行方(3)
ナターシャはウクライナに接するモルドバ国境の町バランカにいた。
ここにはオデーサなどウクライナ南部の街から避難民が押し寄せている。
女性と子供が圧倒的に多いが、健康な人だけではないので、国境に近い検問所の診療施設には毎日何十人もの患者が訪れる。
薬が切れて体調が悪化した人も多いし、精神的なダメージを受けている人も少なくない。
しかし、それに対応する人も金も薬も足りていない。
何もかもが不足しているのだ。
そんな中、今日はイスタンブールから多くの支援物資が届いた。
生理用品と赤ちゃん用のおむつだ。
命からがら逃げてきた人が多いから、これらの製品を数多く持参している人は少ない。
手持ちの量は限られているのだ。
しかし、必需品なのでないと困る。
でも、男の人にはわからない。
女の人が気を配ってあげなければならないのだ。
それはそうと、モルドバに来るとは思ってもいなかった。
モスクワへ行くつもりだったからだ。
戦勝記念日にプーチンが何を言い、どれほどの規模のパレードが行われ、集まった国民がどういう反応をするのか、この目で確認したかったのだ。
でも、アイラから強く反対された。
変なことをするのではないかと危惧したようで、何度も止められた。
彼女の感は当たっていた。
というより、ズバリだった。
赤の広場で反戦の意思を示すつもりだったのだ。
ロシア国営テレビのスタッフがやったように『ウクライナ侵略を止めよ!』『プーチンを引きずりおろせ!』『プロパガンダを信じるな!』『全員で声を上げよう!』と大きな紙に書いて中継テレビの前に立とうと考えていたのだ。
でも、それを見透かしたようなアイラの説得に負けて、行くのを思いとどまった。
その代わり、彼女が参加しているボランティア団体を手伝って欲しいという提案に乗ることにした。
それはモルドバでの避難民支援だった。
大混乱になっている現場に手を貸すことを求められたのだ。
その時に「ロシアを非難することよりもウクライナを助ける方がはるかに価値がある」と強い調子で言われたことに衝撃を受けた。
正に目から鱗が落ちたような感じだった。
確かにモスクワに行ったとしてもプーチンに近づくこともできない自分が審判を下せるわけがない。
自己満足を行使するだけで終わってしまう可能性が高いのだ。
あの国営テレビの女性スタッフが命がけでやったことでさえロシア国内で大きな影響を与えることはできなかったのだ。
自分がやったとしてもただ捕まって終わってしまうだけだろう。
それよりも苦しんでいる人たちを助ける方が現実的であり、何倍も価値がある。
そう気持ちを切り替えると、モルドバへ行くのが自分の使命だと思えてきた。
だから、すぐに心を決めた。
モルドバもロシアに虐められている。
九州よりやや小さい面積の小国が独立宣言をしたのは1991年だったが、ロシア系住民が入植してロシア軍が駐留しているトランスニストリア地域の紛争が解決していない。
彼らが一方的に独立宣言をして『沿ドニエストル共和国』と名乗った時から、モルドバ政府の手の届かない場所になり、今もそれが続いている。
もちろん国際世論はそれを認めていないが、ロシアが譲歩する気配は微塵もない。
それどころか、ロシア軍の副司令官がウクライナ南部から沿ドニエストルに至る陸の回廊構築を目指す考えを表明するなど、緊張を高める行為を続けている。
更に、沿ドニエストル共和国の政府庁舎を狙った爆発が連続して起き、ウクライナ情勢がモルドバに飛び火する懸念が強まっている。
この爆発はウクライナが関与したとロシア側は示唆しているが、ウクライナ側はロシアによる計画的な挑発行為と反発している。
真相は解明されていないが、南部回廊構築に向けてロシアが画策している可能性は否定できない。
そんな中、オデーサから避難してきた女性と話をする機会を得たナターシャは、その内容に衝撃を受けた。
集合住宅が巡航ミサイルの攻撃を受けて大きな被害が出ているというのだ。
もちろん、軍事施設とはまったく関係のない民間人の住む居住地域だ。
生後3か月の赤ちゃんを含む8人が亡くなったという。
オデーサは比較的安全と言われていたが、ここにきてロシア軍の攻撃が激しくなっているという。
そうなると、益々避難民が増えるかもしれない。
今でも手一杯な状態なのに、これ以上増えれば収集がつかなくなるのは間違いない。
それに、オデーサが陥落すればその西側の地域にも攻撃が広がる。
そして、このモルドバも標的にされる。
いつまでこの避難場所が確保できるかわからないのだ。
それだけではなく、避難できない人たちのことも心配だった。
老人や病気を抱えて動けない人はいっぱいいるのだ。
もしもロシア軍によって生活インフラが破壊されると、水も食料も電気もガスもない生活を強いられるようになる。
それは命の危険と隣り合わせになることを意味している。
そんなことになったら大変だ。
なんとしてでも助けなければならない。
支援は待ったなしなのだ。
いつマリウポリのようになるかもしれないと思うと、心が騒めいて仕方がなかった。
このままここに居ていいのだろうか?
頭の中の呟きがどんどん大きくなって溢れそうになった時、突然、「いいわけはない」という自らを叱咤するような言葉が口を衝いた。
それは、新たな行動を促しているように思えた。
ナターシャは南東の方角を見つめて、為すべきことを頭に描いた。