ザーラに向かって悪し様な言葉を投げかけてきたのだ
「だからここで婚約した過去そのものを破棄し清算したうえで」
第三者の誰が聞いても独りよがりで頓珍漢な言い分を、王家主催の夜会という最上級の公共の場にて平然と言い放ってくるヨハネス氏の姿に、ザーラを始めとした周囲の人間は揃って唖然とした表情になり眺めている
「ザーラとロルゴの二人をズヴィードン家から追放する」
何故か聞いている方が恥ずかしくなるくらいに、幼稚で自分勝手な文句をつらつらと自信満々に述べるヨハネス氏の隣には、ザーラの実母のジャクリーネが年甲斐もなく着飾りながらニコニコとまるで恋人のように寄り添い立っているのを確認してから
「お話が途中でしたのに切ってしまって失礼を致しましたわ」
承継の役目を終えていたザーラは、唖然とした表情からすぐに白けた顔に変えて脇で騒いでいる存在を無視する
「失礼、私の方もお呼びでもない方が紛れ込んでいたのを見つけのでつい驚いてしまいました」
貴族学校を卒業し成人したズヴィードン侯爵家を正式に継いだロルゴも同様に社交を続け始めた
「私の話を無視するのではない!不敬だぞ!」
「貴女方の旦那様とお父様からのお話ですよ!ちゃんとお聞きなさい!」
無視されたことに気づいて尚も偉そうに騒ぎ立てているヨハネス氏と、意図的に存在を無視されているヨハネス氏を庇うジャクリーネを丸ごと無視しながら、ザーラ達はまた他の貴族達と歓談を続けていく
「いやはやロルゴ様がズヴィードン侯爵家を継いだからには安泰ですな!」
「こんなに立派になられて先年亡くなられた先代様も、天の国でさぞかし喜んでいらっしゃるでしょうね」
「私の話を聞けっ!」
この場だけでなくズヴィードン侯爵家内にすらヨハネス氏の居場所はないとばかりに、ロルゴのズヴィードン侯爵家継承を寿ぐ他家の主人達の声を聞いて、いよいよヨハネス氏は顔を真っ赤にして叫んだ
「私ヨハネス・ズヴィードンこそ先代ズヴィードン侯爵家の遺児として侯爵の家を継ぐのだからな!」
二人だけでなく他家の貴族達にまで無視されていると分かり、今度は怒りに任せて彼の声だけがどんどん大きくなっていく
「お前達がやった事は家の簒奪なんだ!」
「貴女達の主人はヨハネス様なのよ!」
大広間の片隅にて場に相応しくない大声で喚くヨハネス氏につられるように、ジャクリーネまでもが淑女と思えないほどの喚き声を上げているが、ザーラや当主達はそれらを完全に無視しながら自分達に必要な分だけの社交を続けていく
「私は絶対にそれを許さない!慰謝料だって要求してやる!」
「ヨハネス様に向けていた今までの愚行を謝りなさい!」
王国中の貴族達が集まる王家主催の夜会の場にて、国王陛下もおわす王城の大広間の一角に自分達がいる事を忘れて
「私を無視するとは無礼なんだぞ貴様ら!本当なら私の血は隣国の…」
とヨハネス氏が言いかけたタイミングで
「なっ!?何をするんだ貴様らっ!離せっ!んぐっふがふgっ!」
「離しなさい!許可なく勝手に触らないで!んなっ降ろしなさい!」
彼が騒ぐ姿が余りにも無様で邪魔だと判断したのだろう、ヨハネス氏やジャクリーネの周りには警備の騎士達が一斉に集まり、ヨハネス氏の腕を後ろ手に掴み上げ、ジャクリーネは担ぎあげられて会場から引きずり出してしまった
「私の「元」夫がこの場を荒らしてしまいましたね」
広間から外へと摘まみだされた二人の姿が見えなくなってから、ザーラは品が落ちない程度に苦笑しながら感想を述べると
「ザーラ様は何も関係ございませんよ、何せあの方は「元」夫なのでしょう?」
「一方的に突っかかってくるような方など、どう躱してもそう簡単には避けられませんからな」
「本当に小さな虫の様に羽音だけを鳴らして煩わしい方々でしたね」
先ほどまでヨハネス氏達を無視して歓談していた他家の当主や夫人達が「気にするな」とばかりに笑顔で流してくれたので、ザーラは柔らかな微笑みを浮かべた
「それにしてもズヴィードン家の先代御当主様は立派な方でしたのに、ヨハネス様はどうしてあんな風にお育ちになってしまわれたのかしらね…」
「ヨハネス氏があんな風になったのは、先代ご当主の奥方様の教育によるものだったって聞いておりますわよ」
「ああ…あのヨハネス氏をお産みになったと言うマーシャ様ね…」
「ヨハネス様のお母様世代で…マーシャ様との名の方は…まさか隣国の…様と浮名を流した方々のお一人で一番有名なあのマーシャ様ですの…」
「ええ…そのマーシャ様もそのお一人でしたわ…そのせいで当時は二国間で相当問題になったとかで…」
「なのにマーシャ様だけが国交が拗れた後も「隣国の…様のお傍に行くのだ」と社交の場でも散々騒がれたそうよ…それで余計に噂が広がって…」
「未婚の令嬢としてマーシャ様に傷がついたところを、国王陛下とズヴィードン侯爵の温情で何とか嫁入りが叶ったと聞いていましたのに…」
「ご結婚なされた後にもマーシャ様を何回かお見かけしましたけど、ずっと先代御当主様を嫌っておいでで…」
「ズヴィードン侯爵家へと嫁入りになった事を亡くなる時まで恨んでおられたとか…」
「そのくせマーシャ様を捨てられたはずの隣国の…様をずっとお慕いしていらして…ねぇ?」
「母親として不出来なマーシャ様からの教育のせいでヨハネス様はあのような方になってしまわれたと…」
「先代御当主様も相当教育には力を入れておられたのに…不憫な」
「ズヴィードン侯爵のご恩を仇で返すだなんて、マーシャ様と言う方は随分と情の無い人でしたのね…」
「ジャクリーネ様は隣国の…様の食指にはかかりませんでしたが、当時から…様の美貌に随分と惑わされておいででしてなぁ…」
「もしかして今日の夜会でヨハネス様からのエスコートを受けていたのは…」
「なるほど…確かにヨハネス殿と隣国の…様の顔立ちは良く似ておいででしたわい」
「だから隣国の…様に縁があるヨハネス様をお庇いになっていらしたのねぇ…」
久方ぶりに社交界に姿を見せたと思ったら、禄に挨拶する暇も無く会場から追い出されていったヨハネス氏やジャクリーネに関わる噂や事実背景が掘り起こされるようにヒソヒソと囁かれていく
そんな密やかな声がチラホラ聞こえる中で、ザーラとロルゴはヨハネスが出された扉の方を一目見た後に、自分達の社交を続けたのであった
*
「ここから出せ!」
「これは不当な拘留ですわ!」
警備の騎士達によって王城の貴族牢へと連行されたヨハネス氏とジャクリーネは最初こそと散々喚いていたが、二日も放っておけば静かになった
「いやはや、こうも簡単に餌に喰いついてくれるとは思いませんでしたよ」
「しかも二人も…とは…ねぇ」
二人が口を利く体力が無くなりかけたタイミングで、ズヴィードン家当主のロルゴとティニング家当主が揃って面会に来ると、格子の向こうにいた二人はなけなしの体力を振り絞って駆け寄ってくる
「お前はズヴィードン侯爵の地位に相応しくない!お前の血脈など私は認めない!」
「貴方は知っているはずでしょう、ヨハネス様の血には隣国の…あの方の高貴な血が流れているのを!」
さきほどまで静かにしていたのが嘘のように喚き出す二人の拘禁者の様子を見て、面会に来た二家の当主達は呆れた様な表情に変える
「私に相応しい地位と名誉を!」
「彼の美貌と血脈に相応しい衣装を用意して何が悪いのよ!」
そんな言葉をギャーギャーと見世物の獣のように騒ぐ二人が聞いていようといまいと、ジャクリーネの夫であるティニング家当主が口を開いた
「ああ、隣国の…様ね。あの方なら随分前に毒杯を賜ってお亡くなりになっていらっしゃったなぁ~」
「「え…?」」
「君達は知らなかったのかい?」
ティニング家当主の声は随分と軽く明るかったので、格子の向こうの二人は揃って何かを聞き間違えたような気分になって、ポカンとした表情でこちら側を見た
「ほらあの御方は若い時分にこの国に留学に来た際に、とても端正だったご自分のお顔を利用して随分と方々に不興を買う行いをしておられただろう?どうも隣国に帰られた後もその悪い癖が抜けなかったらしいね」
「え…?」
「そのせいでこの国と隣国の国交は一時的に拗れてしまったし、隣国に限らず周辺諸国には泣きを見るご令嬢やご家族がそれなりにいたそうだ」
「あ…」
「中には尊き立場におられる方の婚約者なども被害に遭ったとか無かったとか…」
「あぁ…」
ヨハネス氏の方は未だにティニング家当主の言わんとしている事に気づいていないようだが、ジャクリーネにとっては自分がまだ若かった頃の話だったので、当時の事を鮮明に思い出してきた様だ
「彼の方は隣国の王家と血が繋がる御方だったので最初こそ後援もありその御身は守られておりましたが、それでも盤石ではなかったので最後の後援者が亡くなられた時にそれまでの責任を負うという事で国政から離れられた上に、隣国の王より毒杯を授かったそうだ」
「そ…そんなあの方はもう…」
「まあ隣国の…様がその杯を口にした事で相応の責は無事に果たされたので、以来ココと隣国との国交も落ち着いた…というわけ、まさにめでたし、めでたしなお話だ」
「もう見る事も叶わない…なんて」
若い頃から姿は見られずとも長く思慕を募らせてきた初恋の君が、既に刑に処されこの世にいないと知ってしまったジャクリーネは子供のように泣き崩れて蹲ってしまう
「私と婚約して結婚してからも君が隣国の…様を慕っていたのは知っていたし、それぐらいならしょうがないって許していたんだよ」
「貴方…」
欲望一つで信用を失った愚かな妻の姿を見るティニング家当主の目は冷たいものだった
「でもね、ヨハネス様をあの方の代わりにして自分の欲を満たそうとするのはどうかと思うんだ」
「あ…」
「ザーラの結婚は私達にとってはズヴィードン家の血脈を守る為だったけど、君のは自分の欲望を満たす為だけに実の娘をヨハネス様に差し出していただろう?」
「いえ…私はあの子の為に…」
「ヨハネス様があの方でないように、君とザーラだって別人なんだよ。そんな簡単な事も考えもしないで娘夫婦をあの方と君の恋愛の仮想として見ているのは正直どうかな?って私は思っている」
「やめて…お願い…」
「自分の役を担っているはずのザーラが、自分が思うように動いてくれなくてずっと憤慨していたね、一応は淑女の常識に当てはめた風に文句を言うだけだったけど」
「それ以上言わないで…」
「結局それだけでは我慢できなくて君は自らヨハネス様を求めて、家の金を使い込んで…このザマだ」
「貴方…ごめんなさ…」
「君が家の金をヨハネス様の衣装などに使っていたのはとっくの昔に把握していたよ」
「ごめんって言ってるでしょぉ…」
「金で買ったヨハネス様の隣は楽しかったかい、ジャクリーネ?」
「嫌ぁぁぁ…」
秘めていた心情を長年連れ添ってきた夫に無理矢理暴かれたせいで、いよいよ頭を抱えて泣き続ける妻の姿を冷めた目で一瞥したティニング家当主は、呆然としているヨハネス氏の方を見て
「そんな訳で君は隣国の…様の血の繋がりがある事を公共の場で口にしてしまった訳だが」
「え…あ…はい」
「彼の方は高貴な身の上だったとはいえ最後は毒杯を口にされている…そんな御方と君は関係者だと言ってしまった訳だ」
「あ…」
「君とて貴族として教育を受けているのなら「連座」という言葉を知っているよね?」
面会人側の意図に気づいたのだろう、ヨハネス氏はポカンとした表情からサァーっと青い顔になっていく
「そんな…一度だって会っていない父親の「連座」になんて…」
ヘネヘナと力が抜けたように床に座り込んだヨハネス氏の姿を、ロルゴは呆れたような表情で眺め口を開く
「君がズヴィードン家先代当主の教えをしっかり学んで、紳士として真っ当に育っていれば誰も君の事を実の父親と「連座」にしようなんて考えもしなかっただろうね」
「 … 」
「しかしそんな皆の願いは叶わず」
ティニング家当主の隣にいるロルゴも声をかけてきた
「とても残念な事ですが亡くなる時まで隣国の…様へ恋慕し続けたマーシャ様の影響により、かつての貴方も複数のご婦人やご令嬢に声をかけては気持ちを弄んでは各方面の方達に迷惑をかけておられた、その昔隣国の…様がなさっていた事と似たような…ね」
「なっ!ロルゴも知っていたと言うのかっ!?」
まさか息子のロルゴまでもが
「隣国の彼の方とヨハネス氏の間には血の縁がある」
という事実を知りえていた事が分かり、ヨハネス氏は声を上げた
「ええ、お祖父様から色々伺っておりますよ。例えば貴殿のお母様マーシャ様は婚姻前に隣国の彼の方とわりない仲となり更には婚前交渉が行われたので、貴殿を腹に宿されておられたとか…」
「それ…では…私は父上の子ではないとは本当に…」
「当時お祖父様の婚約者の方が結婚直前に流行り病で亡くなられてしまったので、いっそ結婚も家督も両方諦めてしまおうかと思っていた所に、新しく決まった婚約者こそが誰も受け取り手がいなかったマーシャ様だったそうです。因みにお二人が結婚してから二月もしない間に男の子が生まれたそうですよ?」
淡々と感情すら見えない声音で過去に起きたヨハネス氏の誕生に関わる事案を口にする息子の姿を見て、ヨハネス氏は段々とえも言われぬ恐怖を覚えていく
「結婚もしていないのに腹が大きくなっていたマーシャ様を見て、隣国の彼の方は「そんな女は知らぬ」と常々おっしゃっていたそうですが、その腹から生まれた子はどうにも彼の方にそっくりな顔立ちをしておられたようでしてねぇ?」
「その時点でマーシャ様も隣国の彼の方の事を諦めて、素直にズヴィードン家の人間になればよろしかったのに、夫には目も向けずに今度は彼の方そっくりに生まれた男子にそれはそれはもう依存されておいでだった」
当時のズヴィードン家の中の様子を思い出したのか、ティニング家当主は懐かしむようで憐れむような視線をヨハネス氏に向けた
「至らぬ母親の教育のせいで君が堕落していった事はお労しいなぁとは思っているよ?」
「確かに生まれてきた子はお祖父様のお子では無かったですが、それでもマーシャ様からの依存に溺れず真っ当にお育ちに成れば、貴殿はズヴィードン侯爵の地位につけるつもりも少なからずはあったそうですし」
「なのに君ときたら、幼い時分から今の今まで母親のマーシャ様の言いなりに自分の風体を盾にして、責任を取るつもりもなく欲望のままに方々のご令嬢へとお声をかけられていたね」
「お祖父様はそんな色狂いの貴殿の姿の中にかつての隣国の彼の方の面影を見い出したそうです、そして自分の子とは思えないまま貴殿にズヴィードン家を継がせる事を諦めたそうですよ」
「そんなぁ…それでは父上はとうの昔に私の事など…」
今にも泣きそうな顔で面会の二人を見上げるヨハネス氏に、ティニング家当主とロルゴは諦めるように溜め息を吐く
「君が何と言おうと、嫁入りしたザーラの方がズヴィードン家の血が近いのは事実だ。何せ私とズヴィードン家の先代当主は従兄弟の関係にあるからね」
とティニング家当主はズヴィードン家の関する最終宣告をし
「僕の父親の血が何であろうとティニング家出身の母様の血を引いている時点で、僕はズヴィードン家を継ぐ資格があります」
ロルゴもそれに続いた
「更に言えば腹に他国の男の子を宿したマーシャ様と彼の結婚が決まった時点で、彼女の最初の子にはズヴィードン家の継承権がない事はすでに当時の王も認められていたんだよ」
「彼の方がこの国や隣国で好き勝手していてもそれなりに生きていられたのは隣国に強力な後援者がいたからってだけ、そして後援者が亡くなれば彼の方はすぐに毒杯を頂くだろうと、この国の人間ですらとっくに予想もついていた」
「腹の子の父親は近い未来母国で毒杯を授かる事が決まっていたから、君には意図的に実の父親の名は教えられなかった、皆が黙っていれば君はズヴィードン家預かりの子供だったんだから」
二人から実の父親の末路の話がもう一度出てきたので、ヨハネス氏の脳裏にはまたも「連座」という単語がのしかかってくる
「君の血の由来を教えなかったのは父親の「連座」に巻き込ませないようにするためだったのに、君は実の父親と似たような人生を歩んだあげくに、その血の由来を公共の場で口にしたんだよ、この意味分かる?」
「お祖父様世代や、より上の方々の中には、毒杯を賜った隣国の彼の方を今も恨んでいるお方がそれなりにいらっしゃるのを貴殿は一度も耳にした事はなかったのですか?」
「まぁ~知らなかったのはしょうがないよ、意図的に事実を隠したのはこっちだしね。それでも君の今までの行いは、老人方がご厚意で表に出さないようにしていた地雷を掘り起こしたも当然ってわけだから、これからはどうなることやら~」
呆れたように父親を見るロルゴと軽やかな声でヨハネス氏のこれからの苦難を口にするティニング家当主
「あ…あぁ…」
ヨハネス氏の脳裏には、幼少期から学生時代にエリカに会うまでの間、出会ってきた少女や令嬢達から送られてきた秋波を弄ぶ度に、こちらを睨んできた彼女らの親兄弟達の顔で一杯になっていた
「嘘だ…たかがあれぐらいで…人一人を殺すなんて…」
ズヴィードン家の嫡子継承権を訴えていた時以上の、生存すら危うい状況が我が身を襲い始めていると気づいてしまったヨハネス氏は歯をガタガタと震わせて下半身を濡らした
「そんなどうしようもなかった君でもね、元は実の父親に捨てられ、母親に利用されて、義理の父親に匙を投げられていた可哀想な子供なんだよ。生まれは誰にも決められない、そんな可哀想な君だからこそ私から最後に一つアドバイスを上げよう」
ニッコリと微笑みながらティニング家当主は言葉を続ける
「二度の自分の中にある彼の方の血脈について口にしない事、そしてマーシャ様のお子であった事を忘れて生きていきなさい」
「貴殿を司る全てを捨て去れば、今後は誰も貴殿を彼の人の子として追い回す事は無いはずです」
二人の面会人はそれはそれは慈悲深い笑顔で、ヨハネス氏にたった一つの命を守る助言を与えてくれたのだった
*
その年の王家主催の夜会が終り、社交シーズンが幕開けしたわけだが
「ねぇ知ってらして?あのヨハネス様が貴族位を破棄されたとか…」
「え…ズヴィードン家の継承を諦めたのではなくて?」
「私が聞いたのは長い不倫の末に、ヨハネス様の有責で奥様と離婚されたとか…」
「そうそう浮気相手が奥様の実のお母様だったとか」
「ええ?娼館で働いていた平民の女の方でもなく?」
と…あちこちのお茶会や夜会、紳士クラブなどでちょくちょく出てきた話題と言えば
ズヴィードン侯爵家の若き当主に婚約者がようやく決まった事
見目が大変素晴らしかったとある男性貴族が浮気による男性有責で妻と離縁をしてから貴族位を放棄し平民になった事
別の夫婦の妻が比較的若い男と不貞をし、男と共に夜会に行くための服を作ろうと家の金を使い込んでいた事が発覚したため、妻の有責で離縁してから妻を市井に放り出した事
などなど、振り返ってみれば何ら珍しい話題こそ無かったが、当シーズンの社交場では非常に有難いネタの一つとして扱われることになったのである
そうして貴族の社交場からヨハネス氏に纏わる話題が飽きられかけた頃に、平民街にある大衆向けの舞台での初披露を皮切りに、とある喜劇的な演目が流行り始めた
その演目のお題とは
『ヨハネス氏の真実の結婚』
主人公の貴族の男が、元から持ち得ていないはずの生まれた家の嫡子権を得る為に、孤軍奮闘しては失敗をし続け、合間に妻の目に隠れて平民の娼婦を愛人にしたり、愛人とは別にとある未亡人と良い仲になったりしつつ、最終的に己の出生の秘密を知ったせいで高位貴族に殺されかけて、貴族位を捨てて恐ろしい貴族社会から這う這うの体で逃げ出し平民として生き延びる話で
主人公を演ずる壮年の男性役者の特徴が物語の男性主人公そのままで、主人公の心情を表す時はまるでその場面を直接見て来たかのようにリアリティに溢れる素晴らしい演技だったらしい
「実はその役者こそが物語の主人公であるヨハネス氏本人ではないか?」
と舞台を見た観客などから何度も囁かれたこともあったが、壮年でありながら麗しい見た目の役者とは、全然釣り合わない我儘な老女を妻として扱いつつも苦労している様を見る度に
「物語の中の我儘なヨハネス氏と苦労人なあの役者は全くの別人であろうな」
と思われては噂は立ち消えてを繰り返していったのである
*
「貴女の元旦那様って役者が天職だったのね…」
「あの舞台を見た時、私もそう思ってしまいましたわ…」
ザーラにとっては貴族学校の頃から付き合いが続いている友人、フランソワとジリアンが貴族向けにアレンジされた流行りの舞台を見に行ったらしく、その舞台脚本の関係者に縁があるザーラに感想を述べている
「私ねヨハネス様に対して、以前から貴族としてどうかと思っていたところに、先代の御当主が亡くなってからは継承権が欲しいからとなりふりも構わなくなってきたものだから少し怖いと思っておりましたのよ」
「私もよ、その上で義理のお母様と人生を共にすると決めて、駆け落ち同然にお二人揃って平民になったって聞いた時はねぇ~どうしてそんな事になったのかと思いましたわ」
「「それでも貴女にとっては旦那様だったから、とても大きな声では言えなかった」」
と、ヨハネス氏とは赤の他人である友人二人からも、ザーラの元夫に対してずけずけと意見というか半ば文句めいた言葉が出てくるが、ザーラは少しも気にもならないし、友人達もザーラの長年の苦労を知っているのでヨハネス氏に対する配慮などは少しもなかった
「それでもねヨハネス様は平民になった途端、別人のように真面目になられたみたいでびっくりしましたのよ?」
「ヨハネス様を追いかけたジャクリーネ様は平民暮らしには慣れてなくてそれなりに苦労をされているみたいですけど、ヨハネス様の方は役者している時の方が生き生きしてらしてねぇ」
友人達はヨハネス氏が主役を演じている時の姿を思い出したのだろう、惚れ惚れするように二人が溜め息を吐いたのを見て、ザーラはつられるようにクスリと小さく笑った
「まぁ、ヨハネス様も今は役者として成功しているようですし、こちらとしてはそこそこ資金回収が出来ましたからね、これで良しとしましょう」
「「ザーラ…」」
カップの中に少しだけミルクを入れて、静かに淡い色に変わっていく中身をザーラは眺めたまま
「本当にこんなに彼が役者として成功してホッとしているのよ。スヴィードン家はヨハネス様のせいで間違いなく一度はダメになりましたし、先代当主様も私もロルゴも随分と長い間苦労したもの、でもこれで全部終わり、私やっとスッキリしましたわ」
肩の力を抜けるようにザーラは本当に深いため息を吐いた
「少し前までならこんな風には思えなかっただろうとは、自分でも分かっているのよ」
社交シーズンが始まる直前、片手で数えるくらいしか行われなかった家族三人が集まった朝食の時にヨハネス氏は言った何気ない言葉を思い出してしまう
『私の頃にもその様な流行があれば良かった』
己が自由恋愛が理由の婚約破棄を追い求めたヨハネス氏の言葉は、ザーラがそれまで大事にしていた全てを蔑ろにしたも当然で、元夫に対して怒りすら沸かずに、まるで色があせたように無関心へと切り替わったものだ
「ヨハネス様やマーシャ様のような方がいなかったら、きっとズヴィードン家は今よりはマシな状態でしょうし、彼が娼館に使い込み過ぎたせいで私の実家のティニング家からも無駄な資金投与をする事は無かったですからね」
「「 … 」」
「ロルゴだって自分の婚約者を決めるよりも先に侯爵家を継がなくてはいけなくなったのに、あんな舅がいる家だと知った途端に婚約者候補がどんどん消えてねぇ…苦労したわ」
カップの中の白と琥珀色の渦を馴染ませるようにスプーンで軽く回す
「それなのにヨハネス様はずっと欲しがるばかりで私達には何も返してくれなかったのよ、家からいなくなってから最後の最後に余興めいたお返しこそございましたけど」
そしてザーラはカップに口すらもつけずに微笑を浮かべながら、フランソワとジリアンの方を向くと
「子供って大人以上に自分の家の中の出来事を冷静に見ていて…だからロルゴは旦那様を一切尊敬しなくなっただけなのに、そんなロルゴに対してもヨハネス様はずっと「くれくれ」と言うだけで反面教師以外は何も与えやしなかったのよ」
ザーラの静かな声音が長年の疲れからくるものなのか、責務を終えた安堵からくるものなのかは、友人達は分からなかったが、それでも彼女の顔にずっと住んでいた眉間の皴の溝が小さくなっているのには気づけた
「あの自分だけが都合良い事しか考えないヨハネス様の思考もマーシャ様の教育の賜物なのかしらね」
そう言いながらザーラがカップを口にした時
「そうかもしれないわね、だからこそマーシャ様から続いた負の遺産をこのタイミングで止められて良かったと思うわ」
「フランソワ…」
フランソワが嬉しそうな声で言えば
「それもそうね、確かにロルゴ様はヨハネス様の血は引いていらっしゃるけど、ほとんど貴女のご実家のティニング家の子という感じ育ちましたものね」
「ジリアン…」
ジリアンもそれに合わせて言葉を続ける
「当主になる素養が無いヨハネス様を父親に置いていたとしても、ロルゴ様は間違いなく気高く賢い子よ」
「貴女からの賢くて素晴らしい献身が無ければ、あんなに素晴らしい子には育たなかったでしょうね」
「それからティニング家からの関与とか先代御当主様方の御助力もあったのも功を奏したのよ」
「これまでの苦労は何にせよ、今のザーラやロルゴ様が幸福ならこちらとしてもとても嬉しいわ」
と長年の責務を労わるように友人二人はザーラへ祝福と慰労の言葉を贈ってくれた
(そうね…ようやく私がやるべき事は終わったのね…)
「事が終った」と気づいた途端、長年の疲労が一気に圧し掛かってきたような気がしたが、それでも長年苦労してきたザーラやロルゴの今の幸福に対して周囲の人達が喜んでくれているのは、素直に嬉しくも思えた
(それにしても…)
ザーラは遠い昔のようにも、ほんの最近のような気持ちで、ヨハネス氏と結婚した直後の事を思い出す
(結婚した直後に「君の事を愛するつもりは無い」って言ってのけてたのはヨハネス様の方だったのに、どうやってそんな方を相手にして私の方からは何らかの愛情が贈ってもらえると勘違い出来たのかしらね?)
こうして年齢を重ねてからあの時の事を考えると、ヨハネス氏は暴言を吐きながらも無意識に妻になったばかりのザーラの反応を伺っていたのだと思い至れる
(旦那様が私達に対して最初から情が無かったように、こっちだって家族の内に旦那様の存在が最初から無かったのは当然なのに、本当におかしいったらありゃしないわ)
貴族同士の結婚のほとんどは他人状態から始まるのだ、片方の無償の愛情から始まる結婚生活なんてほとんどあり得ないのも当然なのに
(あの人が結婚生活で求めていたモノは、貴族内の結婚で見つけるには時間がかかっただけなのにねぇ)
単純にヨハネス氏は心の底から欲しかったモノを、少しでも早く手に入れたかっただけだったのだろう…と考えが行きつく
先代当主曰く、ヨハネス氏の母親であるマーシャは生まれたばかりのヨハネス氏を最初の数年こそ愛玩動物のように一頻り可愛がっていたようだが、彼の本当の父親が自分達の迎えに来ないと悟り始めた辺りから小さかったヨハネス氏を突き放し始め、そのうち気が狂いだし、最後は貴族学校に通う前の少年だったヨハネス氏を隣国の彼の方と見立てながら幾日か過ごした後に亡くなっていたらしい
(だからあんなに色狂いになられたのかもしれないわ)
他人としてヨハネス氏を見れば、若い頃から彼はずっと母親が贈るような無償の愛を子供のように求めていただけのように思えてくるから面白いものだ
(それでもね…)
ザーラは顔色一つ変えないで安心したような表情のままカップに口を付け
(貴族位を捨てて平民になってエリカとの愛だけを求めたのなら、まだ無償の愛ぐらいは彼の手の内に残ったのかもしれない)
お茶を一口飲み込んでから、ゆっくりと深く息を吐く
(だけどあの人は貴族の生活を止められなかった、無償の愛と贅沢な生活の両方を追い求めてしまった)
ヨハネス氏の甘えが、ジャクリーネの小賢しさが、ザーラやロルゴ、ズヴィードン家先代当主、ティニング家当主などのまともだった貴族達の神経を逆撫でし続けたのである
それによりヨハネス氏やジャクリーネは、社交ゲームの盤上に使い捨ての駒として乗せられ踊らされ使われて、最後は貴族社会という盤上から追い出される羽目になった
(あの時の王家主催の夜会にて、ズヴィードン家に纏わる無礼は最初から許されていたもの)
隣国の彼の方がこの国に遺していった拭いきれなかった遺恨を、全て引き受けたのはかつてのズヴィードン侯爵家だった
だからこそ王家や他家は祖先と血脈がある孫のロルゴに家督を譲る事を最初から認めていたし、そうするにはどうしても邪魔だった
「ヨハネス氏を貴族社会から排斥する為だけに」
本当ならば夜会会場に入る事すら出来なかったあの二人を、敢えて招き入れつつ、確実に追い落とせる罠に嵌めてくれたのだから
(それだけヨハネス様と隣国の…様は似ていらしたのね)
あの場を用意する為に様々な家の古老達も手を貸してくれたとザーラは聞いている、それだけ隣国の彼の方に対して古老達は相当腹に据えかねるものがあったのだろうと推測できる
(本当に欲って恐ろしいものね)
愛を得る為の努力の一つもせずに、贅沢の為に親が用意した婚約者と結婚して、貴族の責任を放棄して、欲しい物だけに手を伸ばし過ぎて最後に全てを失った人
(それが私の旦那様だった)
ザーラが元夫の半生を書きおろした脚本に従って、自分の恥ずかしい過去を何度も何度も人前で演じては笑われ続ける役者になった男の末路を思う
(私達からの支援金が無ければ、ヨハネス様が在籍されている劇団は解散するだけ)
だからこそヨハネス氏は生きていくために人から何度となく笑われようと、オルゴールの上の踊り子の様にかつての妻が描いた演目を只管演じていくしかないのだ、彼と彼の父を長い間崇拝し続けた我儘な老女を傍らに置いて
「過去であろうと今であろうと」
今日もこの王都の何処かで彼は過去の自分の行いをなぞりながら歌い踊っているはずだろう
「自分の仕事を無責任に私達へと押し付けておきながら、自分だけがずっと幸せでありたいだなんて」
そう言いながら、ザーラは貴婦人の微笑を浮かべつつ
「そんな都合の良い事なんて起こりえないのよね」
呟いたのだ
ご拝読して頂きまして誠にありがとうございます
感想や下の☆からの評価等頂けましたら幸いです




