難題(1)
1年前に内閣総理大臣秘書官を拝命した芯賀太は、激動する世界情勢の中で睡眠時間を削られる毎日を送っていた。
それでも、40歳で脂が乗っている芯賀にとってそれは苦痛ではなく、刺激に満ちた日々でもあった。
「おはようございます」
総理を迎えた芯賀は、今日のスケジュールを説明し、新聞の切り抜きを入れたファイルを差し出した。
「ありがとう」
しかし、それに目を通すことなく机の上に置いた。
専門紙を含めてすべての朝刊に目を通している総理にとっては確認用でしかなかった。
それでも芯賀は切り抜きを止めることはなかった。
大災害や北朝鮮のミサイル発射など早朝から対応しなければいけない緊急時にはさすがの総理も新聞を読むことができないからだ。
「お通ししてもよろしいでしょうか」
本日一人目の面会者は北海道選挙区選出の自民党議員だった。
執務室に招き入れると、彼は時間を取ってもらったことへの礼を述べたあと、すぐに本題を切り出した。
「ロシアから輸入される海産物の件で伺いました。現在ロシアに対する制裁が種々検討されており、基本的に賛成の立場を取らせていただいておりますが、海産物まで対象を広げることには抵抗があります。と言いますか、制裁品目に加えることに反対です。ズワイガニ、紅鮭、いくら、たらこ、タラバガニ、ウニ、甘エビなどを輸入している業者に深刻な影響が出るだけでなく、輸入を止めたら倒産の危機に直面するからです」
顔から笑みが消えて危機感を露わにすると、すぐさま総理が芯賀に問うた。
「実態はどうなっている?」
「はい。日本が輸入している水産物は年間1兆5千億円ほどありますが、そのうちロシアからのものが7パーセントほどを占めています」
準備していたメモを読み上げると、「なるほど。小さい額ではないな」と顎に手をやった。
「はい。具体的に申しますと、カニ類が380億円、鮭類が200億円、明太子の原料となるタラの卵が132億円、ウニが98億円となっております」
それは北海道の経済に大きな影響を及ぼす額であり、直接関係する人たちにとっては死活問題につながるものだった。
「もし、これらの輸入を禁止すれば、輸入業者はもちろん、加工業者や販売業者、外食産業にまで深刻な影響が及びます。それに、サケやマスの漁業交渉に影響が出ます。毎年春に行われている日ロ協議が開催されなくなる可能性があるばかりでなく、交渉の窓口が閉ざされる危険性さえあるのです。ですので、原油やLNGの輸入を止めないのであれば、水産物も同じ扱いにしていただきたいのです」
詰め寄られた総理はほんの一瞬顔をしかめた。
痛いところを突かれたからだろう。
ロシアからの水産物が北海道の生命線の一つであるように、ロシアからの原油やLNGは日本の生命線の一つでもあるからだ。
それは原油全体の約4パーセント、LNG全体の約10パーセントと大きくはないものの、無視できる数字でもなかった。
特にLNGは備蓄が難しく、原油が145日分あるのに対してたったの2週間分しかないという現状が判断を難しくしていた。
それに、投資回収のこともある。
LNGプロジェクトだけでも『サハリン1』では国と民間4社で30パーセント、『サハリン2』では商社2社で22.5パーセント、『アークティックLNG2』では日本側出資が10パーセントとなっているのだ。
もちろん、ドイツのようにロシアへの依存が極端に高い国から比べたらましだが、それでも簡単に判断できるものではない。
「首相!」
議員の声が一段と大きくなった。
地域経済が衰退すれば自らの地盤も低下して次の当選が危うくなるのだから必死になるのは当たり前だが、それをいちいち聞き届けるわけにはいかない。
個別最適の総和が全体最適になるとは限らないからだ。
というより、乖離することの方が多い。
選挙区の意向を無視できない議員と国全体の将来を考えないといけない総理とでは立場が違うのだ。
それでも無下にするわけにはいかない。
特に彼のような最大派閥に所属している議員に対しては慎重に対応しなければならない。
芯賀が固唾を呑んで見守っていると、総理が穏やかな声を出した。
「わかっています」
「では」
議員の顔に期待の色が浮かんだ。
しかし言質を取られるわけにはいかないというように、「総合的に判断して、しかるべき方針を定めていきたいと考えております」と話を収めた。
その途端、議員の顔に戸惑いのようなものが浮かんだが、次の予定があると芯賀が告げると、「ありがとうございました」と頭を下げて部屋から出ていった。
ドアが閉まったことを確認した総理は、2018年5月26日に行われた日ロ首脳会談の資料を芯賀に要求した。
そのファイルを渡すと、中から1枚の写真を取り出した。
安倍首相とプーチン大統領ががっちりと握手を交わしている写真だった。
安倍は満足げな表情を浮かべているが、プーチンの顔に笑みは浮かんでいない。
したたかな何かを含有するような鋭い視線を前方に向けている。
写真を置いて1枚の紙を手に取った。
『協力プラン』だった。
2016年5月に日本側から提示した8項目の取り組みだ。
『健康寿命の伸長』
『快適・清潔で住みやすく、活動しやすい都市作り』
『中小企業交流・協力の抜本的拡大』
『エネルギー』
『ロシアの産業多様化・生産性向上』
『極東の産業振興・輸出基地化』
『先端技術協力』
『人的交流の抜本的拡大』
と多岐に渡っている。
中でも目玉と言えるのがエネルギー分野だ。
『日露エネルギー・イニシアティブ協議会』を設置し、官民一体となってエネルギー分野の協力を進める議論が行われていたのだ。
それは1年半の間に6回も行われるという積極的なものだった。
「エネルギーと水産分野に踏み込むべきか……」
愁いを帯びた呟きが芯賀の耳に届いた。
それは、経済制裁とはまったく次元の違う苦渋の選択肢によるものだった。
「ロシアとの決別か……」
紙を置いてもう一度写真を手に取ると、「27回も会談したのに」と首を横に振った。
それは、北方領土の解決と平和条約の締結を目指して行われた安倍とプーチンの会談が無に帰したことを意味していた。
「いいように弄ばれただけだ」
吐き捨てると同時に立ち上がった総理は、いきなり写真を破り捨てた。
「腹を括るしかない」
床に落ちたプーチンの顔を靴の底で踏みつぶす総理を、芯賀は黙って見つめることしかできなかった。