表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/71

揺動(3)

 

「どうしたんだい?」


 元気がなさそうに見えたのか、夫が声をかけてきた。


「別に」


 ナターシャは笑みを浮かべたが、それがぎこちないものになっているであろうことは自分でもよくわかっていた。


「そう、それならいいんだけど……」


 ちょっと首を傾げた夫はそれ以上追究してこなかったが、明らかに異変を感じているようで、じっと見つめられた。


「買い物に行ってくる」


 夫の視線に耐えられなくなったナターシャは、エコバッグを取りに台所へ向かった。

 それでもなお視線が背中を追っているような気がして、逃げ出すように外に飛び出した。


 ふぅ~、


 思わず大きな息が口から漏れた。

 外は初夏を思わせる陽気だったが、それが他人事のように思えて、気分は晴れなかった。

 自分がロシア人であることに嫌気がさしていた。

 プーチンと同じ東スラブ系民族の血が流れていると思うと、おぞましい思いに(とら)われた。

 できることなら全血交換をしたいほどだった。


 夫には言っていないが、ロシア人に対する誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が日々激しくなっていることを肌で感じていた。

 特に、SNSではウソやデタラメだけでなく、差別的な書き込みが目立つようになっていた。


 それに、いつも利用する商店街のお店や毎月行く美容室での対応が変わってきていると感じていた。

 よそよそしいのだ。

 今までは気軽に話せていたが、明らかにそっけないものに変わってしまっている。

 中でも、「ロシアってどんなところ?」「どんな食べ物があるの?」「一度行ってみたいわ」などと関心を持ってくれていた人たちほど態度の変化が激しい。

 彼らにとってはプーチン=ロシア人=人殺しなのだ。

 残忍な民族だと思われているに違いないのだ。


 しかし、それはもっともなことでもあった。

 ウクライナ侵攻以来、テレビも新聞もネットニュースも残虐非道(ざんぎゃくひどう)なロシア軍の行為をこれでもかというくらい伝えているのだ。

 ロシア人のイメージが最低になるのは当然だった。


 そのせいだろう、誹謗中傷だけでなく、実際に被害を受けている店も多いらしい。

 ロシア料理店やロシア食品を専門に扱う店に無言電話をかけてくる人がいるようだし、看板を壊された店もあるらしい。

 ロシアというだけでひとくくりにされているのだ。


 つい先日、フィットネスクラブで知り合った女性から言われたことがある。


「プーチンの支持率がもの凄く高いらしいけど、ロシア人って独裁者が好きなの?」


 これには開いた口が(ふさ)がらなかった。

 でも、よく考えてみればもっともな意見だった。

 ウクライナ人を殺せと命じている男を国民の多くが支持しているのだ。

 例え報道統制や言論統制があったとしても、異常だと思われるのは致し方のないことだった。

 ロシア人は知能の低い愚か者だと思われても仕方ないのだ。

 反論したかったが、それが意味のないことだというのはよくわかっていた。

 ロシア人を(かば)えば庇うほど、ロシア愛国者=プーチン支持者と思われるからだ。

 平和を愛する人が多いということを声を大にして言ったとしても、ならどうして戦争を止めないのか、と切り返されてしまうのは目に見えている。


 しかし、その指摘を否定することはできなかった。

 本来なら反戦運動が盛り上がらなければいけないのだ。

 暴走するリーダーを国民が止めなければならないのだ。


 けれども、そうはなっていない。

 弾圧を恐れる国民は声を潜め、行動に出ようとしない。

 どうしたらいいのかと考えても答えは見つからなかったが、考えずにはいられなかった。

 これはロシア人の尊厳にかかわることなのだ。

 ロシア人=殺人者、ロシア人=野蛮、ロシア人=非道という間違ったイメージを払拭しないと大変なことになるのだ。


 でも、為す術はなかった。

 東京で反戦デモに参加したことはあったが、それで何かが変わるわけではない。

 せめてロシア大使館に僅かでも影響を与えられればいいが、その可能性はゼロと言ってもいい。

 プーチンにも軍部にも伝えられることはないのだ。

 無駄とは思わないし大事なことだとは思うが、なんの変化も与えられない無力を痛感せざるを得ない。


 では、どうする?


 問いかけても、首を振ることしかできなかった。

 日本にいて、日本人の夫がいて、何不自由ない平和な暮らしをしているロシア人ができることは限られているのだ。


 でも……、


 西の空を見つめながら7,500キロ先の祖国を想った。

 スラブ三原色の国旗がたなびく祖国を想った。


「白は高貴と素直、青は名誉と純血性、赤は愛と勇気。それに、白はベラルーシ人、青はウクライナ人、赤はロシア人。なのに……」


 (こぼ)れた涙が頬を伝わって口の端で止まった。

 舐めると、血の味がしたような気がした。


「わたしはロシア人……」


 その呟きは飛び立つこともなく地に落ちた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ