気概(1)
ナターシャ……、
天を仰ぐ倭生那の目から涙が溢れた。
目の前には破壊されて燃え上がる建物があるだけだった。
人間の姿は影も形もなかった。
2発のミサイルにやられてしまったのだ。
どんな屈強な人間でも生き残れる訳はなかった。
立ち尽くしていると、サイレンの音が聞こえた。
消防車だった。
到着すると続いてもう1台が続き、すぐに消火活動が始まった。
しかし、猛烈な火の手を抑えることはできず、放水を嘲笑うかのように炎が立ち上った。
呆気に取られて見ていると、いきなり屋根が崩れ落ちた。
地面にぶつかると、轟音と共に破片が周りに飛び散った。
咄嗟に飛びのいたが、「あっ!」という声が横から聞こえた。
ミハイルだった。
足を押さえて倒れていた。
「大丈夫ですか?」
かがみこんで見ると、彼の足から血が出ていた。
飛んできた破片にやられたようだった。
すぐにジーパンのポケットからハンカチを取り出して出血している部位にきつく巻き付け、「誰か!」と消防隊員に向かって叫んだ。
すると、ホースを持っていない隊員が小走りに近寄ってきた。
英語は伝わらなかったが、ミハイルが怪我をしていることは理解したようで、怪我をした足を持って高く上げた。
心臓よりも高い位置にすることによって出血を抑えるつもりなのだろう。
消防隊員が何かを言った。
よくわからなかったが、代わってくれという感じだったのでミハイルの足を持つと、消防服のポケットから何やら取り出した。
ガーゼのようだった。
出血部位に巻いていたハンカチを解いて傷口にガーゼを当てると、その上から包帯を巻いて更にテープを巻いて傷口を覆った。
それで応急処置が終わったようだった。
彼はそのまま足を持っていてくれというような手振りを残して、消防車に乗り込んだ。
彼が連絡してくれたのだろう、少しして救急車が到着した。
ミハイルと共に倭生那も乗り込み、てきぱきと行われる救急措置を見守った。
*
救急サイレンが止むと共に車が停まった。
病院に到着したようだ。
しかし、そこは病院と言える代物ではなかった。
物は整理されておらず、玄関や廊下にまでベッドが置かれて雑然としていた。
それに、医師や看護師が走り回っていた。
医療関係者の数が足りないのだろう。
彼らの緊迫した様子を見ていると、まるで戦場のように思えた。
ミハイルの傷は深そうだった。
縫合が必要だと英語が話せる医者に言われた。
でも、手術室が空いていなかった。
負傷者が続々と運び込まれていて4人が待機状態だというのだ。
一刻も早く縫合手術をして欲しかったが、待つ以外選択肢はなかった。
夕方になってやっと順番が回ってきた。
ミハイルはかなり憔悴しているようだった。
出血は完全には止まらず、包帯を赤く染めていたから無理もなかった。
ミハイルに声をかけて見送った倭生那だったが、落ち着かなかった。
この設備でこの陣容で手術が成功する確率が高いとは思えなかったからだ。
それでも、できることは祈ることしかなかった。
*
どのくらい経っただろうか、ドアが開き、ストレッチャーに乗せられたミハイルが手術室から運び出された。
彼は目を瞑っていた。
全身麻酔ではないので意識はあるはずだが、出血と疲れで目を開けていられないのではないかと思った。
付き添っていた医師から手術の状況を説明されたあと、抗生物質を渡された。
しかし、2日分しかなかった。
医薬品が底を突きかけているのでこれで精一杯なのだという。
傷口が化膿するのではないかと心配になったが、どうしようもなかった。
ミハイルにあてがわれたベッドは手術室に近い廊下だった。
ベッドといってもマットレスを床に直置きしたもので、シーツもなく薄い毛布がかけられているだけだった。
それに、次々に緊急手術が行われているので騒然としていた。
術後の休息には不適だと思われたが、病室はすべて埋まっているので我慢するしかなかった。
「申し訳ない」
廊下の壁にもたれて今後のことを考えていた倭生那の耳に声が届いた。
目を向けると、ミハイルがこちらを見ていた。
「大丈夫ですよ」
倭生那は無理して笑顔を作った。
しかし、彼は厳しい表情を崩さなかった。
「私のことより奥さんを」
そこで咳き込んだ。
体調がかなり悪いようだ。
怪我をしてから今まで何も食べていないので、体力が落ちているのだろうと思った。
「何か食べますか?」
彼は首を振った。
食欲はまったくないという。
「そんなことより奥さんを探しに行ってください」
一刻も早く見つけて日本に連れて帰れという。
気持ちはありがたかったが、一人ではどうしようもなかった。
土地勘はないし、言葉は通じないのだ。
ロシア語を話せばなんとかなるかもしれないが、敵対する国の言語を使うわけにはいかなかった。
それに、異国の地で怪我をした彼を放っておくわけにはいかない。
ここまで来ることができたのは彼のお陰なのだ。
「妻は多分大丈夫だと思います」
手術の間に病院に確認したことを伝えた。
ロシア人女性もナターシャという名前の女性もこの病院には来ていないというのだ。
「でも、他の病院に運ばれているかもしれないでしょう」
「いえ、その可能性は低いようです。この辺りで手術ができるのはこの病院だけのようで、怪我をした人はほとんどすべてこの病院に搬送されるようなのです。だからここに居ないということは怪我をしていない可能性が高いということです」
もちろん、それ以上に酷いことが起こっている可能性は排除できなかったが、それは考えないことにしていた。
「それならいいのですが……」
それきり彼は黙ってしまった。
「とにかく、怪我を治すことを優先しましょう。妻のことはそれからです」
ミハイルは何かを言いたそうにしていたが、倭生那が首を振ると諦めたのか、虚ろな瞳を隠すように顔全体を毛布で覆った。
少しすると、寝息が聞こえてきた。
出血と手術による体力消耗は半端ないのだろう。
倭生那は彼を起こさないように静かに立ち上がって玄関から外に出た。
風に当たりながら今後のことを考えた。
一番の問題は時間がないことだった。
帰国する日が迫っているのだ。
残りの日数を考えると、妻を探すことはもとより、ミハイルをトルコに連れて帰ることも難しそうだった。
予約便は変更するしかないと覚悟した。
もう一つ問題があった。
会社への連絡だ。
帰国便を変更した場合、有給休暇を延長しなければならないのだが、それを認めてくれるかどうかはわからなかった。
なにしろトルコに行くことを上司に伝えていないし、その上、今は戦時中のウクライナにいるのだ。
それを伝えた時にどういう反応が返って来るのか、考えただけでも平静ではいられなかった。
上手く収めるためにはどうすればいいのだろうか?
思い巡らしたが、まともなものは何も浮かんでこなかった。
例えなんとか取り繕ったとしても、言い訳は言い訳でしかないし、それが嘘に繋がっていくこともある。
そうなれば、それをごまかすために更に嘘をつかなければならなくなる。
そうなると最悪だ。
無限の地獄ループにはまり込んでしまう。
そしてそこから抜け出せなくなって、ただひたすら落ちていくしかなくなるのだ。
そんなことは絶対にしてはいけない!
心の声が己を叱責した。
更に、
付け焼刃の対応はしてはならない、
どういう反応が返ってこようとも正直を貫かなければならない、
と叱責が続いた。
その通りだった。
正直に勝るものはないのだ。
それが信用を得るための唯一の道なのだ。
一時でも良からぬことを考えた自分を恥じた倭生那は、覚悟を決めてスマホを手に取った。




