虚夢(6)
それ以降も誤算が続くことになる。
西側諸国による経済制裁は益々強まり、ウクライナへの武器供与も拡大した。
更に、フィンランドとスウェーデンがNATOに加盟申請を出すという事態を招くことになった。
NATO拡大阻止のための侵攻が逆効果になってしまったのだ。
お前はすぐにフィンランドなどの国境に接する西部軍管区の部隊を増強する方針を表明したが、それはロシア軍を分散せざるを得ない苦渋の結果となった。
そんな中、欧米から重火器の供与を受け始めたウクライナ軍が反撃を始めた。
戦線は一進一退の状態になり、進軍を止められたロシア軍に被害が広がった。
それは兵士が足りなくなるという事態に繋がり、早急に対応を図らなければならなくなった。
そこで、軍の志願兵の年齢制限を撤廃することにした。
これによって引退した元兵士を活用できることになった。
軍が渇望する増員に応えることができるのだ。
すると、これに呼応するように戦費に対する不安も払拭された。
まるで天が味方をしたかのように石油価格の高値安定が続き、毎日膨大な金額が収入として上がってきたのだ。
OPECが大幅な増産に応じない姿勢を貫いていることがありがたかった。
そのため、当面1バレル=100ドルを切る心配がなくなった。
しかも、欧米が取引を減らしている分を中国とインドが補ってくれた。
色を付けなければならなかったが、外貨収入を得られることはありがたかった。
しかし、思わぬところから新たなクレームがついた。
侵攻と黒海の封鎖が食料危機を招いているというのだ。
確かにウクライナが輸出できないことによってアフリカや中東などに大きな影響が出ようとしていた。
しかもそれは一気に国際世論に波及したので、この対応を誤ると大変なことになると悟ったお前は、「ロシアは積み出しを妨害していない」と国営テレビのインタビューで答えて、火消しを図った。
更に、「公海までの安全を保障する」と言ってのけた。
その上で「港に機雷を設置して封鎖しているのはウクライナだ」と非難した。
ロシアに責任はないと明言したのだ。
とにかく悪いのはウクライナと欧米諸国だという主張を崩さなかった。
それでも世界からの孤立を恐れたお前は国連とトルコの仲介を利用して、食料輸出合意を結ぶことにした。この件を鎮静化させるためだ。
その後、次の大きな一手を打ったのは9月に入ってからだった。
部分動員令を発動したのだ。
予備役30万人を段階的に徴集して前線に送り込むためだった。
だが、国内の反発は予想以上に大きく、大規模なデモが発生した。
更に、地方自治体の失態もあって国民の懐疑心は増大した。
そのせいで海外へ脱出する者が一気に増えて収拾がつかなくなった。
その結果、国民の気持ちはお前から離れていった。
そこで次の一手を打った。
東南部4州の併合だ。
分捕った4州をロシア領にすることで戦果を強調したのだ。
しかし、クリミア併合の時のような高揚感は国民の間に広がらなかった。
予備役徴集の動揺が打ち消したのだ。
そんな中、お前が心血を注いで建設したクリミア大橋が破壊された。
これには衝撃を受けた。
あり得ないことだからだ。
激高したお前はすぐさま仕返しを命じた。
ウクライナ全土を破壊しろと命じたのだ。
これを受けてセルゲイ・スロビキン総司令官はミサイルやドローンを使って電力などのインフラ施設を徹底的に破壊した。
それは厳冬に向けてウクライナ国民を震え上がらせるためだった。
しかし、そこまでやってもウクライナ国民の士気は下がらなかった。
徹底抗戦の意を更に強める結果となったのだ。
それでもお前の侵略欲が減ずることはなかった。
武器不足を補うためにイランを巻き込んだのだ。
核開発を支援する見返りとして高性能のドローンとミサイルを調達する交渉をまとめたのだ。
これは、制裁によってロシア国内での兵器製造が難しくなる中、武器調達の新たな道が開けたことになり、お前を大きく勇気づけた。
更に、北朝鮮を巻き込むことにも成功し、これによってイランと北朝鮮をロシアの兵器工場とすることができるようになった。
武器補給の目処が立つようになったのだ。
一時の劣勢はこれで挽回できると意を強くした。
だが、兵力が劣るにもかかわらず、ウクライナ軍はしぶとかった。
大量の兵隊を送り込んで雪崩のような攻撃を仕掛けても一進一退を繰り返すだけなのだ。
前線は膠着状態に陥り、自国軍の被害は急速に拡大した。
打つ手が限られる中、お前の苦悩は深まった。
それでも天は見捨てなかった。
アメリカから追い風が吹いたのだ。
共和党の一部議員の強硬な反対でウクライナへの武器支援が滞るという幸運が舞い込んできたのだ。
その結果、迎撃ミサイルや弾薬の在庫が減少し、ウクライナ軍の反撃は限定したものになった。
それだけではなかった。
中東からも追い風が吹いた。
ハマスがイスラエルに激しい攻撃を行っただけでなく、戦闘員を侵入させて多数のイスラエル人や外国人を人質として連行したのだ。
対してイスラエルは直ちに空爆による反撃を行い、大規模な反撃へと移行した。
それは中東戦争にも発展しかねない危ういものであったが、欧米各国は直ちにイスラエル支援を表明した。自衛権を完全に支持する、と。
当然ながらそれに力を得たイスラエルの攻撃は更に激しくなり、人道被害が急速に拡大した。
終わりの見えない泥沼状態に陥った。
この突発的な紛争はウクライナに致命的ともいえる影響を及ぼした。
国際世論の関心が完全にイスラエルとガザに移行してしまったからだ。
ウクライナ支援は目に見えて先細りし、迎撃ミサイルや砲弾が枯渇した前線の部隊は退却を余儀なくされた。
そんな中、ロシア国内から強い追い風が吹いた。
狙い通りとはいえ、大統領選挙で90パーセント近い得票率を獲得したのだ。
その結果、お前は5期目どころか『永遠の大統領』を手中に収めることになった。
もうお前を止めるものは何もなくなり、独裁体制が完全に確立した。
信じるままに突き進めばいいのだ。
必ずやウクライナを我が物にし、ベラルーシも併合し、更にモルドバとジョージアを掌中に収めて、ソ連邦、いや、大ロシア帝国を復活させるのだ。
それがピョートル大帝の生まれ変わりと自任するお前に下された天命であり、その達成は目前にまで来ていると思われた。だが、」
そこで老人は喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。
何かを感じたからだ。
ハッとして赤ん坊の顔を見つめると、穏やかな表情を浮かべていたが、様子が変だった。
寝息を立てていないのだ。
慌てて心臓に耳を当てたが、鼓動は聞こえなかった。
ひんやりとした感触だけがその意味することを伝えていた。
もはや為す術はなかった。
力なく首を振った老人はその子をそっと草むらに置き、別れを告げた。
その後姿が見えなくなると、一本の道は消え、靄と静寂が森を包み込んだ。
しかしそれも消えて、無が支配を始めた。