連帯(2)
1週間の準備を経て、不曲はテレグラムで発信を始めた。
ハンドルネームは『国連の日本人』だった。
国連本部に集まってくる情報や外務省の情報を基に『不条理と正義』に絞ってロシア語で発信を続けた。
ロシアによるウクライナ侵攻は道理に合わず、筋道が通らず、良識や理性に反し、矛盾に満ちていることを詳しい事例を挙げて訴えたのだ。
その上で、正義とは何かを説いた。
人としての正しい道を説いた。
何人であっても人の命を奪うことはできないと説いた。
しかし、反応は薄かった。
国営放送によるプロパガンダが浸透しているロシア国民の共感は得られていないようだった。
*
「この方向性では難しいかもしれないわね」
反応の悪さを心配した同僚が遠慮がちに言った。
「そうね。ちょっと硬すぎるのかもしれないわね」
意気込みが強かっただけに落胆が大きかった。
「どうすればいいかしら……」
誰に言うでもなく思案気な声が出た。
でも、妙案は浮かんでこなかった。
首を揺らしていると、それを見かねたのか、「みんなに訊いてみたら?」と同僚が助け舟を出した。
対話アプリに慣れている若い職員たちの知恵を借りたらどうかという。
「そうね~」
若い職員に助けを求めるのは嫌だったが、一人で考えていても埒が明かないので、渋々ではあったが受け入れることにした。
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その日の午後、SNSに詳しい若手職員に集まってもらい、テレグラムの反応が芳しくないことを伝えた上で意見を募った。
すると、すぐさま将来を嘱望されている女性職員が口を開いた。
「国連という言葉が邪魔をしているのではないでしょうか」
立場による硬さが出ているのではないかという。
「私もそうだと思います。これだと外交的発言と変わらないですよね」
若い男性職員だった。
親しみやすさは微塵もないと遠慮なく言ってのけた。
「国連の関係者としての公的な発言だと思われたら引いてしまう人が多いと思います」
別の女性職員が追随した。
国連によるプロパガンダと勘違いされる可能性があるという。
彼らの遠慮のない言い方にカチンときて言い返そうとしたが、言っていることは的を得たものだと認めざるを得なかった。
すると、最初に発言した女性職員が、「立場ではなく個人の熱い思いを吐露することが一番大事なのではないでしょうか。国連は使わない方がいいと思います」と結論に導こうとした。
「それしかないですね」
男性職員が幕を引いた。
不曲は無言で少しだけ顎を引いた。
*
ミーティングが終わって一人になった不曲は、メモに『国連の日本人』と書いて、国連の上に×を付けた。
しかし、『日本人』だけのハンドルネームにするわけにはいかなかった。
それではなんのことかわからないからだ。
それに、若い職員たちに言われたからといってすぐにハンドルネームを変えることにも抵抗があった。
どう考えても『国連』を外したハンドルネームにインパクトがあるとは思えなかった。
目立たなければ意味がないのだ。
しかし、職責を全うしようとする余り、硬すぎる文章になっていることは疑いようがなかった。
そういう意味では、「邪魔」「外交的発言」「公的」「プロパガンダ」と指摘されたことを無視するわけにはいかなかった。
といって、新たなハンドルネームが浮かぶわけでもなかった。
その日は一旦保留にすることにした。
*
翌日の朝、午後の会議の準備をしていると、同僚が部屋に入ってきて、スマホの画面をこちらに向けた。
『オデッサのロシア人』だった。
「もう見た?」
首を振ると、日本語に訳して写真を張り付けたものを渡された。
それは、残虐な行為を繰り返しているロシア軍を告発するものだった。
『人の仮面をかぶった獣』という文字の下に拷問やレイプを受けた人たちの写真とその悲痛な声が記されていた。
それは見るに堪えないもので、目を背けたくなるものばかりだった。
「危険な現場に行って、被害を受けた人たちの生の声を集めているんだと思うわ。彼女は命を懸けてやっているのよ」
同僚が思い詰めたような表情になった。
それは、安全な場所で抗議をすることしかできない自らの無力を詰っているようにも見えた。
「そうね」
同意を声に出したものの、そのあとが続かなかった。
すぐに会議の準備作業に戻ったが、沈んだ心は元に戻らなかった。
*
その夜、自室に戻った不曲は机の引き出しから昨日のメモを取り出した。
国連という文字の上に×をつけたメモだ。
何を拘っているのだろう?
不曲という個人が責任をもって発信するために国連という言葉が必要と思っていたが、本当にそうなのか、よくわからなくなってきた。
というより、そんなことはどうでもいいような気がしてきた。
すると、ハンドルネームへの拘りは意味がないように思えてきた。
大切なことは内容であり、国のプロパガンダに縛られているロシア人に響くメッセージなのだ。
『オデッサのロシア人』を後方支援するための発信なのだ。
そう強く思おうとしたが、しかし、拘りを捨てるのも違うような気がした。
多分どっちを選んでも不正解ではないのだろうが、なかなか決めきれなかった。
どうすればいい?
返事がないのはわかっていたが、メモに問いかけた。
すると、×のマークが太く濃くなったように見えた。
錯覚だと思って目を擦ってみたが、再度目を開けても同じようにしか見えなかった。
それは、国連という盾を捨てなさいと言っているように思えた。
それは、若い人の意見に素直に耳を傾けなさいと言っているようにも思えた。
自分が年寄りだとは一度も思ったことはないが、SNSという新たなコミュニケーションツールの世界では教えてもらう立場だということを自覚しなければならないということなのだろう。
承知いたしました。
メモに向かって頭を下げたあと、×の上に更に×を上書きして2つに折った。
*
翌日からハンドルネームを『平和を願う日本人』に変えて発信を始めた。
そして、若手職員たちの指摘に従って、外交的発言にならないように、プロパガンダにならないように注意しながら個人的な思いを綴っていった。
その中で大事にしたのは女性の視点だった。
それは母親の視点であり、妻の視点であり、恋人の視点だった。
そして、『この人があなただったらどう感じますか?』というポイントに絞ってメッセージと画像を発信した。
破壊されたアパートの前で茫然自失となっている老女、
息子が後ろから撃たれて殺されたと泣きわめく母親、
夫が殺されただけでなく子供の前でレイプされたと顔を覆う女性、
恋人がロシア軍に連行されて行方がわからなくなったと不安な表情を浮かべる若い女性、
教え子たちがシベリアに連れて行かれたかもしれないと心配する女性教師、
それらロシア軍の蛮行によって不幸のどん底に落とされた女性たちの生の声を綴っていった。
そして、「あなたの子供が、夫が、親が、恋人が、友人が、知人が、お世話になった人が、そしてあなた自身がこんな目に遭ったらどう思いますか?」と訴えた。
反応はすぐに現れた。
それは、今までとは違う手応えのあるものであり、予想を遥かに超える反響だった。
そして、その多くが「私なら耐えられない」というものだった。
もちろん、世論を動かすほどにはなっていないが、それでもダムを決壊させる一穴になる可能性を十分感じさせる反応のように思えた。