気概(2)
シェルターに逃れていたナターシャは時間が経過すると共に居ても立ってもいられなくなり、被災した倉庫に引き返した。
しかし、無残にも焼け落ちて見る影もなく、立ち尽くすしかなかった。
火は消し止められていたが、モルドバから運んだ善意の品はすべて灰になっていた。
それを見ていると涙が出てきた。
あの運転手が体を張って運搬してきた品なのだ。
危険を顧みず運んできた品なのだ。
でも、その彼はもういない。
ロシア軍の攻撃によって殺されただけでも耐えられないのに、彼が運んだ善意まで失われてしまったのだ。
彼のすべてを否定されたと思うと、悔しくてやりきれなくなった。
しかし、ロシア軍に反撃することもプーチンを地獄に落とすこともできない。
たった一人でそんなことができるわけがなかった。
無力に心が折れそうになり、立っていられなくて、しゃがみこんだ。
それでもふらっとしたので地面に手を付いて体を支えていると、人の気配を感じた。
顔を上げると、女性の姿が目に入った。
自分の母親くらいの年齢だろうか、疲れたような顔に皺が深く刻まれていた。
「負けるもんですか」
呟きが聞こえた。
「絶対に負けるもんですか」
声が大きくなった。
「負けてたまるもんですか!」
叫ぶように言った。
すべてロシア語だった。
1991年に独立するまではロシア語を話していたのだろう。
それとも、どこかにいるロシア軍に向けて意識してロシア語を話しているのだろうか?
その人は叫び終わったあと、スマホを取り出して写真を撮り始めた。
焼け落ちた学校の写真を何枚も撮り続けた。
ナターシャのことは目に入っていないのか、ちらりとも見ずにスマホで何かをやり始めた。
少しして操作が終わったようで、小さく頷いて、スマホをポケットに仕舞った。
すると、視線が飛んできた。
それはとても厳しい眼差しだった。
「あなたはロシア人?」
見た目でそう感づかれたのかもしれなかったが、いきなりの問いに心が凍りついた。
そのせいか、声を出すことができなかった。
頷くこともできなかった。
彼女にとって自分は敵国の人間なのだ。
憎きロシア軍の同胞なのだ。
口が裂けてもロシア人だと言えるはずはなかった。
危害を加えられる可能性だってないわけではないのだ。
何も反応せずじっとしているしかなかった。
しかし、どうしたわけか、厳しい眼差しがふっと柔らかくなった。
顔をじ~っと見られてはいたが、突き刺さるようなものではなくなった。
「もしかして……」
何かを思い出すような表情になったと思ったら、そうだ、というふうに頷いた。
「ここでボランティアをしてた人?」
「はい」
思いきり声を出したつもりだったが、喉声のようなものしか出て行かなかった。
それでも伝わったようで、その人の表情が一層柔らかくなった。
「ありがとう」
思いもかけない温かい声が返ってきた。
「多くの人を助けてくれてありがとう」
それは心からの声のように思えた。
ここで水と食料と生理用品を受け取ることができてとても助かったと礼を言われた時は熱いものが込み上げてきた。
「お役に立てて良かったです」
はじめてちゃんとした声が出たが、それに反応することなく、彼女は何かを確かめるように辺りを見回した。
「もしかして一人なの?」
頷いたナターシャは、立ち上がって話し出すと止まらなくなった。
ボランティア仲間に止められたが振り切ってここにやってきたこと、
善意の品を運んできた運転手がミサイル攻撃で亡くなったこと、
更に、自分がロシア人であり罪の意識に苛まれていること、
だからウクライナのために何かをしていないと気がおかしくなりそうだということ、
そのために日本からトルコへ行き、モルドバに渡り、そしてオデーサに来たことを一気に話した。
その間、その人は黙って聞いていた。
途中で一度も口を挟まなかった。
ただ時々頷くだけだった。
「そうだったの」
ただそれだけ言って両手を伸ばし、ナターシャの両手を握った。
「大変だったわね」
娘を労わるような口調だった。
それを聞いて心の中の何かが溶けたような気がした。
それが涙となって零れ落ちるのに時間はかからなかった。
「あなたが悪いわけじゃないわ」
両手の指で涙を拭ってくれたあと、両肩を掴まれて引き寄せられた。
「一緒に戦いましょ」
目を覗き込むようにして強い決意を伝えられた。
彼女は『マルーシャ』だと名乗り、穀物を扱う会社で輸出業務をしていると言った。
しかし、ロシア軍に黒海を封鎖されてすべての業務が止まってしまい、会社が大変な状況になっていると嘆いた。
「奴らのせいでトウモロコシも小麦も動かせなくなったの」
倉庫は出荷待ちの農作物で溢れかえっているという。
「このままの状態が続いたら大変なことになってしまう」
自分の職も心配だが、それ以上に世界に与える影響を心配しているという。
「特にアフリカが心配なの」
ただでさえパンデミックの影響で食糧入手に苦労している状況なのに、ウクライナが輸出できないことで更に入手困難になるのは間違いないという。
その上、価格が高騰して経済的弱者を圧迫することになるのだそうだ。
「1日に1食も食べられない人が増える可能性があるの。そうなると栄養不良や栄養失調に陥る人が増えてしまうわ」
その結果、何百万という人の生命が危機に陥る可能性があるのだという。
更に、暴動が起こる可能性もあり、政情不安につながることも否定できないという。
「早く終わらせなくてはいけないの。この戦争を一刻も早く終わらせなくてはいけないの」
長引けば長引くほど影響は大きくなり、取り返しがつかない状態に陥る可能性が高いという。
「種蒔きができなくなったら来年の刈り取りもできなくなるのよ。そうなると更に深刻な状況になるわ」
最悪の場合、輸出ができない状態が数年に渡って続く可能性があるというのだ。
今は各国が備蓄で凌いでいるが、それが底を突けば大変なことになるという。
正に食糧危機が迫っているのだ。
「だから、できることを今やらなければいけないの。躊躇している暇はないの」
深刻な表情になった彼女はスマホを取り出して操作を始めた。
見るように言われたので覗くと、SNSの画面が表示されていた。
そこには彼女が発信したいくつものメッセージがあった。
すべてオデーサの惨状を訴えたものだった。
「1日に何回も発信しているの。ロシア軍から攻撃を受ける度に写真を撮って発信しているの。一人でも多くの人に真実を知ってもらいたいから」
ロシア軍をやっつけることもプーチンを懲らしめることもできないが、真実を訴えることで少しでも状況を変えたいのだという。
「でもね、ロシア人には無視されているの」
ロシア語でも発信しているが、反応は少ないという。
「私がウクライナ人だからだと思うわ。フェイクニュースを流していると思われているのよ」
今はアクセス制限のない『テレグラム』で発信しているが、それでも芳しくないという。
ロシア政府はウクライナ侵攻以降、反対派の意見や議論を遮るためにツイッター、フェイスブック、インスタグラムを次々にアクセス制限してきた。
その結果、国民に真実が伝わりにくくなり、政府にとって都合の良い情報ばかりが国営メディアによって流されるようになった。
それでも、ロシア発のインスタントメッセージアプリであるテレグラムには未だ制限がかかっていない。
何故だかわからないが自由に使えるのだ。
「あなたもやってくれない?」
真剣な眼差しで見つめられた。
「ロシア人であるあなたが発信してくれれば反応が違うと思うの」
写真を見たりメッセージを読んだりしてくれる人が増えることは間違いないという。
「でも……」
ロシア人が戦争の悲惨さを訴えたり無差別殺害は恥ずべき行為だと発信すれば、すかさずSNSで攻撃の的になることを知っているナターシャは気が進まなかった。
ただ炎上するだけで世論を変える力があるとは思えなかった。
「心配はわかるわ。反政府的な発言や発信は危険が伴うものね」
ウクライナ侵攻を『特別軍事作戦』と呼ばずに『戦争』と言っただけで禁固15年の刑を食らいかねないことを彼女は知っていた。
「でもね」
強い視線で見つめられた。
「私たちは殺されているの。命を奪われているの。この世に存在することすら許されていないの」
プーチンによって民族浄化が行われていることを強く訴えた。
そして、「あなたが本当にウクライナのことを考えてくれているのなら、15年の刑なんてなんともないと思うけど、違う?」と見つめられた。
違わなかった。
ナターシャはそんなことは恐れていなかった。
そうではなくて、無為な努力になることを危惧していたのだ。
「袋叩きにあってそれで終わってしまう可能性が高いと思います」
素直に今感じていることを伝えた。
それでも、彼女は平然として言い切った。
「それでもいいじゃない。炎上すれば話題になるし、それをきっかけにして関心を持ってくれる人が増えるかもしれないでしょ」
それで十分効果があるという。
「でも、炎上することによって両親にとばっちりが行く可能性も否定できないですよね。そんなことになったら取り返しがつかなくなります」
「大丈夫。その心配をする必要はないわ」
テレグラムのメッセージは暗号化されてプライバシーを担保できるし、一定の時間が経つと消える機能があるので秘匿性が高いのだという。
更に、非公式なクライアントを作成することも可能なのだという。
それを聞いた途端、心配は一気に薄らいだ。
するとそれを察したのか、彼女の表情も柔らかくなった。
それだけではなく、何かを思いついたように明るくなった。
「いいことを考えたわ。あなたのハンドルネームなんだけどね」と言ったあと、百点満点を取った時の小学生のような表情になった。
「『オデッサのロシア人』というのはどうかしら」
それ以外にはないというふうに大きく頷いた。
その頷きに促されるようにナターシャはそれを口に出した。
何度も口に出した。
すると、昔から知っている言葉のように馴染んできた。
それどころか、そのハンドルネームが頭から離れなくなった。
いや、完全に気に入ってしまった。
「わかりました。やってみます」
やり方を学ぶためにスマホを取り出して、彼女の横に並んだ。




