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気概(3)

 

「えっ?」


 上司は一瞬絶句したようだったが、「オデーサって、もしかしてウクライナのか?」と絞り出すような声が続いた。


「そうです。実は、」


 正直にすべてを伝えた。

 妻を追いかけてトルコへ行ったこと、更にモルドバへ、そしてオデーサへと追い続けたこと、しかし探し出すことができなかったこと、しかも同行してくれた人が怪我をして病院に入院していることをありのままに伝えた。


 ところが、上司の反応は厳しかった。

 休暇とはいえ会社に無断で戦地に行くというのはあるまじき行為だと(なじ)られた。

 しかも、同行してくれた人に怪我をさせる結果になったことは大きな過失だときつく(とが)められた。


 返す言葉がなかった。

 社会人として失格だと言われればその通りだった。

 言い訳はいくらでもできたが、それは個人的な理由であり、会社という組織の中で通じるものではなかった。


「とにかくすぐに帰ってこい」


 それだけ言って電話を切られた。

 これは指示というよりも命令だった。

 逆らうことはできないし、(そむ)けば会社を辞めるしかなくなる。

 つまり、妻を探し続けるか、諦めて帰国するかの二者択一を迫られたのだ。


 本音を言えば、会社を辞めることになるとしてもこのままとどまることを選択したかった。

 なんとしても妻を探さなければならないのだ。

 しかし、異国であり戦地でもあることを考えると、捜索活動を続けるのは無謀のようにも思えた。

 その上、怪我人を抱えている。

 縫合はしてもらったが、野戦病院のようなところでこれ以上の治療を望むことはできそうもなかった。


 一度態勢を立て直した方がいいかもしれない、


 そう思った瞬間、内から突き刺すような声が聞こえた。


 死んでしまったら取り返しがつかないぞ!


 その通りだった。

 帰国している間に妻が亡くなってしまうこともあるのだ。

 そんなことになったら耐えられるわけがない。

 残りの人生を後悔の中で過ごすようになるのは間違いないのだ。

 いや、生きていられないかもしれない。

 妻のいない人生なんて考えられないし、ここまで来て帰ることなんてできるはずがない。

 上司の命令に背けば仕事を失うかもしれないが、妻を失うことを考えたらそんなことはどうでもいいように思えた。


 よし、腹が決まった。

 なんとしても妻を探し出す。


 スマホをポケットに仕舞って院内に引き返した。



 気合を入れてミハイルの元に戻ったが、彼の状態は良くなかった。

 顔色が優れないのだ。

 おでこに手を当てると熱があるし、目を瞑った彼は間隔の短い浅い息をしている。

 抗生物質が効いていないのかもしれないと思い、すぐに医師の元へ急いだ。



「う~ん」


 ミハイルを診察した医師は顔を歪めた。

 感染症の可能性があるらしい。

 しかし、菌を同定する検査ができない上に抗生剤の在庫が乏しいので最適な抗生剤を投与することは困難だと首を振った。


「きちんと治療できる病院を紹介してください」


 この病院以外に対応できるところはないと聞いてはいたが、それでもすがるような思いで詰め寄った。

 だが、医師は首を振るばかりだった。


「多くの病院が破壊され、医療関係者も殺されています」


 医師の隣にいる看護師が辛そうな声を出した。

 助けたくても助けられない現実に直面している彼女の顔が歪んだ。

 それを見て、もうこれ以上彼らにすがることはできないと悟った。

 状況は日に日に悪くなっているのだ。

 それに、ミハイルよりももっと重症な人が少なからずいることを認めざるを得なかった。


「わかりました。トルコに連れて帰ります」


 ない袖は振れないと言う医師をなんとか口説き落として抗生剤を3日分処方してもらったあと、ミハイルを車に運び込んだ。

 そして、水と食料を少しでもいいから分けてもらえないかと看護師に懇願した。


 でも、良い返事はもらえなかった。

 ギリギリで回しているので余分なものは何も無いという。

 それでも手を合わせて頼むと、困惑した表情のままどこかへ向かった。


 少しして戻ってきた彼女の手には小さな紙袋があった。

 パンと水が入っているという。

 お礼を言って受け取ろうとすると、彼女のお腹が鳴った。

 彼女は恥ずかしそうに(うつむ)いたが、空腹のまま仕事をしているだろうことは容易に想像できた。

 もしかしたらこれは彼女が今日口にする唯一の食事かもしれないと思うと、素直に受け取れなくなった。


「無理言ってすみませんでした」


 頭を下げて、運転席側に回り、ドアを開けてシートに腰を落とした。

 すると、太腿の上に紙袋が置かれた。

 返そうとすると押し返された。

 それでも返そうとすると、「幸運を祈っています」と言って顎の下で両手を組んだ。

 その姿には深い慈しみが溢れており、何も言えなくなった。

 ハンドルに押し付けるように頭を下げて嗚咽(おえつ)を堪えた。

 それでも、「さあ、早く」という彼女の声と共にドアを閉められると、いつまでも感傷に浸っているわけにはいかなくなった。

 顔を上げて、アクセルを静かに踏み込んだ。


 バックミラーには手を振る姿が映っていた。

 それは病院の敷地を出るまで続いた。

 それを見ていると、何度も熱いものが体の奥から込み上げてきたが、必死になって堪えて車を前に進めた。


 門を出てその姿が見えなくなると、強い気持ちが沸き起こってきた。

 それは、今度は自分がパンと水と医薬品を持って助けに来なければならないというものだった。

 絶対に実行すると誓って、モルドバへ向かった。



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